【シーア派】

シーア派(アラビア語:الشيعة、ラテン文字転写:ash-Shī‘a(h))は、イスラム教の二大宗派のひとつで、2番目の勢力を持つ。最大勢力であるもう一方はスンナ派(スンニ派)である。 7世紀のカリフであったアリー(アリー・イブン・アビー・ターリブ《600年頃 - 661年》は、イスラーム教の第4代正統カリフ)。シーア派の初代イマーム)とその子孫のみが、預言者の代理たる資格を持ち、「イスラム共同体(ウンマ)」の「指導者(イマーム)」の職務を後継する権利を持つと主張する。

 

[“シーア”とは]

 

シーアはアラビア語で「党派」を意味する普通名詞で、初期のシーア派の人々が、「アリー派」((شيعة علي、Shī‘ah ‘Alī), と呼ばれたことに由来している。のちには、シーアに単に定冠詞を付したアッ=シーアという語で同派を意味するようになり、宗派の名称として定着した。シーアに属する人のことをシーイー(شيعي、Shī‘ī)といい、スンナ派信徒を意味する「スンナに従う人」(スンニー)に対応する。従って、シーアあるいはシーイーに「派」という語を付すのは「派・派」となり厳密に言えば同一語の繰り返しである。

 

[信徒分布]

 

シーア派の信者はイスラム教徒全体の10%から20%を占めると推定される。2009年には、信徒数は約2億人と推定される。信徒は世界中に分布するが、イラン、イラク(国内のムスリムは全人口の95%、全人口の3分の2がシーア派)、レバノン(政治的理由から公式資料なしだが、人口の半数を超えているといわれる)、アゼルバイジャン(85%)では特にシーア派住民が多い。またイエメン(45%)、パキスタン(20%)、サウジアラビアの東部(10%)、バーレーン(70%)、オマーン、アフガニスタン(ハザーラ人など)にも比較的大きな信徒集団が存在する。 シーア派内の宗派では、十二イマーム派(歴史上12人のイマーム《シーア派指導者》が現れたことによる。)はイラン、アゼルバイジャン、それらの周辺地域(イラク、サウジアラビア東部等)、レバノンに多い。イスマーイール派はアフガニスタンなど各地に点在する。ザイド派はイエメンで主流である。

国ごとのイスラム教の分布。緑系はスンニ派、赤紫系はシーア派、青はイバード派

シーア派はその登場以来、原則として多数派のスンナ派(スンニ)に対し少数派の立場にあり、シーア派の信徒は山岳地帯など外敵が容易に侵入できない地域に集団を形成することが多かった。

 

シーア派の王朝は歴史上いくつか存在するが、多くの場合シーア派が主流であるのは支配者層に限られ、住民の大半はスンナ派(スンニ)であった。ただし、現在のイラン・アゼルバイジャンを中心とした地域ではシーア派は地形にかかわらず多数派となっている。これは16世紀にこの地を支配したサファヴィー朝が十二イマーム派を国教とした際、住民の多くがスンナ派(スンニ)から十二イマーム派に改宗しそのまま根付いたためである。

 

21世紀初頭において、シーア派が政治的・人口的に圧倒的に優位に立っているのはイラン1国のみである。イランの人口の90%から95%がシーア派を信仰しているとされ、全世界のシーア派人口の内でも37%から40%とほぼ4割を占めているなど、イランはシーア派内において大きな地位を占めている。さらにイランの国制はイスラム共和制をとっているためシーア派の高位聖職者がイランの最高指導者として国家元首となっており、シーア派の影響力は非常に強い。

 

イランに次いでシーア派の割合が高い国はイラク、アゼルバイジャン、バーレーンの3か国であり、それぞれ6割から7割の国民がシーア派を信仰している。ただし、イラクではシーア派は多数派であるにもかかわらず政治の主導権を長く握ってこなかった。バアス党政権崩壊後、民主選挙によって多数派であるシーア派が政権を握り、ヌーリー・マーリキーが首相に就任した。しかしマーリキー政権はシーア派偏重の政策を取ったため、スンナ派(スンニ)など他の宗派との関係が悪化した。

 

バーレーンにおいては首長家および支配層はスンナ派(スンニ)であり、一般大衆の大半を占めるシーア派との間で対立が起きている。レバノンでは政治的理由から統計はないものの、シーア派はキリスト教マロン派およびスンナ派(スンニ)とともに一大勢力となっており、シーア派からは国会議長が選出されるのが慣例となっている。サウジアラビアは厳格なスンナ派(スンニ《ワッハーブ派=イスラム原理主義》)が主導権を握る国であるが、ペルシャ湾岸にある東部州のアルハサ地方を中心に大きなシーア派のコミュニティが存在する。

 

[教義]

 

アリーとその子孫のみが指導者(イマーム)としてイスラム共同体を率いることができるという主張から始まったシーア派は、その後のスンナ派(スンニ)による歴代イマームに対する過酷な弾圧、そしてイマームの断絶という体験を経て、スンナ派(スンニ)とは異なる教義を発展させていった。 歴代イマームを絶対的なものと見なす信仰・教義、歴代イマーム(特にアリーとフサイン)を襲った悲劇の追体験(アーシューラー)、イマームは神によって隠されており(ガイバ、やがてはマフディー(救世主)となって再臨するという終末論的な一種のメシア信仰は、シーア派を特徴付けるものである(ただし、ザイド派等これらを否定する分派も存在する)。 スンナ派に比べ、一般に神秘主義的傾向が強い。宗教的存在を絵にすることへのタブーがスンナ派(スンニ)ほど厳格ではなく、イランで公の場に多くの聖者の肖像が掲げられていることにも象徴されるように、聖者信仰は同一地域のスンナ派(スンニ)に比べ一般に広く行われている。 イランにおいては、フサインはサーサーン朝 王家の女性を妻とし、以降の歴代イマームはペルシア帝国(現在のイランを中心に成立していた歴史上の国家を指し、一般的にはアケメネス朝・アルサケス朝・サーサーン朝に対する総称)の血を受け継いでいるという伝承があり、ペルシア人の民族宗教としての側面もある。

 

なお、スンナ派が六信五行であるのに対し、シーア派は五信十行である。

・五信: 神の唯一性、 神の正義、 預言者 、イマーム、 来世

十行: 礼拝、 喜捨(施し)、 断食、 巡礼、 五分の一税 、ジハード(努力すること)、 善行 、悪行の阻    止、 預言者とその家族への愛、 預言者とその家族の敵との絶縁

 

[聖地]

 

すべてのムスリムの聖地であるマッカ、マディーナ、エルサレム(アル=クドゥス)に加え、シーア派は歴代イマームの霊廟のある都市も聖地とする。とくに重視されるのはイラクのナジャフにある初代アリーの霊廟と、カルバラーにある3代フサインの霊廟である。これに、第7代と第9代の霊廟があるカーズィマイン(バグダード近郊)と、第10代および第11代の霊廟があるサーマッラーを加えたイラクの霊廟のある4都市はアタバートと呼ばれ、大勢の巡礼が詰め掛ける。また、イランのマシュハドには第8代の霊廟があり、ここも聖地となっている。 霊廟4都市はまたシーア派の学問の中心でもあった。

 

イル・ハン国時代にはイラクのヒッラが、その後19世紀中盤まではカルバラーが学問の中心地であったが、1843年にオスマン帝国がカルバラーを制圧したため、そこから逃れたウラマーたちがナジャフに集結し、20世紀前半まではナジャフがシーア派教学の中心となっていた。しかしその後、イラクの独立や社会情勢の変化によってナジャフは衰退し、代わってイランのゴム (イラン)に1921年に創設されたホウゼ・ウルミーエ・ゴム学院などの活動によって、ゴムがシーア派教学の中心地となっていった。

 

[歴史]

 

ムハンマドの死後、彼の血を引くアリーを後継者に推す声も上がったが、実際にカリフの地位についたのはアブー・バクルであり、以後ウマル・イブン・ハッターブ、ウスマーン・イブン・アッファーンと継承されていったが、ウスマーンの死後アリーが後継者に指名され、656年に第4代正統カリフとなった。しかし、ウスマーンが属していたウマイヤ家のムアーウィヤがこれに反対し、激しい抗争の末アリーは661年にハワーリジュ派の刺客に暗殺され、ムアーウィヤはカリフの地位についてウマイヤ朝を開いた。 アリーの子ハサン・イブン・アリーはムアーウィヤと和平を結んだものの、669年にハサンが死亡し、680年にムアーウィヤも死亡すると、ハサンのあとを継いだ弟のフサインがクーファのシーア派の招きを受け、ウマイヤ朝第2代カリフのヤズィード1世に対して叛旗を翻した。しかしクーファはヤズィード軍によって制圧され、フサインはカルバラーの戦いによって殺された。これによってシーア派は政治勢力として完全に力を失い、またスンナ派(スンニ)と決定的に決別することとなった。

 

[分派]

 

【シーア派主要分派の系統】

シーア派は、預言者の後継者の地位をめぐって政治的に分裂した経緯をもつため、しばしば正当なイマームとしてアリーの子孫のうち誰を指名するかの問題によって分派した。現在、宗派として一定の勢力をもつのは、十二イマーム派、イスマーイール派、ザイド派などがある。十二イマーム派はイランやイラク、レバノンなどに勢力をもち、シーア派の比較多数派である。

 

十二イマーム派:

シーア派の多数派である十二イマーム派は、その名のとおり初代アリーから12代ムハンマド・ムンタザルまでの12人をイマームとする派である。874年に12代イマームが人々の前から姿を消し、ガイバ (イスラム教)(隠れ)と呼ばれる状態となったが、その後もイマームは隠れたまま存在しており、最後の審判の日に再臨すると考えられている。なお、874年から940年までは12代イマームの代理人が指名され続け、イマームと信者との接点はわずかながら残っていたものの、940年に4代目の代理人が後継者を残さず死亡したため、以後はイマームとの接点を完全になくすこととなった。このため、十二イマーム派では874年から940年までをガイバトゥル・スグラー(小ガイバ、小幽隠)、940年以降をガイバトゥル・クブラー(大ガイバ、大幽隠)と呼ぶ。

 

イスマーイール派:

イスマーイール派は、7代目のイマームをめぐって十二イマーム派とは別の道をたどった派で、第7代イマームが死んでその子孫の絶えた後に、誰を指導者として推戴してゆくかの問題によって、多くの派に分かれている。もともと主流派では7代イマームの死後、イマームは存在しなくなったと考えているので、イスマーイール派は通称七イマーム派ともいう。イスマーイール派でもガイバの観念はあるが、各分派によってその対象者は異なる。イスマーイール派のうち現在もっとも勢力の強いインド・パキスタンのホージャー派は、イスマーイール派の諸派のうち12世紀にイマーム制度の復活を宣言したニザール派の系譜を引いており、現在もイマームが指導している。

 

ザイド派:

ザイド派は十二イマーム派やイスマーイール派に比べると少数派で、イエメンに勢力をもつ。ザイド派は先の二派と分派したのは5代目のイマームの継承をめぐる問題であったので、五イマーム派と呼ばれることもある。他の有力諸派と異なり、ザイド派はガイバ説を採用していない。

 

そのほかの分派やイスラムからの分離:

シーア派の中にはスンナ派に対して政治的に先鋭的な主張を持ち、スンナ派と一線を画していく中で特に独特の教義をもつにいたった分派も存在し、系統不明のアラウィー派やイスマーイール派の流れを汲むドゥルーズ派などは、しばしば他のムスリム(イスラーム教徒)からイスラームの枠外にあるとみられている。バーブ教(バーブ派)やバハーイー教(バハーイー派)は既にイスラムから完全に分離したとされている。


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