【エデッサ伯国】

エデッサ伯国(エデッサはくこく)は、古代史上および初期キリスト教史上よく知られたエデッサ(現在のトルコ領ウルファ)の街の周囲に建国された12世紀の十字軍国家のひとつ。

 

エデッサ伯国は海に接しておらず陸に閉ざされていることが他の十字軍国家と異なっている。また他の十字軍国家から遠く、その最も近い隣人、アンティオキア公国とは仲がよくなかった。

 

また、首都エデッサを含め国の半分が、ユーフラテス川の東にあるため、他の十字軍国家よりも相当東に位置していた。ユーフラテスの西の部分はセルジューク朝に対する前哨である重要な拠点都市テル・バシールから統治されていた。

1135年の中東。

エデッサ伯国は黄色。

[創設]

ブーローニュのボードゥアンが1098年2月にエデッサに入城する場面。

アルメニア人の聖職者がコンスタンティノポリスの保護下からの解放を祝い出迎えている。

第1回十字軍の際、ブローニュのボードゥアンは、アンティオキアとエルサレムへ向かう十字軍本隊を離れ、まず南のキリキア(小アジアの南部の地中海岸。元は東ローマ帝国領だが、当時はアルメニア人が多かった地方)へ、その後、東のエデッサへ向かった。

 

1098年、エデッサ(現在のトルコ領ウルファ)にたどりついたボードゥアンは統治者ソロスと会談し、セルジューク朝の武将たちをはじめとするテュルク系勢力から街を守る部隊になってほしいというソロスに対し、自らを養子、後継者と認めさせることに成功した。ソロスはアルメニア人ではあったがギリシャ正教系の正教会信徒の統治者であったため、非カルケドン派であるアルメニア使徒教会を奉ずるアルメニア人の住民からは嫌悪されていた。

 

養子になる儀式の数日後、市民の暴動によってソロスは命を落としたが、ボードゥアンがこの暴動に対しどういう役割を果たしたかは不明である。ともあれボードゥアンはエデッサの統治者の座に着き、伯爵になったことを宣言した(彼は兄の臣下として、ヴェルダン伯の称号をすでに持っていた)。

 

ここに最初の十字軍国家であるエデッサ伯領が成立した。 1100年、エルサレム陥落後も王とならず、その支配者たる「聖墳墓の守護者」に任ぜられていた彼の兄ゴドフロワ・ド・ブイヨンが死んだ時、ボードゥアンはエルサレムに入り、エルサレム王ボードゥアン1世になり、エルサレム王国を建国した。

 

エデッサ伯国は彼のいとこのボードゥアン(のちのエルサレム王ボードゥアン2世)に引き継がれた。その後1118年、「1101年の十字軍」で中東に到着してユーフラテス川沿いのテル・バシールの領主をしていたジョスランが伯爵位を引き継いだ。

 

西洋人の君主は、近隣のアルメニア人の君主たちと良好な関係を形成した。また、頻繁に異人種間の結婚を行った。特に最初の3人の伯爵はすべてアルメニア人と結婚した。

 

初代ボードゥアンの妻が1097年に死ぬと、彼はキリキア王国(小アルメニア)の王家の君主コンスタンティン1世(在位:1095年 - 1099年)の孫娘、アルダと結婚した。ボードゥアン2世は、マラティアの街の領主ガブリエルの娘モーフィアと、3代目のジョスラン1世はコンスタンティン1世の娘と結婚した。

 

[近隣のムスリムとの抗争]

 

ボードゥアン2世は、まもなく北シリアおよび小アジア情勢に関係するようになった。彼は、1103年に小アジア中央部のテュルク系ダニシュメンド朝から、彼の捕虜となったアンティオキア公ボエモン1世を身代金で救出するのを支援し、アンティオキア公国とともに、1104年にキリキアで東ローマ帝国を攻撃した。

 

1104年の終わりに、アンティオキア公国に協力してシリア北部のハッラーンを制圧し、セルジューク朝の分裂に乗じモースルやバグダードへ通ずる道を押さえたが、モースルやマルディンのムスリム軍連合に完敗し、ボードゥアン2世もジョスランも捕虜となった(ハッラーンの戦い)。

 

2人が1108年に身代金を払い救出されるまで、アンティオキア公国の摂政タンクレードがエデッサの摂政も行っていた。しかし、タンクレードが一時戦いに敗れたため、ボードゥアン2世は都市の統治を回復するために努力しなければならなかった。

 

ボードゥアンはムスリムの地方政権のいくつかと同盟しなければならなかった。 1110年には、ユーフラテスの東方の領地がすべてモースルの領主マウドゥードに奪われた。しかし、他のムスリム君主による攻撃の場合と同様、マウドゥードも十字軍駆逐よりは自分の勢力の強化により深い関心があったため、エデッサ自体に対する攻撃はこれに続かなかった。

 

エルサレム王になっていたボードゥアン1世が1118年に死んだ時、ボードゥアン2世はエルサレムに移りエルサレム王ボードゥアン2世になった。ボードゥアン1世の兄のブローニュ伯ウスタシュがエデッサ伯の第1位の継承者であったが、彼は遠くフランスにいてエデッサの伯爵位を望まなかったため、エデッサ伯爵位は1119年に上述のジョスランに与えられた。

 

エデッサ伯ジョスラン1世はユーフラテスの岸辺で1122年にアレッポの地方政権アルトゥク朝のアタベク(領主)、バラクに敗れ捕虜となった。憂慮したエルサレム王ボードゥアン2世は彼を救出しようとユーフラテスに来たが、彼もまたバラクに捕らえられてしまった。エルサレム王国はその王が留守になる危機に直面した。しかし、ジョスランは1123年に逃げて、翌年バラクの跡を継いだティムルタシュが安易にもボードゥアン2世を釈放した。

 

[伯国の陥落]

 

ジョスランは1131年に戦いで殺されたため、彼の息子ジョスラン2世が伯国を後継した。しかし、この時までに、ムスリムの強大なアタベク(領主)ザンギーは、アレッポおよびモースルを結合して支配しており、エデッサを脅かし始めた。その間、ジョスラン2世は東ローマ帝国の皇帝ヨハネス2世コムネノスのシリア遠征に付き合わされたが、結局この遠征はザンギーの離間策によって中止された。

 

ジョスラン2世はザンギーの脅威が高まる間、自国の安全に注意をほとんど払わず、救援を拒むトリポリ伯国と口論を続けていた。

 

1144年の段階で、同じ十字軍国家であるアンティオキア公国やトリポリ伯国とは抗争で仲が悪く、強大な国である東ローマ帝国やエルサレム王国はヨハネス2世コムネノスやフルク王が亡くなったばかりで安定しておらず、頼れる国がどこにもなかったので、増大するザンギーの勢力に抵抗するため近隣のディヤルバクルのアルトゥク朝の領主カラ・アスラーンと連合した。

 

1144年の秋、ジョスラン2世は全軍とともにカラ・アスラーンと合流し、エデッサの西のテル・バーシルまで略奪戦に出かけた。これを聞いたザンギーはすぐさまエデッサ攻囲戦を開始し、街の北の「時の門」のそばに陣を張った。街は庶民ばかりで軍隊はおらず、司教たちが指揮を執ることになった。司教らは、キリスト教徒のアルメニア人はザンギーに降伏しないだろうと期待していた。エデッサは難攻不落の城塞であり市民は防衛に奮戦したが、誰も攻城戦の経験がなく、城塞の守り方や守るべき要所を知らず、工兵が城壁下にトンネルを掘り始めてもなすすべがなかった。

 

度重なる休戦協定はエデッサ側の拒否で失敗に終わり、ザンギーは街の北の城壁の土台を取り除き、材木で支えて油や硫黄を一杯につめ、12月24日、ついに火を放った。油は燃え上がり城壁は崩れ落ち、ザンギーの軍が侵入して城郭に逃げられなかった人々を虐殺した。

 

城郭は司祭の過失から固く閉まっており、殺到した群衆がパニックに陥り司祭も含む5,000人以上が圧死した。ザンギーは殺戮の中止命令を出してキリスト教徒の代表と話し合い、12月26日街はザンギーに明け渡された。 アルメニア人やアラブ人のキリスト教徒は解放されたが、西洋人を待っていた運命は過酷だった。持っていた財宝は没収され、貴族や司祭たちは衣服をはがれて鎖につながれアレッポへと送られ、職人たちは囚人として各職種別に働かされ、残り100人ほどは処刑された。

 

ジョスラン2世は自らの首都が失われる間、遠くテル・バーシルにとどまったままであった。 この事件は十字軍国家を震え上がらせ、エルサレム王国のフルク王の未亡人メリザンドはヨーロッパに特使を送り、その惨害と救援要請を訴えた。これが第2回十字軍を招くことになる。

 

またムスリム世界は、はじめての勝利らしい勝利に熱狂し、バグダードのアッバース朝のカリフはありとあらゆる美辞麗句に満ちた敬称をザンギーに与えた。後のムスリムの年代記作家らはこれを十字軍国家に対するジハードの始まりと述べている。

 

ジョスラン2世はテル・バシールでユーフラテスの西側の領土をかろうじて支配し続け、エデッサ回復のため市内の残存勢力と連絡を取り合い努力した。彼はザンギーが1146年9月に急死したのを受け、すぐさまエデッサを回復したが、ザンギーの息子ヌールッディーンの攻撃により11月にはエデッサを再び放棄した。部下の多くが殺され、ジョスラン2世はかろうじて逃げ延びた。

 

1150年に彼はヌールッディーンに捕らえられ、1159年に死ぬまで、ヌールッディーンの拠点であるアレッポで虜囚にされたままだった。

 

ジョスラン2世の死後、彼の妻と家族はすぐさまテル・バシールや残された伯国領土を東ローマ皇帝マヌエル1世コムネノスに切り売りし、エルサレム王国へと去ったが、テル・バシールは1159年のうちにヌールッディーンとルーム・セルジューク朝に奪われた。

 

エデッサは最初に獲得した十字軍国家であり、最初に失われた十字軍国家ともなった。 


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