【フォカス】

 

フォカスは、東ローマ帝国の皇帝(在位:602年11月23日 - 610年)。

トラキア地方の出身と考えられる。ドナウ川国境に駐屯する軍の下士官(百人隊長)であった。

 

602年にドナウ北岸での越冬命令が出た時、軍はそれに反対して反乱を起こし、コンスタンティノポリスに向かって進軍した。 時の皇帝マウリキウスは逃亡しようとしたが捕らえられて処刑された。

 

その後フォカスが兵士たちによって皇帝に推戴され、即位した。 フォカスは簒奪者である上、次の皇帝のヘラクレイオスによって殺されたため、暴君とされるなど実際以上に低く評価されている傾向がある。

 

確かに彼はコンスタンティノポリスの元老院議員の貴族らとは元来関係がなく、政治基盤が不安定であったため、反対派を次々に殺していった。 またコンスタンティノポリスやアンティオキアなどの帝国内各地で、フォカスに不満を持っていた市民(サーカス党派)による暴動が発生した。 ただし時とともにフォカスを受け入れる人々も現れてきていたようである。

 

一方、かつてマウリキウス帝の援助によって即位したサーサーン朝ペルシア帝国のホスロー2世は、 マウリキオスの復讐を名目として対東ローマ遠征軍を起こした(ビザンチン・サーサーン戦争)。 これに対してフォカスは兄弟のコメンティオロスを軍司令官に任命した。 通説とは異なり、ペルシア軍との戦いは609年までは一進一退の状態にあったことが最近証明されている。 ただしドナウ国境線はアヴァール人によって突破された。

 

608年頃、カルタゴ総督ヘラクレイオスがフォカスに対して反乱を起こした。 そして、ヘラクレイオスの同名の息子が艦隊を率いてコンスタンティノポリスに迫る一方、 彼の従兄弟のニケタス率いる別動隊は609年にエジプトに侵攻した。そのためシリアの軍がエジプトに急派され、シリア国境線ががら空きになった。 ペルシア軍が帝国領に本格的に侵入を開始するのはこれ以降である。

 

コンスタンティノポリスではサーカス党派や、 フォカスの婿のプリスコスなどの元老院議員がヘラクレイオスに内通したため、610年10月に首都は開城した。 フォカスは教会へ逃げ込んだものの引きずり出されて処刑されてしまい、ヘラクレイオスが皇帝に即位した。

 


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