【イラク王国】

イラク王国(al-Mamlaka al-Iraqia)は1921年から1958年にかけて、現在の イラク に存在した国家。シリア・アラブ王国 ヨルダン・ハシミテ王国 とともにハーシム家 の王国であった。

イラクの位置

[背景]

 

バグダードの辺境への転落:

現在のイラク領域はアッバース朝 のころに、チグリス川 中流に バグダード が建設され、 イスラム帝国 が発展するに伴い「前代未聞の繁栄」を遂げる。しかし、アッバース朝のカリフ の権威が失墜し、イスラム世界に王国が樹立されると、イラク地域はイスラム圏の中心の地位を失った。

 

1258年2月10日にモンゴル帝国 フレグ がバグダードを占領し、カリフの ムスタアシム を虐殺。今の イラン 地域を中心に イル・ハン国 を樹立するとイラクは完全に「イラン(イル・ハン国)とエジプト(マムルーク朝 )の間」の国境地帯に転落する。

 

その後、 オスマン帝国 サファヴィー朝 など「非アラブ」のイスラム帝国が現れ、ながらくイラクは辺境であった。しかしながら、シーア派 を国教とするサファヴィー朝にとってはシーア派の聖地が多数所在し、イランからも巡礼者が往来するイラク地域の領有は政治的にも経済的にも重要であり、オスマン帝国との争奪戦が続くこととなる。しかし、オスマン帝国の ムラト4世 がバグダードを占領し、1639年にサファヴィー朝と平和・国境条約を締結したことでオスマン帝国が最終的に勝利する。さらに1668年にバスラをも占領することでイラク全土がオスマン帝国の一部となることが確定する。

 

アラブ民族主義の高まり:

19世紀の末、オスマン帝国とイランが衰え西洋列強による侵略がすすむと、アラブでは民族主義 が高まりを見せた。第一次世界大戦 が勃発すると、アラブ地域の独立運動が戦争と並行して進み、イギリスはオスマン帝国への牽制として、メッカ の太守であるフサイン・イブン・アリー とイギリスの駐エジプト高等弁務官 ヘンリー・マクマホン との間で フサイン=マクマホン協定 が結ばれ、戦争協力と引き換えにアラブ地域の独立を約束した。

 

こうして1916年6月アラブの独立を宣言したメッカの太守 ハーシム家 の指導によるアラブ反乱 が起きた。このアラブ反乱軍は1917年7月にアカバ を、12月には エルサレム を攻略し、1918年10月には ダマスカス に入城した。

 

[イラク王国の興亡]

 

イラク王国の樹立:

1918年に第一次世界大戦が終結するとパリ講和会議 民族自決 の原則が唱えられた。その結果アラブ地域にも独立国が樹立される機運が生まれたが、これらアラブ地域はサイクス・ピコ協定 に基づきイギリスおよびフランスの 委任統治 領として分割されることになった。さまざまな宗教や民族が混在していたシリア・パレスチナ地域やイラク地域にどのように国境線を引くかはイギリスとフランスの意思にゆだねられた。

 

クルド人 の多い北のモスル 州、スンニ派 シーア派 の混住するバグダード 州、シーア派中心の南のバスラ 州を一つの国としてまとめ、スンニ派を重視することを主張したのはイギリスのアラブ専門家ガートルード・ベル であった。モスル州はフランスの勢力圏からイギリスの勢力圏へと移された地域で、イギリス内にはモスル州をイラクに含めることへの反対意見もあったが結局ベルの意見に押し切られた。ベルはイラクの支配体制について、アラブ反乱 を率いたハーシム家 を迎え入れて君主国とすることを提案した。

 

1920年、スンナ派のハーシム家の男子を王とするシリア・アラブ王国 が樹立されたが、フランスはこれを拒否して武力での排除を開始し、国王ファイサル1世 がダマスカスを追放された。これに対しイギリスは、イラク王国(イギリス委任統治領メソポタミア )の国王にファイサルを受け入れた。イラク王国の王となる予定だったアブドゥッラー1世 は、イギリス委任統治領パレスチナ の東部を割譲して作ったトランスヨルダン の国王に収まった。

 

一方でイラクのクルド人 らは自治独立を求めて争ったが、1920年から1922年にかけてのイギリス軍による無差別攻撃により鎮圧された。 イギリス委任統治領メソポタミアとイギリスは1930年にイギリス・イラク条約を結び、イラクは独立へと向かった。イラク王国は1932年10月3日にファイサル1世を王として独立を承認された。1927年には北部キルクーク で油田が発見されたことによりイラク経済は潤い始めた。ただしイギリスは基地をイラク国内に維持し、軍隊をイラク国内で自由に動かす権利を得ており、イギリスによる石油支配とイラク間接支配は続いていた。

 

ファイサル1世が1933年に死去した後、アラブ民族主義 に理解を示しイギリスの支配に反発するガージー1世 が即位したが、1939年に自動車事故で急死した。反英的な国王の事故死には疑問の声も上がった。4歳のファイサル2世 が王に即位したが、国内には反イギリスの不穏な雰囲気が広がりつつあった。

 

クーデターとアングロ・イラク戦争:

1939年に 第二次世界大戦 が始まり、 枢軸国 がイギリスやフランスなど連合国を圧倒する中、枢軸国と結んで英国支配を覆すという希望がイラクの政治家に広まった。

 

1939年9月5日、イラクは1930年の条約に基づきナチス・ドイツ と国交を断絶した。しかし1940年には反英派のラシード・アリー・アッ=ガイラーニー(イラクから英国の影響を除去しようとしたアラブ国家主義者)が首相となり、ドイツ イタリア と結び、石油などの資源を枢軸国に供給しようとした。彼らはイラクに長年住んでいた ユダヤ人 社会に対する暴動を組織したほか、王室側近から親英派を追い落とそうとした。しかし北アフリカ戦線でのイギリスの勝利により彼らは後ろ盾を失い、1941年1月末にはハーシム家のイラク王即位以来政治力を持っていた親英派の ヌーリー・アッ=サイード (Nuri as-Said)が首相に返り咲いた。

 

1941年3月末、軍首脳のアラブ民族主義者4人組「ゴールデン・スクエア」が決起し、ヌーリー・アッ=サイードは退陣させられ、4月3日にはラシード・アリー・アッ=ガイラーニーが首相となった。王政は転覆されなかったが、アリー・アッ=ガイラーニーは親英派の摂政アブドゥル=イラーフを追放してシャリーフ・シャラフを摂政とし、1930年のイギリス・イラク条約でイラクがイギリスに認めた特権を制限しようとした。 これに対し、 カイロ のイギリス陸軍中東司令部はヌーリー・アッ=サイードを保護し、イラクへの侵攻を開始した(アングロ・イラク戦争)。4月18日には インド派遣軍の1個旅団を バスラ に上陸させ、パレスチナとヨルダンからも砂漠を横断する部隊を進撃させた。バグダード西方のハッバニーヤにはイギリス空軍のハッバニーヤ基地があり、イギリス空軍とインド軍が入ったが、4月30日に6,000人からなるイラク軍部隊が南の高地に陣取り、基地に対し陸空の戦力を動かさないよう要求した。英印軍はこれを拒否し、要求の期限となる5月2日早朝にイラク軍に対する爆撃を開始した。 イギリス軍の戦力は旧式訓練機など貧弱であり陸軍も人数は2,000人と劣勢だったが、増援の到着もありイラク軍を押し返しバグダードへの進軍を始めた。ドイツ軍はイラク軍に対して、 ヴィシー・フランス 領シリアから航空機を派遣するなどの支援を行ったが、イラクの航空部隊は戦力を失い、5月30日にはバグダードに入ったイギリス軍とイラク側は休戦し、アッ=ガイラーニーはドイツへ亡命した。ほぼ1ヶ月にわたる戦争で再度イラクを占領したイギリス軍は引き続き、6月・7月にはシリアに対する作戦を、8月から9月にはソ連とともに、枢軸寄りだった イランに対する進駐 を行った。しかし、これでイラク国民の反英気運が無くなったわけでは無かった。イギリスのイラク占領は1947年10月26日まで続いた。

 

イラク王国の滅亡:

第二次世界大戦 後、1946年にイラク王国はアラブ連盟 に参加してイスラエルと対立する一方、摂政及びヌリーの方針もあって中東における英米の同盟国として振る舞い、アラブにおける親英派のリーダー及び反共産主義 の防波堤を自負。1948年のイスラエル の独立に伴う 第一次中東戦争 によってアラブ民族主義が高まり、アラブ諸国の連携が深まることになった。イラク王国も第一次中東戦争に参戦してイスラエルと戦ったが、アラブ圏の盟主を自負するイラクはアラブ諸国との歩調をとるのに失敗した。宿敵の サウジアラビア やイラク同様アラブ圏のリーダーを自負するエジプト王国 シリア と連携できなかったばかりか、 ヨルダン・ハシミテ王国 に対しても、イラク摂政のアブドゥル・イラーフはヒジャーズ王家・ハーシム家の長男家としての自負ゆえに叔父であるヨルダンのアブドゥッラー1世がハーシム家内で優位になるのを嫌ったために歩調などとれるはずもなかった。

 

アラブ諸国軍はイスラエルに敗れ、イラク経済は悪化した。また、この敗戦でショックを受けた軍将校内部では、1952年の 自由将校団 エジプト革命 を機会に次第に反米英共和制派が台頭する。 1955年にはソ連に対する封じ込めのための中央条約機構 (バグダード条約機構)をトルコ パキスタン イラン 、イギリスとともに設置した。この本部はバグダードに置かれた。しかしエジプト ナーセル 大統領はアラブ民族主義者の立場から、イギリス勢力が中東に残ることを反対して機構に参加せずイラクの君主制に対しても批判を加えた。

 

1958年には、エジプトとシリアが「アラブ連合共和国 」として統合。これを契機にアラブ世界に「統合か否か」の葛藤が生まれ不安定な様相を呈することになった。 イラク王国は同じハーシム家でエジプトとシリアに挟まれ、且つ前年に危うくクーデターにより打倒されかけたヨルダンと、イラクのファイサル2世を首班とする「アラブ連邦 」を形成し、軍隊を統合するなど連携を深めてアラブ連合共和国への対抗やイギリスからの支援を模索した。しかし、この年の7月14日、アラブ連合共和国による圧迫で危機が迫るヨルダンの応援に向かうよう指示された青年将校グループが、経由地のバグダードでクーデターを起こし、国王一家や摂政を虐殺した(7月14日革命 )。クーデターを指揮したカーシム准将は人民共和国の樹立を宣言。イラク王国は滅亡した。

 

[その後]

 

イラク王国滅亡後、ソ連 東側諸国 と関係を結んだカーシム政権のイラクは「イラク共和国」となった。イラクは中央条約機構 から脱退する。後にバアス党 の独裁政権が成立する。政権内で反対派を粛清させた サッダーム・フセイン が大統領として独裁体制を敷くことになる。 なお、現在のイラク王位継承権主張者はフサイン・イブン・アリーの四男ザイド・イブン・フサインの息子のラアド・イブン・ザイドと、ファイサル2世の従兄弟のシャリーフ・アリー・イブン・アル=フセインである。このうちシャリーフ・アリーはアブドゥル=イラーフ(ファイサル2世の摂政でのち王太叔父)の甥であり、且つ アリー・イブン・フサイン( ヒジャーズ王国 最後の王でファイサル1世の長兄)の子孫である。彼はイラク国民会議 に参加し、フセイン政権の崩壊の後、王制滅亡以来初めてイラクの地を踏んだが、アメリカを含めどこの国からも充分な支援を得られず、またイラク国内に政治基盤もなくイラク国民からの支持がほとんど無いため、イラクを離れ、現在はイギリスで生活している。

 

2005年にイラクで行われた暫定国民議会選挙では、自らが党首を務める「イラク立憲君主党」も参加したが、議席は獲得出来なかった。

 

参考文献:

• 阿部重夫 『イラク建国』 中央公論新社〈中公新書〉、2004年。

• 小串敏郎 『東アラブの歴史と政治』 勁草書房〈第三世界研究シリーズ〉、1985年。

• チャーチル, ウィンストン・S 『第二次世界大戦』2、佐藤亮一訳、河出書房新社〈河出文庫〉、2001年(原著1967年)、新装初版。


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