【アナトリア】

第一次世界大戦前の1911年の地図 

小アジア (ASIA MINOR) は現在のトルコ西部から中部に書かれており 

東部にはアルメニア (ARMENIA) と書かれている

トルコの7地方

北は黒海 、北西は マルマラ海、西は エーゲ海、南西は地中海に面す。東と南東は陸続きで、 ジョージア アルメニア イラン イラク シリアと接する。 地勢は高地性である。平地は海岸沿いにわずかにあるのみである。河川は大部分が黒海・マルマラ海・エーゲ海・地中海に流れるが、南東部には、 ペルシア湾に注ぐ チグリス川 ユーフラテス川の上流や支流が流れ、北東部には、 カスピ海に注ぐ クラ川の上流や支流が流れる。

 

トルコの行政区画はアナトリアとヨーロッパを分ける境界になっていない。7つの地方のうち マルマラ地方はヨーロッパからアナトリアにかけて広がり(ヨーロッパ地域の全域が含まれる)、同様に、81の県のうちイスタンブール県が、また基礎自治体では イスタンブールがヨーロッパからアナトリアにかけ広がっている。そのため、アナトリアに関する人口や経済などの統計情報は得ることが難しい。

 

民族はトルコ人が大多数だが、南東部には クルド人と若干の アラブ人、北東部には アルメニア人が住む。かつては海岸地帯に ギリシャ人が古代から住んでいたが、 第一次世界大戦後の 住民交換でほぼすべてがギリシャに移住した。

 

[歴史]

 

文明の発祥地:

アジア ヨーロッパを繋ぐ戦略的に重要な地点に位置するため、アナトリア半島は 先史時代からいくつかの 文明の発祥地となり、 新石器時代の神殿遺跡と言われる ギョベクリ・テペや、人類最古の定住遺跡と言われ、世界遺産に登録されている チャタル・ヒュユクなどの、数多くの遺跡が発見されている。 古くは単に「アジア」と呼ばれていたが、アジアはさらに東方に広大であることがわかり、「小アジア」と区別されるようになった。

 

アナトリアの名称は 東ローマ皇帝 コンスタンティノス7世の時代、 エーゲ海に面した西岸地方に 軍管区を置き、「アナトリコン」(ギリシャ語で日出る処の意)と名付けたことに由来する。

 

主要な諸文明:

● ヒッタイトの最大勢力 ● 同時代のエジプトの勢力


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