【イラク/イラク共和国】

イラク共和国、通称イラクは、中東・西アジアの連邦共和制国家である。首都はバグダード で、サウジアラビア クウェート シリア トルコ イラン ヨルダン と隣接する。古代メソポタミア文明 を受け継ぐ土地にあり、世界で3番目の原油埋蔵国である。

[国名]

 

正式名称はアラビア語で、الجمهورية العراقية (ラテン文字転写は、al-Jumhūrīya al-‘Irāqīya。読みは、アル=ジュムフーリーヤ・アル=イラーキーヤ)。通称は、العراق (al-‘Irāq。アル=イラーク)。 イラク南部に位置する古代メソポタミア の都市ウルク が国名の由来。また、アラビア語で「豊かな過去をもつ国」の意味。 公式の英語表記は、Republic of Iraq (リパブリック・オブ・イラーク)。通称、Iraq。 日本語の表記は、イラク共和国。通称、イラク。漢字表記では伊拉久と当てる。 イラークという地名は伝統的にメソポタミア 地方を指す「アラブ人 のイラーク」(al-‘Irāq al-‘Arabī) と、ザグロス山脈 周辺を指す「ペルシア人 のイラーク」(al-‘Irāq al-Ajamī) からなるが、現在イラク共和国の一部となっているのは「アラブ人のイラーク」のみで、「ペルシア人のイラーク」はイランの一部である。 1921年 - 1958年: イラク王国 1958年 - 2003年: イラク共和国(旧) 2004年 - 現在: イラク共和国(新)

 

[歴史]

- 詳細は「 イラクの歴史 」を参照-

 

メソポタミア

キシュから出土した石灰岩の書き板 (紀元前3500年)

現イラクの国土は、歴史上のメソポタミア文明 が栄えた地とほとんど同一である。

メソポタミア平野はティグリス川 ユーフラテス川 により形成された沖積平野で、両河の雪解け水による増水を利用することができるため、古くから農業を営む定住民があらわれ、西のシリア地方 およびエジプト ナイル川 流域とあわせて「肥沃な三日月地帯 」として知られている。

 

紀元前4000年ごろからシュメール アッカド アッシリア 、そしてバビロニア など、数々の王国や王朝がこのメソポタミア地方を支配してきた。 メソポタミア文明は技術的にも世界の他地域に先行していた。例えばガラスである。メソポタミア以前にもガラス玉のように偶発的に生じたガラスが遺物として残っている。しかし、ガラス容器作成では、まずメソポタミアが、ついでエジプトが先行した。

 

Qattara遺跡 (現イラクニーナワー県のテル・アル・リマー) からは紀元前16世紀のガラス容器、それも4色のジグザグ模様をなすモザイクガラスの容器が出土している。高温に耐える粘土で型を作成し、塊状の色ガラスを並べたあと、熱を加えながら何らかの圧力下で互いに溶け合わせて接合したと考えられている。

 

紀元前15世紀になると、ウルの王墓とアッシュールからは西洋なし型の瓶が、ヌジ遺跡からはゴブレットの破片が見つかっている。

 

ペルシアの支配:

- 詳細は「アケメネス朝 」を参照-

 

ギリシャの支配:

- 詳細は「マケドニア王国 」および「セレウコス朝」を参照-

 

ペルシアの支配:

- 詳細は「アルサケス朝 」および「ササン朝ペルシア」を参照-

 

イスラム帝国:

西暦634年、ハーリド・イブン=アル=ワリード の指揮のもと約18,000人のアラブ人 ムスリム (イスラム教徒) からなる兵士がユーフラテス川河口地帯に到達する。当時ここを支配していたペルシア帝国軍は、その兵士数においても技術力においても圧倒的に優位に立っていたが、東ローマ帝国 との絶え間ない抗争と帝位をめぐる内紛のために疲弊していた。サーサーン朝の部隊は兵力増強のないまま無駄に戦闘をくりかえして敗れ、メソポタミアはムスリムによって征服された。

 

これ以来、イスラム帝国 の支配下でアラビア半島 からアラブ人の部族ぐるみの移住が相次ぎ、アラブによってイラク (イラーク) と呼ばれるようになっていたこの地域は急速にアラブ化・イスラム化した。 8世紀にはアッバース朝 カリフ がバグダードに都を造営し、アッバース朝が滅びるまでイスラム世界の精神的中心として栄えた。

 

10世紀末にブワイフ朝 のエミール・アズド・ウッダウラは、第4代カリフのアリー の墓廟をナジャフ に、またシーア派 の第3代イマーム・フサイン の墓廟をカルバラー に作った。

 

モンゴル帝国:

バグダードの戦い (1258年)

1258年にバグダードがモンゴル フレグ・ハン によって征服されると、イラクは政治的には周縁化し、イラン高原 を支配する諸王朝 (イルハン朝 ティムール朝 など) の勢力下に入った。

 

サファヴィー朝:

16世紀前半にイランに興ったサファヴィー朝は、1514年のチャルディラーンの戦いによってクルド人の帰属をオスマン朝に奪われた。さらにオスマン朝とバグダードの領有を巡って争い、1534年にオスマン朝のスレイマン1世が征服した。

 

1616年にサファヴィー朝のアッバース1世イギリス東インド会社の間で貿易協定が結ばれ、イギリス人ロバート・シャーリーの指導のもとでサファヴィー朝の武器が近代化された。

 

1622年、イングランド・ペルシア連合軍はホルムズ占領に成功し、イングランド王国ペルシャ湾の制海権をポルトガル・スペインから奪取した。

 

1624年にはサファヴィー朝のアッバース1世がバグダードを奪還した。しかし、1629年にアッバース1世が亡くなると急速に弱体化した。

 

オスマン帝国:

オスマン帝国下の中近東地域 (1849年)

1638年、オスマン朝はバグダードを再奪還し、この地域は最終的にオスマン帝国の統治下に入った。 18世紀以降、オスマン朝は東方問題と呼ばれる外交問題を抱えていたが、1853年のクリミア戦争を経て、1878年のベルリン会議で「ビスマルク 体制」が築かれ、一時終息を迎えたかに見えた。しかし、1890年にビスマルクが引退すると、2度のバルカン戦争が勃発し、第一次世界大戦を迎えた。

 

19世紀の段階では、オスマン帝国は、現在のイラクとなる地域を、バグダード州とバスラ州、モースル州の3州として統治していた (オスマン帝国の行政区画)。 一方、オスマン帝国のバスラ州に所属してはいたが、サバーハ家のムバーラク大首長のもとで自治を行っていたペルシア湾岸のクウェートは、1899年に寝返ってイギリスの保護国となった。

 

1901年に隣国ガージャール朝イランのマスジェデ・ソレイマーンで、初の中東石油採掘が行なわれ、モザッファロッディーン・シャーウィリアム・ダーシーとの間で60年間の石油採掘に関するダーシー利権が結ばれた。

 

1908年にダーシー利権に基づいてアングロ・ペルシャン石油会社 (APOC)が設立された。1912年にカルースト・グルベンキアンがアングロ・ペルシャン石油会社等の出資でトルコ石油会社 (TPC、イラク石油会社の前身) を立ち上げた。