【 カラット・サラディン】

カルアト・サラーフ・アッディーン(アラビア語: Qal'at Salah El-Din、旧名ソーヌ Saone、別名サラディン城)は、シリアに築かれた十字軍時代の代表的な城。

 

シリアの港湾都市ラタキアの30km東の山中にあり、二つの深い渓谷に挟まれた峰の上に建ち、森に囲まれている。

 

城の名は、1188年にこの城を十字軍から奪ったムスリムの武将サラーフッディーン(サラディン)にちなんでいる。2006年にクラック・デ・シュヴァリエと共に世界遺産に登録された。

カラット・サラーフ・アッディーン

[歴史]

 

この城は古代よりあり、おそらくフェニキアの時代(紀元前1千年紀の初頭)に建てられたと考えられる。フェニキア人は紀元前334年にアレクサンドロス大王にこの城を引き渡したといわれる。

 

以後、しばらく歴史からは消えているが、10世紀半ば、ビザンティン帝国の皇帝ヨハネス1世ツィミスケスが領土を東へ大きく拡張した際、アレッポのハムダーン朝からこの地を奪っており、防御のための構造物を建設している。

 

12世紀初頭、この城は十字軍の手に落ちた。1119年、十字軍国家アンティオキア公国の摂政サレルノ伯ロジェ(ルッジェーロ)から、ソーヌのロベール(Robert of Saone)が城の所有権を受領し守りを任されたことが記録に残っている。今日の姿のほとんどはこの時期建設されたものである。

 

1188年7月、シリアから西洋人の領土のほとんどを一掃したアイユーブ朝のサラーフッディーンの軍勢が城壁を破り、この勝利にちなみ現在の名がつけられた。

 

この城はエジプトのスルタン・バイバルスとカラーウーンの時代までムスリム勢力が所有していた。

 

[構造]

 

この砦の最も素晴らしい部分は、露出した岩盤まで掘られた深さ28mもの濠である。おそらくビザンティン時代に掘られたとされるが、完成したのは十字軍の時代とみられる。

 

濠は、城の東に沿って156mにわたって伸び、幅は14mから20mあり、これを渡るのは高さ28mの岩の尖塔に支えられた跳ね橋のみである。 城門は砦の南にある。門の右は十字軍の造った稜堡と守備塔があり、数メートル先には別の守備塔がある。濠を見下ろす大きな見張り塔のすぐ横には厩と貯水槽がある。この見張り塔の壁は厚さが5mもあり、敷地面積はおよそ24平方mである。北には、かつて跳ね橋のあった城門がある。砦中央にはビザンティン時代の城塞があり、中には大きな水槽、十字軍が作った東屋、ビザンティンが造った二つの礼拝堂のうちの一つの隣に十字軍が作った教会がある。

 

アラブ人が砦に追加した部分には、カラーウーンの時代のモスクや、中庭などのある風呂が造られた宮殿などがある。これらは少しだけ修復されている。

そびえる城壁


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