【ガッサーン朝】

カフターン部族カフラーン支族の一門は3世紀始めにイエメンのマアリブからシリア南部の火山性平原ハウラーン、ヨルダンおよびパレスチナに移住した。そこでヘレニズム化したローマ人移住者およびギリシャ語を話す原始キリスト教徒集団と婚姻関係を結んだ。ハウ ラーンに定住したジャフナ・イブン・アムルの一族は、ガッサーン朝を創建した。土着のアラム人からキリスト教を受け入れ、レヴァントに古代アラブ・キリスト教王国を築いた。その王国の民はジャフナ・イブン・アムル族(カフラーン・カフターニ部族アズド族 の一支族)を含めてガッサーン族と呼ばれる様になった。

 

ローマ帝国はローマ領を侵す他のベドウィンに対する緩衝地帯としてガッサーン朝と同盟を結んだ。3世紀初めから7世紀まで続いたこの王国は地理的にシリア、レバノンのヘルモン山、ヨルダンおよびイスラエルの大部分を占めており、その威光は部族同盟を介して北ヒジャーズからはるか南の現在のマディーナであるヤスリブまでに住む他のアズド族に及 んだ。

 

ローマ帝国を受け継いだビザンチン帝国はもっと東に興味を持ち、ペルシアとの長期戦争が常に主要な関心事であった。ガッサーン朝は交易路の擁護者として支配を維持しベドウ ィン族を取り締まりビザンチン帝国陸軍に兵隊を供給していた。

 

ガッサーン王ハーリス・ イブン・ジャバラ(529 - 569)はサーサーン朝ペルシアに対抗するビザンチン帝国を支援し、皇帝ユスティニアヌス一世(527 - 565)から西暦529年に国境部族国家の支配者の称号を与えられた。 ガッサーン朝は経済的に繁栄しており、南イラクと半島北部に覇権を持つヒーラのラフム朝に十分に対抗していた。当時のラフム朝はペルシアと同盟するペルシア帝国の封建国家であった。

 

ガッサーン朝はビザンチン帝国の封建国家として636年のヤルムークの戦いの後にその支配者がムスリムによって崩壊させられるまで続いた。この戦いでは12,000人のガッサーン族アラブ民がムスリム側に寝返った。

 

ハーリス・イブン・アビ・シムルの後継者であるジャバラ・イブン・アイハムは私闘でウマル・イブン・ハッターブ(592 - 644)に罰する様に命じられ、イスラームを棄教してビザンチン領に向かった。

 

ガッサーン族の殆どがキリスト教への信仰を続け、レヴァントに留まった。ジャバラとおよそ3万人のガッサーン族がシリア北部を離れ、新たなビザンチン 国境領に定住した。建国を許されなかったが、高い地位を維持した。西暦802年から813年までビザンチン帝国を支配し、東ローマ帝国の偉大さを復元したニケポロス・ビザンチ ン朝さえも生み出した。


出典:古代から続く歴史 高橋俊二 著