【カイロ会議】

シリアの権益を争うイギリス, フランスは,すでに戦時中の1916年に秘密裡にサイクス=ピコ協定を結び,戦後の両国の勢力圏を取り決め,さらにイギリスは,ユダヤ人のシオニズム運動にも希望をもたせ, パレスティナへの入植を許し,バルフォア宣言によってユダヤ人国家建設の糸口を 与えていた。

両国は20年のサン・レモ会議と21年のカイロ会議において,シリア,イラクの委任統治権を旧連合国に承認させ,フランスは,ファイサル1世をシリアから追放した。 

 

こうしてアラブの独立王国樹立は阻まれ,シリア(歴史的シリア)は,南部はイギリスの,北部はフランスの委任統治下に分断され,アラブ民族主義は新しい局面を迎える。 すなわち、1920年4月イタリアのサン・レモで開かれた主要連合国(イギリス,フランス,イタリア, 日本,ギリシア,ベルギー)の会議で,シリア・レバノン(歴史的シリアの北部にあたる)の統治は フランスに,イラク(メソポタミアとその北のモースル地方を結びつけたもの)と歴史的シリアの 南部にあたる〈パレスティナ〉との統治はイギリスに委任されることが決められた。  サン・レモ会議に続いて,イギリス政府は1921年3月,W.チャーチルの司会のもとにカイロ会議を開き,ヨルダン川を境として〈パレスティナ〉を二分し, 東をトランス・ヨルダン,西をパレスティナとすることを決定した。国際連盟がサン・レモ会議の結論を承認し,パレスティナの委任統治が発効したのは,22年7月であるが,国際連盟は同年9月, カイロ会議の結論をも承認し,トランス・ヨルダンのイギリス委任統治とは別に,パレスティナのイギリス委任統治が国際的に確定されることになった。

 

出典:世界大百科事典内のカイロ会議の言及


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