【アンコール・ワット】

アンコール・ワット(クメール語: អង្គរវត្ត, 英語: Angkor Wat)は、カンボジア北西部に位置するユネスコの世界遺産(文化遺産)であるアンコール遺跡の一つであり、その遺跡群を代表するヒンドゥー教寺院建築。

 

サンスクリット語でアンコールは王都、クメール語でワットは寺院を意味する。大伽藍と美しい彫刻を特徴としクメール建築の傑作とされ、カンボジア国旗の中央にも同国の象徴として描かれている。

アンコール・ワット
中央祠堂



 

[歴史]

 

12世紀前半、 アンコール王朝スーリヤヴァルマン2世によって、ヒンドゥ-教寺院として30年を超える歳月を費やし建立される。

アンコール・ワット 

アンコール・ワット 全景

 

1431年頃にアンコールが放棄されプノンペンに王都が遷ると、一時は忘れ去られるが再発見され、アンチェン1世は1546年から1564年の間に未完成であった第一回廊北面とその付近に彫刻を施した。孫のソター王は仏教寺院へと改修し、本堂に安置されていたヴィシュヌ神を四体の仏像に置き換えたという。

日本の巡礼者によって作られた地図

(1623年 - 1633年))

 

1586年、ポルトガル人のアントニオ・ダ・マダレーナ(フランシスコ修道会の修道士)が西欧人として初めて参拝し、伽藍に対する賛辞を残している。1632年(寛永9年)、日本人の森本右近太夫一房が参拝した際に壁面へ残した墨書には、「御堂を志し数千里の海上を渡り」「ここに仏四体を奉るものなり」とあり、日本にもこの仏教寺院は知られていたことが伺える。1860年、寺院を訪れたフランス人のアンリ・ムオの紹介によって西欧と世界に広く知らされた。

 

1887年、カンボジアが仏領インドシナとされ、1907年にシャムからアンコール付近の領土を奪回すると、フランス極東学院が寺院の保存修復を行った。 1972年、カンボジア内戦によって極東学院はカンボジアを離れ、寺院はクメール・ルージュによって破壊された。この時に多くの奉納仏は首を撥ねられ砕かれ、敷石にされたという。

 

1979年にクメール・ルージュが政権を追われると、彼らはこの地に落ち延びて来た。アンコール・ワットは純粋に宗教施設でありながら、その造りは城郭と言ってよく、陣地を置くには最適だった。周囲を堀と城壁に囲まれ、中央には楼閣があって周りを見下ろすことが出来る。また、カンボジアにとって最大の文化遺産であるから、攻める側も重火器を使用するのはためらわれた。当時置かれた砲台の跡が最近まで確認できた(現在は修復されている)。

 

だがこれが、遺跡自身には災いした。クメール・ルージュは共産主義勢力であり、祠堂(祖先の霊を祭る所)の各所に置かれた仏像がさらなる破壊を受けた。内戦で受けた弾痕も、修復されつつあるが一部にはまだ残っている。

カンボジア国旗

 

内戦が収まりつつある1992年にはアンコール遺跡として世界遺産に登録され、1993年にはこの寺院の祠堂を描いたカンボジア国旗が制定された。

 

今はカンボジアの安定に伴い、各国が協力して修復を行っており、周辺に遺された地雷の撤去も進んでいる。世界各国から参拝客と観光客を多く集め、また仏教僧侶が祈りを捧げている。参道の石組みの修復は日本人の石工が指導しており、その様子はNHK「プロジェクトX」で取り上げられた[1]

 

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[2]

[伽藍]

 

正面参道に立つと、この寺院が西を向いていることに気づかされる。アンコールの他の遺跡のほとんどは東向きであるが、この寺院はそれと異なっている。その理由は、この寺院が葬儀を行なうための寺院として建てられたからである。スーリヤヴァルマン2世は自己の死後の幸福を願って、ヴィシュヌ神に世界最大の寺院を捧げることを誓い、王の葬儀は、この寺院で行なうことを部下に命じた。 したがってこの寺院は、一部の壁画彫刻などを除き王の治世中にほぼ完成されたものと思われ、その建築年代は1113年から1152年ごろの間と考えられている。

 

しかし、1,000年近くもの間、ジャングルの中にひときわ高くそびえ立っていたこの巨大な建造物がどのように造られたかは、いまだ謎のままなのである。

日の出を迎え、聖池の水面に映る堂宇

 

アンコール・ワットは、それを囲む堀と、参道と、3つの回廊と、 中心部の5基の塔とそれらを結ぶ階段や石門などからなっている。また境内には経蔵 や池などが各所に配置され、回廊は精緻な薄浮き彫りで埋め尽くされている。

 

堀は南北1,300メートル、東西1,500メートル、幅190メートルあり、ラテライト砂岩によって築かれた高さ3メートルに達する石段で縁どりされている。この石段の全長を総計すると、10キロ以上にもなる。

 

参道は、西側から入る表参道と東側から入る裏参道の2つがあり、門は東西南北の4カ所に設けられている。

 

表参道から入り堀を渡り切ると、正面西大門に達する。経蔵や池などを左右に見ながら境内を進み中心部に達すると、そそり立つ5基の塔を囲み3重の回廊がめぐらされている。

環濠を渡る陸橋と西大門

 

第1回廊の長さは南北180メートル、東西200メートあり、壁面はあます所なく浮彫りで飾られている。第2回廊は南北100メートル、東西115メートル。第3回廊は1辺60メートルある。中央塔の高さは地上65メートルに達する。

 

参道、石畳と七頭の大蛇の欄干

 

裏参道は土のまま残されているが、表参道は石畳で敷きつめられている。表参道の長さは入ロから大門までが190メートル、大門から寺院本殿まで約350メートル、合計約540メートルで、その道幅は約12メートルある。

 

表参道突端のテラスの上り口には、日本の神社にある狛犬によく似たライオンの石像が両脇に置かれている。参道の両側には、高さ約1メートルの欄干が設けられているが、その手すりはコブラを様式化したもので、ナーガと呼ばれる大蛇である。ヒンドウ教の竜神ナーガはふつう七つの頭を持ち、水の霊とされている。この大蛇ナーガの頭部は、参道の正面に向かって大きくかま首をもたげ、両脇に並んだライオンの石像と共に見事な造形美を形成している。ナーガは、マカラと呼ばれる怪物のロから吐きだされることがあるとされるが、その形は日本神話のヤマタノオロチを思わせるものがある。

ナーガとライオンの石像

 

参道はラテライトを積み上げ、表面に砂岩の石畳を敷きつめたものである。参道の両脇外面は、砂岩の円柱によって飾られていたが、現在はほとんど失われている。中央部テラスの約5メートル手前に巨人の足跡のつけられた敷石が発見できる。これは、アンコール・トムの城門の前に並べられたナーガを抱える巨人アスラ(阿修羅)の足跡だと伝えられている。しかし実際は、この寺院が完成して後に参道が修理された時、持ち込まれたものだといわれている。参道を約95メートル進むと、ちょうど堀の中ほどに達するが、参道の両側には堀に下りられるように石段の船津(船着き場)が備えられている。

 

堀を渡りきると、砂岩を積み上げた西大門に達する。この大門の中央部には本殿の5基の塔と同じ形の塔が3基築かれているが、現在は3塔とも上部は破損している。 大門の左右には回廊がのび、その先に境内に通ずる門が設けられている。左右の門は“象の門“と呼ばれ、車馬が通行できるように腰石は積まれていない。

中央西大門

 

中央西大門は王が使用し、左右の“象の門”” は象をはじめ馬や荷車などの出入りに用いられたものとされている。“象の門” の両翼は、さらにラテライトで築かれた石壁が続き、その石壁によってこの寺院は、あたかも大城郭のごとく囲まれている。石壁の長さは南北815メートル、東西1,000メートルにおよぶ。これらの門や回廊の外面・柱などには、あますところなく天女アプサラスや女神デヴァターの像などが刻まれている。

 

西大門からこの回廊を右へ約30メートルばかり進むと、高さ約4メートルの巨大なヴィシュヌ神の立像が安置されているのに出会う。金箔のはげかけたこのヒンドゥーの聖像は、8本の腕をもっているが、4本の腕には錫杖 (しゃくじょう)を2本の腕には蓮の蕾をもっている。残りの2本の腕は手首が破損してしまっている。

ヴィシュヌ神立像

 

西大門にもどり、砂岩を敷きつめた第2参道を本殿に向かって進む。西大門と本殿を結ぶ参道は長さ約350メートルあり、幅は第1参道よりやや狭い。参道の途中には、中庭に下りられるよう両側におのおの6つの石段がとりつけられている。第4の石段の位置に、参道をはさんで対称的に2つの瀟洒な石造りの建物か置かれている。これは経蔵 であったと言われる。この長方形の経蔵には、四方にそれぞれ階段のついた入ロが設けられている。 この経蔵のやや前方に、参道をはさんでやはり対称的な位置に2つの池が掘られている。南側の池は、縁どりも壊れ水も少ないが、北側の池は今も水をたたえている。この池の前から見ると、水に映ったア ンコール・ワットの姿が美しい。

前庭南経蔵

 

北側の池の横手には現代的な木造の僧房が、さらにその奥には現代の仏教寺院が建てられ、黄色い衣をまとった僧侶が生活している。

 

第1回廊 絢欄たる絵巻物語の展開

本殿中央門

 

長い表参道の終りは、石段がとりつけられた広いテラスになっている。テラスは大蛇ナーガの美しい欄千で囲まれ、その下部は砂岩の円柱で飾られている。テラスに続く石段を上ると、 いよいよヒンドウ教の絵巻物語と、この寺院の建立者スーリヤヴァルマン2世の歴史を壁面いっぱいに飾った第1回廊に達する。

アンコールワット平面図およびレリーフ-像などの位置

 

中央門の左右には、参道の途中に設けられた西大門の場合と同じく脇門があり、その先に回廊が伸び、ぐるりと本殿中央部をとり囲んでいる。回廊は南北180メートル、東西200メートル、一周すると760メートルになる。回廊内側の壁面は閉ざされ、そこにはあますところなく彫刻がほどこされている。外側は石造りの角柱によってささえられており、天井は石材を築き上げたままの半円球のドームになっているが、もとは美しい紋様を彫刻した石板がはりめぐらされていたものである。 南面東側の回廊は、最近この紋様を彫刻した天井が修復され、昔の有様をしのぶことができる。壁面の裏側、すなわち第2回廊に面した部分は、円柱をはめこんだ窓になっているが、この窓は閉ざされていて装飾的なものである。このめくら窓の脇の外壁面には、女神デヴァターの像が一面に刻まれている。

中央門南面東側回廊の裏側壁面の女神像(デヴァター)

 

回廊内部の壁面彫刻は、ヴィシュヌ神はじめヒンドゥ-教の神々の逸話・伝説およびスーリヤヴァルマン2世の功績をたたえる歴史物語を描いたものである。

 

西面南側

古代インドの大叙事詩マハー・バーラタ物語から取材した場面で、カウラーヴァ軍とパーンダヴァ軍との大戦争の模様が全壁面に描かれている。壁面に向かって左側から進軍してくるのがカウラーヴァ軍で、右側から進軍してくるのがパーンダヴァ軍である。 徒歩で進軍する兵士たちは壁面下方に、象や馬のひく軍車に乗って手に弓矢を握る指揮官は一段と大きく壁面上方に、それぞれ描かれている。

 

このレリーフは全体としては、やや混乱した感じがあるが、兵士の服装や髪形や武器などは 細部まで非常に精細に描かれている。特に馬の進軍する様子はすぐれている。 西中央門脇入ロから約5メートルほどの壁面上方には、無数の矢を身体に受けて身を横たえた戦士の図が描かれている。これはカウラーヴァ軍の指揮官ビーシュマで、彼を取り巻いた一族に訓令を与えているところである。

マハー・バーラタ物語の大戦争の図

(第一回廊西面南側の浮彫り)

 

南西隅

この十字型の回廊の角の部分は、一面のすばらしい彫刻で飾られているが、天井に生じた亀裂から漏れる水の浸触によって、かなりそこなわれている。

 

▶ 北側東部:

ヴイシュヌ神の化身である大力無双のクリシュナが、怒れるインドラ神によって引き起こされた激しい嵐から牧童たちを守り、風雨をさえぎるためゴーヴァルダナ(ヒンドゥー教の聖地)の山を天高く持ち上げている図。上方には天空に舞う天女アプサラスの図が描かれている。

クリシュナがゴーヴァルダナ山を天にむかって持ち上げている

 

▶北側西部(窓の上部):

ヒンドゥー伝説「乳海攪拌」を描いた図。ヒンドゥ-の神々デーヴァと悪鬼アスラ(阿修羅)たちが、不老不死の甘露アムリタを得るために乳海を攪拌した話は、ヒンドゥ-の天地創造神話として有名であるが、これについては、東面南側の全壁面に詳細に描かれている。壁面の上方、中央心捧の両脇には、太陽と月を象った2つの円盤が描かれている。

 

▶西側北部(窓の上部):

悪魔の王ラーヴァナが女神たちを誘惑するために、インドラ神の宮殿の一室に忍び込んでいる図。 大勢の女神たちの下方にはバラモンの苦行僧の図が描かれている。ラーヴァナは、 古代インドの叙事詩ラーマーヤナ物語の中では、ラーマ王子の妻シーターの強奪者として知られている。

 

▶西側南部(窓の上部):

10の頭と20本の腕を持つ悪魔ラーヴァナが足を広げて、シヴァ神の座す山を揺り動かさんとしている図。その足もとには、恐れおののくバラモンの苦行僧たちが描かれている。

ラーヴァナがシヴァ神の座す山を揺り動かす

 

▶南側東部(窓の上部):

ラーマーヤナ物語から取材した図。 ラーマ王子が、猿王スグリーヴァを助けて、敵の猿王ヴァーリンにとどめの一矢を放った図が描かれている。猿王スグリーヴァとヴァーリンの戦いの図は寺院装飾のモチーフとして、今日のカンポジアにおいてもっとも広く普及しているもので ある。 下部は、ヴァーリンの死に臨んだその妻ターラーが、夫の身休を腕に抱きかかえている図である。

 

▶南側西部(窓の上部):

神女の住む山上で、妻ウマー(別名パールヴァティー)が魅惑的な姿勢で寄りそうのも気にかけず冥想にふけっているシヴァ神に対して、山の麓から彼の心を乱さんものと矢を射かける愛の神カーマの図。カーマの足もとには、すでに愛の神のとりこになった男神が、女神の膝に頭をのせている図が描かれている。

 

▶東側北部:

2隻の館舟(やかたぶね)が並んでいる図。この場面はどんな話か判明していないが、天女アプサラスが天に舞う図があることから考えて、ヒンドゥ-の神女の逸話のーつであろう。下の館舟の中には子供と遊ぷ男女の図、その右にはバイヨン遺跡の第1回廊に描かれているものと同様の闘鶏の図、上の館舟の中には将棋を指している人の図などが描かれている。

 

▶東側南部(窓の上部):

損傷がひどく不明瞭であるが、山上の神女とバラモン僧の図が認められる。

 

▶北出口上部:

ラーマーヤナ物語から取材した図。ラーマ王子が、シーター姫を強奪して逃げる悪魔ラーヴァナを乗せた鹿を殺している。

 

▶西出口上部:

ヴイシュヌ神の化身クリシュナの幼年時代を描いた図。腕白なクリシュナは乳母によって、こらしめのため臼にくくりつけられるが、大力無双の彼はその臼をひきずって側の2本の 大木を引き倒そうとしている。上部には様式化された大蛇ナーガが、ふちどりに描かれている。

 

▶南出口上部:

判然としないが、森の中のヴイシュヌ信者が描かれている。

 

▶東出口上部:

人々がヴイシュヌ神に供物を捧げている図。

 

南面西側

ここには「歴史回廊」と呼ばれ、スーリヤヴァルマン2世の功績をたたえる歴史物語の一場面が描かれている。この壁面は、玉座に坐るスーリヤヴァルマン2世の図と、彼の軍団の堂々たる行進の図で埋められている。 西南隅から約10メートルのところ、ちょうど4本目の石柱の前に刻まれているのが王である。王は威厳に満ちた、しかも高貴さを失わぬ姿勢で、前方を行進する軍団に対る命令を従者に指示している。その左下には、従者を従えた王女たちの一群が、森の中を通過している図が描かれている。 その上部には、武器を持った将官たちがずらりと並人でいる。王の周囲には、従者たちによって何本もの天蓋がさしかけられている。玉座の右の木陰に坐っているのはシュリー・ヴァルダ大侯で、手を胸にあて、顔を王の方に向け忠誠を誓っている。王の下方には、天蓋のついた 輿に乗った王妃たちが並んでいる。

スーリヤヴァルマン2世

 

その前方には、隊伍堂々と行進する軍団の図が描かれている。 盾と矛を持つ兵士は裸足で徒歩行進し、また何本もの天蓋をさしかけられている指揮官は象に乗って進み、軍団の要所要所には騎兵隊が護衛の任にあたっている。この軍団行進の図は壁面全体に続いているが、この図の4分の3ほどのところには、戦功を祈るため小鈴を振って行進につき従うバラモン僧の図が描かれている。輿に乗った聖者の前方には、戦乱を清め神の加護を祈るための聖火を入れた箱が運ばれている。

カンボジア軍兵士の行進

 

その前方には、ラッパを吹き鳴らし太鼓を打つ音楽隊が行進し、その先頭には、滑稽なしぐさをしている2人の道化役がいる。行進の先頭、すなわち南中央に至る4、5メートルあたりからは、外人部隊であるシャム の兵士たちが並んでいる。シャムの兵士はカンポジアの兵士と異なり、腰蓑のような感じの布を巻き、髪には鳥の羽のようなものをさしている。シャム兵士の中には、隣の者と話し合ったり後を振り向 いたりしている者もあり、整然と行進するカンボジァ軍の兵士と対照的な様子に描かれている。

シャム軍兵士の行進

 

南面東側

“天国と地獄“の図が描かれている。長さ66メートルにおよぶこの壁面は、かっては崩壊した巨石に回廊をふさがれ、その全貌を見ることはできなかったが1947年に修復され、また最近ドームの下に美しい紋様を描いた天井が張られ、原形を再現している。 この壁面上方には幸福な人間生活が、下方には地獄の責苦を受ける人々の群れが対照的に描かれている。

 

南中央ロから約15メートル、すなわち7本目の石柱の前に描かれているのは、死と裁判を司る神ヤマ(夜摩天)で、18本の手に剣を持ち牡牛に乗っている。この神は日本でいう閻魔大王にあたる神で、心の正しい者には褒賞を、よこしまな者には刑罰を言いわたすのである。地獄の図には、木の枝に足首を結ばれ逆さ吊りにされた者や、鼻に綱を通され引き回されている者や、身体中に太い針を打ちこまれた者や、むちで打たれている者など、 さまざまの責苦にあう者の姿が描かれている。

ヤマ(夜摩天)

天国と地獄のレリーフ

 

東面南側

有名なヒンドウ神話“乳海攪拌”の図が、約50メートルにわたって壁面いっぱいに描かれている。この壁面の図は、アンコールの数多くの壁画の中でも非常にすぐれたものである。 この神話はヒンドウ教の天地創造に関する逸話であり、その梗概は次のとおりである。

 

昔、神々とアスラ(阿修羅)たちが相談して、アムリタ(甘露)を手に入れようと考えた。これは不老不死の妙薬で、大洋をかき混ぜることによって生ずるとされていた。そこで神女は、ヴィシュヌ神の化身である大亀クールマの背中に大マンダラ山をのせ、その中腹に大蛇ヴァースキをからませて、その両端を引き合うことによって山を回転させ、大洋をかき混ぜようと考えた。それで、大蛇の中央から頭の方にはアスラたちが、尻尾の方には神女が、大蛇の胴をかかえて向かいあった。綱引きの要領で、交互に大蛇を引くと山がぐるぐる回り、その激しい震動によって、魚や海中に住む怪物などはずたずたに寸断された。かくて大洋は乳の海となったが、この乳海攪拌の仕事は、神話によると千年以上続けられたという。 攪拌の結果は、海中からすばらしい創造物が続々と飛び出してきた。まず第一に現われたのが、この壁面の上部に舞う天女アプサラスの一人ラン・ハーである。続いてヴィシュヌ神の妻となった美の女神ラクシュミーが生じた。

 

乳海攪拌の図で、中央の大山上にさされた心棒を抱いて指揮しているのがヴィシュヌ神である。そして最後に甘露アムリタが得られたが、その所有をめぐって神々とアスラたちはさらに相争ったと伝えられる。

乳海攪拌

 

東面北側

この壁面にはいる前に、東中央ロに隣接する小部屋の壁面に高さ約1メートル半、幅2メートルにわたって、見事な碑銘が刻まれている。このカンボジァ文字によって刻まれた記述は、東面中庭に十七世紀の初めごろ建立された卒塔婆に関するものである。

 

さて、この回廊壁面には、ヴイシュヌ神にまつわる戦争の図が描かれている。南側から進軍するのは悪魔の軍団で、北側から進んでくるのが神々の軍団である。南側からは、頭部が獅子の形をし、身体が馬の形をした怪獣の引く戦車に指揮官が乗って、多数の兵士をひきつれ進軍している。壁面中央部でこの軍団は、北側から押し寄せる神々の軍団と交戦している。中央部にひときわ大きく、神鳥ガルダに打ち乗ってはるか南方を望んでいるのが、ヴィシヌ神の雄姿である。

ガルーダに乗るヴィシュヌ神

 

北面東側

この壁面には、ヴイシュヌ神の化身クリシュナと怪物バーナ(別名バーナースラ)の戦闘の図が描かれている。大力無双で美男子のクリシュナは、神鳥ガルダに乗って怪物バーナの本陣を襲撃している。怒り狂ったクリシュナの図がいくつも連続的に描かれているが、壁面の最後、すなわち北中央ロに近いところでは、 ついに怪物バーナが降伏し、シヴァ神の前にひざまずいている。シヴァ神は右手に三叉を持ち、 あごひげを生やして威厳に満ちた態度をみせている。

 

壁面の彫刻は、この寺院が建立されてから後日、中国人の工人たちによって、ほどこされたものだとされているが、たしかに彫刻の趣きも他の壁面とは異なっている。

 

北面西側

この壁面には、アスラ (阿修羅)と戦うヒンドゥ-の神々の図が描かれている。

 

神々は、乳海攪拌によって得た不老不死の妙薬、甘露アムリタの所有をめぐって、アスラと相争ったと伝えられる。

 

髪を三角帽のように結い上げているのが神女で、髪の付け根を、はたきを立てたような形に縛っているのがアスラである。

 

北西隅

この十字形の角の部分には、ヒンドゥー神話や伝説に取材した興味ある場面が数多く描かれているが、南西隅と同様うす暗いので、細部を観賞するためには灯火が必要である。

 

▶東側南部:
ヴイシュヌ神
が神鳥ガルダに乗っている図。右側にいる女神は彼の妻である。

 

▶東側北部(窓の上部):
破損のため、壁面中央人物の身体の上部は見られないが、 これはヴイシュヌ
アナンタという永遠の蛇の上に休んでいる図であろう。

 

上部の天空には天女アプサラスが舞い、下部には象や馬に乗った神女の図が描かれている。

 

▶北側東部(窓の上部):
王宮内部の場面。向かい合って坐った男女が何事かを語り合っている。

 

▶北側西部(窓の上部):
ラーマーヤナ
物語中の有名な一場面。

 

ラーマ王子の妻シーターが薪木の上に坐らされ、神の審判を受けている図。

 

悪魔ラーヴァナに略奪されたシーターが、ラーマ王子の疑いをはらし身の純潔を証するため神明裁判を受けるが、無事火中からもとの美しい姿を現わし、身のあかしを立てた話である。右側に坐っているのがラーマ王子で、心配そうにシーターを見つめる猿たちがその下部に描かれている。残念ながら、この壁面も破損がひどく図は不明瞭である。

 

▶西側北部(窓の上部):
この部分もかなり破損しているが、ラーマーヤナ
物語の最後の場面を取材した図。

 

猿軍の援助のもとに悪魔ラーヴァナを打ち平らげ、妻シーターを奪回したラーマ王子が、聖なる白鳥ハンサの運ぶ館に乗って凱旋する図。窓の右側に描かれているのは、勝利を喜ぶ猿たちが滑稽な姿で楽器を鳴らしたり、祝賀宴のための料理を運んだりしている図である。

 

▶西側南部(窓の上部):
ラーマーヤナ
物語に取材した図。

 

悪魔ラーヴァナに捕えられたシーターを、ラーマ王子に派遣された猿軍の将ハヌマンが慰めている図である。

 

ハヌマンは無事使命を果たした証拠に、シーターの指輪をうけとる。シーターの脇には美しい女官が坐り、下部には、獣の鼻面をしたり鳥のくちばしを持った悪魔たちが、見張り番をしている。

ハヌマンとシータ

 

▶南側東部:
ラーマーヤナ
物語の最後の場面に取材した図。

 

悪魔ラーヴァナを打ち平らげ凱旋したラーマ王子が、ジャナカ王の宮庭で車上を横切る鳥に、勝利者としての勝鬨(かちどき)の矢を放たんとしている図である。

 

王子の前に坐っているのはシーターで、脇にあごひげを生やし束髪を結って居並ぶのはバラモン僧である。

 

▶南側西部(窓の上部):
上方、玉座に座すのは4本の腕を持つヴイシュヌ神
で、宝石に身を飾った天女アプサラスが捧げものを持って奉仕している。下部は、勝利をおさめ馬をひく兵士たちの図である。

 

▶南出口上部:
ラーマーヤナ
物語に取材した一場面。

 

恐しい形相の怪物が、ラーマ王子とその弟ラクシュマナを両手を広げて捕えようとしている図である。

 

▶東出口上部:
ラーマーヤナ
物語に取材した一場面。弓を持ったラーマ王子と剣を持ったその弟ラクシュマナが、猿王スグリーヴァと同盟を結ぶため話し合っている図である。

 

▶北出口上部:
ラーマーヤナ
物語に取材した図。

 

悪魔ラーヴァナの命により、シーターを略奪しようとする 悪魔ラークシャサ(羅剃)の図である。悪魔の右膝にかかえられているのがシーターである。

 

▶西出口上部:
ラーマーヤナ
物語に取材した図。

 

ラーマ王子と同盟を結んだ森の中の猿たちと、投降した悪魔ラークシャサおよび悪魔ラーヴァナの弟ヴィビーシャナが描かれている。

 

西面北側

約50メートルにおよぶこの全壁面は、ラーマーヤナ物語のクライマックス、ラーマ王子軍と悪魔ラーヴァナ軍との大合戦絵巻が展開されている。

 

数々の戦いのありさまが描かれているが、身体をくねらせて悪魔たちに襲いかかる猿軍や、弓を引く兵士の図など詳細克明に彫刻されている。壁面中央部には、雨あられと飛んでくる矢の中で、猿の将軍ハヌマンの肩に乗って全軍を指揮するラーマ王子の勇姿が描かれている。彼の後につき従うのは、弟のラクシュマナと投降した敵のヴィビーシャナである。

ハヌマンの肩に乗って全軍を指揮するラーマ王子

 

悪魔王ラーヴァナは、獅子の頭を持ち馬の身体をした2頭の怪獣が引く軍車に乗り、 10の頭と20本の腕を振り上げて立ち向かっている。ラーマとラーヴァナの間には、勇敢な1匹の猿が2匹の怪物の上に乗り上がり、敵の悪魔を肩にかついで倒さんとしているすばらしい図が描かれている。 ここに描かれているラーマ王子の顔は、建立者のスーリヤヴァルマン2世を模しているという。

魔王ラーヴァナ

 

正面中回廊(第1回廊と第2回廊の間)

ー千体仏と340年前の日本人の遺筆ー

 

プリヤ・ポアン (千体仏)

第1回廊と第2回廊 は、長さ45メー トルの三つの中廊下によって結ばれている。南側、すなわち正面に向かって右側の廊下は中庭に下りる南面の出ロが壁で閉ざされているが、そこには数えきれないほど多くの仏像が集められている。寝仏もあれば立像も40あり、とぐろを巻いた蛇の上に座せるもの、首を破壊されたもの、腕のないものなど、大小さまざまの仏が安置されている。 これらの仏像はプリヤ・ポアンと言われているが、カンボジァ語で千体の仏という意味である。これらの仏像は、寺院完成後に仏教徒によって持ち込まれたものであるが、その破損された姿には、ヒンドウ教徒との長い相刻の歴史が秘められている。

 

このプリヤ・ポアンの前では現在でも多くの善男善女が、ひざまずいて敬虚に線香をあげている。また、この場所で剃髪して仏門に入るカンポジア人も多い。

 

なお正面両脇には、長さ1メートル半に達する大きな仏足石が、指を天に向けて立てられて いる。この仏足の中央部には丸い紋様が刻まれ、かかとの部分から指の付根までは十三段に区切られ、草・花・動物・人間・仏などが段階的に描かれている。

 

森本右近太夫の遺筆(その1)

千体仏に向かって右側すなわち西側の柱、その南面の床上約2メートルの位置に、墨で書かれた日本人の筆跡がある。長い年月を経て、ところどころ判読しにくい個所があるが、12行にわたり次のように記されている。

 

寛永九年正月ニ初而此処来ル生国日本 肥州之住人藤原朝臣森本右近太夫 一房御堂ヲ志シ数千里之海上ヲ渡リー念 之胸ヲ念ジ重女世女裟婆浮世之思ヲ清ル○ 為ココニ仏ヲ四行立奉物也

 

摂州津西池田之住人森本儀太夫・・・・・・…… 〇家之一吉〇裕道仙之為裟婆ニ・・・-・・…… 葱ニ書ク物也 尾州之国名黒ノ郡後室○・・・・・・・・・・・ 老母之魂明生大師為後生・・・・・・・・・・・ 茲ニ書物也 寛永九年正月○ (注、〇は不明文宇、……は文字消失部分)

 

(その2)

第1回廊と第2回廊を結ぶ中回廊の外部、すなわち第1回廊と第2回廊に囲まれた中庭の南西隅と北西隅に、それぞれ独立した石造りの建物がある。この建物は経蔵 であったとされているが、現在は内部に若干の仏像が放置されているのみで、何も残されてはいない。

 

正面に向かって左側の経蔵、すなわち北西隅の建物には森本右近太夫のもうひとつの遺筆がある。 遺筆は、経蔵南側階段を上った入口左側の壁面で胸の高さの位置にある。この場所は千体仏の場所に比べて、訪れる人もほとんどないが、 壁面の下方と右側部分がはなはだしく損傷しており、わずかに次のように判読されるにすぎない。

 

○・・・・・・・・○〇而〇・・・・・・・ 肥州之住人藤原之朝臣森本右近・・・・ 一房御堂ヲ心力ケ数千里之海上ヲ渡リ 之〇ヲ○告世々娑○〇之思ヲ〇・・・・・・ 志也〇〇仏ヲ四行立奉・・・・・ 寛永九年正月○

 

(注、○は不明文実・・・・・は壁面損傷及び文字消失部分)筆跡も文意も第一のものと同様であり、両者を総合すると「肥州の住人、藤原朝臣森本右近太夫一房なるものが、父儀太夫の菩提を弔い老母の後生を祈るため、はるばる海上を渡り、寛永9年(1632年)正月三十日この寺院に到着し、仏像4体を奉納した。」と読める。

 

この日付は、前者は七日または廿日と判読されるが、後者には卅とあるので、前者は掛日の画が消えたものと推察される。

 

右近太夫の父儀太夫は、加藤清正に仕え朝鮮の役に従軍した。右近太夫は加藤家を浪人し、一時肥前の松浦家に仕えたと言われる。右近太夫がアンコールに到達した前年の寛永8年には 加藤家が断絶している。

 

松浦静山の「甲子夜話」には「清正、臣森本儀太夫ノー子ヲ宇右衛門ト称ス(略)、此人嘗テ明国ニ渡リ夫ョリ天竺ニ往タルニ(略)、夫ョリ檀特山ニ登リ祇園精舎ヲモ覧テコノ伽藍ノサマハ自ラ図記シ携還レリ」とあるので、おそらく彼は、アンコールの大寺院を祇園精舎の大伽藍と考えていたものと思われる。

 

当時、慶長・寛永の頃、右近太夫のみならず数多くの日本人がカンボジアに渡り、日本人町を形成していたと言われる。

 

4つの洗礼池

 

第1回廊と第2回廊を結ぶ3本の中廊下と、その廊下を中央部で連絡するための一本の横廊下によって、約12メートル四方の四つの空間が作られている。ここは昔、水がたたえられており、この寺院に参詣する人が身体を清めるために用いたと言われるが、定かではない。というのは、カンボジアにおいては、寺院の内部にこのような洗礼池のあるものは、他に例がないからである。

 

第2回廊 美しい女神像と円柱

 

第2回廊は東西115メートル、南北100メートルで、一周すると430メートルになる。回廊の高さは中庭から計って約7メートルある。東西の回廊は内壁が閉ざされ、外側は円柱をはめ込んだ窓になっている。南北の回廊は逆に外側が閉ざされ内側が窓になっている。

 

中庭に面した壁面外側は、無数の女神デヴァターたちの浮彫りで飾られている。回廊内部は薄暗く陰気な感じで、要所要所にさまざまの仏像が安置されている。これらの仏像は、寺院完成後近くの僧院から仏教信者によって持ち込まれたものと思われる。

 

この回廊に安置された仏像群は、インドネシアジャワ島にあるボロブドゥール寺院のように、マンダラ(曼荼羅)世界の実現をアンコールに求めた名残りとも想像されるが、はっきりしたことはわからない。

 

中央本殿 樹海を見下す5基の塔

 

中央本殿に上るには、第2回廊から高さ13メートルの急な石段を上らなければならない。 第3回廊を含む中央本殿と第2回廊の間は、石畳を敷きつめた庭になっている。この庭には、 正面に向かって左右対称的な位畿に石造りの経蔵が置かれている。

 

本殿に上るための階段は、東西南北にそれぞれ三つずつ、計12個の石段が設けられている。どの階段も急で上りにくいが、南側中央の石段は上りやすいように一部がセメントで補修され、鉄製の手すりがとりつけられている。正面階段すなわち西側中央の石段と左右の経蔵を結ぶ歩道は、円柱の支えによりやや高く持ち上げられ、ちょうど掛け橋のようになっている。 第2回廊正面からまっすぐ本殿に上ってしまうと、このことに気付かないが、この様式はアンコール・トムバプーオン神殿にあるものと同様である。

 

中央本殿は、高くそびえ立つ中央塔を中心に、南東・北東・南西・北西の角に中央塔を囲むように築かれた4基の塔と、それらの塔を結ぶ第3回廊からなっている。これらの塔は、須弥山(しゅみせん)を模したものである。 この中央部の広さは、石段の突き出た部分を含まずに、一辺が60メートルある。中央塔の高さは塔の基部から42メートル、道路からの高さは65メートルに達する。

 

奈良の大仏殿は高さ47メート ル、東西57メートル、南北50メートルであるから、この中央本殿だけでほぼ大仏殿に匹敵する。 中央塔の頂点と四隅の塔の頂点を結ぶ線は、ほぼ135度の角度、すなわち直角二等辺三角形の頂角と一底角を加えた数字を示すが、この一事をみても、この寺院がいかに幾何学的な配慮のもとに構築されているかが知られる。

 

最上段、第3回廊に立つと、限下に第2回廊・第1回廊・経蔵などが見下ろせ、参道が白い帯となって大門を貫き、そのかなたには見渡す限りのジャングルが緑の樹海を形成している。 第3回廊にも、石像あるいは木彫りの仏像などが置かれ、 中央塔内部にも金箔のはげかかった 仏像や寝仏など数々の像が安置されている。


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[2]以降の記事に関する参考文献:

・Parmantier, H. Angkor-Guide

・Office National du Tourisme.A Preface to Angkor

・アンコールの遺跡 霞ヶ関出版