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[ 九寨溝/中国]

 

~大自然が生み出した夢幻の仙境~

 

「9つの村がある谷」という意味から名づけられた九寨溝(きゅうさいこう)は、

岷山(びんざん)山脈の奥深い 力ルスト台地 にあり、

氷河に刻まれた三つの渓谷からなっている。

そこは自然の造形美に溢れ、

人々の想像を掻き立てるに十分な 幻想的な景観が繰り広げられている。

透明度の高いミネラル分をたっぷり含んだ水は、

石灰岩で区切られた水の段丘を彩る。

草木の浮き島、

湖面に映る周囲の景色は 童話の世界のように美しく、

急な川の流れに囲まれた林の木々は 一幅の山水画のような美しさを見せ、

仙境とも称えられている。



独特の青が美しい九寨溝、

冷たい地下水と炭酸カルシウムのおかげで不純物が少なく透明度が高い。

同時に、倒木も腐らず、その姿をいつまでも水面下に留める

 

【景観がすぐれた『童話の世界』】

 

チベット高原の東端に位置し、川西高原から四川盆地へと移り変わる地帯にあって、岷山(びんざん)山脈のカルスト台地 に広がる渓谷九寨溝には、太古の地殻変動と氷河の活動によってできた100以上の湖沼が(地元では海子《ハイジ―》といわれる)点在している。 湖面は光り輝き、流れゆく白雲や万年雪を戴く山々を映しだす。

 

冷えこんだ秋の朝、日が昇ると湖面から水蒸気があがり、水の流れが赤や黄に染まった落ち葉を運ぶ。

湖岸では、原生林に棲む動物たちが喉を潤し、憩う姿も見られ、命の水がもつ自然のすばらしさの一端をかいま見ることができる。

 

九寨溝のすばらしさは水草が繁茂する水中にある。 ところどころカルスト地形となり、水が地中に吸収されて再び地表に出るまでのあいだに、土壌に含まれた炭酸カルシウムが溶けて混じり合う。

 

そもそも、九寨溝のような奇観がくりだされた自然界の秘密はそこにあった。

 

【深い渓谷からなる『九寨溝』】

 

岷山(びんざん)山脈にあるこの渓谷は、標高2000メートルの高さまでゆるやかにのぼっていくが、冬の降雪期間が短いため気候は温暖で、山項から河谷(川の流れで浸食されてできた谷)にいたるまでの植物相は、混交林針葉樹林が鬱蒼と生い茂っている。

 

地形的には、急唆な岩の壁が自然の奇観にアクセントをつけている。山腹にはマツ科の針葉樹が生えているところが多い。遠くに見える万年雪を戴く峰々は、軒並み標高4700メートルを超す。この自然保護区は720平方キロメートルの広さをもち、面積はシンガポールの国土よりも広い。九寨溝には3つの大きな渓谷があり、そのうち標高の高いふたつの渓谷の底部がもうひとつの渓谷とY字形となって合流する。

出典: 中国世界遺産の旅 3 講談社

全長50キロ余りの渓谷は、入り口から諾日朗(だくじつろう)瀑布までの約14キロが樹正溝(じゅせいこう)、そこから分岐して東側の約17キロの則査窪溝(そくさわこう)と西側の約18キロの日則溝(にっそくこう)が、4000メートル級の高山を挟んで対峙し、全体として「Y」字形をしているのである。この間の標高差は1870メートルある。流域内の広大な原生林には数千種もの植物が繁茂し、多種多様な鳥や動物の楽園となっており、なかでもジャイアントパンダ孫悟空 (そんごくう)のモデルともいわれる金絲猴(きんしこう)雲豹 (うんぴょう)などはその代表的な稀少動物である。

 

九寨溝は、1970年代初めまでは地元の人々にしか知られていない秘境であった。その後この原生林にも木材伐採の手がのび、人が入りこむようになったため、1978年には自然保護区に指定する措置が取られ、木材伐採は禁止された。今日この地域には、九寨溝という地名の語源にもなった寨(柵《さく》)をめぐらした9つの村があり、住民の大多数を占めるチベット族の農民が谷底の土地を耕作したり、馬を放牧して暮らしている。 現地のチベット族の間には、九寨溝に関する数々の神話や伝説が伝えられている。そのうちのもっとも古いものの一つが「九人の娘」 の伝説である。

 

【108の鏡の破片が108の湖に『精霊と鏡の伝説』

 

 

渓谷への入り口を抜けると、向かって左側には鏡岩とよばれる絶壁がそびえている。岩肌がむきだしになり、巨大な鉈で鋭く割られたような岩壁の高さは400メートルもある。ここにもこの鏡岩にまつわるチベット族の伝説がある。

「昔々この深い山にある鏡岩と呼ばれる断崖絶壁に、ひとりの美しい妖精が住んでいた。あるとき悪魔がこの妖精に目をつけて、以来1,000年の間つきまとい続けた。 山の女神は太陽や雲から作った鏡によって悪魔を封じようとするが、争っている最中に鏡は山の中に落ちて砕けてしまった。 その破片は108に分かれて山を彩り、九寨溝の美しい湖になったといわれている」

 

[Y」字形をした九寨溝の中心に位置する諾日朗瀑布は、九寨溝で最も幅の広い瀑布で、幅が320メートルもある。高さ24.5メートルから落下するその景観は、チベット語で「山間の流水」を意味する諾日朗という名にふさわしい中国最大の高山瀑布である。

 

日則溝の入り口にある鏡海(きょうかい)の湖面では、周囲の山々の樹木を映す鮮やかな彩りが、美しさを競いあっている

九寨溝の特徴はなんといっても水

この不可思議な色はいったいどこからくるのだろう?

 

【億の年月と大自然の日々の活動が生み出す造形美】

 

3~4億年前、海の中にあったこの渓谷は大地の力によって押し出され、隆起した。海中のサンゴ礁は石灰岩となって堆積し、カルストと呼ばれる地形を生み出した。石灰岩は水に溶けやすく、水中に多量の炭酸カルシウムを供給する。

 

九寨溝の水はほとんど湖の底から湧き出す地下水だが、ただでさえ山でろ過された地下水は美しいのに、炭酸カルシウムはさらにチリやホコリと結びついてこれを沈殿させて透明度を上げる。

そのため、深さ20メートル以上の湖底までもより浅く感じられる(浅く見える理由は水と空気の屈折率の違いによる)。 水は可視光の内、長波長の成分(赤い光)を吸収する性質があるため、深みでは水面から入射して湖底で反射した光の内から青い光だけが眼に多く届くようになり、結果として青い水に見える。 また、深みでは光量が減少して暗くなるために水の青さに深みが増す。倒れた木々は冷たい地下水と炭酸カルシウムのために腐敗することなく堆積し、さらに水中の炭酸カルシウムと結びついて樹氷のような「石灰華」を造り出す。 石灰華はやがて木々にひっかかって集まって、水をせき止めたところにさらに炭酸カルシウムが固まって、天然の棚田状の池沼を造り、湖へと成長する。こうして独特の水質と堆積物が、九寨溝を稀有な景観に仕上げているのだ。

 

なかでも、億単位の時間の力、太陽と大地の力、植物の力、あらゆる神秘を閉じ込めた五花海(ごかかい)の幻想的な景色と色彩は、見る人を魅了してやまない。

青く透き通った湖水と湖底に横たわる乳白色の倒木が、幻想的な世界を醸し出し

さらに湖底に生い茂る藻類、コケ類、堆積した石灰華などにより

湖面に宝石をはめ込んだような鮮やかな色彩を生み出している

五花海は、数ある湖沼の中で色彩がもっとも美しいといわれている

この湖には、水中に沈んだまま腐らない倒木が静かに眠っている

 

【パンダの生息地のひとつといわれる『熊猫海と箭竹海』】

 

カルスト地形の熊猫海(パンダかい)湖岸では、かってはときおりジャイアントパンダの姿が見られたこともあったことから名づけられたが、最近の目撃例はないともいわれる。

 

九寨溝もパンダの生息地のひとつである。現在パンダが何頭この地区に生息(せいそく)しているのか、正確にはわからない。1975年の調査によるデータがもっとも新しいもので、当時は40頭いたといわれるが、その後30年以上を経てパンダの主食であるササやタケがなくなりつつある今日、絶滅の危機に瀕しているパンダの生息数の減少が懸念される。

 

標高2618メートルのところにあり、熊猫海につながっている箭竹海(せんちくかい)の湖面は広く、植物が青々と茂っている。

 

青く透き通った湖面に背景の風景が映り込み、更に湖の底までもが透けて見えるその神秘的な光景と色彩の美しさに、目を奪われる。 湖岸の周りにはパンダが好む箭竹が多く生育していたので箭竹海と名付けられた。

 

【真珠の瀬を意味する『珍珠灘』】

 

大小の瀑布が九寨溝にはいくつかある。 滝となって流れ出た水に含まれる石灰質は、長い時間をかけて沈殿 し、堆積すると、やがて自然の堤防をつくる。こうした堤防が高度差によって棚田 をいくつも形成して、3つの渓谷にある湖沼は数珠状につながり、高所から俯瞰すると真珠のネックレスのように見える。湖沼は何メートルかずつ隣の湖沼より低くなっている。

 

ガラスのように透き通った水が傾斜した岩肌をあるいは切り立った絶壁を流れ落ちていく。そのもっともみごとな例が、主要な渓谷の中央部にある一連の湖沼群である。それらの湖沼はとぎれることなく棚田状に連なる。湖沼の縁は、石灰質の沈殿物が堆積した石灰凝固岩が混防となり、その堤防には藪状に低木類が繁茂している。

 

ところが九寨溝には、石灰疑固岩が堤防とならずに、扇状に広がる傾斜面をつくっているところが2カ所ある。そのうち大きいほうは真珠の浜辺を意味する珍珠灘(ちんじゅたん)とよばれる。

 

ごく小さな草木や地衣類が生える傾斜した川床(川の流れる所の地盤)を流れる水はすなおには進まず、飛んだり、跳ねたりして、水しぶきをあげながら流れていく。

 

珍珠灘は長さ310メートルの稜線で終わり、そこから流れに対して斜めに走る急斜面を28メートル下まで流れ落ちる。珍珠灘瀑布だ。

 

ここは街道から離れてはいるが、この自然保護区のなかでもっとも印象に残る場所のひとつになっている。周囲の樹木の枝や葉は、つねに水しぶきを浴び、せせらぎのなかできらきら光り輝くさまは、この世のものと思えない美しさである。岩陰の暗さと、ぬれた葉や石に当たってきらめく太陽の輝きはとくにすばらしい。

 

【地衣類がつくる小さな浮き島】

 

九寨溝のユニークな特徴のひとつに、水の流れのなかで植物が生育することがあげられる。水に含まれた石灰質がゆるやかな流れのなかで沈殿物を残し、そこに腐葉土が運ばれてくる。水の流れのなかで育つ植物は沼沢地の植物とは異なり、あまり大きくならず、寿命も短い。種子はつねに流されそうになるので、芽は今にも枯れそうな老木などに付着すると、朽ちそうな部分に根を下ろす。こうして育つごく小さな木や低木のそれぞれが、ほかの植物をベースにしてひとつの小さな島をつくるのである。

 

日当たりの悪い谷あいの陰では、あらゆる木々に、また枯れ木やごく小さな枝にまで全面にコケが生える。そしてコケの絨毯が厚く生長すると、そこにほかの植物が根を張る。一枚の葉書ほどの大きさの浮き島に5種領から6種類の異なる種の植物が生えていることもめずらしくない。よく見かけるのはシダ類の仲間や、何種かの地衣類である。

 

デリケートな地衣類の種の多さは環境のバロメータ一ともいえるが、ここ九寨溝では驚くほど多くの種が存在する。石につく灰色のシミのようなものが地衣類だと考えている人には、ここの地衣類は驚きであろう。白から濃い緑色まで彩りがじつに豊富であるうえ、地面から離れて葉の形をしたり、奇妙な綿玉(収穫したままで、種を除いてない綿花)のような形のものもある。そしてなんといっても驚かされるのは、長さが数メートルにもなる地衣類である。これは木の切り株などにもっとも多く見られるが、木の枝から垂れ(たれ)下がっていることもある。

 

【この世の仙境、『則査窪溝』】

 

Y字形の渓谷の東側にあたる則査窪溝の湖沼は樹正溝や日則溝ほど多くはなく、その色彩も華やかではないが、他の渓谷にはない静寂さと凛とした美しさがその神秘性を高めており、「この世の仙境」と称えられている。

言葉に表現できない独特の青が美しい五彩池(ごさいち)

 

清らかな水は鏡のように澄み、斑模様の岩石が沈積した湖底に生い茂る水草を真っ青に映している。 見る位置や陽のあたり具合によって、1日に5度もその色を変えるといわれる。湖底に眠る倒木、藻類やコケが鮮やかな色彩の変化を生み出す。

 

則査窪溝の南端に達すると、九寨溝で最大で最深の長海(ちょうかい)に出る。 長海には魔物が住み、濃い色の植物でおおわれた薄暗い湖の上に、虹色にきらめく姿で現れるといわれている。

 

標高3060メートルのところにあるこの湖には、神秘的な趣がある。 貯水量がきわめて大きく、小さな川がいくつも流れ込んでいるが、流れ出る川はひと筋もない。少なくとも目には見えない。長海では、流れ込んだ水の量に相当する水が池中に染み込んでいる。

 

【『樹正溝』、そこにも人知を超えた奇跡の色彩がある】

 

Y字型の渓谷の最下部にあたる樹正溝の入り口に、九寨溝では2番目に大きい湖沼、犀牛海(さいぎゅうかい)がある。 犀牛海にも、次のような言い伝えがある。

「昔、チベットにあるひとりの王子がいた。犀に乗ってここへやってきたが、景観の美しさに心を奪われて犀とともに湖中に入り、長くとどまってそのまま湖中の神になったという。そのため犀牛海と名づけられた」

 

ひときわ大きな音を轟かせているのは樹正瀑布(じゅせいばくふ)で、落差は25メートルにもなる。険しい山の斜面を駆け下りる急流のようで、樹正群海(じゅせいぐんかい)へと流れ込む。

 

瀑布のまわりの岩は上から下までコケにおおわれていて、コケには絶えず銀花のような水しぶきが四散し、午後の陽光を浴びると濃い緑色に光る。

 

青く澄みきった湖と緑の映える林が連なり、真珠の首飾りにもたとえられる樹正群海。

秋ともなると、葉は黄からさらに赤へと色を強め

湖や空の青と強烈なコントラストを描き出す

 

水は上流から土手を乗り越え、茂みの間を流れて下の湖面に落ちて滝になり、銀色の波のように飛沫が飛び散る。

 

樹正群海では、上流と下流の高度差が100メートルあり、水のすだれと激流はそれぞれの湖に広がり、樹正群海の動態と静態を満喫させた階層がはっきりしている。

土手の上では、松、伊吹、杉などの樹木が群生し

珍しい花や草も色鮮やかに咲き誇り

樹正群海の景観に彩りを添えている

 

蘆葦海(ろいかい)は半分が沼沢(しょうたく)になっている湖で、全長が2.2キロある。湖全体にヨシが群生するなかを清流が流れ、独特の景観が展開する。

 

九寨溝には100をはるかに超える湖沼や、十数の滝瀑布群、森全体を流れる幾本もの急流や川がある。

また、4,000メートルを優に超える高山を含む12の雪山に囲まれていて、そこには独特な高山植物が生育し、希少な野生動物が生息している。

 

参考文献:

・ユネスコ世界遺産 4  ユネスコ世界遺産センター監修/東アジア・ロシア 講談社 (ISBN 4-06-254704-X)

・中国世界遺産の旅 3  平山郁夫監修 樋口隆康監修/四川・雲南・チベット 工藤元男責任編集8 講談社 (ISBN 4-06-271093-5)


世界自然遺産「九寨溝」は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、1992年自然遺産に登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

(7) ひときわすぐれた自然美及び美的な重要性をもつ最高の自然現象または地域を含むもの。