【十字軍】

十字軍(ラテン語:cruciata、英語:crusade)とは、中世に西ヨーロッパのキリスト教、主にカトリック教会の諸国が、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことである。

 

実態は必ずしも「キリスト教」の大義名分に当て嵌まるものではなく、中東に既にあった諸教会(正教会・東方諸教会)の教区が否定されてカトリック教会の教区が各十字軍の侵攻後に設置されたほか、第4回十字軍や北方十字軍などでは、正教会も敵として遠征の対象となっている。また、目的地も必ずしもエルサレム周辺であるとは限らず、第4回以降はイスラム最大勢力であるエジプトを目的とするものが多くなり、最後の十字軍とされることもあ る第8回の十字軍は北アフリカのチュニスを目的としている。

第1回十字軍によるアンティオキア攻囲戦

【十字軍遠征までの経緯】

トルコ人のイスラム王朝であるセルジューク朝にアナトリア半島を占領された東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世コムネノス(在位1081年-1118年)が、ローマ教皇ウルバヌス2世に救援を依頼したことが発端(1095年)。このとき、大義名分として異教徒イスラム教国からの聖地エルサレムの奪還を訴えた。

この時皇帝アレクシオスが要請したのは東ローマ帝国への傭兵の提供であり、十字軍のような独自の軍団ではなかった。

 

ウルバヌス2世は1095年11月にクレルモンで行われた教会会議(クレルモン公会議とも)の終わりに、集まったフランスの騎士たちに向かってエルサレム奪回活動に参加するよう呼びかけた。彼はフランス人たちに対して聖地をイスラム教徒の手から奪回しようと呼びかけ、「乳と蜜の流れる土地カナン」という聖書由来の表現をひいて軍隊の派遣を訴えた。彼がフランス人に、神のために武器をとるようにと呼びかけると、人々は "Dieu le veult!"(神の御心のままに!)と答えたという。

 

なお、本稿では十字軍の回数を8回とする。解釈によってその回数には差異がある。第1回から第4回までは多くの歴史記述で共通であるが、たとえば第5回(1218年-)を数えない説があったり、第6回(1228年-)は破門皇帝による私的な十字軍(フリードリヒ十字軍)として数えない例もあった。1270年の聖王ルイの出征まで8回(または7回)とすることが多いが、異論もある。なお、回数で名付けられている主要な十字軍の他、個々の諸侯が手勢を引き連れて聖地に遠征する小規模な十字軍も多く存在した。また、巡礼で聖地に到着した騎士や兵士が現地でイスラム勢力との戦闘に参加するのも、聖地にそのまま住みついた騎士らや聖地で生まれ育った遠征軍の末裔らが作る十字軍国家が継続的にイスラム諸国と戦うのも、十字軍である。その他、第1回十字軍時の庶民十字軍、少年十字軍、羊飼い十字軍などの大小の民衆十字軍が起こっている(大部分は聖地にたどり着けていない)。

十字軍の遠征路8回のうち、第3回、第4回、第7回、第8回は主な遠征路が海路となっている。

なお、第5回と第6回は図上に示されていない。

【民衆十字軍】

[1096年]

クレルモン公会議の決定を受けてヨーロッパ各地の諸侯や騎士は遠征の準備を始めたが、十字軍の熱狂は民衆にも伝染し、1096年、彼らの出発する数ヶ月前に、フランスで説教師のアミアンの隠者ピエールに率いられた民衆や下級騎士の軍勢4万人がエルサレムを目指して出発した。これが民衆十字軍と呼ばれるものである。民衆十字軍は東上の途中でユダヤ人を各地で虐殺し、ハンガリー王国やビザンツ帝国内で衝突を繰り返しながら小アジアに上陸したものの、統制の取れていない上に軍事力も弱い民衆十字軍はルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスラーン1世によって蹴散らされ、多くのものは殺されるか奴隷となり、なんら軍事的成果を上げることもなく崩壊した。しかしピエールらごく一部は生き延び、第1回十字軍へと再び参加した。

隠者ピエールに率いられた民衆十字軍

1回十字軍】

[1096年 - 1099年]

セルジューク朝の圧迫に苦しんだ東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスの依頼により、1095年にローマ教皇ウルバヌス2世がキリスト教徒に対し、イスラム教徒に対する軍事行動を呼びかけ、参加者には免償(罪の償いの免除)が与えられると宣言した。この呼びかけにこたえた騎士たちは1096年にエルサレム遠征の軍を起こした。同年12月には各地から出発した諸侯はコンスタンティノープルに集結したものの、民衆十字軍の醜態を見ていた東ローマ皇帝は彼らに信をおかず、十字軍に臣下の誓いと旧帝国領の返還、聖地周辺の征服時には新国家を東ローマの宗主権下に置くことを求めた。

これをのんだ十字軍はニカイア攻囲戦やドリュラエウムの戦いなどでイスラム軍を撃破し、アナトリアからシリアへと進軍していった。

エルサレム攻囲戦

途上、イスラム教徒支配下の都市を攻略し虐殺、レイプ、略奪を行いながらエルサレムを目指した。イスラム教徒の諸領主は、十字軍の行動にまとまりがなく、行為も残虐な強盗・レイプ・殺人の繰り返しという野蛮さから、この集団が宗教的背景を持った侵略者だと気付かず、野蛮な西欧の強盗団が強大になったものだと考えていた。

 

一説によるとこのとき十字軍は、イスラム教圏で老若男女問わず一方的に7万人以上も虐殺をしたともいわれる。

 

平和に暮らしていたイスラム教徒の諸領主はこの殺人集団に対する大した備えもなく一致団結することもできず、十字軍の残虐非道ぶりから十字軍の襲撃を聞くだけで震え上がって敗走するか戦わずして十字軍を通した。

 

一方、十字軍側も分派や内部対立が目立ち始めた。 1098年にはブルゴーニュ伯ボードゥアンがユーフラテス川上流部のエデッサに分派して進軍し、エデッサ伯国を立てた。本隊は1097年から1098年にかけてシリア北部の大都市アンティオキアでアンティオキア攻囲戦を戦い勝利したが、主要な将軍の一人であるボエモンがここにとどまって領主となる姿勢を見せ、ボエモン1世 (アンティオキア公)となった。残る本隊はレーモン・サン・ジルとゴドフロワ・ド・ブイヨンらに率いられてなおも南下し、1099年、軍勢はついにエルサレムの征服に成功した。

 

エルサレムにおいても十字軍は城内のイスラム教徒やユダヤ教徒の虐殺と略奪を行った。その後、ゴドフロワ・ド・ブイヨンがエルサレムの王となり、レーモンは海岸部のトリポリの伯となった。

 

この十字軍の結果、シリアからパレスチナにかけての中東地域にエルサレム王国、エデッサ伯国、トリポリ伯国、アンティオキア公国の主要4国をはじめとするいくつかの十字軍国家がつくられた。この成功に刺激され、1101年にも大規模な聖地遠征が行われたが、小アジアで壊滅し聖地にたどり着けたのは少数だった。

 

[1101年の十字軍]

この成功に刺激され、1101年にも大規模な聖地遠征が行われた。この集団は各国から集まった庶民、第一回に従軍した領主や兵士が含まれていた。数団体に分かれてコンスタンティノープルを経由して陸路から小アジアに侵入したが、イスラム国家の連合軍の攻撃により壊滅し逃走、多くが死亡するか奴隷とされ、カイロを迂回するなどして聖地にたどり着けたのは少数だった。

 

[ノルウェー十字軍]

1107年の秋から1110年にかけて、ノルウェー王シグル1世は直々に60隻の船とおおよそ5000人の兵を率いて聖地に向かった。シグル1世は聖地に十字軍として向かった最初の欧州の王である。各地の統治者の助力を得ながら、英国からジブラルタル、地中海そして聖地へと航海をし各地でイスラム勢力と交戦・略奪を繰り返しつつ、1110年に聖地に達した。

 

このノルウェー十字軍は以前のヴァイキングの行動に類似しているが、キリスト教的目的もある程度達成している。その後一行はコンスタンティノープルから陸路で欧州を縦断し、行路のブルガリア、神聖ローマ帝国、デンマークなどの助力を得つつ、1113年にノルウェーに帰還した。

【第2回十字軍】

1142年のヨーロッパの状勢

しばらくの間、中東において十字軍国家などキリスト教徒と、群小の都市からなるイスラム教徒が共存する状態が続いていたが、イスラム教徒が盛り返し、1144年にザンギーがエデッサ伯国を占領したことでヨーロッパで危機感が募り、教皇エウゲニウス3世が呼びかけて結成された。

 

当時の名説教家クレルヴォーのベルナルドゥスが教皇の頼みで各地で勧誘を行い、フランス王ルイ7世と神聖ローマ皇帝コンラート3世の2人を指導者に、多くの従軍者が集まったが全体として統制がとれず、大きな戦果を挙げることなく小アジアなどでムスリム軍に敗北した。

 

なんとかパレスチナにたどりついた軍勢も、当時十字軍国家と友好関係にあったダマスカスを攻撃したが失敗し、フランス王らは撤退した。

【第3回十字軍】

[1189年 - 1192年]

1187年にアイユーブ朝はジハード(聖戦)を宣言。アイユーブ朝の始祖でありイスラムの英雄であるサラーフッディーン(サラディン)は同年7月のヒッティーンの戦いで現地十字軍国家の主力部隊を壊滅させ、10月にはおよそ90年ぶりにエルサレムがイスラム側に占領、奪還された。

 

その後もサラディンの軍は快進撃を続け、同年中にはアンティオキア、トリポリ、トルトザ、ティルスの4市とクラック・デ・シュヴァリエなど若干の要塞を除く十字軍国家のすべてがアイユーブ朝の手に落ちた。

 

この状況を受け、教皇グレゴリウス8世は聖地再奪還のための十字軍を呼びかけ、イングランドの獅子心王リチャード1世、フランス王フィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が参加した。フリードリヒ1世は1190年にキリキアで川を渡ろう としたところ、落馬し、鎧のために溺死した。

 

あとを継いだイングランドとフランスの十字軍が1191年にアッコンを奪還した。その後フィリップ2世は帰国し、リチャード1世がサラーフッディーンと休戦協定を結んだことで聖地エルサレムの奪還は失敗に終わった(アッコンを確保したことでエルサレム巡礼の自由は保障された)。しかしエルサレム陥落とヒッティーンの戦いの後遺症は大きく、以後十字軍国家は守勢に回ることとなった。

イスラム諸国の英雄サラディン

【第4回十字軍】

[1202年 - 1204年]

ローマ教皇インノケンティウス3世の呼びかけにより実施。エルサレムではなくイスラムの本拠地エジプト攻略を目ざす。しかし渡航費にも事欠くありさまで、十字軍の輸送を請け負ったヴェネツィアの意向を受けて輸送料の不足分支払のためハンガリーのザラ(現クロアチアのザダル)を攻略、同じキリスト教国を攻撃したことで教皇から破門される。ついで東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを征服、この際十字軍側によるコンスタンティノポリス市民の虐殺や掠奪が行われた。

フランドル伯ボードゥアンが皇帝になりラテン帝国を建国。やむなく教皇は追認し、さらにエルサレムを目指し遠征するよう要請するが実施されなかった。

十字軍のコンスタンティノープルへの入城

(ウジェーヌ・ドラクロワ、1840年作)

東ローマ帝国はいったん断絶し、東ローマの皇族たちは旧東ローマ領の各地に亡命政権を樹立した(東ローマ帝国は57年後の1261年に復活)。

 

なお、このコンスタンティノポリスの攻防を巡ってはジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアン (十字軍側)とニケタス・コニアテス(東ローマ側)という2人の優れた歴史家が記録を遺していることでも知られている。

【第5回十字軍】

[1218年 - 1221年]

教皇ホノリウス3世の呼びかけに応じたハンガリー王アンドラーシュ2世、オーストリア公レオポルト6世らがエルサレム王国の国王ジャン・ド・ブリエンヌらとアッコンで合流し、アンドラーシュ2世は帰国したものの、レオポルトやジャンらはイスラムの本拠であるエジプトの攻略を目指した。1218年にエジプトの海港ダミエッタを包囲し、1219年に攻略。レオポルトやジャンは帰国したものの、1221年には神聖ローマ皇帝のフリードリヒ2世からの援軍を受け攻勢に出たが、エジプト軍を打ち破ることができず失敗に終わった。

 

この頃、遙かアジアの彼方から謎のキリスト教国プレスター・ジョンが大軍を率いて十字軍を救出するという情報を聞き、彼らに呼応して挙兵したと言われている。しかし現実にはその大軍が、後にヨーロッパ全土を震撼させるモンゴル帝国の来襲である事を彼らは知るよしもなかった。

【 第6回十字軍】

[1228年 - 1229年]

グレゴリウス9世は、十字軍実施を条件に戴冠した神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ2世に対して度々遠征を催促していたが、実施されないためフリードリヒを破門した。1228年になって、破門されたままフリードリヒは遠征。

 

当時エジプト・アイユーブ朝のスルタンアル・カーミルは内乱に悩まされており、フリードリヒの巧みな外交術もあって、戦闘を交えることなく1229年2月11日に平和条約(ヤッファ条約)を締結。

 

フリードリヒは、聖墳墓教会はキリスト教徒に返されるがウマルのモスクとアル・アクサ寺院はイスラムが保持するとの条件でエルサレムの統治権を手に入れた。

 

フリードリヒ2世とアル=カーミルの交渉 。

フリードリヒ2世:左から2番目の人物

アル=カーミル:中央の人物

教皇グレゴリウス9世は、カトリック教会を破門されたままであった皇帝フリードリヒ2世がエルサレムの王となったことを口実に、フリードリヒに対する十字軍を実施したが皇帝軍に撃退され、1230年にフリードリヒの破門を解いた。

 

1239年から1240年に、フランスの諸侯らが遠征したが、第6回十字軍と同じく戦闘は行わないまま、アイユーブ朝との交渉によってガリレア地方とアスカロンを獲得し、帰還した。

【 第7回十字軍】

[1248年 - 1249年]

アル・カーミルの死後、1244年にエルサレムがイスラム側に攻撃されて陥落、キリスト教徒2000人余りが殺された。これを受け、1248年にフランスのルイ9世(聖王ルイ)が十字軍を起こす。

 

ルイも第5回や第6回と同じくイスラム教国中最大の国家であるエジプトへと遠征し海港ダミエッタを占領するが、さらに南の首都カイロを目指す途中の1250年2月にマンスーラの戦いにおいてアイユーブ朝のサーリフ(サラディン2世)に敗北して捕虜になった。交渉途中にサーリフは死亡し、サーリフの遺児の政権は軍人集団のマムルークのクーデターによって打倒され、新たに成立したマムルーク朝にルイは莫大な賠償金を払って釈放された。

【第8回十字軍】

[1270年]

フランスのルイ9世が再度出兵。当時ハフス朝の支配下にあった北アフリカのチュニスを目指すが、途上で死去。

【第9回十字軍】

[1271年 - 1272年]  

第8回からの一連の流れにあるため、第8回十字軍の一部として独立した十字軍とは見なさない場合がある。

 

マムルーク朝の第5代スルタンとなったバイバルスの元でイスラム側は攻勢を強め、1268年にはアンティオキアを陥落させてアンティオキア公国を完全に滅亡させた。このときバイバルスがアンティオキア住民のすべてを殺害、または奴隷にし、都市を完全に破壊した。これがキリスト教圏を刺激し、1271年にイングランド王太子エドワード(エドワード1世)とルイ9世の弟シャルル・ダンジューがアッコンに向かったが、マムルーク朝の勢力の前に成果を収めず撤退した。

 

以後、レバントにおける十字軍国家は縮小の一途をたどり、1289年にはトリポリ伯国が滅亡し、1291年にはエルサレム王国の首都アッコンが陥落して残余の都市も掃討され、ここに十字軍国家は全滅した。

 

ヨーロッパ側がエルサレムを確保した期間は1099年から1187年、および1229年から1244年ということになる(以後、20世紀までイスラムの支配下に置かれる)。

1291年のアッコン包囲戦を描いた油絵。

城壁上で斧を振り上げる赤い外衣が聖ヨハネ騎士団員。その横で槍を振るう白い外衣がテンプル騎士団員である。

1845年、ドミニク・ルイ・パプティ作。

【 その他の十字軍 】

一般的に十字軍といえば上記のエルサレムやイスラム諸国を目指した十字軍をさすが、十字軍とは教皇が呼びかけ、参加者に贖宥を与える軍事行動に与えられる名称であるため、上記のほかにもさまざまな十字軍が行われた。

 

これらの十字軍を大別すると、

①旧キリスト教圏の回復・奪回

②異端への討伐軍

③教皇に敵対する勢力への軍事行動

④異教徒への布教・征服 の4つに分けられる。

 

上記のエルサレム十字軍やレコンキスタなどはキリスト教圏の回復、アルビジョア十字軍は異端討伐、北方十字軍は異教徒への布教征服に該当する。

 

[レコンキスタ]

イベリア半島においては、キリスト教国だった西ゴート王国が711年にウマイヤ朝に敗れて滅亡した後、北部のキリスト教勢力と中南部のイスラム勢力とが抗争を繰り返していた。1031年に後ウマイヤ朝が滅亡するとキリスト教勢力の南進がすすみ、このなかで1064年に教皇アレクサンドル2世によってはじめて異教徒との戦いに贖宥が与えられ、以後の十字軍にも取り入れられた。

 

パレスチナ十字軍の開始後も歴代教皇はたびたびイベリア半島に十字軍を宣し、なかでも教皇インノケンティウス3世が1212年にイベリア半島の諸キリスト教国家の戦闘停止とムワッヒド朝に対する一致団結を求めた十字軍は、同年のラス・ナバス・デ・トロサの戦いに勝利を収め、以後キリスト教勢力は急速に勢力を拡大して1251年までにグラナダのナスル朝を除くすべてのイベリア半島を手中に収めた。

 

[北方十字軍]

バルト海沿岸には古来ヴェンド人や古プロイセン人、エストニア人、リトアニア人といった非キリスト教徒が居住していた。第2回十字軍が提唱された時、ドイツ北部の諸侯はエルサレムではなく隣接するこの地域への出兵を望んでいたため、1147年にこれらの北方異教徒への十字軍が認められ、ヴェンド十字軍が行われた。

 

その約50年後、1193年に教皇クレメンス3世が再びバルト海沿岸の非キリスト教徒に十字軍を宣し、北方十字軍が開始された。当初はリヴォニア帯剣騎士団、やがてパレスチナよりイスラム教徒によって追放され北へと転進したドイツ騎士団によって毎年十字軍が行われ、この地方にドイツ人の植民が進んだ。

 

[アルビジョア十字軍 1209年-1229年]

1209年、南フランスで盛んだった異端カタリ派を征伐するために、ローマ教皇インノケンティウス3世が呼びかけた十字軍。レスター伯シモン・ド・モンフォールに率いられた十字軍は各地で殺戮を行い、これに反発した南フランス諸侯の反撃はあったものの、フランス国王ルイ8世の主導の下十字軍は南フランスを制圧し、1229年に終戦した。

 

[羊飼い十字軍]

1251年と1320年-1321年との二度ある。1321年には3万人がスペインのトゥデラを襲い、現地のユダヤ人を殺戮した。


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