【ナバテア人&ナバテア王国】

紀元前2世紀頃から紀元2世紀にかけて半島西北部に栄えたナバテア人の祖先は、遊牧生活を送り交易などを行いながらペトラに移動してきた。 ペトラのあるアラバ渓谷には紀元前1200年頃からその名が赤い砂岩に由来するエドム人が住んでいた。

 

ナバテア人の人口が増え、定住生活に移行すると、エドム人達を南へ追いやり、そこに王国を築いた。 それは初代ナバテア王アレタス1世(c. 168BC)の名の刻まれたナバテア碑文から紀元前2世紀前半頃のことだと思われる。  

 

ナバテア人は紀元前1世紀頃までにはヒジュル(マダーイン・サーリフ=現サウジアラビア領内に存在していた古代都市)、ドゥーマ・ジャンダル(紀元前8世紀から紀元前7世紀にかけて存在した半島北部の沙漠の王国)および涸れ谷シルハーン(アラビア半島北部内陸の砂漠に位置し、サウジアラビアのジャウフ州からヨルダンのアンマン付近近まで延びる窪地)の覇権を握り、半島北西部の交易を独占した。 潅漑・貯水技術に長けていたので首都ペトラは沙漠の都市ではあっても必要な水は確保され、シルクロードの隊商都市として繁栄していた。 遠く離れたヒジュルやドゥーマ・ジャンダルと国家として一体化する為に涸れ谷シルハーンは、ナバテア王国支配の生命線であった。  

 

ナバテア王オボダス3世(紀元前30年 - 紀元前9年)の治世にローマ初代皇帝(紀元前27年 - 紀元14年) アウグストゥスは乳香の産地イエメンまでの交易路を求めていた。 紀元前25年にアウグストゥスはエジプト総督アエリウス・ガルスに命じて半島南部に遠征させた。そしてその道案内をナバテア王に指示した。

 

当時の首相シラエウスは乳香貿易の富みをローマが直接イエメンと交易する事で奪われるのを恐れた。 シラエウスはローマ軍の遠征に対して面従腹背の態度を取り、案内の途中でその配下と共に様々な妨害を狡猾に行った。 ガルスはナジュラーン(サウジアラビア南西部にあるナジュラーン州の州都)まで2,500km進軍し、ナジュラーンを包囲し、略奪して焼き払った。更に進撃しマアリブ(イエメンの都市。首都サナアの東、ルブアルハリ砂漠の西に位置する)を包囲した。 しかしながらガルスの軍隊は水不足の為に 6日間だけでマアリブから退却せざるを得ず、乳香生産地には辿り着けなかった。

 

この遠征の失敗を招いた原因であった首相シラエウスは、その後にローマに対するこの裏切りで処罰され、 さらに別の件でシラエウスはローマを怒らせ崖から投げ落とされて殺された。 一方ガルスはエジプトに退却したが、その艦隊は印度へのローマ商船の航路を確保する為にアデン港(アラビア半島南端、アデン湾に面するイエメンの港)を破壊した。 この遠征が成功しなかった為にローマ人達は1世紀から定期的に乳香と没薬の地に紅海経由で訪れた。 それが結果的に紅海沿岸のムザ(イエメン領モカ)やアラビア海沿岸のカーナー等の半島南部の港を発展させることとなった。  

 

交易により巨万の富を築いたナバテア王国は、紀元前1世紀頃よりその隊商路に沿う形で領土をさらに拡張して行った。 アレタス4世(9年 - 紀元40年)治世下の紀元後1年にはその領土をダマスカスからヒジャーズ地方(現サウジアラビア王国の北西部)までの沙漠周辺部とネゲブ地方(イスラエル南部の砂漠地方)まで広げ メソポタミアや半島南部から地中海に至るほぼ全ての隊商路を掌握した。

 

 

これに対してローマ帝国は香料と香水の船積みをエジプトに変えた。 当時のナバテア王マリシャス2世(紀元40年 -70年)はローマの圧倒的な勢力下ではその決定に従わざるをえなかった。 その結果としてナバテア王国の勢力は衰えた。

 

紀元106年にはローマ皇帝トラヤヌス(紀元53年 -117年))によりペトラとナバテア王国はローマのアラビア属州として完全に組込まれてナバテア王国は滅亡した。

 

出典:古代から続く歴史 著:高橋俊二