【アブドゥッラー1世】

アブドゥッラー1世・ビン・アル=フサイン(Abdullāh al-Auwal bin al-Ḥusain、1882年2月 - 1951年7月20日)は、 ヨルダン の初代国王(1921年4月11日 - 1951年7月20日)。現実主義な政治家であったという。

アブドゥッラー1世

[生涯]

 

メッカ の大首長である フサイン・イブン・アリー の次男としてメッカで誕生した。

1916年の アラブの反乱 に参加。1920年に シリア ダマスカス でのアラブ民族会議で初代 イラク 国王に、弟の ファイサル は初代 シリア 国王に選出されるが、同年6月 フランス のダマスカス占領及び弟のファイサルのシリアからの追放が起こり、これに対して、ファイサルのシリア王権を支持するために軍を率いて北上した。このため イギリス は、ファイサルに イラク王国 を与え、アブドゥッラーについては、 委任統治領パレスチナ となる予定の地域のうち ヨルダン川 東部の広大な乾燥地帯に「トランスヨルダン王国」の建国を認めると提案したために、アブドゥッラーはこれを受け入れ、トランスヨルダン国王となった。

 

アブドゥッラーは ユダヤ人 シオニスト 運動を歓迎していたとされる。

1928年には ロンドン ハイム・ヴァイツマン と会い、 ヨルダン川西岸 のユダヤ人入植地を認める代わりにアミール(首長)の地位拡大を支持するよう頼んだとされる。

 

なお、ヨルダンは1927年に 立憲君主国 となるが、イギリスの保護下に置かれた。1946年に正式に独立国家となる。

 

第一次中東戦争 ではアラブ側の主力である アラブ軍団 を率いて アラブ連盟 から全戦線を指揮する「全アラブ軍最高司令官」に任じられたが、 サウジアラビア に奪われた故郷メッカの代わりに 東エルサレム を征服することで新たなアラブの盟主になろうとしたアブドゥッラーの野心を恐れた各国の思惑によって形式的な権限に留まった。また、秘密裡に イスラエル と外交交渉を重ねていた。

 

1948年にはエリコ会議を開いて「パレスチナの王」になるも、他のアラブ諸国から 民族自決 に反するとして反発を招く。アブドゥッラーとイスラエルの接触を知り、 ヨルダン川西岸 を占領したヨルダンに対抗して ガザ 全パレスチナ政府 を打ちたてた アミーン・フサイニー におくりこまれた過激派パレスチナ人 ムスタファ・シュクリ・アシュによって1951年7月20日、エルサレムを訪問中に暗殺された。遺体は本人の生前の希望により死没地である アル=アクサー・モスク に埋葬された。


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