【メフメト6世】

メフメト6世

[生涯]

 

連合国との講和と帝国の崩壊:

1918年7月、兄メフメト5世の死去により後を継いで即位した。しかし兄と同じく皇帝としての実権は無いに等しく、この頃のオスマン帝国は第一次世界大戦で中央同盟国側に与して戦況不利に陥っていた。

 

1918年10月30日、連合国側とムドロス休戦協定を結んでオスマン帝国は連合国に降伏し、イスタンブールは連合国に占領されてしまった(イタリアはアンタリアとコンヤ、フランスはキリキア、ギリシアはイズミルをそれぞれ占領)。 この協定によりアルメニア人によるアルメニア共和国が建国されることとなり、オスマン帝国は実質的に滅亡したに等しい状態となってしまった。また、それまで政治の実権を握ってきた統一と進歩委員会は敗戦と同時に解体し、指導者層の多くが国外に逃亡するに至った。

 

そして、このような国家の危機を見たムスタファ・ケマル・パシャ(後のアタテュルク)らが民族的抵抗運動を開始し、エルズルムやスィヴァスで東方諸州会議を召集して「国民盟約」を作り上げたのである。

 

希土戦争(ギリシャ・トルコ戦争):

1919年、ギリシャがアナトリアの支配を目論んでトルコ領のイズミルに出兵し、希土戦争が勃発した。これに対して、ムスタファ・ケマルは徹底抗戦し、1920年4月にはムスタファ・ケマル一派により「大国民議会」が結成された。 しかし、メフメト6世はこれを承認せず、逆にムスタファ・ケマルを逆賊として死刑にするように宣告した上で、「カリフ擁護軍」と呼ばれる部隊を組織して、ムスタファ・ケマル一派の鎮圧に乗り出すなどの抵抗を示した。

 

8月にはセーヴル条約が結ばれたが、ムスタファ・ケマルはこの批准に反対し、国家を救うために独自の行動を取り始める。アナトリアに進撃してギリシア軍を破り、次いでアルメニア人を弾圧・虐殺した。 1921年にはアナトリア西部に進出してギリシア軍を再度破り、1922年にはイズミルをギリシアから奪い返すに至ったのである。これにより、希土戦争はトルコの勝利で終わった。

 

オスマン帝国の滅亡とトルコ共和国の成立:

1922年11月、ドルマバフチェ宮殿の裏口を出るメフメト6世

この写真から数日後、イギリスの軍艦でサンレモに亡命した

そして、1922年11月1日、トルコ革命が発生し、ムスタファ・ケマルは大国民議会をアンカラに召集して帝政の廃止を宣言する。廃帝となったメフメト6世にはこれに抗する術は無く、17日にイギリスの軍艦でマルタへ亡命した。

 

ここに、623年間続いたオスマン帝国は滅亡するところとなり、ムスタファ・ケマルは大統領に就任し、トルコ共和国が成立するに至ったのであった。

 

メフメト6世は宮殿を去る際に「ハレムにはかわいい5人の妻が残っているから連れ出してくれ」と言ったといわれている。 1926年5月16日、メフメト6世はイタリアのサン・レモで65歳で死去した。遺骸はダマスカスの「壮麗者スレイマンのテッケ」の中庭に埋葬された。

 

参考文献:

・アラン・パーマー著、白須英子訳『オスマン帝国衰亡史』中央公論新社、1998年。


この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0 のもとで公表されたウィキペディアの項目 メフメト6世 を素材として二次利用しています。