【アケメネス朝ペルシャ】

アケメネス朝(haxāmanišiya、紀元前550年 - 紀元前330年)は、古代オリエントに存在した王朝・帝国・遊牧国家

アケメネス朝の版図

紀元前500年時点

[名称]

 

アケメネス朝の名称は、この家祖であるアケメネス(古代ペルシア語: Haxāmaniš ハカーマニシュ、古代ギリシア語: Ἀχαιμένης アカイメネース)に由来する。 この王朝の君主は称号として大王、諸王の王(xšāyaθiya vazraka, xšāyaθiya xšāyaθiyānām)を称した。 単にペルシア王国、ペルシャ王国、またはペルシア帝国、ペルシャ帝国といった場合は、この王朝か、3世紀に興ったサーサーン朝を指すことが多い。

 

[歴史]

首都ペルセポリスの遺跡

大王の親衛隊(ペルセポリス)

紀元前7世紀後半、ペルシア人の長でハカーマニシュの息子テイスペス(チャイシュピ)は、アッシリアに圧倒され衰退しつつあったエラム王国の都市アンシャンを征服した。テイスペスの子孫はアンシャンを支配した一族とペルシアに残った一族の二つの系統に分岐した。アッシリアの衰退と共にメディア王アステュアゲスは、バビロニアを除くアッシリア北部の領土をすべて征服した。この時代のペルシアはメディアに服属していた。

 

紀元前550年、アステュアゲスの孫(アステュアゲスの娘マンダネの子)で、メディア人とペルシア人の混血であるアンシャン王キュロス2世(クル)は反乱を起こし、メディアの将軍ハルパゴスの助けを得てメディアを滅ぼした。イラン高原を掌握したキュロスは、さらに小アジアリュディア、エラム、メソポタミア新バビロニアを滅ぼした。ヘロドトスの『歴史』によれば、キュロスはカスピ海の東側に住むマッサゲタイ族との戦いで戦死したとされる。しかし後年アルゲアス朝マケドニアのアレクサンドロス3世のペルシア遠征の時、キュロスがパサルガダエに埋葬されているのが確認され、その記録には遺体の外傷について一切触れられていないことから、ヘロドトスの記事は間違いである可能性もある。

 

紀元前525年にキュロスの息子カンビュセス2世(カンブジャ)はエジプト(エジプト第26王朝)を併合して古代オリエント世界を統一したものの、エチオピアへの侵略には失敗した。カンビュセスは弟のスメルディスを殺した。カンビュセスの死後の2年間はメディア人のマゴス、ガウマータが実権を握ったが、ダレイオスをはじめとするペルシア人貴族たちの謀議によって打倒された。

 

ヘロドトスの伝えるところによると、ペルシア人の指導者たちは帝国の統治形態について話し合った。寡頭政治は国を分裂させる危険を、民主政は大衆の人気に乗じた僭主の台頭を招きかねないことから、しかるべき手順で選ばれた君主による君主政を選択した。最初に選ばれた君主となった総督ヒュスタスペス(ウィシュタースパ)の息子ダレイオス1世(ダーラヤワウ)は版図を北西インドからマケドニアトラキアに拡大し、領土を20州に分けて各州にサトラップ(総督、太守)を置いた。なお、このスメルディス(カンビュセスの弟本人ではなく、その偽者ガウマータ)の暗殺に始まる政変はダレイオスによる簒位の後に捏造された偽伝ではないかと疑う説もある。

 

 

ダレイオス1世とその子クセルクセス1世(クシャヤールシャン)はギリシア征服を計画してペルシア戦争(前492年-前449年)を起こしたが、失敗した。紀元前490年にダレイオスが派遣した軍はマラトンの戦いアテナイプラタイア連合軍に敗れ、紀元前480年のクセルクセス自らが乗り出した遠征はサラミスの海戦プラタイアの戦いなどでの敗北を受け、失敗した。その後紀元前5世紀中頃までペルシアはギリシア人の反撃に苦しんだが、クセルクセスの次の王アルタクセルクセス1世は紀元前449年のカリアスの和約で講和した。

 

ギリシア人が羨んだ莫大な富、ダレイオスによる新都ペルセポリスでの大殿造営など、ペルシアは繁栄を謳歌し、ペロポネソス戦争(前431年-前404年)後、ペルシアはその富を用いてギリシア世界に干渉し、ギリシア人同士の戦いを煽ってその共倒れを狙うという対ギリシア政策を取った(前395年から前387年のコリントス戦争がその典型である)。 その一方で、内政面では紀元前4世紀にあい続いた小アジアのサトラップの反乱(前372年-前362年)に悩まされていた。

 

前404年、ダレイオス2世の死後、アルタクセルクセス2世小キュロスの間で、皇位継承争いが起こった。ペロポネソス戦争の退役ギリシャ軍人を傭兵とした小キュロス軍が敗北して、アルタクセルクセス2世が王位に就いた。クセノポンは、ギリシャ敗残兵一万人の脱出紀行を『アナバシス』に残している。

 

宦官で大臣のバゴアスによりアルタクセルクセス3世アルセスが相次いで暗殺され、傍系のダレイオス3世が擁立された。ダレイオス3世の代にアレクサンドロス大王(アレクサンドロス3世)とのガウガメラの戦いに破れて紀元前330年に滅んだ。ただし、アレクサンドロスはダレイオス3世の息女(スタテイラ、パリュサティスと結婚し、アケメネス朝の統治制度をほぼそのまま継承しようと試みていた。なお、アレクサンドロスもそうだったが、アケメネス朝の君主たちも古代エジプトを征服した後にファラオを任じていた。

 

[年表]

 

・紀元前550年、小王国アンシャンの第7代の王キュロス2世がメディア王国を滅ぼし、アケメネス朝を      建国する。

・紀元前547年、キュロス2世がリュディアを滅ぼす。

・紀元前539年、キュロス2世が新バビロニアを滅ぼす。

・紀元前525年、カンビュセス2世がエジプト  を併合しオリエントを統一する。

・紀元前521年、ダレイオス1世がパンジャーブシンドを征服する。

・紀元前520年、ダレイオス1世がペルセポリスの建設に着手。

・紀元前518年、ダレイオス1世がガンダーラを征服する。

・紀元前500年頃、ギリシアとの間で戦争を起こす。ペルシア戦争(紀元前500年-紀元前449年)

・紀元前494年、イオニアの反乱を鎮圧。

・紀元前490年、ペルシア軍のギリシア遠征、マラトンの戦いでギリシアに敗れる。

・紀元前480年、クセルクセス1世によるギリシア侵攻(テルモピュライの戦いサラミスの海戦)。

・紀元前479年、プラタイアの戦いでギリシア連合軍に敗れ、クセルクセス1世によるギリシア侵攻は失

   敗。

・紀元前333年、ダレイオス3世、イッソスの戦いでアレクサンドロス3世に敗れる。

・紀元前331年、ダレイオス3世、ガウガメラの戦いでアレクサンドロス3世に敗れる。

・紀元前330年、ダレイオス3世、逃走中にバクトリア総督のベッソスに殺害され、アケメネス朝

   は滅亡。

 

[統治機構]

 

アケメネス朝は全国を36の行政区画(サトラップ)に分け、各州ごとにサトラップ(総督、太守)を置いた。また、そのサトラップを監察する目的で、年に一度中央から「王の耳」・「王の目」と呼ばれた監察官が派遣された。さらに「王の道」と呼ばれる国道を建設して駅伝を整備し、通貨制度を創設した。


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