【第一次世界大戦】

第一次世界大戦(World War I)は、1914年(大正3年)から1918年(大正7年)にかけて戦われた人類史上最初の世界大戦 である。ヨーロッパ が主戦場となったが、参戦した先進国家群が帝国主義時代において世界中に植民地を持つ状況のなかで、本国だけでなく植民地も戦場となる状況下、戦闘はアフリカ 中東 東アジア 太平洋 大西洋 インド洋 にもおよび世界の多数の国が参戦した。海底ケーブル の覇権を握るイギリスは、切断・停止・検閲の合戦において各国を圧倒した。無線でもイギリスが優位であった。

 

第二次世界大戦 が勃発する以前は、世界大戦争(World War)と呼ばれていた。あるいは大戦争(Great War)、諸国民の戦争(War of the Nations)、欧州大戦(War in Europe)とも呼ばれていた。当初には諸戦争を終わらせる戦争 (War to end wars)という表現もあった。

 

すべての交戦国が彼我の戦意を操作するために史上初の規模でプロパガンダ を利用した。この点、連合国は大東電信会社 大北電信会社 のケーブル網をフル活用することができた。

 

結果として、この戦争はボリシェヴィキ ロシア革命 を起こす契機ともなった。 当時のヨーロッパ列強は複雑な同盟・対立関係の中にあった。列強の参謀本部 は敵国の侵略に備え、総動員 を含む戦争計画を立案していた。

 

1914年6月、オーストリア=ハンガリー帝国 の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公 夫妻が銃撃されるというサラエボ事件 を契機に、各国の軍部は総動員を発令した。各国政府および君主は開戦を避けるため力を尽くしたが、戦争計画の連鎖的発動を止めることができず、瞬く間に世界大戦へと発展したとされる。

西部戦線の戦場

各国はドイツ オーストリア オスマン帝国 ブルガリア からなる中央同盟国 (同盟国とも称する)と、三国協商 を形成していたイギリス フランス ロシア を中心とする連合国 (協商国とも称する)の2つの陣営に分かれ、日本、 イタリア (イタリア王国)、アメリカ合衆国 も後に連合国側に立ち参戦した。

 

多くの人々は戦争が早期に(「クリスマス までには」)終結すると楽観していた。しかし、機関銃 の組織的運用等により防御側優位の状況が生じ、弾幕を避けるために塹壕 を掘りながら戦いを進める「塹壕戦」が主流となったため戦線は膠着し、戦争は長期化した。

 

この結果、大戦参加国は国民経済を総動員する国家総力戦 を強いられることとなり、それまでの常識をはるかに超える物的・人的被害がもたらされた。

ソンムの戦いでのヴィッカース重機関銃と英兵

長期戦により一般市民への統制は強化され、海上封鎖の影響により植民地との連絡が断たれた同盟諸国は経済が疲弊した。1918年に入るとオスマン帝国、オーストリアで革命が発生して帝国が瓦解。ドイツでも、11月にキール 軍港での水兵の反乱をきっかけに、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世 は退位に追い込まれ大戦は終結した。足かけ5年にわたった戦争で900万人以上の兵士が戦死し、戦争終結時には史上2番目に犠牲者の多い戦争として記録された。

 

[背景]

- 詳細は 「 第一次世界大戦の原因 」も参照

 

オーストリア=ハンガリー帝国と東方問題:

1867年、アウスグライヒ によりオーストリア=ハンガリー帝国 が誕生した。ハプスブルク家 の長はオーストリア皇帝とハンガリー王を兼位し、ハンガリーは軍事・外交・財政を除く広範な自治権を得た。しかしこの大規模な改革によってすら、帝国内の複雑な民族問題が解決されるには至らなかった。

 

当時の帝国内には9言語を話す16の主要な民族グループ、および5つの主な宗教が混在していた。 帝国の最大の関心は東方問題 にあった。台頭するスラヴ人 の民族主義運動は、帝国政府を主導するドイツ人 マジャール人 にとって悩みの種だった。1912年から1913年にかけて行われたバルカン戦争 の結果、隣国のスラブ人国家であるセルビア の領土が約2倍に拡張され、帝国は国内のスラブ民族運動を警戒する必要に迫られた。一方でセルビア人 民族主義者は、帝国南部は南スラブ連合国家に吸収されるべきだと考えていた。この冒険的民族主義に対して、自らスラブ人の守護者を任ずるロシアは一定の支持を与えていた。さらに、1908年にオーストリアはボスニア・ヘルツェゴビナを併合 していたため、ボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人はオーストリアに不満を持っていた。オーストリア政府は、スラブ人民族主義運動が他の民族グループへと伝播し、さらにロシアが介入する事態を危惧していた。

 

ドイツ帝国とシュリーフェン・プラン:

ドイツ帝国 は1871年に普仏戦争 フランス第二帝政 に勝利し成立した。ドイツはフランスからアルザス=ロレーヌ 地方を奪い、フランス国内には敗戦の屈辱を含め反独感情が生まれた。ドイツ宰相オットー・フォン・ビスマルク は、フランスを国際的に孤立させてアルザス=ロレーヌ奪回の意図を挫き、ドイツの安全を図る目的から、1882年にオーストリア、イタリア (イタリア王国)と三国同盟 を締結、1887年には ロシアのバルカン半島 への進出を黙認する見返りに独露再保障条約 を締結し、ビスマルク体制 を構築した。しかし1890年にビスマルクが失脚すると、独露再保障条約は延長されなかった。さらに1894年、フランスとロシアは露仏同盟 を締結し、ドイツが対フランス・対ロシアの二正面作戦に直面する可能性が高まった。

 

ドイツ参謀総長アルフレート・フォン・シュリーフェン は、二正面作戦に勝利するための手段としてシュリーフェン・プラン を立案した。この戦争計画は、広大なロシアが総動員完結までに要する時間差を利用するもので、ロシアが総動員を発令したならば、直ちに中立国ベルギー を侵略してフランス軍の背後に回りこみ、対仏戦争に早期に勝利し、その後反転してロシアを叩く計画だった。しかしシュリーフェン・プランは、純軍事技術的側面を優先させて外交による戦争回避の努力を無視し、また中立国ベルギーを侵犯することによる国際的汚名やイギリス の参戦を招く危険性がありながら押し通すというものだった。シュリーフェン・プランは、ドイツを世界規模の大戦争へと突き落とす可能性の高い、きわめて危険な戦争計画でもあった。

 

イギリスの対ドイツ政策:

イギリス は自国の安全保障の観点から、伝統的にグレートブリテン島 対岸の低地諸国 を中立化させる政策を実行してきた。1839年のロンドン条約 において、イギリスはベルギー を独立させ、その中立を保証した。イギリスは、フランスとドイツの間で戦争が発生した場合に、もしベルギーの中立が侵犯されれば、先に侵犯した側の相手側に立って参戦すると表明していた。 だが19世紀末になると、ドイツの国力の伸張により、次第にイギリスとドイツとの対立関係が深まっていった。イギリスとドイツは海上における覇権を競って 建艦競争 を繰り広げた。イギリスは覇権維持のため、1904年にフランスとの長年の対立関係を解消して英仏協商 を締結し、他にも1902年に日英同盟 を、1907年に英露協商 を締結した。こうしてヨーロッパ列強は、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟と、イギリス・フランス・ロシアの三国協商との対立を軸とし、さらに多数の地域的な対立を抱えるという複雑な国際関係を形成した。

 

[開戦]

 

サラエボ事件とシュリーフェン・プランの発動:

シュリーフェン・プランによるドイツ軍の進行路

1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世 の世継、 フランツ・フェルディナント大公が、共同統治国(領土支配ではなく、行政上の統治だけを行う)ボスニア・ヘルツェゴヴィナ(ボスニア )の首都サラエボ でボスニア系セルビア人で民族主義者のガヴリロ・プリンツィプ により暗殺された(サラエボ事件 )。

 

オーストリアのレオポルト・ベルヒトルト 外相(二重帝国の共通外相)は懲罰的な対セルビア戦を目論み、7月23日セルビア政府に10箇条のいわゆるオーストリア最後通牒 を送付して48時間以内の無条件受け入れを要求した。セルビア政府はオーストリア官憲を事件の容疑者の司法手続きに参加させることを除き、要求に同意したが、オーストリアはセルビアの条件付き承諾に対し納得せず、7月25日に国交断絶に踏み切った。

 

躊躇するハンガリー首相イシュトヴァーン・ティサ と皇帝の反対を押し切る形で、7月28日にセルビアに対する宣戦布告が行われた。 ドイツ政府は、三国同盟に基づいて対応を相談したオーストリアに対し、セルビアへの強硬論を説いた。ロシアの総動員下令を受けて、参謀総長小モルトケ はかねてからのシュリーフェン・プラン を発動させて8月1日総動員を下令し、同時にベルギー に対し無害通行権を要求した。ドイツ政府は翌2日にロシアに対して宣戦布告し、さらに3日にはフランスに対して宣戦布告した。

 

ロシア総動員とイギリス参戦:

ロシア政府は1909年に、オーストリアのボスニア併合を承諾する代わりにセルビア独立を支持することを誓約していた。オーストリアのセルビアへの宣戦布告を受けて、ロシア軍部は戦争準備を主張し皇帝ニコライ2世 へ圧力を掛けた。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世 とロシア皇帝ニコライ2世の間の電報交渉は決裂。ロシア政府は、部分動員では手遅れになる可能性を想定し、7月31日に総動員令を布告した。ドイツはロシアに動員解除を要求したが、ロシア政府は動員を解除した場合には短期間で再び戦時体制に戻すことは難しいと考えたため、要求に応じなかった。

 

フランスでは、1914年7月31日に社会党の指導者のジャン・ジョレス が右翼のラウール・ヴィランに暗殺され(ジャン・ジョレス暗殺事件 )、8月1日に総動員を下令し、対ドイツ戦を想定した プラン17 と称される戦争計画を発動した。8月4日、首相ルネ・ヴィヴィアニは、議会に戦争遂行のための「神聖同盟 」の結成を呼びかけた。議会は、議案を全会一致で可決し、全権委任の挙国一致体制を承認した。

 

イギリス政府は、ドイツ軍のベルギー侵入を確認すると、外交交渉を諦め、8月4日にドイツに宣戦布告し、フランスへの海外派遣軍 の派遣を決定した。また、1867年に自治領となっていたカナダ も、宗主国イギリスに従い参戦した。同様にオーストラリア ニュージーランド も参戦することとなる。

 

各国の対応:

1914年当時、日本は 日英同盟 によりイギリスと同盟関係にあった。開戦に際してイギリス政府からの要請を受け、連合国側として1914年8月23日にドイツ帝国へ宣戦を布告し連合国の一員として参戦し第一次世界大戦に参戦した。内閣総理大臣 大隈重信 は、イギリスからの派兵要請を受けると、御前会議 にもかけず、議会における承認も軍統帥部との折衝も行わないまま、緊急会議において要請から36時間後には参戦の方針を決定した。大隈の前例無視と軍部軽視は後に政府と軍部の関係悪化を招くことになる。

 

日本政府は8月15日、ドイツに対し最後通牒というべき勧告を行った。日本政府が参戦に慎重だったことから異例の一週間の期限が置かれたが、結局ドイツが無回答の意志を示したため、日本政府は23日に対ドイツ宣戦を布告した。

 

イタリア (イタリア王国)では参戦に対して、賛否が分かれた。1882年にドイツ・オーストリア・イタリアから成る三国同盟を締結していたが、「未回収のイタリア 」と呼ばれたオーストリアとの間の領土問題から亀裂が生じていたからである。同盟では、ドイツとフランスが交戦した場合、軍団をライン地域に派遣することになっていた。これに従って、参謀総長ルイージ・カドルナ が軍団派遣を準備し、国王もそれを了承した8月2日、イタリア政府は中立を表明した。 その後、イギリス・フランスと接近し、1915年に連合国側に立ち参戦した。

 

オスマン帝国 は数度にわたる露土戦争 においてロシアと対立関係にあり、中央同盟国に加わった。

 

北欧諸国は大戦中一貫して中立を貫いた。1914年12月18日スウェーデン 国王グスタフ5世 は、デンマーク ノルウェー の両国王をマルメ に招いて三国国王会議を開き北欧諸国の中立維持を発表した。これらの国はどちらの陣営に対しても強い利害関係が存在しなかった。スウェーデンにおいては親ドイツの雰囲気を持っていたが、これも伝統的政策に則って中立を宣言した。ただしロシア革命 後のフィンランド内戦 において、スウェーデン政府はフィンランドへの義勇軍派遣を黙認している 。

 

アメリカ合衆国 は当時モンロー主義 を掲げ、交戦国との同盟関係は無かった。さらに開戦時にアメリカは中米諸国においてメキシコ革命 に介入するなど軍事活動を行っていたため、当初は中立を宣言していた。政府のみならず、国民の間にも 孤立主義 を奉じる空気が大きかった。大戦中には両陣営の仲介役として大戦終結のための外交も行なっていた。しかし後に やドイツの無差別潜水艦作戦再開、ツィンメルマン電報 ツィンメルマン電報事件を受け、世論ではドイツ非難の声が高まり、1917年に連合国側に立って参戦した。

 

[経過]

 

西部戦線:

- 詳細は「 西部戦線 (第一次世界大戦) 」を参照-

1914年8月4日時点の両陣営

前進するドイツ軍 1914年8月7日

1914年の開戦時、直前に発生していた バルカン戦争 を除けば 普仏戦争 以来ヨーロッパでは約40年ぶりとなる大規模な戦争は、 騎士道 精神に彩られたロマンチックな姿が想像され、両陣営の首脳部・国民共に戦争の先行きを楽観視していた。多くの若者たちが、戦争の興奮によって想像力を掻きたてられ、「この戦争は短期決戦で終わるだろう」「クリスマスまでには家に帰れるだろう」と想定し、国家宣伝と愛国心の熱情に押されて軍隊へと志願した。

 

オーストリアの作家 シュテファン・ツヴァイク は、その当時の兵士たちの気持ちを、こう解説する。 あの頃は、人々はまだ疑うことを知らなかった。ロマンにあふれた遠足・・・。荒々しい、男らしい冒険・・・。戦争は3週間。出征すれば、息もつかぬうちにすぐ終わる。大した犠牲を出すこともない。私達は、こんな風に1914年の戦争を単純に思い描いていた。クリスマスまでには家に帰ってくる。新しい兵士たちは、笑いながら母親に叫んだ。「クリスマスに、また!」 フランスでは、予備役兵はこの戦争を神聖な祖国防衛戦争としてとらえ、『 ラ・マルセイエーズ 』を高唱し、 アルザス=ロレーヌ 奪還に燃えた。

 

ドイツでは、民衆は戦争を漠然とした不安や不満を解決する手段として歓迎した。 しかし一部の指導者たちはこの戦争に深い悲観と憂慮を抱いていた。イギリス陸軍の ホレイショ・キッチナー は、戦争は長期化して膨大な犠牲を生じさせると予測し、大規模な新兵募集による キッチナー陸軍 の構想に着手した。国際金融市場は7月下旬から8月初旬に深刻な危機に陥った。

 

オーストリア軍の緒戦での混乱:

中央同盟国では緒戦の戦略に関する齟齬が発生していた。ドイツはオーストリアのセルビア進攻を支援すると確約していたが、ロシアとフランスの参戦が明らかになると、シュリーフェン・プランに基づく対フランス戦を優先させ、オーストリア軍にはロシア軍に対する防御体勢を取ることを求めた。対セルビア戦を準備していたオーストリア軍は、既に動員が完結していた軍を北方のロシア軍と対峙させるために大規模に再移動させざるを得なくなり、各地で鉄道輸送に混乱が生じた。

 

シュリーフェン・プランの頓挫:

マルヌ戦でフランス兵を輸送したタクシー

(写真は模型)

ドイツ政府はシュリーフェン・プランに基づき、8月2日、ベルギー政府に対して無条件通過権を要求した。ベルギーはこれを拒絶、ドイツ軍は8月4日午前8時、リエージュ 東方で国境を突破しベルギーとルクセンブルク へ進攻した。ベルギー軍はリエージュの戦い (8月5日 - 8月16日)で防戦を試みたものの、質・量ともに勝るドイツ軍に圧倒された。だがベルギーは、軍民共に鉄道トンネルや橋梁を爆破するなどしてドイツ軍の進撃を遅らせ、またドイツによる中立侵犯はイギリスに連合国側に立った参戦を決断させた。

 

イギリス政府はキッチナーを陸軍大臣に任命し、ジョン・フレンチ 指揮下のイギリス海外派遣軍 (BEF)をフランスへ派遣した。フランドルにおいてドイツ軍と英仏軍との最初の戦闘が行われ、この戦いでドイツ軍は英仏軍を圧倒した。しかし英仏軍の抵抗による遅延と、予想外に迅速だったロシア軍の動員により、シュリーフェン・プランは現実との間に差を生じつつあった。ロシア軍はまず動員の完結した第1軍と第2軍をもって東プロイセン を攻撃した。ドイツ軍は一部を割いて パウル・フォン・ヒンデンブルク エーリヒ・ルーデンドルフ の指揮下に第8軍を編成し、タンネンベルクの戦い (8月17日 - 9月2日)においてロシア軍を各個撃破した。だがこの戦闘は、ドイツ軍に対しても、西部戦線における戦力不足という影響を与える。

 

9月、ドイツ軍はパリ 東方のマルヌ川 まで迫ったものの、マルヌ会戦 (9月5日 - 9月10日)において、フランス陸軍パリ防衛司令官のジョゼフ・ガリエニ ルノー のタクシーを使った史上空前のピストン輸送を実施し、防衛線を構築してドイツ軍の侵攻を阻止した。ドイツ軍は後退を余儀なくされ、シュリーフェン・プランは頓挫した。

ガスマスクを着用し塹壕に隠れるオーストラリア兵

イーペル 1917年

塹壕戦の始まり:

第一次マルヌ会戦 の後、両軍はフランス北東部に塹壕 を構築し持久戦へと移行した。両軍が築き始めた塹壕線は、やがてスイス国境からベルギーのフラマン海岸まで続く線として繋がった。各国の弾薬消費量も戦前の予想をはるかに上回る量となった。陰鬱な塹壕戦はその後4年間続くが、両軍の軍指導者はそれまでの作戦や戦術を根本的に改めようとはしなかった。司令官が交代しても、後任は同じ軍事思想を身に付けた軍人であり、ただ兵員や兵器の量を増やし、攻撃箇所を変更するぐらいしか変化はなかった。迫撃砲 火炎放射器 毒ガス 戦車 戦闘機 など新兵器が次々に登場したが、それらはいずれも戦局を変える決定的要因にはならず、西部戦線での戦闘は長期消耗戦の様相を呈した。

 

ドイツ軍が占領地を防御しようとする一方で、英仏軍は攻勢をとろうと努めた。英仏軍の塹壕は、ドイツ軍の防御線を突破するまでの一時的なものとしか考えられておらず、ドイツ軍の塹壕は英仏軍の塹壕よりも堅固に構築されていた。

 

1915年から1917年を通じて、両軍は何百万という死傷者を出したが、英仏軍の損害はドイツ軍の損害を上回った。1916年のヴェルダンの戦い 、そして1916年夏のソンムの戦い における英仏軍の失敗により、フランス陸軍は一時は崩壊の瀬戸際まで追い詰められた。1917年春のニヴェル攻勢 では、無益な正面攻撃でフランス歩兵部隊が大損害を受けたために、戦闘後に抗命事件 が発生した。

 

アメリカ参戦:

1918年5月時点の両陣営

ウィルソン大統領の演説

ドイツとの外交関係断絶を発表している

アメリカ合衆国 は長い間モンロー主義 に基づき、ヨーロッパでの国際紛争には関与しない孤立主義を取っていた。しかし1917年の初めにドイツが無制限潜水艦作戦 を再開したこと、さらにツィンメルマン電報 事件が発覚したことで国交断絶に至った。

 

国内では国民治安連盟が参戦を働きかけていた。この非営利団体にはグッゲンハイム が所属し、 ジョン・モルガン が音頭をとっていた。モルガンと連邦準備制度 を設立した仲の大統領ウッドロウ・ウィルソン は、連邦議会へ対ドイツ宣戦を要請した。上院は82対6、下院は373対50をもってこれを決議、1917年4月6日にアメリカはドイツへ宣戦布告した。

 

ウィルソンは、オーストリアとは別途平和を保ちたいと考えたが、オーストリアはドイツとの関係を捨てなかったため、アメリカは1917年12月にオーストリアに対しても宣戦布告した。 アメリカ陸軍 と州兵はメキシコの「山賊」パンチョ・ビリャ を追いかけるために、既に1916年に戦時体制を取っており、それが動員を速めるのに役立った。連合国艦隊に参加するため大西洋各地に艦隊を送った。しかしアメリカが西部戦線へ陸軍兵力を送り込むことが可能になるまでには時間が必要だった。英仏はアメリカ軍の歩兵を英仏軍部隊へ分散させて配属させることを主張したが、アメリカ遠征軍 (AEF)の指揮官ジョン・パーシング 将軍はこれを承諾しなかった。だが、パーシングは英仏軍ではとうに使われなくなっていた正面攻撃戦術に固執し、結果としてアメリカ遠征軍は1918年夏と秋の作戦で非常に高い死傷率を経験した。

 

ドイツ軍の春季攻勢:

ドイツ軍は、ボリシェヴィキ政府と講和したことで、東部戦線から西部戦線へ部隊を転進させることができるようになった。西部戦線へ送り込まれるドイツ軍の増援と、新しく連合軍に加わるアメリカ軍とによって、戦争の最終結果は西部戦線で決定されることになった。

 

ブレスト=リトフスク条約 で中央同盟国が占領した領土が小さかったなら、ドイツ軍はより多くの兵力を西部戦線へ投入でき、戦争の結末も違っていたかもしれない。 ドイツ参謀次長エーリヒ・ルーデンドルフ は、アメリカ軍の到着により、これ以上長引く戦争に勝利することはできないことを悟っていた。更に、戦争の長期化によりヨーロッパ全土で社会崩壊と革命の可能性が高まることを恐れるようになった。しかし、東部戦線からの増援と新しい歩兵戦術の使用により、西部戦線での迅速な攻勢によって決定的な勝利を得ることに大きな望みを賭けていた。作戦は英仏両軍の中間に攻勢をかけて分断し、イギリス軍を北に圧迫してドーバー海峡 へと追いやることを目標としていた。決定的な勝利を得るために、浸透戦術 の徹底、飛行機の活用、詳細な砲撃計画、 毒ガスの大規模な使用が図られた。

 

1918年3月21日、1918年春季攻勢 の緒戦であるミヒャエル作戦が発動された。ドイツ軍は英仏両軍の間隙を突くことに成功し、8日間の戦闘により65キロもの前進に成功した。パリ東方100キロに到達したドイツ軍は、1914年以来初めてパリを砲撃の射程圏内に収めた。3門の クルップ 製超大型列車砲『パリ砲』 がパリに183発の砲弾を撃ち込み、多くの市民がパリから脱出した。ヴィルヘルム2世は3月24日を国民の祝日であると宣言した。ドイツ人の多くが勝利を確信した。

 

連合軍の最終攻勢:

ドイツ軍の攻勢を受けて、英仏両軍は指揮系統の統一に同意し、総司令官としてフェルディナン・フォッシュ が任命された。フォッシュは巧みに戦線を再構築してルーデンドルフが意図していた突破の可能性を挫き、戦闘は従来と同様の消耗戦の様相を呈していった。

 

5月にはアメリカ遠征軍 (AEF)師団が初めて前線に投入され、夏までに毎月30万人の兵士がアメリカから輸送された。総兵力210万人のアメリカ軍の登場によって、それまで均衡を保っていた西部戦線 に変化が生じた。 フォシュはドイツ軍の攻勢によってマルヌ付近に形成された突起部に対する反転攻勢を企図し、7月に第二次マルヌ会戦 が発生した。連合軍による攻撃はこれまでに見ない成功を収め、翌8月には突起部が解消された。この戦闘が終了した2日後にはアミアンの戦い が開始され、600輌以上の戦車と800機の飛行機を使用したこの戦闘で連合軍は全前線において前線突破に成功し、ヒンデンブルクはこの8月8日をドイツ軍にとり最悪の一日と称することになった。 9月になるとジョン・パーシング に率いられたアメリカ遠征軍 (AEF)が50万以上の兵力を投入した サン・ミッシェルの戦い が開始された。これに続いてアメリカ遠征軍は10個師団を投入して ムーズ・アルゴンヌ攻勢 を実施した。

 

[海の戦い]

 

連合国海軍はドイツ本国を海上封鎖した。貿易の途絶はドイツの士気と生産力に重大な影響を及ぼした。戦前ドイツはイギリスとの建艦競争の中で 大洋艦隊 を築き上げていたが、イギリス本国艦隊 に勝利できる見込みは薄く出撃を避け続けたため、制海権は常に連合国が保持した。1916年5月、ドイツ艦隊は一度だけ北海 への出撃を試み、5月31日から6月1日にかけてユトランド沖海戦 が発生した。ドイツ艦隊はイギリス艦隊に損害を負わせたが、制海権が覆ることはなかった。1917年に入ると遠く日本からも艦隊が投入され、佐藤皐蔵 率いる第二特務艦隊が地中海 方面において、Uボート による被害を出しながらも連合国側輸送船団の護衛に活躍した。

 

Uボート作戦:

1917年2月、ドイツ参謀本部は、イギリスへの海上補給を絶つことを目標に、ホルヴェーク 首相を説き伏せて、Uボートによる無制限潜水艦作戦 を宣言させた。この攻撃で沈めた船舶・物資の量は、2月から7月まで1か月当たり50万トンまで達し、4月に86万トンでピークを迎えた。イギリスは多大な被害を受けたが、1917年7月以降に導入した護送船団 方式が効果を発揮し、補給途絶の危機を脱した。

 

[植民地での戦闘]

 

アフリカ戦線:

- 詳細は「アフリカ戦線 (第一次世界大戦)」を参照-

 

アジア太平洋戦線:

- 詳細は「アジア太平洋戦線 」を参照-

太平洋では、1914年8月30日にニュージーランド軍が太平洋のドイツ領サモア(現在のサモア )を占領した。また9月11日にオーストラリア軍がノイポンメルン島(ドイツ領ニューギニア の一部、現在のニューブリテン島 )に上陸。9月22日に、ドイツ東洋艦隊 によるパペーテ砲撃 が行なわれた。数か月の内に連合国側が太平洋のドイツ軍部隊を降伏させた。11月1日に、チリ コロネル 沖でイギリスとドイツの コロネル沖海戦 が行なわれた。11月7日には、ドイツの中国での拠点青島 を日本・イギリス連合軍が攻略した( 青島の戦い )。

 

インド洋戦線:

- 詳細は「インド洋戦線」を参照-

 

[中東戦域]

- 詳細は「中東戦域 (第一次世界大戦) 」を参照-

 

オスマン帝国 は戦争が始まるとドイツに対して対ロシアの攻守同盟を申し入れたが、参戦するか否かは決めかねていた。オスマン帝国の背中を押したのはドイツの巡洋戦艦ゲーベン 軽巡洋艦ブレスラウ だった。2隻は開戦時に地中海にあったが、イギリス地中海艦隊の追跡を逃れてイスタンブール に逃げ込むことに成功した(ゲーベン追跡戦 )。2隻の譲渡を受けたオスマン帝国はこれで黒海の制海権を確保できると考えた。

 

ロシアが10月31日にオスマン帝国へ宣戦したことを契機に、オスマン帝国は中央同盟国側に立って参戦した。 オスマン軍はロシアのカフカース 地方(カフカース戦線)、およびスエズ運河 を経由するイギリスとインド ・東洋間の連絡線(南アラビア戦線)、シナイ半島・パレスチナ戦線を脅やかした。これに対してイギリスは、西部戦線での膠着状態の打開とロシア支援を目的として、ガリポリ上陸作戦とメソポタミア作戦を立案した。

 

カフカース戦線:

オスマン軍参謀総長エンヴェル・パシャ は野心的な男で、中央アジアを征服する夢を持っていたが、実務的な軍人ではなかった。エンヴェル・パシャは1914年12月に山岳地帯のロシア陣地に対する片翼包囲 作戦を強行し、大損害をこうむって失敗した。

 

1915年、新しい露カフカース軍総司令官としてニコライ・ニコラエヴィチ大公 が就任するが、実際の指揮は引き続きニコライ・ユデーニチ が執り行った。ロシア軍は1916年にオスマン軍を現在のアルメニア の大部分から駆逐した。オスマン帝国政府はアナトリア 東部のアルメニア人住民の蜂起を恐れ、アルメニア人虐殺 を引き起こした。 ニコライは1917年春の攻勢の準備を進めていた。しかし、ロシア革命のためにニコライは解任され、ロシア軍はそれからまもなく崩壊した。

  

南アラビア・シナイ半島・パレスチナ戦線:

- 詳細は 「 三枚舌外交 」、「フサイン=マクマホン協定 」、「 サイクス・ピコ協定 」、および「バルフォア宣言 」を参照-

イギリスはトルコの支配下にあったアラブ人を支援してアラブ反乱 を起こさせ、トルコを南方から圧迫した。アラブ人支援の任務にあたったのが「アラビアのロレンス」の名で知られるトーマス・エドワード・ロレンス だった。

 

メソポタミアでは1917年3月イギリス軍が バグダード を攻略、パレスチナではエドムンド・アレンビー率いるエジプト遠征軍が1917年12月にエルサレム を占領した。1918年10月、イギリス軍とアラブ軍はダマスカス に入城、アラブからオスマン軍勢力を駆逐し反乱は目的を達成した。

 

ガリポリ戦線:

- 詳細は「 ガリポリ戦線 」を参照-

ダーダネルス海峡を潜航して突破した英潜水艦HMS E14とE.ボイル艦長

U21の魚雷を受け沈みつつある英戦艦マジェスティック

ガリポリの戦い 1915年

特にガリポリ上陸作戦は、海軍大臣ウィンストン・チャーチル が熱心に推進した。

 

1915年2月、ダーダネルス海峡 の制圧を目的として、英仏の艦隊は海峡両側のオスマン軍陣地へ艦砲射撃を加えたが、オスマン軍は粘り強く抵抗し、しかもイギリス陸軍は海軍の応援をせず傍観し、3月18日にはオスマン軍が敷設した機雷に接触してイギリス戦艦3隻が沈没、3隻が大破した。

 

4月25日、連合軍はガリポリ半島 へ上陸したが、オットー・リーマン・フォン・ザンデルス の率いるオスマン軍に前進を阻まれ大きな犠牲を出した。上陸作戦は失敗に終わり、1916年1月に最後のイギリス軍部隊が撤退した。 この戦いの敗戦の原因は後に陸相ホレイショー・キッチナーと海相チャーチルとの意見の齟齬が原因で、陸軍がガリポリ上陸に当たり海軍の支援、応援をしなかったことにあると解明されたが、しばらくはチャーチルについて回った失敗となって残り、意見を議会で提案しても「またガリポリか」と皮肉られることになった。

 

メソポタミア戦線:

- 詳細は「 中東戦域 (第一次世界大戦)」を参照-

 

[バルカン戦線]

 

セルビア戦線:

オーストリア軍とセルビア軍との本格的な戦闘は、8月12日にセルビア西部ドリナ川 沿いで始まった。オーストリア軍は強行渡河に出たが、セルビア軍は防御陣地を構築して激しい戦闘となり、8月19日、オーストリア軍はドリナ川を渡って退却した。これは戦争における連合軍の初めての勝利だった。オーストリア軍はセルビアを攻略するという主目標を達成できず、以後東部戦線 (第一次世界大戦)やイタリア戦線 (第一次世界大戦)などの多正面作戦を強いられることになる。

 

セルビアは1914年8月から12月における3回のオーストリア軍の侵攻を防いでいた。1915年9月、ブルガリア が中央同盟国側に立った参戦を確約したことで、中央同盟国はセルビアへの攻勢を計画した。10月、ドイツ軍がドナウ川 を渡河しベオグラード に突入、ブルガリア軍が南部国境を突破した。セルビア軍と国王はアルバニア ギリシア への逃亡を余儀なくされた。

 

マケドニア戦線の形成:

セルビア軍の敗北の末、英仏軍はテッサロニキ (サロニカ)へ上陸してセルビア軍を支援するとともに、ギリシア政府に対して連合国側に立って参戦するよう圧力を掛けた。特にフランス軍はギリシャの中立を無視し、ギリシャのコルフ島 を占拠して、新たに戦線を広げた。これはマケドニア戦線(テッサロニキ戦線)と呼ばれていた。

 

1915年から1918年にかけて、イギリス、フランスおよびロシアとセルビアの残軍はこのところでブルガリアと対峙していた。1917年4月~6月、イギリス軍はブルガリアに対する攻撃に失敗したものの、ギリシャが連合国側に立って参戦し、連合国側が有利となった。 1918年、連合軍の総攻撃に伴い、兵力が足りないドイツ軍は連合軍に降伏した。既に戦争遂行能力に問題のあったブルガリアでは国内で反乱が起き、民衆の間で戦争をやめる掛け声が高まりつつあった。停戦が宣言されるまで反乱は止まらなかった。敗戦後の混乱で、当時ブルガリア王であったフェルディナンド1世 は英仏の圧力を受け、退位しなければならなかった。

 

[イタリア戦線]

- 詳細は「イタリア戦線 (第一次世界大戦)」を参照-

 

イタリア は名目上は1882年からドイツおよびオーストリアと三国同盟 を締結していたが、いわゆる「未回収のイタリア 」と呼ばれた南チロル イストリア ダルマチア といったオーストリアとの領土問題を抱えており、仏伊通商条約を理由に局外中立を宣言していた。しかし1915年4月にイギリス・フランスの働きかけによりロンドン協定に調印し三国同盟を離脱、オーストリアへ宣戦布告した。

 

伊墺国境の山岳地帯という地形的有利を得たオーストリア軍に対し、貧弱な装備しか持たないイタリア軍は苦戦を強いられた。単調な作戦ばかりの ルイージ・カドルナ の指揮の拙さも手伝い、戦術的勝利を重ねながら決定的な勝利を得る事ができないでいた イタリア陸軍 だったが、第四次イゾンツォの戦い でオーストリア軍に打撃を与えた(この時、オーストリア軍はドイツ軍に救援を要請している)のに続き、アジアーゴ攻勢 の頓挫やブルシーロフ の大敗によって弱体化していたオーストリア軍を破って ゴリツィア を占領した。イタリア軍の攻勢は既に崩壊しつつあったオーストリア軍を確実に追い詰めていき、第十一次イゾンツォの戦い でバインジッツァ高地 (Bainsizza Plateau) を占領した。

 

しかし1917年秋、友軍の危機を救う必要があったドイツ軍は東部戦線 の状態が一段落ついたこともあり、オーストリア軍に山岳部隊を含む6個師団を援軍として派遣した。指揮権もオーストリア軍からドイツ軍へと移され、10月26日に独墺軍はトルミーノ(現スロベニア北部の町)付近において突破作戦を敢行、イタリア陸軍に大打撃を与えた(カポレットの戦い )。

 

カポレットの戦いの後、11月6日から11月7日に連合国側はイタリアのラパッロ で会談し、ルイージ・カドルナ の解任を要求した。この敗北を真摯に受け止めたイタリア軍は、新たな司令官アルマンド・ディアズ と英仏の支援の元に戦線を建て直し、其処でそれまでの個別の戦争指導を改め、ヴェルサイユに連合国最高会議を設立して各国の状況を考慮しながら統一された戦争計画を推進する事を決めた。

 

1918年夏のピアーヴェ川の戦い ではオーストリア軍の進撃を押しとどめた。ディアズはヴィットリオ・ヴェネトの戦い でオーストリア軍との戦いに決着を付ける。

 

[東部戦線]

- 詳細は「 東部戦線 (第一次世界大戦) 」を参照-

 

ロシアの大撤退:

東部戦線における攻勢について作戦を練る

ヒンデンブルク参謀総長、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、ルーデンドルフ参謀次長

西部戦線が塹壕線で膠着した頃、東部戦線では流動的な状況が続いていた。緒戦でロシア軍はオーストリア領ガリツィア・ロドメリア王国 (東ガリツィア )およびドイツ領東プロイセン へ進攻したが、東ガリツィアでは勝利を得たものの、東プロイセンではタンネンベルクの戦い でドイツ軍に大敗した。開戦前の予測は外れ、ロシアの軍事力はドイツとオーストリアとを足し合わせた国力に対抗できないことが露呈した。1915年春、ロシア軍はガリツィアから撤退した。独墺軍は5月にポーランドの南国境で ゴルリッツ突破作戦 を実施し、著しい前進を達成した。独墺軍は8月5日にワルシャワ を占領、ロシア軍はポーランド 全土を放棄した。これは「大撤退」とも呼ばれる。

 

ルーマニア軍の大敗:

ルーマニアの参戦を伝えるイギリスのプロパガンダポスター

1916年6月、ロシア軍は東ガリツィアにおいてブルシーロフ攻勢 を実施し、オーストリア軍に大損害を負わせた。しかし勝利した戦区の指揮官を支援することに他の将軍が躊躇したために戦果を拡大させることはできなかった。ブルシーロフ攻勢の成功を見て、8月にルーマニアが連合国側に立って参戦した。しかし弱体なルーマニア軍の攻勢は独墺軍によって短期間のうちに撃破され、中央同盟国の多国籍軍による反攻で主要拠点を喪失する大敗を喫した。初めはルーマニア軍を懸命に支援していたロシア軍も最終的にはモルダビアの防衛に徹し、12月6日にブカレスト が中央同盟軍によって攻め落とされた。

 

ロシア革命:

- 詳細は「ロシア革命 」を参照-

10月革命におけるウラジーミル・レーニン

ペトログラード 1917年

戦争が長期化するにつれて、ロシア政府や王政の戦争指導に対し、兵士と民衆の不満が増大した。皇帝ニコライ2世は積極的に前線を視察したが内政不安についての現状認識が欠けたままであり、皇后アレクサンドラ は政治を怪僧グリゴリー・ラスプーチン に一任したため、更に無能だった。こうして各方面から抗議が巻き起こり、1916年末に保守的な貴族によりラスプーチンが暗殺される事態に至る。

 

1917年3月、首都ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク )で起こったデモが拡大し、ニコライ2世は遂に退位を宣言、中道派臨時政府 が成立した(2月革命 )。だが戦線と国内の両方で手の付けられない大混乱が続いた。ウラジーミル・レーニン が指導する急進的な左翼党派ボリシェヴィキ は、こうした混乱を権力を獲得するために戦略的に使用した。11月、ボリシェヴィキは武装蜂起しペトログラードの要所を制圧し、臨時政府を打倒した(十月革命 )。

 

12月、ボリシェヴィキ政府は中央同盟国との休戦交渉を開始した。 初めボリシェヴィキ政府はヨーロッパの労働者の蜂起を当てにして中央同盟国が出した条件を拒絶した。そうしている間に、1918年2月にボリシェヴィキと対立していたウクライナ人民共和国 が中央同盟国と結び、中央同盟軍が戦争を再開、瞬く間に全ウクライナ を奪回した。窮地に立たされたボリシェヴィキ政府は3月3日に ブレスト=リトフスク条約 に同意した。それは戦争を終結させる代わりに、中央同盟国へフィンランド、バルト地方 、ポーランドおよびウクライナを含む広大な領土を割譲するという厳しい内容だった。

 

ロシア出兵:

ロシアが戦争から離脱したことで、日本、イギリス、アメリカをはじめとする連合軍は、革命政府に対抗する皇帝派を支援するため、革命軍によって囚われたチェコ軍団 を救出することを口実にロシアへ出兵した。ウィンストン・チャーチル の立案した連合軍のロシア出兵は、『北ロシア出兵』『南ロシア出兵』『シベリア出兵』の三正面作戦をボリシェヴィキ政府に強いるものであった。

 

北ロシア出兵』とは、ドイツ 軍が介入していたフィンランド内戦 北イングリア共和国 独立を避け、アメリカの北極熊遠征隊とオーストラリア軍 を主力とする部隊のバレンツ海 白海 )に面したアルハンゲリスク 上陸してニコライ・ユデーニチ の北西軍を支援し、北西からモスクワへ圧力をかける作戦である。ただし、もう一つの目的は、マンスフィールド・スミスカミング指揮下のイギリス情報局秘密情報部 による1918年8月30日のウラジーミル・レーニン 暗殺を狙った「ロックハートの陰謀」と呼ばれる計画である。この計画に関してブルース・ロックハート大使に随行してシドニー・ライリー ムルマンスク アルハンゲリスク に送り込まれた。暗殺が失敗した結果、赤色テロ による弾圧が激化した。このときの傷が原因でレーニンは1924年に死亡した。ボルシェビキに駐露大使ジョージ・ブキャナンとロックハートが逮捕されると、イギリス当局も報復措置として英国内で活動していたゲオルギー・チチェーリン と駐英代表マクシム・リトヴィノフ を拘束した。外務人民委員(外相)に就任したトロツキーが交換を申し出た為、双方とも釈放され、帰国した。このチチェーリンが『シベリア出兵』を大きく左右することになった。

 

南ロシア出兵』とは、イギリス空軍 (221, 266, 47 飛行隊)の支援を加えたドン・コサック軍 デニーキン 軍、によって南からモスクワへ圧力をかける作戦である。白軍側には、 クバーニ人民共和国 ドン全大軍 ウクライナ国 など。赤軍側には、緑軍 黒軍 など。

 

1917年12月、アントーン・デニーキン がドン地方で義勇軍を組織、連合軍の援助を受け赤軍に対する強力な戦線を張った。1918年 白軍 が支配したトランス・アラル鉄道 沿線の旧トルキスタン総督府 領内のボルシェビキ政権では交通途絶による深刻な飢饉に陥った。1918年11月、ドイツ革命 が起こると、連合軍は出兵の意味を失った。1919年、南ロシア軍 を結成し反撃を試みた。1920年、連合軍は撤退した。1920年5月11日、南ロシア軍はピョートル・ヴラーンゲリ 将軍の下、白軍として再起を図る事になった。後の1924年、ロシア全軍連合 として三たび再起を図った。

 

シベリア出兵 』とは、日本の浦塩派遣軍 アメリカ遠征軍 の支援を受けた アレクサンドル・コルチャーク 率いるロシア臨時政府 軍が太平洋側のウラジオストク から上陸し、ピエール・ジャネン将軍指揮下のチェコ軍団 フランス陸軍 が確保しているシベリア鉄道沿いに東からモスクワへ圧力をかける作戦である。チェコ軍団は当時の陸戦では最先端兵器であった装甲列車 を効果的に運用し、重火器と機動性を兼ね備えていたため、電撃的な武装蜂起が可能であった。

 

1917年3月、2月革命 の直後にペトログラード(現在サンクトペテルブル )でロシア臨時政府が結成され、ロシアは二重権力状態に陥った。1917年10月、十月革命 でロシア臨時政府も崩壊。1917年11月、イギリスのサポートを得たアレクサンドル・コルチャークがウラジオストックへ到着。1917年12月、グリゴリー・セミョーノフ が白軍(ザバイカル・コサック軍 )を結成。

 

1917年、フランス政府から『シベリア出兵』について日本政府に打診があったが断った。

 

1918年3月3日、ボリシェヴィキ政権が ゲオルギー・チチェーリン を派遣して電撃的にブレスト=リトフスク条約 でドイツと単独講和。チェコ軍団 は、シベリアを横断し、ウラジオストクから海路、アメリカ経由で西部戦線 (第一次世界大戦)に向かうことが決められた。チェコ軍団と呼ばれるが、実際にはフランス外人部隊 、第5ポーランド狙撃兵師団、ルーマニア義勇軍などを含む多国籍混成軍である。

 

1918年5月14日、チェリャビンスク でチェコ軍団が蜂起。この時点でチェコ軍団は、ウラジオストクには1万4千人が既に到着し、ノヴォ・ニコラエフスク(現ノヴォシビルスク )には4千人、チェリャビンスク には8千人、ペンザ には8千人のチェコ軍団将兵がいた。チェコ軍団は、チェリャビンスク(5月26日)、 マリインスク(27日)、ニジネウジンスク(28日)、カンスク(29日)、ペンザ(29日)、 シズラニ(29日)、 ペトロパヴロフスク(31日)、 トムスク(31日)、 クルガン(6月2日)、 オムスク(6月7日)を次々と占領した。1918年6月13日から15日、ノヴォシビルスクの南220kmでバルナウルの戦い。コルチャークらの白軍が、トルキスタン・シベリア鉄道 を破壊した。1918年夏、日本陸軍参謀本部第二部と「ムスリム同盟」が連携が確立され、中央アジアのバスマチ蜂起 を支援した。

 

1918年6月、アメリカ政府は『シベリア出兵』を決定し、ウィルソン大統領 が日本へ派兵を要請、日本では国論が二分される騒ぎとなったが最終的に派兵が決定した。1918年7月17日、オムスクにシベリア共和国 が成立し、南に隣接するアラシュ自治国 (現カザフスタン )もこれを支持した。1918年7月17日、シベリア共和国の独立宣言と同日、エカテリンブルク ニコライ二世 を含むロマノフ一家殺害事件 が起きた。1918年8月5日から7日にかけて、チェコ軍団によるカザンの占領で、 ロマノフ金塊 が鹵獲され、後に全ロシア暫定政府に譲渡された。

 

1918年8月、由比光衛 率いる28,000人の浦塩派遣軍 、ウィリアム・S・グレイブス(セオドア・ルーズベルト の近親者)が率いる7950人のアメリカ遠征軍、イギリスが1500人、カナダが4192人、イタリアが1400人が派兵され、第一次世界大戦の終結後のロシア内戦 中に『シベリア出兵』は開始された。1918年9月5日から10日、カザン作戦で市内の赤軍を掃討した。

 

1918年9月9日から28日、シンビルスク作戦で赤軍が前線を押し戻し、カザンとシンビルスクを赤軍が占領。

 

1918年9月、コルチャークを含む日本軍・イギリス軍・フランス軍・アメリカ軍を主力とする連合軍はチタ を占領。イギリスに擁立されたコルチャークにより、オムスク にシベリア共和国を吸収した全ロシア臨時政府 が成立し、日本が後援したグリゴリー・セミョーノフ 白軍 はチタを中心とするザバイカル州 の統治を分担することになった。コルチャークとフランス軍・チェコ軍団はさらにバイカル湖西岸のイルクーツク まで占領した。

 

1918年11月17日、コルチャークらがクーデターを起こし、全ロシア臨時政府の全権を掌握。コルチャークはペルミを占領しさらにその領土を西に拡大しモスクワに圧力をかけ始めた。12月にジャネンが到着すると、グレイブスは日本・アメリカ・イギリス・フランスの思惑が全く異なっている事に疑念を抱いた。しかし、ロシア語版ではグレイブスについて全く異なった評価が与えられている。グレイブスの考えるアメリカ軍の役割はチェコ軍団の救出に限定されており、白軍にも赤軍にも協力しないというもので、コルチャークの武器をウラジオストックから前線のイルクーツクへ輸送することを拒否し、ミハイル・ディテリフス 第12師団 とセミョーノフの守るウスリースク の近辺の沿海部にイワン・パプロビッチ・カルミコフ率いる赤軍が数千人規模でポグラニーチヌイから侵入しても黙認した。その結果、日本の由比光衛とアメリカのグレイブス、ザバイカルのセミョーノフ、フランスのピエール・ジャネン、コルチャークの白軍とイギリス軍はそれぞれの安全を確保し、バラバラに行動するようになっていった。

 

1918年、英国諜報部員フレデリック・ベイリーがボルシェビキとドイツによる中央アジアでのカルムイク・プロジェクトが極秘裏に進められていることを突き止めた。1919年の2月から9月、セミョーノフ配下のロマン・ウンゲルン・シュテルンベルク 中華民国 満州 を訪れ、張作霖 とセミョーノフとのボグド・ハーン政権 を樹立に関する会合の準備を行った。満蒙問題 は、キャフタ条約における守護者としてのロシア帝国 が消滅した結果、議論の余地が出たため、1916年10月8日に巴布扎布 (パプチャップ)が内外モンゴル統一のために蜂起したことに端を発しており、これ以後、宗社党 の満蒙独立運動に奉天派・白軍・安徽派・赤軍・アメリカが介入して複雑さを増していった。その一方で、この期間中には極東で共産主義運動が高まり、日本が統治していた朝鮮半島 では三・一運動 が起こり、その直後の1919年4月13日、上海 李承晩 らが大韓民国臨時政府 を樹立、1919年5月、中国では五四運動 が発生した。1919年には25,000人の第5師団 もシベリア出兵に参加し、日本軍は合わせて72,000人となった。この時期から財閥 がウラジオストック、ハバロフスク、尼港 、チタに事務所を開設し、日本の民間人も5万人が居住していた。北樺太オハ地区の日露合同での石油の試掘を開始(オハ油田 )。

 

1919年4月13日、アムリットサル事件 。1919年5月6日、第三次アフガニスタン戦争が勃発。英国は植民地として支配、もしくは属領としているチベットとの国境に位置するブータン シッキム ネパール タイ ビルマ の防衛に目を向ける事になり、元々消極的なアメリカと共にシベリア早期撤退を検討することになっていった。

 

1919年、アルタイ地方 及びエニセイスク でのパルチザンが強大化し、夏には2万5千人の "the Western Siberian Peasants' Red Army" が誕生した。秋にはコルチャークの後方は10万人の共産軍に撹乱され、前方には赤軍が迫って来た。1919年10月2日、ウィルソン大統領が脳梗塞で倒れ、以後の執務の多くはイーディス・ウィルソンが代行した。 1919年12月、チェコ軍団の帰国がようやく開始された。

 

1920年1月、安徽派 徐樹錚 ウルガ で外蒙古の活仏を冊封する典礼を執行。1920年1月、白軍の主力だったコルチャーク軍がトムスク オムスク で瓦解、コルチャークは赤軍に捉えられ、後に処刑された。シベリア大雪中行軍で多くの犠牲者を出しながら極寒のバイカル湖 を横断し、3月にかけて連合軍はシベリア鉄道 沿いにチタへ敗走した。オムスク政府が崩壊する際、帝政ロシア中央銀行の金塊がセミョーノフらによって朝鮮銀行に輸送された事件があったと主張されている。

 

1920年から1921年にかけて戦時共産主義 でボルシェビキが実施した食料没収(穀物割当徴発制度)、および1921年から1922年の飢饉により800万人から1000万人が餓死し、1920年2月から3月中旬にかけて、ムスリム系の餓えた農民による黒鷲の蜂起が起こった。後に、数百万人が日本経由でロシアを脱出した。1920年2月、アムール州 も2万人のパルチザンに占領された。敗色濃厚となりアメリカのグレイブスも日本へ撤退の圧力をかける中、1920年の2月から3月にかけて尼港事件 が起った。オハ油田の石油試掘も中断された。

 

1920年4月6日、赤軍がチチェーリンの構想した緩衝国・極東共和国 建国を宣言すると、白軍も 緑ウクライナ 建国を再び宣言したがすぐに崩壊。1920年6月、グレイブスとアメリカがウラジオストック を撤退。1920年7月、ゴンゴタ停戦協定によってチタの西に停戦ラインを設定し、日本軍・民間人及び白軍の安全を確保し、ザバイカル州からの撤兵を開始した。また、尼港事件のあった地域へは安全確保の目的でサガレン州派遣軍 が送られ、1925年まで駐屯した。

 

1920年7月14日、中華民国で安直戦争 が勃発。大蔵大臣の勝田主計が西原亀三 と計り興業銀行 朝鮮銀行 台湾銀行 から資金を調達した総額1億4500万円という莫大な西原借款を与えていた安徽派 の国務総理段祺瑞 が失脚。借款が回収不能となり、尼港事件の対応も含めて原敬内閣が轟々たる非難を浴びた。1920年10月、ウンゲルンが北京政府 の支配下にあった 蒙古 のウルガに侵攻を開始した。1921年2月、ウンゲルンは外モンゴル ボグド・ハーン政権 を樹立した。

 

1921年3月4日、 ウォレン・ハーディング 米大統領が就任。1921年5月、アムール地方の白軍を代表する政府組織が三たび成立。1921年6月9日、田中義一陸軍大臣 が狭心症で倒れ、辞任。後任は山梨半造 山梨軍縮 )。 1921年7月14日、コミンテルン 極東支局のグリゴリー・ヴォイチンスキー の主導により、上海の中国共産党第一次全国代表大会 にて陳独秀 李大釗 毛沢東 らが中国共産党 を結党。1921年8月14日、赤軍が外モンゴル北西部に介入しトゥバ人民共和国 (Tannu Tuva)が独立した。

 

1922年4月16日、ヴェルサイユ体制 から除外されていたソ連の ゲオルギー・チチェーリン は、ドイツ(ヴァイマル共和政 )と極秘裏に ラパッロ条約 を締結。7月29日、ソ連領内におけるドイツの軍事訓練を認める秘密の付属条項が調印。

 

11月5日、ソ連とドイツが、極東共和国に対するドイツの関係を認める補足条約に調印。 1922年6月、高橋内閣 が閣内不一致で瓦解。後任の首相は加藤友三郎 。1922年6月23日、10月末日までにシベリアより撤兵する方針を閣議決定した。 1922年7月、白軍がゼムスキー・ソボル を開催。1922年10月、ウラジオストック陥落。1922年11月、日本軍のウラジオストックからの撤収が完了し、ソ連 を併合。 1922年、アドリフ・ヨッフェ が中華民国大使に任命され、孫文 とソ連の支援に関する交渉を開始。

 

1923年、 北樺太 の試掘が再開されオハ油田で油田が出た為、同年中に最初の油井で生産開始。 1923年、 コミンテルン からミハイル・ボロディン 中国国民党 の孫文の政治顧問に派遣された。 1923年8月2日、ハーディング米大統領が死去。翌日、カルビン・クーリッジ 米大統領が就任。1923年9月1日、 関東大震災。1923年9月2日、山梨半造陸軍大臣 が辞任。後任は田中義一 。 1924年1月7日、田中義一陸軍大臣が辞任。後任は宇垣一成 。1924年7月1日、アメリカが排日移民法 を施行。各国への移民割当が制限され、事実上白軍のアメリカ亡命が出来なくなった為、数十万人に及ぶ白軍と白系ロシア亡命者が赤軍から逃れる唯一の道は満州が残されるのみとなった。

 

1925年1月20日、日ソ基本条約締結。これによって、日本が北樺太のオハ油田 での石油採掘権と試掘権を得た。 1925年、日本軍の北樺太 撤収をもって『シベリア出兵』は終了した。しかし、この後もソ連の極東政策は中国で増強され、ラパッロ条約を結ぶドイツも中国国民党に接近することになる。一方のロシア白軍 は中露国境を越えて関外(東北三省)へ逃れ、なおも抵抗を続けた。その後、白系ロシアの一部は日本や上海へも逃れることが出来た。

 

1926年、北樺太石油会社を設立。初代社長は中里重次海 軍中将。

 

1926年、ナウム・エイチンゴン が在上海ソ連副領事職と北京支局に赴任、朱家驊 マックス・バウアー を中国に招いて中独の関係も推進した。

 

1927年3月21日-3月27日、南京事件 が勃発。1927年4月6日、張作霖の奉天軍が北京のソ連大使館官舎を家宅捜索。1927年4月10日、ソ連大使が本国に召還されソ連と中国の国交が断絶。1927年4月12日、蒋介石が上海クーデター を起こし、共産主義者を弾圧した。 1927年4月20日、田中義一首相が誕生。宇垣一成陸軍大臣が辞任。後任は白川義則 。1927年5月31日、山東出兵 。北軍の張宗昌 ロシア白軍 が南軍の蒋介石 を破り、蒋介石が下野した。

 

1928年4月8日、形勢を立て直した蒋介石が北伐を再開(第2次北伐)。1928年6月4日、張作霖爆殺事件 が起こり、張学良 が奉天軍閥を掌握。9月、張宗昌が下野すると、ロシア白軍は張学良の旗下に入った。1928年秋、マックス・バウアーを団長とする軍事顧問団が、黄埔軍官学校 の軍事教練に着手し、1930年代のハンス・フォン・ゼークト らによる中独合作b の基礎を築いた。1928年12月29日、張学良が蒋介石に降伏(易幟 )し北伐は完了した。しかし蒋介石と国民党は張学良の持つ軍事力、とりわけ白軍の弱体化を狙いソ連にぶつけることになった。1929年7月22日、国民党がソ連の中東鉄路 を接収したことをきっかけに、張学良が中ソ紛争 に参戦させられた。張学良が敗北しハバロフスク議定書が調印された。その中には「中国官憲の手による白系ロシア人の武装解除と責任者の東三省からの追放。」という項があった。中ソ間の中東路交渉は、満州事変 の勃発により中止となり、白軍の武装解除は実施されなかった。

 

1932年5月6日、フランス大統領の ポール・ドゥメール (急進党)が白系ロシア 移民パヴェル・ゴルギュロフに銃撃され、翌日死亡した。裁判で暗殺の動機は、露仏同盟 があるにもかかわらず、 フランス ロシア白軍 を支援しなかったからである、とゴルギュロフは証言した。9月14日にゴルギュロフはギロチンで処刑された。

 

1933年4月12日、ロシア白軍の帰化軍 が四・十二クーデーターを起こし、第1次東トルキスタン共和国 建国のきっかけを作った。1949年の伊吾の戦いでウイグル族のユルバース・カーン が率いた元白軍は 国民党 側で参戦したが、ユルバース・カーンと共に台湾 に避難した。

 

このあと1930年代になると、日ソ国境紛争 へと様相を変えていく事になった。白軍のメンバーは、セミョーノフのように大連 に居住して関東軍に協力した者や、ヴラーンゲリのロシア全軍連合 に参加する者などに分かれた。セミョーノフらは第二次大戦後にソ連に捉えられて処刑された。ロシア全軍連合はソ連崩壊後の1992年になってようやくロシアに復員した。

 

[戦争終結]

 

中央同盟諸国の脱落:

1918年9月29日、ブルガリアはテッサロニキ休戦協定に調印して中央同盟から離脱した。トルコは10月30日にムドロス休戦協定 を締結して休戦した。オーストリアとイタリアは11月3日にヴィラ・ジュスティ休戦協定 を締結して休戦した。オーストリアとハンガリーは、ハプスブルク体制の崩壊の時点で既に、別々の休戦協定に署名していた。またドイツ帝国も敗北を認識し、9月28日、スパ で開かれていた大本営はウィルソンに講和交渉要請を決定した。和平交渉は10月3日に首相となったマクシミリアン・フォン・バーデン 大公子の所掌下に置かれていた。ルーデンドルフは講和に反対していたが、10月26日に皇帝によって解任された。

 

しかしながらルーデンドルフは、1918年9月の終わりから、帝国議会のメンバー、特にマティアス・エルツベルガー が率いる与党中道派、リベラル派とドイツ社会民主党 に権力を委譲していた。ルーデンドルフ自身は伝統主義的保守主義者だったが、彼はドイツを民主化する新しい改革を提起することによって、皇帝の統治を継続することができ、ロシアで見られたような社会主義 革命の危険性を減らすと考えていた。

 

ドイツ革命:

- 詳細は「ドイツ革命 」および「ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)」を参照-

ドイツでは人的資源が枯渇し、経済的、社会的な混乱は頂点に達していた。反戦運動は頻繁に発生し、陸軍の士気は低下した。工業生産は1913年に比べて53パーセント落ちていた。ドイツに敗北が切迫しているというニュースはドイツ軍全体に広がった。海軍提督ラインハルト・シェア とルーデンドルフは、艦隊を出撃させて起死回生を図ることとしたが、出撃の情報がキール軍港の水兵まで届くと、水兵の多くは非公式の外出をとった。つまり自殺の企て以外の何ものでもないとしか思えない攻撃に参加することを拒絶したのだった。

 

11月4日になると処罰に不満を持ったキールの水兵らが反乱を起こし、その後も各地でレーテ の結成と暴動が相次いだ。バイエルン王国 などの帝国諸邦では相次いで君主制が廃止され、帝国の秩序は崩壊し始めた。

 

11月9日、バーデンは皇帝自身が心を決める前に、皇帝が退位する予定だと発表し、さらに社会民主党のフリードリヒ・エーベルト に後継首相の座をゆだねた。エーベルトらは事態の収拾をどのように行うか協議していたが、極左派のスパルタクス団 が社会主義共和国を宣言するという噂が流れ出した。フィリップ・シャイデマン は機先を制するため、独断で帝国議事堂 の最上階のバルコニーからドイツは共和国 になると宣言した。その日の内に皇帝はオランダ に亡命し、後日退位を表明した。結果として帝制は崩壊し、新しいドイツが生まれた。これがヴァイマル共和政 (ワイマール共和国)である。

 

休戦交渉は共和政政府によって引き継がれており、11月7日にパリ郊外コンピエーニュの森 で休戦協定交渉が開始された。11月11日、食堂車2419D(休戦の客車 )の車内において、ドイツと連合軍との休戦協定 が調印され、11月11日午前11時に軍事行動は停止された。同日、オーストリア=ハンガリー帝国皇帝カール1世 が国事不関与声明を行い、二重帝国も崩壊した。

 

講和:

- 詳細は「パリ講和会議 」を参照-

1919年1月18日よりパリにイギリスのロイド・ジョージ首相、フランスのクレマンソー首相、日本の西園寺公望 元首相、アメリカのウィルソン大統領、イタリアのヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド 首相など連合国主要5国(イギリス、フランス、オーストリア帝国、プロイセン王国、ロシア帝国)の首脳が集まり、パリ講和会議が行われた。しかし講和条件をめぐって会議は紛糾し、対ドイツ講和条約であるヴェルサイユ条約 が調印されたのは6月28日、対オーストリア講和条約であるサン=ジェルマン条約 が調印されたのは9月10日、対ブルガリア講和条約であるヌイイ条約 が締結されたのは11月27日であった。アメリカはこれらの条約に調印したが、国際連盟 構想などに反発した議会の承認が得られず、ヌイイ条約以外には批准しなかった。このためアメリカは1921年8月11日に米独平和条約、8月24日に米墺平和条約、8月29日に米洪平和条約を個別に締結して講和した。また中華民国は山東問題の扱いに不満を持ってヴェルサイユ条約に調印せず、1921年5月20日にドイツと個別の和平合意を行っている。

 

ハンガリーはハンガリー・ルーマニア戦争 、トルコは希土戦争 で交戦中であったため、両国に対する講和は遅れた。対ハンガリー講和条約であるトリアノン条約 が締結されたのは1920年6月4日、対トルコ講和条約であるセーブル条約 が締結されたのは1920年8月10日のことであった。さらにオスマン帝国の崩壊により、新トルコ政府は1923年7月24日にローザンヌ条約 を締結して連合国と講和した。第一次世界大戦における戦争状態が全て終了したのは、ローザンヌ条約が発効した1924年8月6日のことである。

 

[戦後への影響]

 

犠牲者:

戦争で破壊されたベルギーのイープルの町

パリ講和会議にて

左からロイド・ジョージ、ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド、

ジョルジュ・クレマンソー、ウッドロウ・ウィルソン

犠牲者:

- 詳細は「第一次世界大戦の犠牲者 」を参照-

古い戦争の思想のもとに始められた第一次世界大戦は、機関銃や航空機、戦車をはじめとする新しい大量殺戮兵器の出現や、戦線の全世界への拡大により、開戦当時には予想もしなかった未曾有の犠牲をもってようやく終了した。

 

戦線が拡大し、長期にわたった戦争は膨大な犠牲者を生み出した。戦闘員の戦死者は900万人、非戦闘員の死者は1,000万人、負傷者は2,200万人と推定されている。国別の戦死者はドイツ177万人、オーストリア120万人、イギリス91万人、フランス136万人、ロシア170万人、イタリア65万人、セルビア37万人、アメリカ13万人に及んだ。またこの戦争によって、当時流行していたスペインかぜ が船舶を伝い伝染して世界的に猛威をふるい、戦没者を上回る数の病没者を出した。帰還兵の中には、砲撃が続く塹壕戦の長期化で一瞬で手足や命を奪われる恐怖に晒され続けた結果、「シェルショック」(後のPTSD と呼ばれる症状)にかかる者もいた。こうした心の病や手足などの体の一部を吹き飛ばされた外傷は、それまでの戦争では見られなかった人智を越えるもので、当時の医師達を悩ませた。

 

賠償:

- 詳細は「第一次世界大戦の賠償 」を参照-

これまでの戦争では、戦勝国は戦費や戦争による損失の全部または一部を敗戦国からの賠償金 によって取り戻すことが通例だったが、参戦国の殆どが国力を出し尽くした第一次世界大戦による損害は、もはや敗戦国の賠償金程度でどうにかなる規模を遥かに超えてしまっていた。しかしながら、莫大な資源・国富の消耗、そして膨大な死者を生み出した戦争を人々は憎み、戦勝国、特に主戦場となったフランスは普仏戦争 の敗戦もあり敗戦国であるドイツに報復的で過酷な条件を突きつけることとなった。

 

ヴェルサイユ体制:

第一次世界大戦は、ヨーロッパの君主制 の消滅をもたらし、旧世界秩序を決定的に破壊した。ドイツ帝国 オーストリア=ハンガリー帝国 オスマン帝国 、そして ロシア帝国 の4つの帝国が分解した。ホーエンツォレルン家 ハプスブルク家 オスマン家 、そしてロマノフ家 の4つの王家は中世以来の権力を持っていたが、この戦中あるいは戦後に没落した。そしてこの戦争は、ボリシェヴィキが ロシア革命 を起こす契機となり、20世紀に社会主義 が世界を席巻する契機となった。

 

1919年にパリ講和会議 が始まる。ドイツでは皇帝家であるホーエンツォレルン家 を始めすべての王侯貴族が追放された。またヴェルサイユ条約 により巨額の賠償金を課せられ、その支払いをめぐってフランスが ルール地方を占領 したため、戦時中から続いていた インフレーション が激化し、国民の不満が高まった。さらに、条約によりドイツ人が居住する領土を割譲させられたことで、ズデーテン 問題や、ポーランド回廊 問題が発生した。

 

オーストリアは、ハンガリーとの二重帝国が解消され、600年以上に渡って君臨してきたハプスブルク家が追放された。 多民族国家だったオーストリアは、サン=ジェルマン条約 により、民族自決 の大義のもと旧帝国内の地域がこぞって独立、従来の4分の1にまで領土を減らされ小国に転落した。国民の間にはドイツへの帰属を求める諦めに似た風潮さえ生まれ、後のナチス・ドイツ によるオーストリア併合(アンシュルス )へと繋がっていく。

 

中央ヨーロッパ には新しい国家チェコスロバキア ユーゴスラビア が生まれ、ポーランド が復活した。

 

オスマン帝国 セーヴル条約 により多くの領土を減らされた。戦時中、イギリスは対オスマン戦の協力のため、アラブ人 ユダヤ人 の双方にパレスチナでの国家建設を約束したことが後のパレスチナ問題 につながってゆく。オスマン帝国は、その後 ムスタファ・ケマル・アタテュルク の手によりスルタン 制が廃止され、近代民主主義国家トルコ が誕生した。 ギリシャとトルコの希土戦争 は1924年に終わるが、これが第一次世界大戦に直接起因する最後の戦争である。

 

中立を宣言したイラン ガージャール朝 も、トルコ・ロシア・イギリス両陣営の戦略の中に巻き込まれ、開戦前までに弱体化していたとは言えますます混迷を深め、終戦後間もなく、有力将校のレザー・パフラヴィー にクーデターを起こされ、数年後には帝位の座も彼に取って代わられた(パフレヴィー朝 )。

 

戦勝国陣営(連合国側)に立って参戦し、かつ本土が戦場とならなかった日本とアメリカの地位が相対的に向上した。これは戦後結ばれたワシントン海軍軍縮条約 でアメリカがイギリスと同等、日本がフランスやイタリアの倍近い戦艦(総トン数)の保有を認められたことに端的に表れている。このことは現代の感覚では理解しにくいが、当時、40センチ強の砲を有する超ド級戦艦の保有量は国力を示す代表的な指標の一つとされており、現代であれば核弾頭の保有数と置き換えて考えうる軍事力であったのである。

 

中東問題の発生:

- 詳細は「パレスチナ問題 および ISIL 」を参照-

オスマン帝国が支配していたアラブ人地域はイギリスとハーシム家 との間で交わされた「フサイン=マクマホン協定 」によって、連合国が勝利すればアラブ人の独立国家が建設されることになっていた。しかしイギリスはフランス、ロシア帝国との間にアラブ人地域を3か国の支配下に置く内容の「サイクス・ピコ協定 」を秘密裏に交わしていた。さらにイギリスはロスチャイルド家 などユダヤ系資本からの資金援助を取り付けるためにパレスチナにユダヤ人国家の建設を認める「バルフォア宣言 」も出していた。これが悪名高い、いわゆる「イギリスの三枚舌外交 」である。

 

これらの結果、パレスチナ地域に多数のユダヤ人が移住するようになり、イスラエルが建国される。同時に、多数の同地域のアラブ人が難民となり、彼らを救うためにアラブ諸国がイスラエルと戦う中東戦争 が繰り返される。また「サイクス・ピコ協定」に基づいて設定された国境線はイギリスの委任統治領 としてイラク、ヨルダン、トランスヨルダン(パレスチナ)をフランスの委任統治領としてシリア、レバノンが設定された。これら委任統治領は独立をするが。国境線は維持されたためこれを打破し、アラブ地域の統一を目指す運動が展開されることになるが、21世紀のISILのようにイスラム過激派を産む原因となった。

 

国際平和への努力:

第一次世界大戦による災厄の巨大さを目の当たりにしたことで、国際社会では厭戦感が広がることとなった。戦後の国際関係においては平和協調が図られ1919年にウィルソン大統領の提唱により人類史上初の国際平和機構である 国際連盟 が設立され、1925年にはロカルノ条約 、1928年には主要国間で不戦条約 (ケロッグ=ブリアン協定)が締結された。このほかにも主要列強間においてワシントン海軍軍縮条約 ロンドン海軍軍縮条約 といった軍縮条約が締結された。

 

これら国際平和のためのさまざまな努力もむなしく、第一次世界大戦の原因と結果をめぐる多くの戦後処理の失敗と、この戦争を発端とする景気の反動としての世界恐慌 による経済危機により、共産主義 がさらに勢力を得て、それに対抗する形でイタリア ではファシズム が、ドイツ ではナチズム が台頭する。極東では日本の 満州権益(帝国主義)・シベリア出兵(共産主義問題)・中国(ナショナリズム台頭)といった混乱の末、戦後秩序の変革のためにと日本の関東軍 により満州事変 が起こされた。

 

ヴェルサイユ条約成立後、フランスの陸軍元帥フェルディナン・フォッシュ は「これは平和などではない。たかが20年の停戦だ」と予言していた。イギリスの経済学者ケインズは「ドイツ人など貧困にあえいでいればよいなどと言う考え方では、いつの日か必ず復讐される事になる」と条約を批判、アメリカのある上院議員も「この条約は先の大戦より悲惨な戦争を呼ぶものであると確信した」と述べた。そしてフォッシュらの予言通り、条約調印のほぼ20年後の1939年に、再び全世界規模の戦争となる第二次世界大戦 が勃発することとなる。

 

[参考文献]

 

・山室信一『複合戦争と総力戦の断層―日本にとっての第一次世界大戦(レクチャー第一次世界大戦を考

 える)』(人文書院、2011年)

・ジェームズ・ジョル(池田清訳)『第一次大戦の起原』(みすず書房、1997年)

・ジェームズ・ジョル(池田清訳)『ヨーロッパ100年史 1』(みすず書房、1975年)

・バーバラ・タックマン(山室まりや訳) 『八月の砲声 上・下』(筑摩書房、2004年)

・マイケル・ハワード(馬場優訳)『第一次世界大戦』(法政大学出版局、2014年)

・リデル・ハート(上村達雄訳)『第一次世界大戦 上・下』(中央公論新社、2001年)

・A・J・P・テイラー(倉田稔訳)『目で見る戦史 第一次世界大戦』(新評論、1980年)

・ピエール・ルヌーヴァン(西海太郎編訳)『ドイツ軍敗れたり』(白水社、1987年)

・室潔『ドイツ軍部の政治史 1914~1933』(早稲田大学出版部、1989年)

・江口朴郎『帝国主義の時代』(岩波書店、1969年) 中山治一『新書西洋史7 帝国主義の展開』(講談

 社、1973年)

・義井博『カイザーの世界政策と第一次世界大戦』(清水書院、1984年)

・関榮次『日英同盟 日本外交の栄光と凋落』(学習研究社、2003年)

・片岡覚太郎、C.W.ニコル『日本海軍地中海遠征記―若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦』(河出

 書房新社、2001年) ・斎藤聖二『日独青島戦争 秘 大正三年日独戦史 別巻2』(ゆまに書房、2001

 年)

・ジェイ・マレイ・ウィンター(猪口邦子監修、小林章夫監訳)『20世紀の歴史13 第1次世界大戦

・上 政治家と将軍の戦争』(平凡社、1990年)

・ジェイ・マレイ・ウィンター(猪口邦子監修、深田甫監訳)『20世紀の歴史14 第1次世界大戦・下兵

 士と市民の戦争』(平凡社、1990年)

・毎日ムック編集部『毎日ムック20世紀の記憶 第1次世界大戦 1914-1919』(毎日新聞社、1999年) ・歴史群像編集部『戦略・戦術・兵器詳解 図説・第一次世界大戦・上 1914-16 開戦と塹壕戦』(学習

 研究社、2008年)

・歴史群像編集部『戦略・戦術・兵器詳解 図説・第一次世界大戦・下 1916-18 総力戦と新兵器』(学

 習研究社、2008年)

・牧野雅彦 『ヴェルサイユ条約 マックス・ウェーバーとドイツの講和』 中央公論新社、2009年。

・武田龍夫 『北欧の外交 -戦う小国の相克と現実-』(東海大学出版会、1998年)

・百瀬宏、熊野聰、村井誠人 『北欧史 (世界各国史)』( 山川出版社、1998年)


この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0 のもとで公表されたウィキペディアの項目 第一次世界大戦 を素材として二次利用しています。