【チャンパ (チャンパ王国) 】
1,000~1,100年代のチャンパの位置(緑色)、
大越(黄色)、アンコール(薄いブルー)
出典:wikipedia
チャンパ王国(ベトナム語: Chăm Pa / 占婆、192年 - 1832年)は、ベトナム中部沿海地方(北中部及び南中部を合わせた地域)に存在したオーストロネシア語族を中心とする王国。
その主要住民の「古チャム人」は今日のベトナム中部南端に住むチャム族の直接の祖先とされる。
中国では唐代まで林邑と呼び、一時環王国と自称したが、宋代以降は占城と呼んだ。
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[歴史]
サフィン文化
考古学の知見によれば、紀元前の数世紀にベトナム中部北端では青銅器に代表されるドンソン文化が栄えたが、中部沿海・中部南端では鉄器が中心のサフィン文化(紀元前1000年 - 200年、沙黄文化)が広がっていた。
サフィン文化の遺跡から発見される遺物には台湾、フィリピンやタイ西部と共通するものが多く、マレー系海洋民族である古チャム人(チャンパ人)の遺構ではないかとされる。
チャンパ王国の歴史は中国史料、チャンパ碑文、チャム写本に記録されている。チャンパ碑文には古チャム語 をインド系文字で記録したものとサンスクリット で書かれたものがある。チャム語はオーストロネシア語族のひとつで、現在のアチェ語に近い言語である。
林邑国とヒンドゥー文明
中国史料によれば、西暦192年、漢の最南端、日南郡象林県(北中部、現フエ付近)で功曹という官吏であった区連という者が叛乱を起こし、林邑国(チャンパ王国)を建てた。
日南郡を滅ぼした林邑国は、中国南朝に朝貢を繰り返し当初は中国文化の影響を受けていたが、間もなくベトナム南部からカンボジアに掛けて存在した交易国家扶南の影響を受け、ヒンドゥー文明を受容した。中国経由で日本に渡来した林邑僧仏哲が伝えたチャンパの舞踊は林邑楽として今日まで雅楽の中に伝承されている。
チャンパ王国の勃興
ベトナム南部、カンボジアで扶南国が衰え、真臘国が勃興した7世紀初頭、林邑国でも政変があり、占城国(チャンパ)が出現した。占城という漢語国号はサンスクリットのチャンパーナガラ(占婆城)の音訳、省略である。
ミーソン聖域(世界遺産)に現存する碑文によれば、真臘、占城の両王家は共に『マハーバーラタ』に描かれたクルクシェートラの戦いで敗れたインドのカウラヴァ (クル族)側で生き残った武将アシュヴァッターマンの子孫である。
チャンパは占婆花即ち黄花・プルメリアの意であり、カンボジアと同様にかつて北インドにあった国家、都市の名前である。ヴィジャヤ王朝時代の碑文によれば、チャンパの国号とその都名は同一(チャンパーナガラまたはナガラチャンパー)であり、同時代の中国史料でも占城国の都は佔であると記されている。なお、チャム写本では国号はヌガルチャムである。また『続日本紀』に見える遣唐使判官、平群広成が8世紀に漂流した「崑崙国」は、チャンパ王国と考証されている。
ヴィジャヤ王朝成立と大越との抗争
中国は唐代までおおむね現在のベトナム北部を領有しており、チャンパ王国はしばしばこれを略奪し、また南朝・隋の侵攻を受けた。10世紀にベトナム北部の紅河流域を中心にベト族が大越国を建てると、チャンパは都を南中部の北端のアマラーヴァティー州(現ダナン、クアンナム省)から南中部の南端のヴィジャヤ州(現クアンガイ省、ビンディン省)に移した(占城ヴィジャヤ王朝)。
現存するチャム写本『チャム王家年代記』はこの遷都の年(西暦1000年)を建国の年とする。11世紀以降、ヴィジャヤ王朝はベトナム北部の大越及びカンボジアの真臘・アンコール朝としばしば戦争を行った。一時はアンコール朝に占領されたこともあり、アンコール遺跡には有名なチャンパ人兵士の浮彫が残されている。
ヴィジャヤ王朝は13世紀には元のクビライの侵攻(モンゴルのベトナム侵攻=元越戦争とも)を受けた。このころにはマルコ・ポーロなど南海を航海したヨーロッパ人の記録にもチャンパ王国が登場する。
元寇撃退の過程で陳興道ら大越陳朝の軍勢と連携(白藤江の戦い)したチャンパ王ジャヤ・シンハヴァルマン3世(制旻とも)は、和平後に陳仁宗の皇女(陳英宗の妹)玄珍公主を娶り、大越・チャンパの蜜月時代を醸成して、域内平和に貢献した。しかし、花嫁代償としてジャヤ・シンハヴァルマン3世が大越に北中部ウリク州(烏里州:現クアンビン省、クアンチ省、トゥアティエン=フエ省)を割譲したことは、将来に領土紛争の禍根を残した。
明の侵攻とチャンパの分裂
ジャヤ・シンハヴァルマン3世の死後は大越・チャンパの抗争が再燃し、チャンパ王制蓬峩 (Chế Bồng Nga)は大越陳朝の都昇龍を2回にわたり劫掠(脅し取る)し、陳睿宗が敗死して陳朝の権威が失墜すると、胡季犛により帝位を簒奪 され大虞(たいぐ=1400年から1428年までのベトナムの正式名称)(胡朝)が建設された。
1390年にはチャンパ王制蓬峩も羅皚(在位:1390年 - 1400年)が胡朝に内通する裏切りで死去し帝位が簒奪された。この混乱期のチャンパ王国に、1391年からティムール朝の首都サマルカンド出身のスーフィー ・マウラナ・マリク・イブラヒーム (ジャワ=インドネシアにイスラム教を布教した最初の人物として知られる)が訪れ、羅皚の娘Dewi Candrawulan[1]と結婚した。1400年、羅皚が死去すると巴的吏がチャンパ王の帝位についた。
1402年、胡朝二世皇帝(胡漢蒼)が逆襲してチャンパの都を占領したが、巴的吏が明に救援を求めたため、両国の抗争は明の永楽帝の干渉戦争(明・大虞戦争)を招くところとなり、1404年にマウラナ・マリク・イブラヒームはジャワ島のマジャパヒト王国に亡命し、その一族はワリ・サンガと呼ばれるようになった。
1407年までに大虞(胡朝)は滅亡。1407年-1427年、第四次北属時期(第4回目の中国によるヴェトナム支配時期)。1408年に巴的吏は明の鄭和艦隊の訪問をクイニョンで受け歓待している。鄭和はマジャパヒト王国のスラバヤ へも寄港している。
1418年-1428年、藍山蜂起。大越 黎朝(黎初朝)の黎利による明軍撃退後、チャンパは南中部のヴィジャヤ王朝(占城・闍槃:現クアンガイ省、ビンディン省)と中部南端のパーンドゥランガ王朝(賓童龍・藩籠:現ニントゥアン省・ビントゥアン省)に分裂する形で再興された。チャム写本の『チャム王家年代記』は1433年に再興されたパーンドゥランガ王朝の系譜だけを記している。
ヴィジャヤ王朝は1471年に黎聖宗の親征によって崩壊し、その故地であったアマラーヴァティー州、ヴィジャヤ州は大越に併合され、チャンパ王国の正統は中部南端のパーンドゥランガ王朝に移った。この時、ヴィジャヤ王槃羅茶全が、彼の息子シャー・パウ・リン(後のアリ・ムハヤット・シャー(スマトラ・アチェ王国の建国者))をアチェの統治へと送り出したのがアチェ王国の始まりである。
ヴィジャヤ王朝の崩壊とその後の旧ウリク州
ヴィジャヤ王朝の北端であったウリク州は、1306年に大越国に割譲されて以後、烏里州と漢字表記され、更に順化州(順州・化州)と改称、分割された。現在のベトナム語地名フエは化州(フエチャウ、ホアチャウ)に由来する。
『烏州近録』(楊文安撰、1543年、現存のものは18世紀 - 19世紀に大幅に加筆)によれば、旧ウリク州には、もともとここに住んでいたチャム貴族に加えて、チャンパ国内の政争に敗れた貴族層が続々と亡命した。土里人(烏里州土着民)と呼ばれたチャム系の貴族・住民は陳朝に重用されて忠義を尽くし、胡朝の簒奪や明のベトナム侵略に際しては潘猛ら陳朝恩顧の土里人土豪が激しく抵抗した。土里人の名家であるチェー家(制氏)は今もフエの東に住む。
大越黎朝(黎中興朝)がヴィジャヤ王朝を滅ぼしてチャンパの旧領を併合し、今のベトナム中部全域を支配すると、旧ウリク州は中部行政の中心となった。黎朝はチャンパ征服後まもなく簒奪により莫朝に取って代わられたが、黎朝恩顧の重臣である鄭氏と阮氏の連合による抵抗を受けて内戦状態に陥っていた(南北朝時代)。のちに鄭氏と阮氏の間に隙ができると、阮氏の若い跡取りの阮潢(仙王、太祖)は半ば追われるように旧ウリク州に南下し半独立政権を立てた。
阮氏政権とパーンドゥランガ王朝の征服
旧ウリク州に成立した阮氏政権を、黎朝の漢文史料は南河国と呼び、中国の明・清は広南国と呼び、チャム族はウリク国と呼び、史家は広南阮氏と呼ぶ。広南阮氏は形式上は1774年の滅亡まで黎朝の家臣であり、南河国は正式には大越国(黎中興朝)の南半分である(北半分の北河国は別の大貴族・鄭氏が支配)。
広南阮氏は1611年以後南進してパーンドゥランガ王朝の領土を急速に侵食し、1693年に広南阮氏明王の武将阮有鏡がパーンドゥランガを征服して順城鎮と改称した。順城鎮は広南に併合されていったん自治を失ったが、間もなくチャム人貴族のオクニャ・ダット(屋牙撻)が清人阿班の加勢を得てパーンドゥランガ駐留阮軍を各地で撃破し、包囲した。
明王はカンボジア駐留阮軍を呼び戻してチャム軍を打ち破るとともに講和を図り、1694年末にチャム王家のポーシャクティライ・ダ・パティー(継婆子)による王家再興を認めた。また、明王は1712年に順城鎭との間に議定五条を結び、パンラン道(ニントゥアン省ファンラン)、クロン道(ビントゥアン省リエンフオン)、パリク道(ビントゥアン省ファンリ)、パジャイ道(ビントゥアン省フォーハイ、ファンティエト)の四つの道におけるチャム王の広範な自治権を認めた。
順城鎮のチャム人自治とその終焉
広南阮氏は1760年代に政治が乱れ、1773年に西山県で西山阮氏(西山朝)が興った。1774年、広南阮氏は南下してきた鄭氏(鄭氏東京国)と北上してきた西山阮氏に挟撃されて都のフエを落とされ、一旦滅亡した。1777年以後、生き残りの王子阮福暎(後の嘉隆帝)が広南阮氏の再興のための兵を募り、1802年まで広南阮氏と西山阮氏の間で凄惨な内戦が続いた。1794年以後、順城鎮のチャム人貴族は阮福暎に仕えて西山阮氏討伐で活躍する武将チェイクレイブレイ(阮文召)、ポーラドゥワン・ダ・パグー(阮文豪)、ポーチョンチョン(阮文振)、ポークラントゥー(阮文永)らを輩出した。
越南阮朝初期には嘉隆帝の厚遇を得て順城鎮による自治は最盛期を迎え、順城鎮掌奇(チャム王)は中部高原南方の山岳民族をことごとく支配下に置いた。しかし、1832年、明命帝の中央集権化方針により順城鎮(パーンドゥランガ王朝)は遂に断絶され、旧王ポーフォクター(阮文承)は黎文魁(レ・ヴァン・コイ)の乱(南部大反乱)に連座した廉で極刑(凌遅)に処された。自治回復を求める貴族と山岳民族の蜂起(羅奔王の乱)も1835年までに鎮圧された。
[近現代のチャム族]
チャム族は13世紀頃からイスラム教を受容し、現在はベトナムやカンボジアの少数民族として存続している。近代のチャム人独立運動として、ベトナム戦争中の1963年にFULRO(ベトナム・カンボジア被抑圧諸民族闘争統一戦線)中部高原方面軍イーバム・エニュオル議長(エデ族)が樹立したチャンパ高地臨時政府がある。
FULRO 中部高原方面軍本隊は1969年に南ベトナム大統領グエン・バン・チューに投降し、イーバム議長も1975年にポル・ポト派に殺害されたが、中部高原方面軍カンボジア残存部隊のペン・アユンは1992年に国連カンボジア暫定統治機構 (UNTAC)事務総長明石康に投降するまで、ベトナム残存部隊のトゥーニット・デンは1995年にベトナム社会主義共和国国家主席レー・ドゥク・アインに投降するまで、20年にわたりゲリラ戦を継続した。
[貿易]
古チャム人は優れた航海技術を持ち、占城国及びその南隣の属国パーンドゥランガ(賓童龍国)は交易国家としても繁栄した。
中国に来航するイスラム商船にとってチャンパ・パーンドゥランガは重要な寄港地であり、チャンパ産の沈香は朱印船貿易においても重要な交易品目であった。正倉院に所蔵されている香木蘭奢待は、9世紀頃チャンパから日本に持ち込まれたと考えられ、徳川家康がチャンパ王に宛てた沈香を求める信書も残っている。また、14世紀から15世紀に掛けて交易国家として繁栄した琉球王国はチャンパと通好関係があった(『歴代宝案』)。
17世紀前半に活躍した日本の朱印船はしばしばチャンパを渡航先に選んでいるが、これはチャンパの物産が目的というより、明は日本船の来航を禁止していたため中国商船との出会い貿易の場として朱印船貿易に利用されたためである。 パーンドゥランガは属国とはいえ固有の王(檳榔族)を戴いていた。また、その国号は白蓮を意味すると同時に真臘(クメール=現カンボジア)・占城(チャンパ=現ベトナム中部沿海地方)の祖先であるクル族に敵対したパーンドゥ族を意味し、真臘・占城・大越(ダイべト=現ベトナム)・広南(クァンナム=現在のベトナム南部に築いた半独立国家)の侵略をよく防いで、1832年まで自治を貫徹した。
[遺跡]
インド文化を受容したチャンパではレンガ造りのヒンドゥー寺院や仏教寺院が建立された。世界遺産になったフォンニャ洞、ミーソン聖域を始め、チャキエウ城(茶蕎故城)、ドンズオン仏院(桐楊古塔)など、中部沿海・中部南端・中部高原など中部全域にチャンパ遺跡(占城古塔)が分布し、ドンナイ川上流のカッティエン聖域(バタウリンカ聖域、ラムドン省)もチャンパ遺跡と考えられる。
中部沿海のチャンパ遺跡は廃墟であるが、中部高原のヤンプロン塔、ヤンムム塔などの遺跡は近代までジャライ族の重要な祭祀の場であった。
また、チャム族、ラグライ族(山地チャム人)が多く暮らしている中部南端では、カインホア省ニャチャン 市内のポーヌガル塔(天依阿那祠)、ニントゥアン省の省都ファンラン郊外のポーロメ塔(厚生古塔)、ポークロンガライ塔(得仁古塔)、ヤンバクラン塔(和来古塔)、ビントゥアン省ファンリ郊外のポーダム塔(楽治古塔)、ファンティエト市内のポーシャーヌー塔(鋪諧古塔)などのチャンパ遺跡で現在もヒンドゥーとイスラームが習合した祭祀が続けられている。
[研究]
南中部のクアンナム省に残るヒンドゥー教遺跡ミーソンは、20世紀初め以来フランス極東学院(EFEO)のパルマンチェやクレイ、ポーランド文化財保護アトリエ (PKZ) のカジミエシュ・クヴィアトコフスキらにより修復、保存、補強工事が続けられ、1999年、「ミーソン聖域」としてユネスコ世界遺産に登録された。
2005年には日本の国際協力機構の技術協力でミーソン遺跡展示館が作られた。
チャンパ王国の歴史研究は仏領インドシナ時代にフランス人学者によって先鞭がつけられ、エーモニエ、カバトン、デューラン、ミュスによる写本研究、フィノー、マジュムダール、クロード・ジャック、石澤良昭による碑文研究がなされ、マスペロ、オルソー、馮承鈞、杉本直治郎、山本達郎による中国史料研究がなされた。現在は、フランス極東学院のポーダルマー(チャム人)を中心に、パリ外国宣教会のムセー(インドネシア・ミナンカバウ教区神父)、ベトナム国内のタイン・ファン(ホーチミン市大学人類学講師、チャム人)、サカヤー(ニントゥアン省チャム文化研究センター研究員、チャム人)によりチャム写本の保存・共有事業が進められている。
[その他]
• 中国人が記録したチャンパの伝承で、飛頭蛮という首が伸びて頭を飛ばす民族に関するものがある。
これは江戸時代の日本に伝わりろくろ首の話になったと言われている。全く同じ伝説がカンボジアにも
存在する。
[脚注]
[1][7][10]後にドゥマク王国でen:Dewi Sriにちなんで呼ばれたインドネシア名。チャンパ王国での名前は不明。
[関連項目]
•ホイアン
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