【セレウコス朝シリア王国】

セレウコス朝(Αυτοκρατορία των Σελευκιδών、紀元前312年 - 紀元前 63年)は、アレクサンドロス大王のディアドコイ(後継者)の一人、セレウコス1世ニカトルが オリエント地方に築いた王国。

セレウコス帝国またはセレウコス朝シリアと表記される事も ある。

 

はじめメソポタミア(イラク)地方に興り、シリア、アナトリア(トルコ共和国のアジア部分)、イランなどにまたがる広大な 領域を支配し、長くアンティオキア(古代の西シリア、オロンテス河畔に建設された都市)を首都とした。

[歴史]

 

成立:

建国者セレウコス1世は、アルゲアス朝マケドニア王国の貴族、アンティオコスの子として生ま れ、アレクサンドロス大王の東征にはヘタイロイとして参加し、近衛歩兵隊の司令官にまで昇進 していた。

 

アレクサンドロスは短期間のうちに アケメネス朝を打倒したが、間もなくバビロンで 没した(紀元前323年)。彼の死後、残された帝国の継承を巡ってディアドコイ戦争(後継者戦争)と呼ばれる大規模な戦争が起こった。

 

セレウコス1世自身は、大王の死後バビロニアの総督 (サトラップ)としてバビロンに拠点を置いていたが、彼の勢力は弱体でありその地位は有力な 将軍に脅かされていた。

 

ディアドコイ戦争において、中心的な位置を占めていたアンティゴノス1世エウメネスが、オリエントを舞台にして戦闘を繰り広げると、セレウコス1世は事実上アンティゴノス1世の配下 として、その陣営に加わりエウメネスと戦った。

 

パラエタケネの戦いとそれに続くガビエネの戦いの結果、エウメネスは敗れ去り、アナトリアからイラン高原に至る広大な地域がアンティゴノス1世 の勢力下に入ると、バビロニアを支配するセレウコス1世は次第に疎んぜられるようになった。 身の危険を感じたセレウコス1世は一時バビロニアを逃れてエジプトのプトレマイオス1世の下に身を寄せ、その後、彼の支援によってバビロニア総督に返り咲いた(紀元前312年)。

 

アンティゴノス1世が王位を主張すると、セレウコス1世も対抗し、紀元前305年に正式に王を名乗った。 セレウコス1世は東部領土に目を向けた。当時マケドニアの東部領土ではバクトリア地方で入植ギリシア人の反乱が発生していた他、イラン高原の総督(サトラップ)達は親アンティゴノス派によって占められていた。

 

紀元前305年から2年間にわたるセレウコス1世の東方遠征は成功のうちに終わった。 一方この領土拡大の結果、当時インドで勢力を拡大していたマウリヤ朝の王チャンドラグプタの勢力範囲とセレウコス朝の勢力が接触した。この時の軍事衝突の有無は不明であるが、セレウコス朝はマウリヤ朝の優位を認め、ガンダーラ(現在のアフガニスタン東部からパキスタン北西部にかけて存在した古代王国)ドランギアナ(概ね、現イラン領のスィースターン・バルーチェスターン州から、現アフガニスタン領のニームルーズ州にかけての地域)など国境地帯のかなりの領域についてマウリヤ朝の支配権を容認し、見返りとして500頭もの戦象を得た。

 

紀元前301年、イプソスの戦いでアンティゴノス1世と戦って勝利し、アナトリア半島内陸部と シリアを制圧して権力基盤を整えた。この時支配下に納めた地域はセレウコス朝の中核地帯となっていく。さらに紀元前281年にはコルペディオンの戦いリュシマコスを敗死させ、アレクサンドロス大王が征服した領土のうちアジア部分の殆ど全てをその支配下に納めた。

この広大な領土は二分割され、ユーフラテス川より西はセレウコス1世が、東は王子アンティオコス(アンティオコス1世)が統治した。

 

東部領土の喪失:

こうして得られた東部領土の支配は50年余りしか続かなかった。コルペディオンの勝利(コルペディオンの戦いを参照)の直後、セレウコス1世はリュシマコスの後釜を狙っていたエジプトの王族プトレマイオス・ケラウノスに暗殺され、さらにシリアとキリキア(トルコ南部の、地中海に面した一地域)をめぐってプトレマイオス朝と半世紀にわたって戦争を繰り広げることとなる。セレウコス朝の国力と関心は西方に集中している間、そのための負担のみを求められた東部領土の有力者達は離反の動きを強めた。

 

紀元前250年頃、ディオドトス1世は支配地域のバクトリアを独立させてグレコ・バクトリア王国を建て、さらにアンドラゴラスが支配地域のパルティアナを独立させてパルティアを建てた。

中央アジア方面におけるセレウコス朝の領土は大幅に縮小した。 さらに紀元前246年に即位したセレウコス2世カリニコスは、プトレマイオス朝との戦争に加え、兄弟であるアンティオコス・ヒエラクスの反乱に直面しセレウコス朝の領土縮小に拍車をかけた。

 

アンティオコス3世の遠征とローマ:

紀元前223年、アンティオコス3世が即位すると、セレウコス朝は再び拡大期に入った。

アンティオコス3世は即位するとすぐ国内の反乱勢力の多くを鎮圧した。プトレマイオス朝と戦った第4次シリア戦争では紀元前217年のラフィアの戦いでは一敗地にまみれたものの、紀元前212年に開始した東方遠征では著しい成功を収めた。

 

まずパルティアへ向かったアンティオコス3世は、アンドラゴラスの領土を征服して同地に王朝を築いていたアルサケス朝アルサケス2世を破った。続いてバクトリアへ向かい、アリエ川の戦いでバクトリア王エウテュデモス1世の軍勢を破り、更にバクトラ(アフガニスタンのバルフ周辺の地域)を2年間に渡って包囲して有利な講和を結び、セレウコス朝の東方における影響力は飛躍的に増大した。

 

東方遠征から戻ったアンティオコス3世は再びプトレマイオス朝と戦って勝利した(第5次シリア戦争)。

 

これらの業績によって彼は大王と呼ばれる。しかし、間もなく共和政ローマと対立しローマ・シリア戦争が勃発する。マグネシアの戦いで決戦に及んだが大敗に終わり、アパメイアの和約で領土割譲と膨大な賠償金を課せられるに到り、セレウコス朝の拡大は再び終了した。

 

アンティオコス3世の息子セレウコス4世フィロパトルアンティオコス4世エピファネスの治世を通じて、 ローマのセレウコス朝に対する影響力は増大を続け反比例してセレウコス朝の権威は失墜した。

 

衰退:

紀元前89年頃の東地中海およびオリエント

アンティオコス3世がローマとの戦いに敗れるとすぐにパルティアはセレウコス朝から離反し た。

アンティオコス4世はパルティアに遠征をして勢力回復を図るも死去し、パルティアはフラーテス1世ミトリダテス1世の下で勢力を拡大し、グレコ・バクトリアを圧迫するとともに紀元前146年にはメディア地方(現在のイラン北西部を中心とした地域)を併合してセレウコス朝の中核地帯に迫った。

また西部でも紀元前142年にはユダヤ人の独立にも直面した(マカバイ戦争)。

 

パルティアの攻撃によって紀元前141年にはセレウキア(イラク、バグダードの南約35km、現在のAl-Madai'in地域)が、紀元前140年にはスサ(現在のイランの西南部に位置する都市)が陥落し、メソポタミア(イラク)がパルティアの支配下に置かれるに到った。反撃にでたデメトリオス2世ニカトルは敗れて捕縛され、続いてパルティアと戦ったアンティオコス7世シデテスはパルティア支配に反発するギリシア人らを糾合してパルティアを攻撃し、メソポタミアとメディアをパルティアから奪回し、パルティア本国にまで攻め上ったが、そこで現地人の反乱に直面し戦死してしまっ た。

これによって彼が回復した領土も再びパルティアの支配下に収まり、セレウコス朝は首都アンティオキア周辺の僅かな領域を支配するに過ぎなくなった。

 

滅亡:

紀元前1世紀にはいると、セレウコス朝が政治的に積極的な役割を果たすことは無くなった。

紀元前83年、セレウコス朝はアルメニア王ティグラネス2世の支配下に入った。しかし、ティグラネスがローマの仇敵であったミトリダテス6世と同盟関係にあったため、ローマはアルメニアを攻撃してティグラネスを降伏させた。その後シリアに進駐したローマの司令官グナエウス・ポンペイウスはシリアをシリア属州とし、セレウコス朝の歴史はここに終了した。

 

統治:

初代セレウコス1世は、息子のアンティオコス1世にユーフラテス川より東の広大な地域(当時は上部サトラペイアと呼ばれた)の統治を任せた。アンティオコス1世はチグリス河畔のセレウキアを拠点にこの領土を治めた。この事実はセレウコス1世による支配の力点が圧倒的に西方― シリア―に置かれていたことを示す。アンティオコス1世による東方領土統治の詳細はよくわかっていない。セレウコス1世の政敵であったアンティゴノス1世は、かつてメディアの総督 であったニカノルに上部サトラペイア(行政区)の統治を任せたといわれており、アンティオコス1世の地位はこれを継承したものであると推定されている。この王族による東西領土の分割統治は、その後も断続的に続いた。

 

都市建設:

ドゥラ・エウロポス遺跡にある城壁跡

セレウコス朝は征服した領土内で活発な都市建設を行った。これはヘレニズム時代に顕著な特徴であり、とりわけセレウコス1世とアンティオコス1世は熱心に都市建設を実施したことが知られている。この両者によって建設された都市は知られているだけで40以上にのぼり、実際には 更に多かったと考えられている。

 

こうした都市建設を熱心に進めた理由は、歩兵を主力としたセレウコス朝にとって連続した都市網の整備が重要であったことや、支配の確立にあたって領内にギリシア人・マケドニア人(マケドニアに住むギリシャ人)を定着させる必要があったことである。ただし、多くの場合これらの新都市は既存の都市を拡張、または再整備したものであった。たとえば北メソポタミアに建設されたアンティオキア(ミュグドニアのアンティオキア)は旧ニシビスを基盤として拡張された計画都市であった。

 

セレウコス朝の都市建設政策の中でもとりわけ重要視されたのはセレウコス朝の中核地域であったシリアであった。この地方には、首都アンティオキア(オロンテス河畔のアンティオキア)、 軍事の中心となったアパメア(オロンテス河畔のアパメア)、港湾都市セレウキア(ピエリアのセレウキア)、そしてラオディキア(海に臨むラオディキア)など多数の計画都市が建設された。

上に上げた4都市は、四大都市とよばれ、シリアに建設された都市の中でもとりわけ重要視された。

 

都市建設の中心をなしたのは、ギリシア的なポリス(古代ギリシャの都市国家)の建設よりはカトイキアと呼ばれた軍事植民 地の建設であった。移住する多くのギリシア人達にとって、自分達の居住すべき土地は当然ポリスでなくてはならなかった。しかし、大規模都市建設は負担が大きく、また領土内の安定を重要視したセレウコス朝は将来のポリスへの昇格を前提としつつ、より簡易なカトイキアの建設を多数行った。カトイキアもまた、しばしば既存の都市を利用して建設されたといわれている。

 

カトイキアの中でも最も有名なのはドゥラ・エウロポスである。この計画都市は西の中心である首都アンティオキアと、東の中心であるチグリス河畔のセレウキアを結ぶ「王の道」の中間に、 警備、および補給拠点として建設された。

この都市についてセレウコス朝時代のことはほとんど 知られていないが、その立地条件はカトイキアの性格の一端を示す。

 

マケドニア・ギリシア人と現地人:

マケドニア人とギリシア人(以下一括してギリシア人と呼ぶ)の移住はアケメネス朝時代から散発的に始まっていたが、アレクサンドロスの征服とセレウコス朝の時代にはいよいよ本格的になった。

 

ギリシア人殖民団とそれ以前から各地に住んでいた人々は、かなり明確に区別されていた。チグリス河畔のセレウキアではギリシア人とバビロニア人(現イラク,バグダード以南に住んでいた民族)は別個の都市を形成しており、互いに対立していたと記録されている。他の多くの地域でも、ギリシア人の政治共同体とは別に現地人の政治共同体が形成されている例が多かった。

 

近現代の研究者達によって、セレウコス朝は基本的にはマケドニア人の王朝であると見なされていたし、事実セレウコス朝の主導権を握ったのはマケドニア人(ギリシア人)であった。政治的理由から対等の立場を認められた現地人の共同体もあったものの、いくつかの都市においては明らかに現地人が隷属民として扱われていたし、バビロニア人など比較的強力な集団もギリシア人に対して劣勢であったとされている。ただし、セレウコス朝領内のギリシア人人口は全体から見れば少数であり、上述した都市建設政策によってギリシア人が詰める城砦網を造る事で、数の不足を補い支配の安定を図る伝統的政策を採ったと思われる(ただし当時の都市についての研究は万全から程遠く、推論の域を出るものではない) 。

 

現実問題としてはマケドニアによる外来王朝が、圧倒的多数の現地住民の意向を完全に無視して行動するのは不可能であったし、セレウコス朝国家自体も現地人の関与を受けないわけにはいかなかった。軍の中級以下の指揮官に各地の現地出身の将軍が用いられた例は少なくないし、一般兵員においてはギリシア人だけでは到底数が足りなかった。アンティオコス3世が編成したファランクス(重装歩兵)の構成員の過半数がオリエント各地の傭兵によって占められていたという研究もある。 しかし、高級官吏や軍指揮官の地位に非マケドニア人(ギリシア人)が任用されることはやはり稀なことであった。

 


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