【アフガニスタン】
アフガニスタン・イスラム共和国、通称アフガニスタンは、 中東・ 中央アジアに位置する 共和制国家。内陸国であり、分離した パキスタンが南及び東に、西に イラン、北に タジキスタン、 トルクメニスタン、 ウズベキスタン、国の東端( ワハーン回廊)は 中華人民共和国に接する。
首都は カーブル。国民の平均寿命が48歳であり、世界で二番目に短い国である(ちなみに、2011年現在最下位は マラウイの47歳)。 パシュトゥーン人(狭義のアフガーン人)のほか、 タジク人、 ハザーラ人、 ウズベク人、 トルクメン人などの数多くの民族が住む多民族国家でもある。
アフガニスタン・イスラム共和国
[歴史]
- 詳細は「 アフガニスタンの歴史」を参照-
先史時代:
紀元前10万年、 旧石器の文化があった。紀元前7000年、 新石器の文化があった。 紀元前3000年〜紀元前2000年は、 四大文明が起こり、都市文化が生まれつつあった。その背景には農耕文化の発展があった。アフガニスタンは、先史時代からイラン高原や メソポタミアの諸文化と早くからつながりがあり、また、 インダス文明とも交流があった。 紀元前2000年〜紀元前1800年、青銅器時代。ムンディガク遺跡、デー・モラシ・グンダイ遺跡が見つかっている。また、 バクトリア地方から出土した数体の石製女性像が見つかっている。 紀元前12世紀、 リグ・ヴェーダによれば、 十王戦争が勃発し、 バルフ から パンジャブへ侵攻した。
ペルシア・ギリシア・インド文化の時代
ペルシアとアレクサンドロス大王の支配:
紀元前5世紀頃、アラコシアには古代民族Pactyansが住んでいた
紀元前6世紀、 イラン人が建てた アケメネス朝ペルシャ帝国に編入され、 アレイヴァ(ヘラート)、 アラコシア ( カンダハール、 ラシュカルガー、 クエッタ)、バクトリア( バルフ)、 サッタギディア ( ガズニー)、 ガンダーラ ( カーブル、 ジャラーラーバード、 ペシャーワル)の地方名で呼ばれた。
カンダハルの旧市シャル・イ・コナの発掘によって、紀元前6世紀にはこの町が、すでにアフガニスタン南方の首邑になっていたことが明らかになった。紀元前5世紀頃、アラコシアには古代民族Pactyansが住んでいたことが サンスクリットや古代ギリシャ語文献から知られている。この民族が10世紀頃までに パシュトゥーン人を形成した。
紀元前4世紀、 アレクサンドロス3世(大王)はこの地を征服し、 アレクサンドリアオクシアナ (Alexandria on the Oxus)と呼ばれる都市を建設した。
南方のマウリア朝と北方のグレコ・パクトリア王国:
紀元前3世紀中頃、アフガニスタン北部からタジキスタン南部にかけてはギリシャ人の建てた グレコ・バクトリア王国が支配。 紀元前130年頃には メナンドロス1世が死んでインド・グリーク朝が分裂すると、 サカ族が ガンダーラ地方で インド・スキタイ王国を興した。 サカ語 は後の パシュトー語に強い影響を与えた。
紀元前126年頃に シルクロードを旅した 張騫により、シルクロード交易が既に行われていたことが知られている。 紀元前2世紀後半、 匈奴に追われた遊牧民の 月氏が侵入しグレコ・バクトリア王国は滅びた。
1世紀以降、先の大月氏の立てた クシャーナ朝がこの地に栄える。この頃ギリシア文化は影響力を失い代わって南方の マウリヤ朝から流入したインド文化や仏教の影響が強く見られるようになり、4世紀頃まで バクト商人がシルクロード交易を掌握する。
3世紀末、クシャーナ朝に代わり サーサーン朝の支配がこの地に及ぶ。 5世紀前半、 エフタルが起りアフガニスタン・パキスタンの地を支配する。6世紀後半、 アルタイ方面から南下してきた 突厥による支配を受ける。576年頃、突厥と 東ローマ帝国とが対 サーサーン朝で同盟。580年頃の突厥内戦で東西に分裂。 第一次ペルソ・テュルク戦争(588年 - 589年)でサーサーン朝を挟撃した。第二次ペルソ・テュルク戦争(619年)、第三次ペルソ・テュルク戦争(627年)。 イスラーム教徒のペルシア征服(633年 - 644年)。
イスラーム化の進展
8世紀初頭、 イスラム帝国・ アッバース朝のイスラム教徒軍が ハザール・ ソグディアナに侵攻し、その支配下へ入る。751年の タラス河畔の戦いにより イスラム商人が シルクロード交易を掌握する。 ゾロアスター教や 仏教、 ヒンズー教の影響は、 イスラム教が伝わった後も10世紀頃まで残存した。
9世紀中頃、再び土着イラン人による ターヒル朝・ サッファール朝・ サーマーン朝が興り統治する。 995年、マームーン朝のイスラム教徒軍が侵攻、アムダリヤ川右岸の古都キャトに栄えていた土着のゾロアスター教国家、アフリーグ朝は滅亡した。 1017年、 ガズナ朝がマームーン朝を滅ぼした。1040年、ダンダーナカーンの戦いで セルジューク朝が ホラーサーンを支配。 1077年、 ホラズム・シャー朝が独立。首都が ウルゲンチから サマルカンド(世界遺産)に遷都。
10世紀以降、この頃から パシュトゥーン人の存在が確認され始める。 1117年、シャンサブ家が ゴール朝を興し、 シハーブッディーン・ムハンマドに仕える クトゥブッディーン・アイバクは北インド征服事業を成功させ 奴隷王朝を開いた。1215年にホラズム・シャー朝の アラーウッディーン・ムハンマドによってゴール朝は滅亡した。
モンゴル時代
モンゴル帝国:
- 詳細は「 モンゴル帝国」および「 チャガタイ・ハン国」を参照-
モンゴルのホラズム・シャー朝征服によってアラーウッディーンも カスピ海のアバスクン島に逃れ、死の前に ジャラールッディーン・メングベルディーに後事を託した。
ゴール朝の臣下だった シャムス・ウッディーンは、主君のルクン・アッ・ディーンが死去すると、モンゴルに臣従して クルト朝を開いた。シャムス・ウッディーンはモンゴルのインド侵攻に参加して、ジャラールッディーンを攻めた。ジャラールッディーンはインドでの戦いと グルジア・アルメニアでの戦いで健闘したが、チョルマグンに追いつめられて クルド人に殺され、ホラズム・シャー朝も滅亡した。
14世紀以降、モンゴル系のチャガタイ・ハン国系諸王朝による支配を受ける。
ティムール朝:
鄭和艦隊のホルムズ来訪
1370年頃、テュルク系の ティムール朝による支配を受ける。
1380年頃、 ティムールが ホラズムを征服し、サマルカンドのマウラナ・マリク・イブラヒームが東南アジアへスーフィズムを伝え、その弟子達 ワリ・サンガによって チャンパ王国、 マジャパヒト王国などイスラム化されたことは、後にムスリムの 鄭和が海の交易路を開くことに大きな影響を与えた。
シャー・ルフ(在位:1409年 - 1447年)の治世には、 明の 永楽帝の使節として鄭和が三度(1415年、1422年、1431年) ホルムズに来訪した。 1470年、ティムール朝が分裂し、 ヘラート政権に移行。 1507年、 ウズベク族の シャイバーン朝の ムハンマド・シャイバーニー・ハーンが征服し、ティムール朝は滅亡させられた。
サファヴィー朝、ムガル朝、オスマン帝国の抗争
1510年、 サファヴィー朝イランの シャー・イスマーイールの侵攻で、シャイバーニー・ハーンが敗死、征服される。 1514年、 チャルディラーンの戦いで オスマン帝国の セリム1世がサファヴィー朝を破る。
1526年、 第一次パーニーパットの戦い。 カーブル の バーブルが インドに ムガル朝を建設。 親政を開始した タフマースブ1世 は第一次オスマン・サファヴィー戦争(1532年 - 1555年)で、最盛期を迎えていたオスマン帝国の スレイマン1世による侵略をしのいだ。
1540年、北インドの スール朝がカンダハール、カーブルを占拠。 1545年、ムガル帝国がカンダハール、カーブルを占拠。 1556年、 第二次パーニーパットの戦いでスール朝の ヘームーを破る。 1576年、タフマースブ1世が死去すると、 サファヴィー朝ペルシアは後継者争いで混乱し、実権はタフマースブ1世の娘パーリー・ハーン・ハーヌムが掌握した。翌1577年に兄 ムハンマド・ホダーバンデを傀儡として擁立すると、その妻マフディ・ウリヤにパーリー・ハーン・ハーヌムが殺害され、ウリヤも蜂起したクズルバシュによって殺され、無政府状態に陥った。こうした中で第二次オスマン・サファヴィー戦争(1578年 - 1590年)が始まると、1579年にサファヴィー朝ペルシアが放った間者が、スレイマン時代からオスマン帝国を支えていた大宰相 ソコルル・メフメト・パシャを暗殺することに成功してオスマン帝国は長期衰退期へ向かわせたが、アゼルバイジャンとホラーサーンを失ってしまった。
1588年に アッバース1世が即位すると軍制改革を断行し、クズルバシュから常備騎兵軍へ改組して、オスマンにも対抗できる軍隊を目指した。 1598年に シャイバーニー朝 ブハラ・ハン国へ遠征してホラーサーンを奪還。 第三次オスマン・サファヴィー戦争(1603年 - 1618年)では、アゼルバイジャンを奪還。
この時期にアジアでの反オスマン同盟の相手を探していた イギリス、 オランダ、 フランスと同盟。 ロバート・シャーリーの指導のもとで武器が近代化されると、1622年に ポルトガルと戦って ホルムズ島を奪った。 1623年、サファヴィー朝がカンダハールを奪還。この頃、サファヴィー朝は最盛期を迎えた。第四次オスマン・サファヴィー戦争が始まり、1629年にアッバース1世が死去すると、サファヴィー朝も衰退期へ向かった。
アフガンの王家による統治のはじまり
ホターキー朝:
1709年、パシュトゥン人 ギルザーイー部族のミール・ワイス・ホターキーが反乱を起こし、カンダハールにホターキー朝を樹立。 1719年、ミール・マフムードがサファヴィー朝の ケルマーンに侵攻。 1722年、ミール・マフムードがサファヴィー朝の首都・ イスファハーンを占拠。マフムードがサファヴィー朝を支配下に治める。
1729年、 アシュラーフが ナーディル・シャーに敗れ、 ペルシアがアフガン支配下から脱した。 ジュンガルのツェワンラブタンによる1723年の カザフ・ハン国への侵攻に続いて、ガルダンツェリンによる侵攻が始まり、耐えかねた 小ジュズの アブル=ハイル・ハンが、1731年にロシアに臣従したのを皮切りに、 中ジュズと 大ジュズも相次いでロシアに臣従し、 アブライ・ハーンが最後までジュンガルと戦った。ジュンガルがタシュケントとトルキスタンを占領。
ロシア帝国の皇帝 アンナの治世(在位:1730年 - 1740年)は、1734年に南ウラル地方に東方前線基地建設計画を立案、1735年に 要塞 都市を建設を開始した。 1736年、 アフシャール朝が成立。サファヴィー朝が消滅。 1743年、ロシアが オレンブルクに 城郭都市を建設し、 ジュンガルの反乱に備えた。
サドーザイ朝:
アフマド・シャー・ドゥッラーニー
アフマド・シャー時代のドゥッラーニー朝の版図
1747年10月、パシュトゥーン人 ドゥッラーニー部族の族長 アフマド・シャー・ドゥッラーニーによる ドゥッラーニー朝が成立。 1757年、 マラーターのインド北西部侵攻で パンジャーブが占領される。
1759年、大小和卓の乱で 清の 乾隆帝が バダフシャーン地方(現バダフシャーン州、ゴルノ・バダフシャン自治州)に侵攻。 1761年、 第3次パーニーパットの戦いでドゥッラーニー朝と アワド太守などのムスリム同盟軍が、 ヒンドゥー教の マラーター同盟と戦い勝利。パンジャーブの領土を拡張した。
1771年に カルムイク人指導者ウバシが、父祖の地である 東トルキスタンの イリ地方へ帰還したことがきっかけとなり、 プガチョフの乱が勃発。オレンブルク城郭が落とされそうになったが鎮圧に成功した。以降、オレンブルクは南下政策の拠点となる。
1783年に エカチェリーナ2世は キュチュク・カイナルジ条約を破って「ノヴォロシア」(旧 クリミア・ハン国領)を併合した(南下政策の始まり)。これをきっかけに 露土戦争(1787年-1791年)が勃発し、 東方問題が顕在化する。
1796年の ガージャール朝に対するペルシア遠征は、エカチェリーナ2世の死去によって中止された。 ロシア皇帝に即位した パーヴェル1世は、体制刷新を図って スヴォーロフらを解任したが、1798年12月に 第二次対仏大同盟が結成されると、1799年2月にスヴォーロフを呼び戻した。
[グレートゲーム]
- 詳細は「 グレートゲーム」を参照-
将校らに暗殺されるパーヴェル1世
ナポレオンのロシアからの撤退
フランス革命中の1800年から1801年頃に ロシア帝国のパーヴェル1世が ナポレオンと手を結んでイギリスの植民地であるインドへの遠征を企てた。1800年1月21日にスヴォーロフは再び解任され、5月18日に死亡した。しかし1801年3月にパーヴェル1世が暗殺され、インドへの遠征は実施されずに終わった。ナポレオン戦争(1803年 - 1815年)期にも、ナポレオンとロシア帝国の アレクサンドル1世が共同してインドに侵攻する可能性が再び想定されたため、 大英帝国はそれに対抗する意味合いで1809年に シュジャー・シャーと同盟した。
ロシアへ侵攻したフランス軍は、焦土作戦と冬将軍によって衰弱させられ撃退されたため( 1812年ロシア戦役)、インドへの遠征は杞憂に終わった。 1823年、ドゥッラーニー朝が シク王国に敗北し、 ペシャーワル一帯の領土を失い、 カイバル峠を越えて撤退した。
バーラクザイ朝:
イギリス東インド会社のアーサー・コノリー
ロシア軍のヴァシーリー・ペロフスキー将軍
1826年、ドゥッラーニー系部族の間で王家が交代し、 バーラクザイ朝が成立。
1826年に イギリス東インド会社の情報将校 アーサー・コノリーは、 モスクワを出発して コーカサスへ向かい コーカサス戦争の戦況を観察するとアジアへ向かい、1830年9月には ヘラートへ、1831年1月にはインドへ到着。1834年、国名を アフガニスタン首長国とする。1834年にコノリーは旅行記を発表し、1840年に「 グレート・ゲーム 」という言葉を初めて用いた。
1838年〜1842年、 第一次アフガン戦争でイギリスに勝利。 シク戦争(1845年 - 1849年)では、 第一次シク戦争(1845年 - 1846年)で ラホール条約を締結したイギリスは シク王国から カシミール地方を譲渡された( ジャンムー・カシミール藩王国の成立)。 第二次シク戦争(1848年 - 1849年)で敗れたシク王国がイギリスに併合され、英領インドの パンジャーブ地方となり、マリー(現パキスタンのマリー)が夏の首都となった。1855年にイギリスはアフガニスタンとペシャーワル条約を締結し、ガージャール朝の侵攻に対する両国の相互防衛関係を構築した。 ナポレオン3世の仲裁でイギリスの ストラトフォード・カニングと ガージャール朝イランのアミーノッドウレの交渉が行なわれた結果、パリ条約(1857年にパリで開かれたアフガン戦争の講和会議)が締結され、ガージャール朝はアフガニスタンから手を引かされた。
1858年に イギリス領インド帝国が成立し、1864年には シムラーがイギリス領インド帝国の夏の首都となる。 その頃、 ロシア帝国は オレンブルクを拠点として1830年代から1850年代にかけて 南下政策の準備を推進し、1853年にヴァシーリー・ペロフスキー将軍率いるロシア軍が ヤクブ・ベクが守るアク・メチェト要塞(現 クズロルダ)を占領。その後、ヤクブ・ベクの政権は、英露双方から緩衝国家とみなされるようになった。
1865年に コーカンド・ハン北部の経済都市 タシュケントを征服。1868年には サマルカンド(世界遺産)を占領し、 ブハラ・ハン国を保護国化した。1869年に帝政ロシア軍が カスピ海東岸に上陸。1873年にで ヒヴァ・ハン国を占領。
左宗棠
ヤクブ・ベク
1873年に 三帝同盟が締結され、 ドイツ帝国・ ロシア帝国・ オーストリア・ハンガリー帝国が同盟した。1875年に 清朝の 欽差大臣に任命された 塞防派(対露強硬派)の 左宗棠、ロシアと同盟していたドイツのテルゲ商会の支援で、1876年に ヤクブ・ベクの乱を鎮圧してしまい、想定外の清朝によって緩衝国家が失われた結果、均衡が破られ中央アジア情勢はにわかに動き出すことになった。
1876年にコーカンド・ハン国を占領。1877年にオレンブルクと サマーラ間の鉄道が完成。1879年に第一次アハル・テケ遠征。1880年から1881年の第二次アハル・テケ遠征で アシガバートを占領。1881年にアハル条約を締結し、ガージャール朝イランはロシアへの割譲に同意(イランからのヘラート分離)。
ロシアは ザカスピ州を設置した。 一方、 第二次アフガン戦争(1878年 - 1880年)のカンダハールの戦いでアフガニスタン首長国もイギリスに敗れ、ガンダマク条約でその 保護国 となり、イギリスとロシアはアフガニスタンを新たな緩衝国家として中央アジアで対峙した。
イギリス保護国期:
ヤングハズバンド大尉
1885年、 ロシア帝国とのパンジェ紛争。イギリスは 巨文島で巨文島事件を起こし、ロシアを牽制した。 1886年、 フランシス・ヤングハズバンドが 満州からゴビ砂漠を横断し、 カラコルム山脈のマスタフ峠を越えて インド に至る「中国-インド間のルート」を開拓。 1888年、 カスピ海横断鉄道が、 カスピ海から アシガバート、 ブハラ(世界遺産)を経て サマルカンド(世界遺産)までの路線が完成。 1889年、 フンザによる「 ヤルカンド -インド間の交易路」への襲撃が激化。
1890年、ヤングハズバンドが南下するロシア帝国のブロニスラフ・グロンブチェフスキー率いるロシア軍兵士に ワハーン回廊のボザイ・グンバズで拘束されそうになる事件が発生。
1891年、フンザ・ナガル戦争が勃発。 1893年、 デュアランド・ラインにアフガニスタン首長国とイギリスが合意。 1895年、チトラル遠征。 1897年、マラカンド包囲戦によって パシュトゥーン人の居住地域「パシュトゥーニスタン」はデュアランド・ラインで分断され、Malakand Agencyが設置された。
1901年、 インド副王カーゾン卿によって、北西辺境州が創設された。同年、小説『少年キム』が出版され、1907年に ラドヤード・キップリングはノーベル文学賞を受賞。1950年の映画化『少年キム』によって「 グレートゲーム」という言葉は万人の知るところとなった。
アフガンの王家による再独立:
女性の地位向上を図った王妃ソラヤ・タルズィー
1926年4月のインド総督就任時にアメリカの『タイム』誌の表紙を飾ったアーウィン卿
第一次世界大戦中には 中央同盟国が外交ミッションのニーダーマイヤー・ヘンティグ遠征(1915年 - 1916年)を行いアフガニスタンに独立を促した。
ロシアのインド学者 フョードル・シチェルバツコイによるカルムイク・プロジェクトは、英国諜報部員フレデリック・ベイリーが、 ボルシェビキとドイツによる中央アジアでの動きを察知し、 チベット、 ネパール、 シッキム、 ブータンを守った。
一方の ソ連も バスマチ蜂起(1918年 - 1924年)によって 中央アジアの統治は大混乱となった。 戦後にはイギリスが疲弊し、ソ連が混乱した好機を逃さず、1919年に 第三次アフガン戦争に勝利した アマーヌッラー・ハーンはイギリスからの独立を達成し、独立した君主として即位した。1926年、国名を アフガニスタン王国とする。同年、 オーレル・スタインが インダス川上流及びスワート川流域( デュアランド・ライン)を調査旅行した。アマーヌッラーは、 トルコ共和国の新指導者 ケマル・アタテュルクの 世俗主義、 民族主義、 共和主義を柱とする改革に影響され、同様の改革を推進したが、宗教改革に反対する保守派の蜂起が相次いだ。王妃ソラヤ・タルズィー(アフガニスタン国王アマーヌッラー・ハーンの妻)は近代化のひとつとして家庭内での女性の地位向上を図ったが、アフガニスタンの歴史上初めて登場した女性の統治者に対して、保守派の激しい反対があった。
タジク人の指導者ハビーブッラー・カラカーニーは、 イギリスから資金と武器の支援を受けて、 カーブルを占領してアマーヌッラー政権を打倒した)。こうしてイギリスの横槍で近代化は失敗に終わり、女性の地位向上も実現されずに終わった。 1929年、 ナクシュバンディー教団の ムハンマド・ナーディル・シャーが混乱を収めて、国王(アミール)に就任。1931年に制定した新憲法の第一条で スンナ派ハナフィー学派を国教に定めた。この条文が国内少数派の シーア派に対する反 ハザラ人政策の法的根拠となったことで恨みを買い、1933年11月8日に暗殺された。同日、息子の ザーヒル・シャーが即位した。
冷戦
パシュトゥーニスタン独立運動:
ザーヒル・シャー
(1963年)
1947年に イギリスのインド統治が終了 すると、 バルチスタンは「もともとインドの一部ではないので」インドやパキスタンには参加せず、イギリスやパキスタンもカラート藩王国の独立を認めた上で、パキスタンとは特別の関係を結ぶことを模索し、1952年にバルチスタン藩王国連合として独立させた。しかし、その後のパキスタンからの軍事的圧迫に抗すことができず藩王は併合条約に調印し、パキスタンに軍事併合された。その後もしばらく内政自治は続いていたが権限は大幅に縮小され、1955年には藩王国自体が名目上も消滅させられ、 バローチスターン州とされた。
パキスタンがバルチスタンのみならずアフガニスタンも併合しようとした為、国王ザーヒル・シャーは逆にパキスタン領( 連邦直轄部族地域 ワズィーリスターン、)内の パシュトゥーン人を支援して「パシュトゥーニスタン独立運動」を起こし牽制した。
ザーヒル・シャーは、1960年代には 立憲君主制を導入して民主化路線を推進したが、1973年にイタリアで病気療養中にクーデターを起こされてそのまま亡命した。
王政廃止からソ連軍の撤退まで:
アフガニスタンの近代化を目指しソ連に接近したムハンマド・ダーウード
首都カーブルに展開するソ連の空挺兵
チャールズ・ウィルソンとムジャーヒディーン
1973年、旧王族の ムハンマド・ダーウードがクーデターを起こして国王を追放し 共和制を宣言して大統領に就任。新しい国名はアフガニスタン共和国。 アフガニスタン社会の近代化と軍事近代化を目指し ソ連に接近し イスラム主義者達を弾圧する。この時 パキスタンに脱出した ヘクマティヤールはヒズベ・イスラーミー(ヘクマティヤール派)を結成し、 ラッバーニーらはジャマーアテ・イスラーミー(イスラム協会、ラッバーニー派)を結成した。
1978年4月、 アフガニスタン人民民主党主導による軍事クーデター「四月革命」が発生し、ムハンマド・ダーウード大統領一族が処刑される。人民民主党による 社会主義政権が樹立し国名を アフガニスタン民主共和国に変更する。初代革命評議会議長兼大統領兼首相は ヌール・ムハンマド・タラキー。これに対して全土で ムジャーヒディーン(イスラム義勇兵)が蜂起、 アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)が始まり政情が不安定化する中、1979年2月にイラン革命が勃発。9月17日、ヌール・ムハンマド・タラキーが副首相の ハフィーズッラー・アミーン一派に殺害され、アミーンが革命評議会議長兼大統領兼首相に就任。11月に イランアメリカ大使館人質事件が起こると、ソ連のブレジネフはアフガニスタンやソ連国内へイスラム原理主義が飛び火することを恐れ、12月24日にアフガニスタンへ軍事侵攻を開始した。
12月27日、ソ連はムジャーヒディーンを抑えられないアミーンを KGBを使って暗殺、 バブラク・カールマル副議長を革命評議会議長兼大統領兼首相に擁立する。ソ連軍及政府軍とムジャーヒディーンの戦闘が激化する。
1982年、国連総会において外国軍の撤退を要求する国連決議 37/37 が採択される。 1987年、 ムハンマド・ナジーブッラーが大統領に就任。国名をアフガニスタン共和国に戻す。 1988年、「アフガニスタンに関係する事態の調停のための相互関係に関する協定」が締結。ソ連軍の撤退と 国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッション設置が決定される。
1989年、ソ連軍撤退完了(10万人)。各国からのムジャーヒディーンの多くも国外へ引き上げる。戦後には武器が大量に残され、ムジャーヒディーンから タリバーン政権が誕生し、さらには アルカーイダが誕生した。
[ターリバーンとの戦い]
ソ連軍の撤退からターリバーン政権の統治とそれに対する有志連合の攻撃まで:
カーブルでインタビューを受けるビン・ラーディン
(1997年)
1996年時点のアフガニスタン、
赤と緑の北部同盟、黄色がターリバーンの支配地域
1989年、ソ連軍が撤退した後国内の支配をめぐって アフガニスタン紛争 (1989年-2001年)が始まる。
2月にアフガニスタン国内のムジャーヒディーン各派は シブガトゥッラー・ムジャッディディーを暫定国家元首に指名、 ジャラーラーバードの戦いでナジーブッラーが率いる人民民主党政府と戦うも敗北する。 1992年、ナジーブッラー政権崩壊。ムジャーヒディーンのジャマーアテ・イスラーミー(イスラム協会、ラッバーニー派)主導によるアフガニスタン・イスラム国が成立。 1993年、イスラム協会の ブルハーヌッディーン・ラッバーニー指導評議会議長が大統領に就任。 1994年、内戦が全土に広がる。
ターリバーン、パキスタンの 北西辺境州(旧北西辺境州がパキスタン領となったもの)から勢力を拡大。 1996年、ターリバーンがカーブルを占領し、アフガニスタン・イスラム首長国の成立を宣言する。アフガニスタン・イスラム国政府とムジャーヒディーンの一部が反ターリバーンで一致、 北部同盟( マスード派と ドスタム派)となる。
同年、米国の指示によりスーダン政府は ウサーマ・ビン=ラーディンの国外追放を実行、ビン=ラーディンの率いる アル・カーイダがアフガニスタン国内に入り、ターリバーンと接近する。 1997年、第一次マザーリシャリーフの戦いでターリバーンが敗北 1998年、第二次マザーリシャリーフの戦いでターリバーンが勝利、 ドスタム派を駆逐してアフガン全土の9割を掌握するが、イラン領事館員殺害事件が発生。イランとターリバーンの双方が国境付近に兵を集結させ、一触即発の危機を招いたが、ラフダル・ブラヒミ国連特使の仲介により危機が回避された。またケニアとタンザニアの アメリカ大使館爆破事件にともなうアル・カーイダ引き渡し要求をターリバーンが拒否したためにアメリカとの関係が緊張化する。
2001年3月6日、ターリバーンが バーミヤンの石仏(世界遺産)を爆破する。9月10日、北部同盟の アフマド・シャー・マスード司令官が、自称アルジェリア人ジャーナリスト二名の自爆テロで死亡した。9月16日、マスードの遺体が故郷パンジシールで埋葬された。ターリバーン情報省が全土要塞化を宣言し、徹底抗戦姿勢を示す。9月25日、サウジアラビア、ターリバーンとの断交を決定。9月26日、閉鎖されたままのアメリカ大使館が、カーブル市民によって襲撃される。
[テロとの戦い]
- 詳細は「 テロとの戦い 」を参照-
有志連合のターリバーン政権に対する攻撃から暫定政権の樹立まで:
アメリカ同時多発テロ事件
(2001年9月11日)
アフガニスタンに向けて発射されるミサイル
2001年10月2日、 アメリカ同時多発テロ事件を受けて NATOが アルカーイダを匿うターリバーン政権に対して 自衛権の発動を宣言。
10月7日、 アメリカ軍が 不朽の自由作戦の名の下で空爆を開始、イギリスも参加。北部同盟も地上における攻撃を開始。これより アフガニスタン紛争 (2001年-)が開始される。11月13日、北部同盟は、無血入城でカーブルを奪還した。年末にターリバーン政権崩壊。
11月22日、パキスタン政府、ターリバーンとの断交を決定し、駐 イスラマバード アフガニスタン大使館を閉鎖した。11月27日、空爆が続くなか、国連は新政権樹立に向けた会議をドイツのボン郊外で開催した。会議には北部同盟、国王支持派のローマ・グループ、キプロス・グループ、そして ペシャーワルからのグループが参加した。
11月29日、行政府に相当する暫定行政機構の設立案について合意した。12月5日、暫定行政機構人事で各派間の確執があったが、国連の調整で、議長にパシュトゥーン人の ハーミド・カルザイを据え、暫定政権協定の調印が実現した。 ボン合意。アフガニスタン主要4勢力、暫定政権発足とその後の和平プロセスで合意。 国際連合安全保障理事会決議1386にもとづき国際治安支援部隊 (ISAF) 創設、カーブルの治安維持にあたる。また 国際連合安全保障理事会決議1401により、 国連アフガニスタン支援ミッション(UNAMA)がスタート。アフガニスタン暫定行政機構が成立し、ハーミド・カルザイが議長となる。
暫定政権樹立からアフガニスタン・イスラム共和国成立まで:
移動する有志連合の部隊
(ルーマニア軍、2003年)
2001年12月22日、カーブルで暫定政権発足の記念式典が挙行された。約3000人が出席し、ラバニ大統領からカルザイ暫定行政機構議長に政権が委譲される形で執り行われ、カルザイが暫定政権の首相となった。カルザイは国民に平和と法をもたらすことを誓い言論と信教の自由、女性の権利の尊重、教育の復興、テロとの戦いなど13項目の施政方針を発表した。暫定政権の閣僚は29名で構成され、うち北部同盟が19ポスト、元国王支持派が8ポスト、ペシャワル派が2ポスト占めた。
2002年1月21日、東京でアフガニスタン復興支援会議が開催された。約60各国と22の国際機関の代表が出席した。これに先立ちNGO59団体による会議も開かれた。日本は2年で5億ドル、アメリカは1年で2億9600万ドル、サウジアラビアは3年で2億2000万ドル、欧州連合は1年で5億ドル、ドイツは5年で3億5000万ドル、イギリスは5年で3億7200万ドルの拠出を決定し、世界銀行とアジア開発銀行はそれぞれ2年半で5億ドルの拠出を決定した。また、周辺各国は、イランが1年で1億2000ドル、パキスタンは5年で1億ドル、インドも1年で1億ドルの支援を発表した。各国の支援総額は30億ドルを超えた。さらに支援は、行政能力の向上や教育、保健衛生、インフラ、経済システム、農業及び地方開発、地雷撤去などの作業を実施し、定期的に復興運営会議をカーブルで開催することなどを決定した。
2月14日、 アブドゥール・ラフマン航空観光大臣がカーブル国際空港で自国民に撲殺される。6月10日〜6月19日、緊急 ロヤ・ジルガ(国民大会議)開催される。1500人以上の代表参加。6月13日、国家元首(大統領)を決める選挙が緊急ロヤ・ジルガで行われ、ハーミド・カルザイが圧倒的多数の票を獲得し、当選した。6月15日、今後2年間の国名を「アフガニスタン・イスラム暫定政府」に決定する。 6月19日、新暫定政府主要14閣僚と最高裁判所長官の名簿公表。副大統領にファヒーム国防相・アブドゥッラー外相・アシュラフ・アリー財務相(カルザイ顧問兼任)らが兼任。ザーヒル・シャーの閉会宣言でロヤ・ジルガ閉会する。
7月1日、米軍が南部ウルズガン州で誤爆、市民48人死亡、117人が負傷する。 2003年12月14日〜2004年1月4日、憲法制定ロヤ・ジルガが開催され、新憲法を採択。 北部同盟が ターリバーン政権転覆に成功した後、かつての「パシュトゥーニスタン独立運動」の地域が逆にターリバーンや アルカーイダの潜伏場所に変わっていた。2004年3月、 ワジリスタン紛争が勃発。
アフガニスタン・イスラム共和国成立以降:
カルザイ大統領の就任式
(2004年)
右奥に着席しているのはザーヒル・シャー元国王
2004年10月9日、初の大統領選挙。カルザイが当選、大統領に就任。アフガニスタン・イスラム共和国発足。選挙を前にターリバーンの活動が活発化、南部を実効統治。2005年、総選挙・州議会選挙実施。
2006年、ISAF(国際治安支援部隊)の指揮権が NATO に移譲される。5月、ターリバーンの攻勢強まる。7月、ISAF(国際治安支援部隊)南部展開。10月、ISAF(国際治安支援部隊)東部展開、計13000人がアフガニスタンに駐留。
2009年8月、大統領選挙。カルザイが過半数の票を得るが、国連の調査で不正が発見される。二位の アブドラ前外相が決選投票をボイコットしたため、11月に行われた決選投票でカルザイの再選が決定。 2010年1月16日、下院は、カルザイ大統領が9日に再提示した第2次政権の閣僚候補17人について信任投票を行った。そのうち7人が信任され、10人が不信任となり、大統領は三度目の名簿提出を余儀なくされた。全閣僚中、外務、内務、国防、財務の四主要閣僚を含む14人は確定した。
9月18日、下院議会選挙。97か所の投票所を含む多数のターリバーンによるテロ攻撃があったと発表。
2011年5月2日、CNNが、 ビン=ラーディンを アボッターバードで殺害した、と報道した。
7月12日、 カンダハール州議会議長アフマド・ワリー・カルザイ(大統領の弟)が自宅で警護官によって暗殺される。
7月15日、アメリカ軍のアフガニスタンからの撤退開始。9月20日、ターリバーンとの和解交渉を担当する高等和平評議会の議長 ブルハーヌッディーン・ラッバーニーが自宅への自爆攻撃により死去。カルザイ大統領はターリバーンとの和平交渉打ち切りを指示した(後にターリバーンが犯行を認めた)。
12月6日、首都カーブルや北部バルフ州の州都 マザーリシャリーフ、南部カンダハール州などで、イスラム教シーア派の廟やその周辺で自爆・仕掛け爆弾による爆発があり、多数の死者や負傷者が出ている。警察はテロの可能性を指摘している。
2014年9月29日、 アシュラフ・ガニーがアフガニスタン第二代大統領に就任した。なお、大統領選の決選投票で敗れた アブドラ・アブドラ元外相も新設された首相格の行政長官に就任した。
2016年4月、タリバンがカブールの情報機関、国家保安局を襲撃。9月5日午後2時半ごろ、 カブールの国防省近くで自爆テロがあり、治安当局高官を含む35人が死亡、103人が負傷し、タリバンが犯行声明を出した。
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