【アルメニア】

アルメニア共和国(アルメニア語: Հայաստանի Հանրապետություն)、通称アルメニアは、 南コーカサスに位置する 共和制国家 東ヨーロッパに含められることもある。

 

首都は エレバンで、 黒海 カスピ海の間にある内陸国であり西に トルコ、北に ジョージア(ロシア語名:グルジア)、東に アゼルバイジャン、南に イランとアゼルバイジャンの飛び地 ナヒチェヴァン自治共和国に接する。

 

1991年に ソビエト連邦から独立した。 ナゴルノ・カラバフを巡ってアゼルバイジャンと、 アルメニア人虐殺に対する歴史認識をめぐってトルコと激しく対立していたが、近年はアルメニア大統領が両国を訪問するなど関係修復を目指して対話を行っている。

 

[国名]

 

正式名称はアルメニア語( アルメニアアルファベット)で、Հայաստանի Հանրապետություն(ラテン文字転写: Hayastani Hanrapetut'yun)。通称、Հայաստան(Hayastan)。 英語の公式表記は、Republic of Armenia。通称、Armenia。 日本語の表記は、アルメニア共和国。通称、アルメニア。

アルメニア人は自らをհայ(hay)ハイ(複数形はհայեր(hayer)ハイェル、またはհայք(hayk')ハイク)、国をハヤスタン、またはՀայք(Hayk')ハイクと呼ぶ。

 

正式名称Hayastani Hanrapetut'yunの語源は、アルメニア人の始祖 ハイク・ナハペトとペルシャ語で国を示す接尾語 スターン (地名)から来ている。アルメニアは、ハイ族の王アルメナクから来ている。

 

[歴史]

- 詳細は「 アルメニアの歴史」を参照-

 

先史時代にはクラ・アラクセス文化があったことが知られており、文明の早い時期から車輪が使われていた。紀元前6世紀頃には国際的な商業活動を盛んに行っていたと言われ、紀元前1世紀に アルメニア高原を中心に 大アルメニア王国を築き繁栄した。しかし ローマ帝国 パルティア サーサーン朝ペルシア帝国の間で翻弄され、両国の緩衝地帯として時に属州となることもあった。

 

1世紀頃には キリスト教の布教(十二使徒聖タデヴォス、聖バルトゥロメウスが伝道し、殉教した。)、2世紀にはアルメニア高地の各地にキリスト教徒がかなりの数に上ったと伝える(カエサリアのエウセビウス(260–339年)『教会史』)。紀元301年には世界で初めてキリスト教を 国教とした。405/406年、アルメニア文字が メスロプ・マシュトツ (361–440)によって創始された。

 

その後サーサーン朝ペルシアの支配下に入り、更に アラブの侵攻を受けるが、9世紀半ばには バグラト朝が興り、独立を回復。しかしバグラト朝も長くは続かず、 セルジューク朝、モンゴル・ ティムール朝などの侵入が相次いで国土は荒廃。このため10世紀に多くの アルメニア人が故国を捨てる( ディアスポラ)ことになった。

20世紀初頭のアルメニア人の居住地域(濃い水色)

1636年にアルメニアは オスマン帝国)と サファヴィー朝ペルシアに分割統治された。

 

1826年に始まった 第二次ロシア・ペルシア戦争の講和条約・ トルコマンチャーイ条約(1828年)によってペルシア領アルメニアはロシア領となる。

 

19世紀後半になるとオスマン帝国の支配下にいたアルメニア人の反発も大きくなり、 トルコ人民族主義者との対立が激化。20世紀初頭に至るまで多くのアルメニア人が虐殺され( アルメニア人虐殺)、生き残ったアルメニア人も多くは欧米に移住するかロシア領に逃げ込んだ。 ロシア革命後に民族主義者により アルメニア第一共和国が樹立されるが、 赤軍の侵攻により崩壊し、1920年に アルメニア社会主義ソビエト共和国が成立した。1936年までは ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国を構成していた。

 

1988年に アゼルバイジャン共和国にある ナゴルノ・カラバフ自治州でアルメニアに帰属替えを求めるアルメニア人の運動が起り、これに反発した アゼルバイジャン人との緊張の中で衝突が起り、両国の本格的な民族紛争( ナゴルノ・カラバフ戦争)に発展した。

 

1991年に ソ連保守派のクーデターが失敗した為、同年9月にアルメニア共和国は独立を遂げた。10月17日、大統領選挙で レヴォン・テル=ペトロシャンが圧勝した。 しかしカラバフを巡るアゼルバイジャン人との紛争は現在も続いている。1991年12月21日、 独立国家共同体(CIS)に加盟、同年12月31日付でソ連邦は解体・消滅した。アルメニアは独立国家となった。

 

[政治]

 

政体 共和制である。国家元首は大統領で、任期は5年。大統領は、首相を任免し、首相の提案によりその他の閣僚を任免する。 議会は一院制で、任期が4年である。定数は131議席で、その内、75議席が大選挙区制、56議席は比例代表制。(2012年時点) 州知事と大都市の市長は、任命制である。

 

新憲法民主化制下で:

1995年7月、新議会選挙および新憲法草案について国民投票行われる。議会選挙では共和国ブロックが勝利、新憲法についての選挙では大統領任期5年、議会解散権、首相任免権付与などの内容が採択された。 1996年9月、新憲法のもとで初の大統領選挙が実施された。テル=ペトロシャンが再選される。 1999年10月、国会内で首相、国会議長など8名が死亡した銃撃事件が起こった( アルメニア議会銃撃事件)。政情は現在(2009年時点)安定している。

 

[地理]

アルメニアの地図

アルメニア共和国は、黒海の南部、カスピ海の西部に位置するアルメニア高地の最東端にあり、面積はこの高地全体の一割に過ぎない。北側に小コーカサス山脈と西側にはアルメニア高地が広がる山国。平地はまれで、国土の90%において標高1000〜3000メートルであり、3000m級の山岳も珍しくない。最高地点はアラガツ山頂で標高4090メートル、最低地点は北部のデペート川下流にあるベルタヴァン村近くの渓谷の標高380メートルである。

 

国内最大の平地は首都エレバンが位置するアララト盆地で肥沃。名前の通り アララト山(「ノアの方舟」で有名、高さ5165メートル)を見上げる位置にあり、トルコとの国境を流れる アラス川(アラクス川、キュル川)の左岸に広がっている。アララト盆地の高度は800m以上。一万年前から人が居住していたことが考古学的発掘で知られている。

中央部にセヴァン湖(標高1900メートル、深さは36〜80メートル、高山の淡水湖、ここで採れる魚は「イシュハン・ヅーク(魚の王子さま)」と呼ばれる。)が存在する。 森林は少なく、急流となった小規模な河川が多い。森林地帯は国土の15%で、可耕地は17%、牧草地は30%、乾燥不毛地は18%を占めている。

 

隣国のトルコやイラン同様、地震が多い。1988年に発生したアルメニア地震では2万5千人もの死者を出した。 鉱物資源に富み、鉄鉱石、ボーキサイト、最南部ので銅、亜鉛、モリブデンが産出する。また、南部のシェニーク地方ではウラニウム鉱床も確認されている。石灰岩は全国に分布する。


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