【サラディン】

サラディン(サラーフ・アッ=ディーン、アラビア語: الملك الناصر أبو المظفّر صلاح الدين يوسف بن أيّوب ‎ al-Malik an-Nāṣir ’abū al-Muẓaffar Ṣalāḥ ad-Dīn Yūsuf bun ’ayyūb、クルド語:Selaheddînê Eyûbî、1137年または1138年 - 1193年3月4日)は、エジプト、アイユーブ朝の始祖。

 

現イラク北部のティクリート出身で、アルメニアのクルド一族の出自である。

 

本名をユースフ(・ブン・アイユーブ)(アイユーブの息子ユースフの意。ユースフはヨセフの、アイユーブはヨブのアラビア語形。)。サラーフッディーン Ṣalāḥ al-Dīn とは「宗教/信仰(Dīn)の救い(Ṣalāḥ)」を意味するラカブである。同時代の十字軍側のラテン語資料などではSalahadinus(サラハディヌス)または Saladinus(サラディヌス)などと称し、これを受けて欧米では慣習的に Saladin(サラディン)と呼ばれる。

 

[生涯]

サラーフッディーン

生い立ち

ヒジュラ暦532年(西暦では1137年または1138年)、イラク北部の町ティクリート(タクリート)に生まれ「ユースフ」と名付けられた。ほかに4人の兄弟がいたがユースフが何番目の子であったかは不明であり、母親についての情報もほとんど残されていない。

 

父のナジムッディーン・アイユーブはセルジューク朝治下ティクリートのクルド人代官であったが、ユースフが生まれて間もない1138年頃、兄弟のアサドゥッディーン・シール・クーフがキリスト教徒の官吏を誤って殺害したため、一家もろともティクリート追放の憂き目にあった。

 

アイユーブはかつてザンギー朝の創始者、ザンギーがバグダードでの戦に敗れモースルへ逃れる際に手助けしたことがあり、アイユーブとシールクーフの兄弟はその時の恩義からザンギーの軍団長に迎えられ、さらにはバールベックに領地を与えられた。そのため、ユースフは少年時代をここで送ることになった。

 

バールベックは穀物や果物を産する豊かな町で、後に晩年のサラディンに仕え伝記『サラディン伝』を著したイブン・シャッダード (Baha ad-Din ibn Shaddad) は、想像も込めて「ここで性格の良さが育まれた」と述べている。

 

1146年にザンギーが手下のマムルーク(奴隷兵)に暗殺されると、ダマスクス総督でブーリー朝のアタベク・ムイーヌッディーン・ウナルは軍を派遣してアイユーブの守護するバールベックを包囲攻撃した。アイユーブはこれをよく耐えて、最後はバールベックを明け渡す代わりに、いくばくかの保障金の支払いとダマスクス近郊の村落のいくつかを交渉によって要求しこれの獲得に成功した。

 

これによりアイユーブは名目上セルジューク家へ臣従し、ユースフはじめその家族は父とともにダマスクスへ移住する事となった。この時ユースフは8歳ほどであり、エジプトで権力を確立する30代前半までをダマスクスで過ごす事になる。

 

ヌールッディーンへの伺候

15世紀の装飾写本中の「エジプトの王、サラディン」

1152年、成人とみなされる数え年15歳に達したユースフ(以下サラディン)は、ダマスクスの父のもとを発ち、ザンギーの息子でザンギー朝の西半分を相続し、シリアに勢力を持つアレッポの君主ヌールッディーン・マフムードの許に伺候した。

 

ここでヌールッディーンの重臣となっていた叔父のシール・クーフに仕えたが、彼のとりなしによって主君ヌールッディーンからこの年齢でイクターを授与された。

 

1154年にヌールッディーンはダマスクスをはじめシリア内陸部の主要都市をほぼ全て手中にした。このダマスクス開城には、エルサレム王国に救援要請を行ったブーリー家に不満をもつムスリム住民たちに和してこれを弾劾するヌールッディーン側の巧みな宣伝工作と、ダマスクスに残っていたナジュムッディーン・アイユーブとヌールッディーン側にいた弟シール・クーフが連係して内応していたことが大きいと言われている。このダマスクス開城での功績によってアイユーブはヌールッディーンに仕える事となり、さらにダマスクスの統治権を安堵された。

 

サラディンは若年ではあったが、これに伴いダマスクスの軍務長官(シフナ)職と財務官庁(ディーワーン)の監督職を任された。数日で財務長官(サーヒブ・ディーワーン)のアブー・サーリムと確執が生じ早々にこれを辞職したが、ヌールッディーンはサラディンに味方してアブー・サーリムを叱責するなど、主君ヌールッディーンや叔父シール・クーフからの愛顧は大変に篤かったようである。以後もヌールッディーンの側近として青年期を通じ常に主君の戦闘や行政に近侍していた。

 

青少年時代のサラディンは主君や叔父に扈従・同伴して各地を転戦したが、余暇には主君や同僚たちとポロ(kura)や学問に興じ、特にポロには優れた技量を発揮したと言う。

 

また、若い頃から智勇に長け、特に1164年のエジプト遠征では、勝利に貢献する大功を挙げた。

 

エジプト遠征とその獲得

1160年代に行われたヌールッディーンのエジプト遠征は都合3回行われている。シール・クーフはじめアイユーブ家所縁の武将が何人も参加しており、サラディンもこれらの遠征に参戦している。

 

ー第一回エジプト遠征ー

1163年9月にエルサレム王アモーリー1世はスエズを越境しファーティマ朝治下の下エジプトに侵攻した。しかしちょうどナイルの増水の季節とぶつかったためファーティマ朝側は堤防を切ってナイルデルタ東部のビルバイスに足留めさせ、十字軍は侵攻を断念して撤退した。

 

この1163年にファーティマ朝内部の政争に敗れ宰相職を逐われた上エジプトのナーイブ(君主の地方代理人=総督職)であったシャーワル(Shā'war)なる人物が、ヌールッディーンのダマスクス宮廷を訪れ援軍要請を求めてきた。ヌールッディーンはこれをエジプト介入の好機と捕らえ、シール・クーフにザンギー朝のシリア軍からエジプト派遣軍の編成を命じた。

 

これがザンギー朝のヌールッディーンによる第一回のエジプト遠征となった。 この時サラディンは叔父の幕僚として参画しエジプトへ同行した。サラディンは当初エジプト遠征に参加することを酷く嫌ったようで、シール・クーフの再三の説得によって同行を承諾したと伝えられている。

 

1164年5月にシール・クーフ率いる派遣軍はエジプトに到着。シャーワルは宰相職に復権した。しかし派遣軍によるエジプトの占領を恐れた彼はエジプトからの退去をシール・クーフらに要求し、さらに秘かにアモーリー王に援軍を求めた。派遣軍はビルバイスで足留めされ、市街近郊に迫ったエルサレム王国軍とファーティマ朝軍に包囲されるに及んで身代金の支払いと引換えにエジプトから退去することとなった。

 

かくして最初のエジプト遠征は完全な失敗に終わった。はかばかしい成果がなく軍が撤退したためサラディンの活躍は伝えられていない。

 

ー第二回エジプト遠征ー

シール・クーフはシリアに帰還すると雪辱を果たすべくただちに再度の遠征の準備を始め、ヌールッディーンもこれに協力して親衛軍の一部を割いて1万2千騎の遠征軍を組織した。(ただしこの数字はアイユーブ朝時代のシリア軍団のイクターの受益資料の規模からすると多少の誇張が含まれていると思われる)

 

1167年初めにシール・クーフ率いるシリア勢の第二回エジプト派遣軍がダマスクスを出発。シャーワルはこの報を聞くとただちにアモーリー王に再び援軍を要請した。シリア軍とエルサレム王国軍はほぼ同時にエジプトに到着したようで、エジプト軍とエルサレム王国軍は連合してシリア軍を攻撃した。

 

この戦いは上エジプトのバーバインにて行われ、激闘の末シールクーフ麾下のシリア軍が勝利した。 この戦いの後シリア軍への支持を表明していたナイルデルタ西部の主要都市アレクサンドリアへ駐留したシール・クーフが上エジプトへの偵察行に出ていた間隙を突いて、エジプト・エルサレム王国連合軍がアレクサンドリアを包囲攻撃した。

 

サラディンはアレクサンドリアの守備を任されていてこの攻撃に対して三ヶ月間耐え切り、連合軍側と交渉して外国軍勢はエジプトから撤退するとの協定を結ばせることに成功した。

 

こうして第二回エジプト遠征も何らの成果を挙げられずにシリア軍はダマスクスまで撤退することとなったが、このアレクサンドリア包囲戦での活躍が、サラディンの最初の歴史的軍功となった。

 

エルサレム王国との戦い

ヒッティーンの戦いの後のサラディン

1169年に叔父が大食漢であったことが原因で死ぬとその軍権を引継ぎ、さらにファーティマ朝の宰相にも就任してエジプト全土を掌握すると、同年にアイユーブ朝を創設した。

 

1171年にカリフ・アーディドが世継ぎを儲けぬまま病没したことによりファーティマ朝が滅亡した。

 

事実上、大国エジプトを完全に支配下においたサラディンであったが、主君ヌールッディーンから領土的野心を疑われ、この頃から両者の関係は急速に悪化しはじめたようである。 ヌールッディーンは再三ダマスクスへ帰還するよう勧告を行っているが、サラディンは理由をつけてこれを幾度も固辞し続けついに応じなかった。

 

この時期にサラディンはファーティマ朝時代のシーア派色を払拭すべくダール・アル=イルム(知識の家)を解体してその蔵書を売り払い、アッバース朝カリフとヌールッディーンの名を刻んだ貨幣を鋳造しフトバを唱えさせるなどして、スンナ派政権としてヌールッディーンへの帰順を重ねて表明した。

 

またその一方で1174年2月兄のトゥーラーン・シャーをイエメンへ派遣してこれを征服させている。これは関係が悪化したザンギー家との開戦を予期し、エジプトを逐われた場合のアイユーブ家の避難所とする目的で征服したのではないかと考えられている。

 

これ以降ラスール朝が勃興するまで、イエメンはアイユーブ朝の領土となる。 ヌールッディーンはこれらサラディンの行動を離叛・敵対行為として赦さずエジプトへ親征を自ら企図していたようだが、その矢先の1174年5月にダマスクスで病没した。

 

ヌールッディーンが没すると、その幼い息子サーリフが即位したが、ヌールッディーンの甥で女婿でもあるモスルのアタベク・サイフッディーン・ガーズィー2世がアレッポ近傍まで軍事侵出して来た。 さらにエルサレム王国などの十字軍勢力もこの機会を逃さず積極的にダマスクス周辺へ侵攻し、シリア周辺はにわかに情勢が流動化した。

 

7月末にサーリフがアレッポへ入城し、サイフッディーン・ガーズィーも慎重策をとってアレッポ征服を断念してシリアから撤退した。 ところがアレッポのザンギー朝アミールたちは庇護を受けていたサーリフを見限ってサイフッディーン・ガーズィーと協定を結びダマスクスに対抗しようと画策したようである。これに焦ったダマスクス宮廷は、サーリフへの擁護を表明していたサラディンに援軍を要請して来た。

 

かくしてサラディンはこの機会を得てシリアへの親征、同年10月末にはダマスクスに無血入城を果たした。 運良くアモーリー王が急死してボードゥアン4世が即位したため、エルサレム王国軍も撤退した。サーリフへの臣従表明とダマスクス宮廷とそのアミールたちとの和議および説得を試み、さらにこの地域でのイクターの再分配を行っている。 サラーフッディーンは数年ぶりにダマスクスへ帰還し、エジプトに加えダマスクス周辺のシリア南部を接収することが出来た。

アイユーブ朝の版図(1189年)

このようにしてサラディンはシリア方面へ領土を拡大し、イクター地や騎士などの諸軍を整備して王朝の軍事力を高めた。 そして1187年、それをもってエルサレム王国を攻撃し、5月にクレッソン泉の戦いでテンプル・聖ヨハネ両騎士団を殲滅し、7月にヒッティーンの戦いで十字軍の主力部隊を壊滅させたのち、エルサレムを同年10月までに奪還することに成功した。このとき、サラディンは身代金を払えない捕虜まで放免するという寛大な処置を示している。

 

第3回十字軍との戦い

サラーフッディーン廟。

世界最古のモスクといわれるダマスカスのウマイヤド・モスクに隣接する。

しかしそのため、1189年にヨーロッパ諸国がエルサレム奪還のためにイングランド王・リチャード1世などをはじめとした第3回十字軍の侵攻により、アッコンを奪われ、アルスフ、ジャッファの戦いでリチャードに敗北を喫する。しかしエルサレムはなんとか守りきることに成功したのである。

 

双方疲弊した結果、リチャードが裏で進めていた和平工作にのり1192年、十字軍と休戦条約を結ぶことにしたのである。この結果海岸沿いに十字軍勢力を残す結果になる、またエルサレムへのキリスト教徒の巡礼者を認めることに合意した翌年サラディンはダマスカスにて病死した。

 

サラディンの施政とその人となり

若年時から文武共に誉れが高く、出世して職責が高まるとともに贅沢をやめるなど、機を読むことに長けていた。当時のイスラーム君主の常として少年を愛したことでも知られている。

 

かつてエルサレムを占領した第1回十字軍は捕虜を皆殺しにし、また第3回十字軍を指揮したリチャード1世も身代金の未払いを理由に同様の虐殺を行った。しかし、サラディンは敵の捕虜を身代金の有無に関わらず全員助けている。

 

彼は軍事の天才であるが、このような寛大な一面もあって、敵味方を問わずにその人格は愛され、現在まで英雄としてその名を残しているのである。

 

捕虜を助けた事に関して、次のような逸話がある。

サラディンが身代金を支払わない捕虜の扱いに困っていると、彼の弟(後に4代目スルタンとなったアル=アーディル)が捕虜を少し自分に分け与えるよう進言した。サラディンは訳を訊ねるが弟は答えず、彼の言う通りに捕虜を与えてやった。すると、弟は自分の物だからと言って全て解放してやり、こうするのが良いのだと兄に言った。喜ぶ兵士たちの姿を見たサラディンは捕虜を殺さないことを決心したという。

 

また、病床にあるリチャード1世に見舞いの品を贈る等、敵に対しても懐の深さを見せている。 その寛容さは名声を高めたが、しばしば不利益となっても現れた。行軍の際に、途中で立ち寄った村の村人たちに軍事費の一部を分け与えていたため、彼の兵士の多くは軍事費を自腹で用意しなければならない程であったという。私財も常にそのように用いたため、サラディンの遺産は自身の葬儀代にもならなかった

また、ハッティンの戦いでティールに追い込んだ守将バリアンに対し、当初は武装解除を条件に脱出を許可していたが、書簡でエルサレムの指揮権を請われるとこれを認めて入城させ、エルサレム攻略戦での苦戦を招いている。

 

上記のような寛容な逸話が多いが、無条件に甘い人物というわけではなく、中でも度々休戦協定を破って隊商を襲ったルノー・ド・シャティヨンに対する怒りは大きかった。ハッティンの戦いでルノーを捕らえた際、彼と配下の騎士団員を一人残らず処刑している。前述の弟の寛容さに関しても必ずしも同意ではなく、アッコンで捕えた聖職者を自分に無断で解放した際には罰を与えている。


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