【トランスヨルダン王国】

ヨルダンの地図

ヨルダン・ハシミテ王国(アラビア語: المملكة الأردنيّة الهاشميّة‎)、通称ヨルダンは、 中東西アジアに位置する立憲君主制国家である。首都はアンマン

 

イスラエルパレスチナ暫定自治区サウジアラビアイラクシリアと隣接する。イスラエル・パレスチナ暫定自治区とはヨルダン川死海が境である。

 

立憲君主制をとり、イスラームの預言者 ムハンマドの従弟アリーとムハンマドの娘ファーティマの夫妻にさかのぼるハーシム家出身の国王が世襲統治する王国である。

 

国民の半数余りは中東戦争によってイスラエルに占有されたパレスチナから難民として流入した人々(パレスチナ難民)とその子孫である。

 

[国名]

 

アラビア語の正式名称は 、المملكة الأردنيّة الهاشميّة(ラテン文字転写 : al-Mamlakah al-Urdunīyah al-Hāshimīyah; アル=マムラカ・アル=ウルドゥニーヤ・アル=ハーシミーヤ)。通称الأردن(al-ʾUrdun; アル=ウルドゥン)。 公式の英語表記は、 Hashemite Kingdom of Jordan。通称 Jordan。 ハーシミーヤは、預言者ムハンマドの曽祖父ハーシムの子孫の家系であるハーシム家を指す。

 

ヨルダンの名称は、国土の西を流れるヨルダン川の名に由来する。ヨルダン川は、ヘブライ語起源の河川名で聖書に名が現われ、アラビア語ではウルドゥン、ヨーロッパ諸言語ではヨルダンあるいはジョルダンとなる。ヨルダン川の名前が国名となったのは、第一次世界大戦後に成立したイギリス委任統治領トランスヨルダン(ヨルダン川の向こうの意)を前身とするためである。

 

日本の外務省では、国名はその英語発音をカタカナで表記する外務省内の慣習があったため、「ジョルダン・ハシェミット王国」としていたが、2003年に、「ヨルダン・ハシミテ王国」という表記に変更した。 ヨルダンの国名は他に、「ヨルダン・ハーシム王国」などと表記することもある。

「例」 愛知万博(2005年日本国際博覧会):「ヨルダン・ハシミテ王国」、大辞泉:「ヨルダン・ハシミテ王国」、ブリタニカ国際百科事典:「ヨルダン・ハーシム王国」

 

[歴史]

詳細は「ヨルダンの歴史」を参照

 

ヨルダンの国土は、およそ50万年前の 旧石器時代から人類が住み着いていたことが知られ、紀元前8000年紀には人類最古級の農業が営まれた。西アジアに文明が発達すると交易の中心地として栄え、紀元前13世紀頃からは エドム人が住み着き、アンマンには 旧約聖書に登場するアンモン人の国があった。紀元前1世紀頃には南部に ペトラ 遺跡を残した ナバテア王国 が発展するが、紀元1世紀から2世紀に ローマ帝国 に併合された。 7世紀にはイスラム帝国 の支配下に入りアラビア語イスラム教が浸透してアラブ化・イスラム化が進んだが、ダマスカスに都したウマイヤ朝が滅び イスラム世界 の中心がシリア地方から離れると、その辺境として都市文明も次第に衰えていった。

ヨルダンとアラビアの反乱騎兵(1918年)

19世紀に入ると、当時この地方を支配していた オスマン帝国は、 ロシアから逃亡してきた チェルケス人をシリア地方の人口希薄地帯に住まわせるようになり、次第に活気付き始めた。

 

第一次世界大戦後の1919年に イギリス委任統治領パレスチナに組み入れられ、1923年に ヒジャーズ王国を設立した ハーシム家 アブドゥッラー・ビン=フサインが迎え入れられてトランスヨルダン王国が成立した。この政府に対するイギリスの代表者は最初は T・E・ロレンス、ついで ジョン・フィルビーであり、パレスチナの高等弁務官の管轄下にあった。

 

トランスヨルダン王国は 第二次世界大戦後の1946年に独立し、1949年に国名をヨルダン・ハシミテ王国に改めた。1950年には、 エルサレムを含むヨルダン川西岸地区を領土に加えたが、1967年の 第三次中東戦争イスラエルに奪われる。中東戦争は、イスラエルに占領された地域から大量のパレスチナ人の流入をもたらし、加えて1990年代以降には、民主化に伴い王室の近代化主義に反対する保守派やイスラム主義派が台頭して国内の不安定要因となっている。

 

[政治]

ワシントンを訪問する国王アブドゥッラー2世と王妃ラーニア

(2007年)

1952年1月8日に制定された憲法に基づいた、国王を元首とする立憲君主制 であり、君主は 世襲制となっている。国王は内閣と共に 行政権を執行する。二院制の議会を有している。

 

反政府抗議運動:

ジャスミン革命アラブの春)の影響で、首相を国王が任命するのでは無く国民に直接選ばれた議会が選出する 議院内閣制への移行と選挙法改正を要求するため、主に ムスリム同胞団アラブ民族主義政党、左派政党らが結集してアンマンなどで抗議デモが実施された。

 

また、国王の長年の支持基盤だったベドウィンの部族長らもアブドゥッラー2世国王に対して、ラーニア王妃とその一族の浪費癖を批判する声明を出している。しかし、いずれも王制打倒を求める反体制運動には到っていない。


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