【インド】

インドの位置

 

インドは、南アジアに位置し、インド亜大陸を領有する連邦共和制国家である。ヒンディー語の正式名称भारत गणराज्य(ラテン文字転写: Bhārat Gaṇarājya、バーラト・ガナラージヤ、英語:Republic of India)を日本語訳したインド共和国とも呼ばれる。 1947年にイギリスから独立。インダス文明に遡る古い歴史、世界第二位の人口を持つ。国花は蓮、国樹は印度菩提樹、国獣はベンガルトラ、国鳥はインドクジャク、国の遺産動物はインドゾウである。

タージ・マハル(世界遺産)

 

[概要]

 

インドは南アジア随一の面積と世界第2位の人口を持つ大国である。12億人を超える国民は、多様な民族、言語、宗教によって構成されている。連邦公用語はヒンディー語、他にインド憲法で公認されている言語が21あり主な言語だけで15を超えるため、インドの紙幣には18の言語が印刷されている。 議会制民主主義国家であり、有権者数8億人と世界最大である。州政府が一定の独立性を持ち、各州に中央政府とは別に政府があり大臣がいる。 労働力人口の3分の2が農業に従事する一方、製造業とサービス業が急速に成長している。国民の識字率は74.04%である。ヒンドゥー教徒が最も多く、イスラム教シーク教がこれに次ぐ。カースト制度による差別は憲法で禁止されているが、今でも農村部では影響は残っている。 汚職や環境問題を抱えながら、近年は経済発展が顕著で、アジア開発銀行はインドの中間層が向こう15年間で人口の7割に達するとしている。

 

[名称]

 

インド憲法によれば正式名称はヒンディー語のभारत(ラテン文字転写: Bhārat, バーラト)であり、英語による国名は India (インディア)である。政体名を付け加えたヒンディー語の भारत गणराज्य(ラテン文字転写: Bhārat Gaṇarājya、バーラト・ガナラージヤ)、英語のRepublic of Indiaを正式名称とする資料もあるが、実際には憲法その他の法的根拠に基づくものではない。 バーラト(サンスクリットではバーラタ)の名はプラーナ文献に見え、バラタ族に由来する。 英語(ラテン語を借用)の India は、インダス川を意味する Indus(サンスクリットの Sindhu に対応する古代ペルシア語のHindušを古代ギリシア語経由で借用)に由来し、もとはインダス川とそれ以東のすべての土地をさした。古くは非常にあいまいに用いられ、アフリカ東海岸をも India と呼ぶことがあった。 イラン語派の言語ではインドのことを、やはりインダス川に由来する Hinduka の名で呼び、古い中国ではこれを身毒(『史記』に見える)または天竺(『後漢書』に見える)のような漢字で音訳した。ただし水谷真成はこれらをサンスクリットの Sindhu の音訳とする。初めて印度の字をあてたのは玄奘三蔵であるが、玄奘はこの語をサンスクリット indu (月)に由来するとしている。近代になって、西洋語の India に音の近い「印度」、またはそれをカタカナ書きした「インド」が使われるようになった。

 

[歴史]

 

インダス文明

インダス文明

 

紀元前2600年頃より、インダス川流域にインダス文明が栄えた。民族系統は諸説あり、Iravatham Mahadevanが紀元前3500年頃に西アジアから移住してきたとのドラヴィダ人仮説(Dravidian hypothesis、南インドのドラヴィダ系の民族)を提唱したが、ワシントン大学のRajesh P. N. Raoはドラヴィダ人仮説への有力な反例を示し、フィンランドの研究者アスコ・パルボラ(英語版)が支持し、研究は振り出しに戻っている。パンジャーブ地方ハラッパーシンド地方モエンジョ・ダーロ(世界遺産)などの遺跡が知られるほか、沿岸部のロータルでは造船が行われていた痕跡がみられ、メソポタミアと交流していた可能性がある。焼き煉瓦を用いて街路や用水路、浴場などを建造し、一定の都市計画にもとづいて建設されていることを特徴としていたが、紀元前2000年頃から衰退へとむかった。

 

ヴェーダ時代からラージプート時代まで

ナーランダ僧院跡 (ナーランダ大学)

 

前1500年頃にインド・アーリア人トリツ族バラタ族プール族等)がパンジャーブ地方に移住。

後にガンジス川流域の先住民を支配して定住生活に入った。

 

インド・アーリア人は、司祭階級(バラモン)を頂点とした身分制度社会(カースト制度)に基づく社会を形成し、それが今日に至るまでのインド社会を規定している。インド・アーリア人の中でも特にバラタ族の名称「バーラタ(भारत)」は、インドの正式名称(ヒンディー語: भारत गणराज्य, バーラト共和国)に使われており、インドは「バラタ族の国」を正統とする歴史観を表明している。

 

前6世紀には十六大国が栄えたが、紀元前521年頃に始まったアケメネス朝ダレイオス1世によるインド遠征で敗れ、パンジャブ・シンドガンダーラを失った。

 

紀元前330年頃、アレクサンドロス3世の東方遠征では、インド北西部のパンジャーブで行なわれたヒュダスペス河畔の戦いでパウラヴァ族が敗北したものの、アレクサンドロス軍の損害も大きく、マケドニア王国は撤退していった。

 

紀元前317年、チャンドラグプタによってパータリプトラサンスクリット語: पाटलिपुत्रः、現在のパトナ)を都とする最初の統一国家であるマウリヤ朝マガダ国が成立し、紀元前305年頃にディアドコイ戦争中のセレウコス朝セレウコス1世からインダス川流域やバクトリア南部の領土を取り戻した。紀元前265年頃、カリンガ戦争カリンガ国(現オリッサ州)を併合。この頃、初期仏教の根本分裂が起った。紀元前232年頃、アショーカ王が死去すると、マウリヤ朝は分裂し、北インドは混乱期に入った。

 

ギリシア系エジプト人商人が著した『エリュトゥラー海案内記』によれば、1世紀にはデカン高原サータヴァーハナ朝ローマ帝国との季節風交易で繁栄(海のシルクロード)。3世紀後半にタミル系のパッラヴァ朝、4世紀にデカン高原のカダンバ朝が興り、インドネシアのクタイ王国タルマヌガラ王国に影響を及ぼした。 これらの古代王朝の後、5世紀に、グプタ朝北インドを統一した。サンスクリット文学がさかんになる一方、アジャンター石窟(世界遺産)やエローラ石窟群(世界遺産)などの優れた仏教美術が生み出された。

 

5世紀から始まったエフタルのインド北西部への侵入は、ミヒラクラ の治世に最高潮に達し、仏教弾圧が行なわれたことによってグプタ朝は衰退し、550年頃に滅亡した。7世紀前半頃、玄奘三蔵ヴァルダナ朝および前期チャールキヤ朝を訪れ、ナーランダ大学で学び、657部の経典を中国()へ持ち帰った。7世紀後半にヴァルダナ朝が滅ぶと、8世紀後半からはデカンのラージプート王朝のラーシュトラクータ朝、北西インドのプラティーハーラ朝ベンガルビハール地方パーラ朝が分立した。パーラ朝が仏教を保護してパハルプールの仏教寺院(世界遺産、現バングラデシュ)が建設され、近隣諸国のパガン仏教寺院アンコール仏教寺院(世界遺産)・ボロブドゥール仏教寺院 (世界遺産)の建設に影響を与えた。

日本でも同時期に東大寺が建立された。

 

10世紀からラージプート王朝のチャンデーラ朝カジュラーホー (世界遺産)を建設した。

 

北インドのイスラム化と南インドのヒンドゥー王朝

11世紀初めより、ガズナ朝ゴール朝などのイスラムの諸王朝が北インドを支配するようになった。 一方、南インドでは、10世紀後半ころからタミル系のチョーラ朝が貿易で繁栄し、11世紀には北宋との海洋貿易の制海権を確保する目的で東南アジアシュリーヴィジャヤ王国に2度の遠征を敢行し、衰退させた。 13世紀にゴール朝で内紛が続き、アイバクデリー・スルターン朝奴隷王朝)を興してデリーに都を置き北インドを支配した。バルバンの治世からモンゴル帝国の圧力が始まった。14世紀初頭にデリー・スルターン朝(ハルジー朝)がデカン、南インド遠征を行い、一時は全インドを統一するほどの勢いを誇った。アラー・ウッディーン・ハルジーの治世にはチャガタイ・ハン国が度々侵攻してきた。デリー・スルターン朝(トゥグルク朝)は、内紛と1398年のティムールによるインド北部侵攻で衰退し、独立したヴィジャヤナガル王国バフマニー朝(その後ムスリム5王国に分裂した)へと覇権が移った。

 

北ヴィジャヤナガル王国

14世紀前半から17世紀半にかけてデリー・スルターン朝から独立したヴィジャヤナガル王国が南インドで栄え、16世紀前半クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ王の統治のもと、王国は最盛期を迎えた。 しかし、1565年にターリコータの戦いデカン・スルターン朝に負け、ヴィジャヤナガル朝は衰退していき、王国最後の名君ヴェンカタ2世(位1586 - 1614)の奮闘もむなしく、その没後王国は滅亡した。デカン・スルターン朝も、その後はお互いに争うようになり、ムガル帝国がムスリム5王国全域を支配した。

 

ムガル帝国

ムガル帝国の版図の変遷

 

16世紀、ティムール帝国の末裔であったバーブル北インドへ南下し、1526年にデリー・スルターン朝ローディー朝)を倒してムガル帝国を立てた。ムガルはモンゴルを意味する。

 

ムガル帝国は、インドにおける最後にして最大のイスラム帝国であった。3代皇帝のアクバルは、インドの諸地方の統合と諸民族・諸宗教との融和を図るとともに統治機構の整備に努めた。 だが、6代皇帝のアウラングゼーブは、従来の宗教的寛容策を改めて厳格なイスラム教スンナ派のイスラム法シャーリアに基づく統治を行ったために各地で反乱が勃発した。彼は反乱を起こしたシーク教徒や、ヒンドゥー教ラージプート族(マールワール王国メーワール王国)や、シヴァージー率いる新興のマラーター王国(後にマラーター同盟の中心となる)を討伐し、ムスリム5王国の残る2王国ビジャープル王国(1686年滅亡)・ゴールコンダ王国(1687年滅亡)を滅ぼして帝国の最大版図を築いた。

 

このころダイヤモンド生産がピークを迎えた。インド産は18世紀前半まで世界シェアを維持した。 アウラングゼーブの死後、無理な膨張政策と異教・異文化に対する強硬策の反動で、諸勢力の分裂と帝国の急速な衰退を招くことになった。

 

インドの植民地化

1837年のインド

 

1498年にヴァスコ・ダ・ガマがカリカット(コーリコード)へ来訪し、1509年にディーウ沖海戦オスマン帝国からディーウを占領し、1511年にマラッカ王国を占領してポルトガル領マラッカを要塞化することによって、ポルトガルはインド洋制海権を得た。このことを契機に、ポルトガル海上帝国は沿岸部ゴアに拠点を置くポルトガル領インド(1510年-1961年)を築いた。

 

1620年、デンマーク東インド会社トランケバルにデンマーク領インド(1620年-1869年)を獲得。1623年のインドネシアで起きたアンボイナ事件でイギリスはオランダに敗れ、東南アジアでの貿易拠点と制海権を失い、アジアで他の貿易先を探っていた。 そのような状況で、ムガル帝国が没落しイギリス東インド会社フランス東インド会社が南インドの東海岸に進出することになり、貿易拠点ポンディシェリをめぐるカーナティック戦争が勃発した。

 

1757年6月のプラッシーの戦いでムガル帝国とフランス東インド会社の連合軍が敗れた。同年8月にはマラーター同盟デリーを占領し、インド北西部侵攻(1757年-1758年)でインド全域を占領する勢いを見せた。1760年のヴァンデヴァッシュの戦いでフランス東インド会社がイギリス東インド会社に敗れた。 一方、翌1761年に第三次パーニーパットの戦いマラーター同盟は、ドゥッラーニー朝アフガニスタンに敗北していた。

 

1764年のブクサールの戦いでムガル帝国に勝利したイギリス東インド会社は、1765年にアラーハーバード条約を締結し、ベンガル地方のディーワーニー(行政徴税権,Diwani Rights)を獲得したことを皮切りに、イギリス東インド会社主導の植民地化を推進した。イギリス東インド会社は一連のインドを蚕食する戦争(マイソール戦争マラーター戦争シク戦争)を開始し、実質的にインドはイギリス東インド会社の植民地となった。

 

インドは1814年まで世界最大の綿製品供給国だった。毎年120万ピースがイギリスへ輸出されていた。これに対して、1814年のイギリスからインドへの綿製品輸出は80万ピースであった。そこでイギリス産業資本は関税を吊り上げてインド産製品を駆逐する一方、イギリス製品を無税でインドへ送った。1828年には、イギリスへ輸出されたインド綿布が42万ピースに激減する一方、インドへ輸出されたイギリス製綿布は430万ピースに達した。こうしてインドの伝統的な綿織物産業は壊滅した。

 

1824年、英蘭協約でイギリスがマラッカ海峡の制海権を確立した。 1833年、ベンガル総督ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクのもとでインド総督に改称。1835年からウィリアム・ヘンリー・スリーマンがカーリーを崇拝する殺人教団「サギー教」の掃討戦(1835年-1853年)を開始。 インドで栽培されたアヘン中国へ輸出するためのアヘン戦争(1840年)が行われて三角貿易体制が形成された。

 

イギリスは近代的な地税制度を導入してインドの民衆を困窮させた。そしてこの頃にタタ財閥バンク・オブ・ウェスタン・インディアが誕生した。 インド大反乱(1857-1858)をきっかけにして、イギリス政府は1858年インド統治法を成立させてインドの藩王国による間接統治体制に入り、バハードゥル・シャー2世ビルマに追放してムガル帝国を滅亡(1858年)させた。

 

その後、旱魃によるオリッサ飢饉ラージプーターナー飢饉・ビハール飢饉・大飢饉が続けて発生し、藩王国からイギリス直轄領に人々が移動したため支援に多額の費用を出費する事態になった。藩王国の統治能力を見限ったイギリス政府はインドの直接統治体制に切り替えることになり、1877年にイギリス領インド帝国が成立した。

 

イギリス統治時代

イギリスはインド人知識人層を懐柔するため、1885年12月には諮問機関としてインド国民会議を設けた。1896年にボンベイ(現ムンバイ)でペストの爆発的感染が発生した際に強硬な住民疎開を実施したイギリスの伝染病対策官が翌年に暗殺された。この時、関与を疑われたロークマンニャ・ティラクが逮捕され、出所後に「スワラージ」(ヒンディー語: स्वराज)を唱えた。

 

1899年、屈辱的な金為替本位制が採用され、15インド・ルピーと1スターリング・ポンドが等価とされた。 イギリスはインド統治に際して民族の分割統治を狙って1905年にベンガル分割令を発令したが、かえって分割への憤りなどから反英機運が一層強まった。イギリスはさらに独立運動の宗教的分断を図って1906年に親英的組織として全インド・ムスリム連盟を発足させたものの、1911年にはロークマンニャ・ティラクなどのインド国民会議の強硬な反対によってベンガル分割令の撤回を余儀なくされた。

 

日露戦争における日本の勝利(非白人国家による白人国家に対する勝利)などの影響を受けたこと、民族自決の理念が高まったことに影響され、ビルラ財閥などの民族資本家の形成に伴いインドの財閥が台頭し民族運動家を支援したことから、インドではさらに民族運動が高揚した。

 

第一次世界大戦ではインド帝国はイギリス帝国内の自治領の一つとして参戦した。挙国一致内閣のインド相は戦後のインド人による自治権を約束し、多くのインド人が戦った。1916年にはムハンマド・アリー・ジンナーら若手が主導権を握った全インド・ムスリム連盟がインド国民会議との間にラクナウ協定を締結し、「全インド自治同盟」(Indian Home Rule Movement)が設立された。

 

第一次世界大戦に連合国は勝利したものの、インド統治法によってインドにあたえられた自治権はほとんど名ばかりのものであった。このためインド独立運動はより活発化した。 1919年4月6日からマハトマ・ガンディーが主導していた非暴力独立運動(サティヤーグラハ)は、1919年4月13日のアムリットサル事件を契機に、それに抗議する形でそれまで知識人主導であったインドの民族運動を、幅広く大衆運動にまで深化させ、1930年には塩の行進が行なわれた。ガンディーの登場はイギリスのインド支配を今まで以上に動揺させた。

 

第二次世界大戦においてはインド帝国はイギリスの支配の元で再び連合国として参戦したが、国民会議派はこれに対して非協力的であった。有色人種国家である日本軍が、マレー半島香港シンガポールなどアジアにおいてイギリス軍を瞬く間に破り、インド洋からイギリス海軍を放逐しインドに迫る中、国民会議派から決裂したチャンドラ・ボースが日本の援助でインド国民軍を結成するなど、枢軸国に協力して独立をめざす動きも存在した。 また、インドは戦間期シティの利害と関係して、巨額の在ロンドン・スターリング残高を累増させて債権「国」となりつつあった。これに先立つ1935年にインド準備銀行が創立された。1937年にビルマが独立してインドは食料輸入国へ転落した。さらに1939年の防衛費協定によって、イギリスは第二次世界大戦におけるインド軍の海外派兵費用を負担した。これらの結果1946年までに負担は13億4300万ポンドに累積した。それはインド準備銀行のロンドン残高に英国大蔵省証券として蓄積された。インドは元々イギリスに対して債務国であったが、1942年7月から債権国となっていた。

 

独立と経済戦争

インド初代首相ジャワハルラール・ネルー(左)と、インド独立の父マハトマ・ガンディー(右)

 

1945年7月5日にイギリスで総選挙が行なわれアトリー内閣が誕生。

8月15日に日本が降伏することで、日本軍の侵攻を受けてイギリスがインドを失う危機は去った。その後、戦争中に日本軍と組んでイギリスの排除を試みたインド国民軍の将兵を、「国王に対する反逆罪」で裁判にかけたが、これが大きな反発を呼び各地で暴動が勃発した。

 

1946年8月16日、ムハンマド・アリー・ジンナー直接行動の日を定めると、カルカッタの虐殺が起こった。この暴動を受けて、イギリス本国が第二次世界大戦により国力が低下していたため、アトリー内閣はインドをこれ以上植民地下に置くことはできないと判断し独立を容認することとなった。

また、この時期に開かれた極東軍事裁判において、正当性が疑問視されたこの裁判の中立性を演出するために、独立を控えた英領インド帝国出身の有色人種を参加させる事になり、インド法曹界からラダ・ビノード・パール判事が選ばれた。

 

初代首相(外相兼任)にはジャワハルラール・ネルーが、副首相兼内相にはサルダール・V.J.パーテルが就任し、この新内閣が行政権を行使した。また、1946年12月から1950年まで憲法制定議会が立法権を行使し、それはインド憲法の施行後、総選挙で成立したインド連邦議会に継承された。司法権は新設置のインド最高裁判所に移行した。さらに憲法制定議会議長のR.プラサードが大統領に、不可触賎民出身で憲法起草委員長のB.R.アンベードカルが法務大臣に就任した。こうして憲法施行とともに政治の大権は国民の側に移された。

 

独立当初はイギリス国王君主に戴く英連邦王国インド連邦)であったが、インド内のヒンドゥー教徒とイスラム教徒の争いは収拾されず、1947年8月15日、前日に成立したイスラム国家パキスタン分離独立した。 それまでインドは灌漑地面積において世界一であったが、パキスタンにはインドの公共事業で開拓された灌漑地域の半分以上が存在し、分離により総面積の1/3に相当する2200万エーカーを失った。作物では麦の作付面積1520万エーカーの半分と、綿花では770万エーカーの3/4が分離された。

 

1948年1月30日、マハトマ・ガンディーは、ムスリムに対するガンディーの「妥協的」な言動に敵意を抱いていた、かつてヒンドゥー教のマラータ同盟のあったマハーラーシュトラ州出身のヒンドゥー至上主義民族義勇団』(RSS) の活動家のナートゥーラーム・ゴードセーによって、同じヒンドゥー教のマールワール商人ビルラの邸で射殺された。 1948年夏からパキスタンをともなって、イギリスとスターリング残高の取扱いをめぐり本格的に交渉をはじめた。スターリング残高は、インドが9億6000万ポンド、パキスタンが1億7000万ポンドとなった。

 

インドは同年9月13日、ポロ作戦ニザーム王国を併合した。1949年春に国際収支危機へ陥り、夏に残高をめぐる再交渉がもたれた。一昨年の妥決では年間6000万ポンド引き出せることになっていたが、再交渉により5000万ポンドに減った。政教分離の世俗主義という柱で国の統一を図ることになり、1949年11月26日にインド憲法が成立し、1950年1月26日に共和制に移行した。憲法施行後、1951年10月から翌年2月にかけて連邦と州の両議会議員の第一回総選挙が行われた。結果は会議派が勝利し、首相にネルーが就任した。独立後、他の社会主義国ほど義務教育の完全普及や身分差別廃止の徹底はうまくいかず、英国資本によるプランテーションへの投資も続いた。近年においても小学校さえ行けない子も多く貧富の差も激しい。しかも、これは計画経済の結果であった。 1951年、アメリカ・イギリス・ソ連・西ドイツの支援を得てインド工科大学第1校が設立された。

1952年2月に結んだ5年間の英印協定では、インド政府がロンドンに3億1000万ポンドのスターリング残高をもつことが確認され、毎年3500万ポンドの引き出しが認められた。

1954年、フランス領インドが返還されポンディシェリ連邦直轄領となった。翌年3月、ソ連との間にビライ製鉄所(Bhilai Steel Plant)建設の援助協定が調印された。1956年、インドは西ドイツの主要な輸出先であった(8億マルク超)。

1957年インドのスターリング残高がほとんど枯渇した。翌年から世銀等から多額の借款を得た。このときにコンソーシアム立ち上げを主導したのがネルーの甥(Braj Kumar Nehru)であった。こうして米系銀行がインドの資金を出すようになり、B・K・ネルーは1961年に駐米大使となった。

 

1961年12月、インドのゴア軍事侵攻が起き、1961年12月19日にポルトガル領インドがインドに併合された。1962年、中印国境紛争が勃発、アクサイチンを失った。1955-63年のソ連圏から低開発諸国向けの経済援助において、全対象29カ国においてインドが最大の被援助国であった(エジプト・インドネシアが順に続いた)。

 

1964年、当時に発生した飢饉を教訓に、インド食料公社(Food Corporation of India)が設立された。生産者から米・小麦・砂糖・食用油などの作物を最低支持価格で買上げ、政府が定める中央卸売価格を基準に公正価格店に卸す体制がつくられた。消費者が妥当な価格で食料を購入できる公平なシステムとされているが、市場原理との齟齬や政府・外資の癒着が問題となってゆく。差し迫った次元では小麦と食用油の完全自給ができていない(2003年でも自給率はそれぞれ85%と68%)。

 

インド国民会議政権

第5・8代首相インディラ・ガンディー

 

1966年から長期にわたってジャワハルラール・ネルーの娘、インディラ・ガンディー国民会議派政権を担った。東西冷戦時代は、非同盟運動に重要な役割を果した国であったが、カシミール問題と、3度の印パ戦争が勃発し、長く対立が続いた。特に第三次印パ戦争(1971年12月3日 - 12月16日)にはソ連とインドが共に東パキスタンを支援して軍事介入し、パキスタンを支援する中華人民共和国と対立した。インドとソ連の関係が親密化したことは、中ソ対立ニクソン大統領の中国訪問(1972年2月)へも大きな影響を与えた。

 

1972年7月、シムラ協定バングラデシュ独立をパキスタンが承認。 1974年5月18日、コードネーム『微笑むブッダ』が成功し、この当時は軍事的利用での目的ではなかったものの、世界で6番目の核保有国となった。 1975-77年に人口抑制策が苛烈となり、貧困層の多い北部の州を中心に精管切除を行った。

 

1976年11月2日、憲法前文に「われわれインド国民は、インドを社会主義・世俗主義的民主主義共和制の独立国家とし、すべての市民に保証することを厳かに決意する。」と議会制民主主義国家であると同時に社会主義の理念が入った。 インディラ・ガンディーは、1977年から80年にかけて一時的に政権を奪われつつも、長期に渡り首相の座を維持したが、1984年6月に実施したシク教過激派に対するブルースター作戦への報復として、同年10月シク教徒のボディガードにより暗殺された。息子のラジーヴ・ガンディーが後任となるも、ラジーヴも1983年に勃発した隣国スリランカ内戦における平和維持軍派遣に対する報復として、1991年5月にタミル系武装組織タミル・イーラム解放のトラ自爆テロで同じく暗殺された。 後を継いだナラシンハ・ラーオ政権では、1991年7月から始まった経済自由化によってIT分野で急成長を遂げた。インドはこの年に外貨保有が尽きて債務不履行となりかけていた。例によって国際的な援助を受けたので、外国企業の出資制限を緩和するなどの優遇措置をとった。

 

1992年12月、アヨーディヤーのイスラム建築バーブリー・マスジドヒンドゥー原理主義者らに破壊される事件が発生、宗派対立となった。

 

インド人民党政権

第13・16代首相アタル・ビハーリー・ヴァージペーイー

 

1996年の総選挙でインド人民党が勢力を伸ばしアタル・ビハーリー・ヴァージペーイー政権が誕生した。ルック・イースト政策を掲げてアジア諸国との関係も重視。1997年6月25日、初の不可触賎民出身の大統領、コチェリル・ラーマン・ナラヤナンが就任。 1998年5月11日と13日、ヴァージペーイー政権がコードネーム『シャクティ』を突如実施。「核保有国」であることを世界に宣言した。

 

5月28日と5月30日にはパキスタンによる初の核実験が成功し、日米がインド・パキスタン両国に経済制裁を課した。1999年5月、パキスタンとのカシミール領有権をめぐる国境紛争がカルギル紛争に発展し、核兵器の実戦使用が懸念された。 2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生し、アフガニスタンに潜伏するターリバーンへの対テロ戦争が優先される形で、インド・パキスタン両国への経済制裁が解除される。以後はIT サービス業を中心に経済成長を続け、ロシアブラジル中国とともにBRICsの一角として注目を集める存在となり、IT分野においてはその技術力が欠かせない存在となっている。中立非同盟とはいえ、アメリカイギリスとも友好な関係をとっている。一方で、中国、パキスタンとは、緊張関係にある。

 

インド国民会議政権

2004年12月26日、スマトラ島沖地震では震源地に近いアンダマン・ニコバル諸島を中心とした地域で、死者12,407人・行方不明1万人以上という激甚災害が発生した。 2008年11月26日、デカン・ムジャーヒディーンによるムンバイ同時多発テロでは、死者172人、負傷者239人を出した。

 

2008年はインド原子力産業の国際的地位が見直された年でもあった。世界金融危機に直面して、オーストラリアをはじめとする世界各地の鉱業は生産量を急ピッチで増やしていた。 2008年、アメリカ合衆国がインドへ原発を輸出しようと原子力協定を締結したのである。印パ・イスラエル核拡散防止条約に調印せず、同条約に基づく国際原子力機関との包括的保障措置協定も結んでいない。原子力供給国グループは上記三カ国との原子力貿易を禁止していた。そしてアメリカは、上記三カ国への原子力資機材や技術等の輸出を規制する国際規範の策定を主導していた。2008年の協定締結後、フランス・ロシア・日本なども相次いでインドと原子力協定を結ぼうとした。

 

インド下院(定数545)の議員を選ぶ総選挙が2009年4月16日にはじまり、5月13日まで5回に分けて実施された。有権者は約7億1400万人。選挙結果は5月16日に一斉開票され、国民会議派は206議席を獲得して政権を維持した。一方最大野党インド人民党 (BJP) は116議席に止まった。 2010年8月、インド北部ジャンムー・カシミール州で洪水が起きた。州東部のレー町の当局者は、死者が165人に達したと発表した。一方、軍当局者は9日洪水の行方不明者は外国人も含めて500人に達したと発表した。

 

インド人民党政権

2014年5月開票の総選挙でインド人民党が大勝して、10年ぶりに政権交代が実現。5月26日、ナレンドラ・モディが第18代首相に就任し、人民党政権が発足した。

 

[地理]・[気候]・[政治]・[経済]・[国際関係]・[宗教]等を含めたインドに関する他の項目の詳細は「インド・[地理]以降」の項目を参照-


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