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[ ラヴェンナの初期キリスト教建築物群/イタリア]

 

~ビザンツ芸術最高峰のモザイクで魅せる世界遺産~

 

ラヴェンナには5~6世紀 (およそ1500年前)

に制作された壮麗無比なビザンチン式のモザイクで飾られた聖堂、

洗礼堂、廟などがいくつもある。

しかもそれらがみな創建当初のままの完全無欠に近い姿で残っている。

金銀や各種原色で彩られたその色彩は鮮やかで、つい最近造られたものではないかと見紛うほどだ。

東ローマ帝国
の首都であったコンスタンチノーブル(現イスタンブール)にも

副都だったテッサロニキなどにも、もはやこれだけのモザイクは残っていない。

ビザンチン式のモザイクに関する限りラヴェンナはまちがいなく世界一の宝庫なのだ。

 

「ラヴェンナの初期キリスト教建築物群」として世界遺産に登録されている

初期キリスト教文化を伝える8つの貴重な建造物群は、

そのいつまでも色あせない色鮮やかなモザイクで人々を魅了している。



 

[色あせぬモザイクの鮮やかな色彩]

サン・ヴィターレ聖堂、内陣のモザイク

中央下部のイエス、両脇の聖ヴィターレと聖エクレシウスを中心に

天使や動植物、 幾何学紋様が鮮やかに描き出されている

黄金色に輝いているのは金箔

 

サン・ヴィターレ聖堂のモザイク

中央に描かれているのは『旧約聖書』の「創世記」にあるアブラハムの饗応とイサクの燔祭(はんさい)

神はアブラハムの信仰を試すために息子イサクを生け贄に捧げることを命じ、

アブラハムが実行する直前神は その行為を止められた

 

ルネサンスの画家が「永遠の絵画」と呼び、詩人ダンテが「色彩のシンフォニー」と讃えたモザイク。 それは色の美しい石、真珠光沢をもつ貝殻、釉を掛けた陶片、色ガラス等の破片を活用してはり付けて描く美術手法である。 そのため5~6世紀に生み出された輝きは色あせることなく現在に伝えられている。

破片は立体的な膨らみを持ち、光をよく反射する。 太陽が動くごとに、あるいは歩いて角度が変わるたびにキラキラ輝いて、あでやかな色彩で人々を魅了する。 そもそも色違いの石や貝殻などの小片をたくさんはり付けて図柄を表現するモザイクの技法は、既に古代メソポタミア
のウルク期(紀元前4300年~3100年頃)で例が見られる。

 

ローマ ポンペイ でもローマ時代の多くのモザイクが残されているが、意匠は単調で色彩も少々地味だ。 その後、床から壁(壁画)へと表現の舞台が変わった点と大理石からズマルト(モザイク用に製造された色ガラス)や金(金箔をガラス板に挟み融着させたもので金色燦然と輝く)が材料の主流になったことでそれ以前とは異なる表現スタイルを確立していく。

 

[モザイクの都ラヴェンナ]

 

ガッラ・プラキディア廟のモザイク

サン・ヴィターレ聖堂の荘厳なモザイクとは異なり、

青で統一された静寂で優雅な装飾が魅力的だ

 

このモザイクを芸術の域にまで高めたのがビザンツ芸術なのだ。  自由な色彩を選択できるズマルトは、聖書の世界をより精巧に生き生きと描きだすことを可能にしたのである。

 

この時代のモザイクが特別華やかなのはガラスを多用したため。 ガラスによって輝きと濃淡表現がより豊かになり、表現の幅は大きく広がった。しかもガラスの滑らかな面を利用するのではなく、ガラスを割った断面の方を表に出して複雑な光沢を表現した。

こうした初期ビザンツ芸術の中心となったのが首都コンスタンティノープル
(現在のイスタンブール)や西ローマ帝国の首都だったラヴェンナだ。 しかし、8~9世紀に出された聖像禁止令イコノクラスム(聖像破壊運動)によって人物像は禁止され、コンスタンティノープルのモザイクの多くが破壊されてしまう。

 

一方ラヴェンナはフランク王国の寄進によってローマ教皇領となっていたためイコノクラスムから免れることができた。こうしてラヴェンナはビザンツ芸術を当時のままに残す「モザイクの都」と称されることになる。

 

[ラヴェンナの歴史 前編 ~ローマ帝国の滅亡]

 

のガッラ・プラキディア廟のモザイク

 

現在のラヴェンナは他の点ではあまり特色のない地方都市なのに、なぜこのように素晴らしいビザンチン時代の建造物がいろいろと残っているのであろうか。

ラヴェンナは今では海岸から10キロも離れているが、古代にはアドリア海
に臨む港町であった。そして、前1世紀まではあまり目立たない存在だった。

 

歴史に名高い事件としては、ユリウス・カエサルが国禁を破って軍団を率いたままルビコン川を渡る前に、しばしラヴェンナで軍団を休養させ、その間にローマでの元老院や政敵ポンペイウスの動向を探ったことが記録に残っている程度だ。

 

そういうラヴェンナの地位を一変させるきっかけを作ったのが、カエサルの後継者アウグストゥスである。イタリア半島のアドリア海岸は地勢が平坦で良港に乏しい。そこでアウグストゥスはラヴェンナに従来からあった港の南方5キロに新しくクラッシス(艦隊=classis)という港を造り、アドリア海におけるローマ艦隊の基地にして、軍船250隻を常駐させた。

 

時代は移ってローマ帝国も末期に入る頃のこと。3世紀末にディオクレティアヌス帝は広大なローマ帝国の内政と国防を効率よく行うために四分国制を執り、帝国を東西に分けてそれぞれに正帝と副帝をおいた。以来ローマに代わってミラノ西ローマ帝国の事実上の首都になっていた。

 

402年蛮族の侵入が激しくなってミラノもローマも守りきれそうになくなったとき、西ローマ皇帝ホノリウスは両地を見捨てて首都をラヴェンナに移した。ホノリウス帝の死後は、その異母妹で男まさりの人物であったガッラ・プラチディアが息子ヴァレンティニアヌス3世を皇帝に立て、自分は後見人として実権を握った。彼女の懸命の努力にもかかわらず、西ローマ帝国はもう命脈が尽きようとしていた。彼女が死に、ヴァレンティニアヌス3世も455年に死んだあと、帝国は収拾のつかない状態におちいる。わずか20年の間に9人の皇帝が次々に擁立されては殺されたり廃位されたりした。

476年にゲルマン人
の傭兵隊長オドアケルが最後の皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位し、西ローマ帝国は枯れ木が朽ちるように倒壊した。オドアケルの天下も長続きせず、東ゴート族の王テオドリックに殺された。

 

[ラヴェンナの歴史 後編 ~栄光と没落]

 

テオドリックは非常にすぐれた人物で、東ローマ皇帝からイタリアの統治を委任されたという形を取り、政治にも軍事にも傑出した能力を発揮した。そうしてローマの行政制度や伝統文化を守り、善政をしいて、ゲルマン人ばかりでなくローマ系の住民からも信頼された。ラヴェンナにはテオドリックの見事な廟墓が残っている。526年にテオドリックが死んで、娘のアマラスンタが跡を継ぐと、またまた混乱が起こる。

 

東ローマすなわちビザンチン皇帝ユスティニアヌスは、この機に乗じてイタリアの実質的支配権を取り戻そうとはかり、名将ベリサリウス (大スキピオの再来といわれた)を派遣して東ゴート王国を滅ぼした。

こうしてラヴェンナは540年にビザンチン帝国(東ローマ帝国)の手に帰したのである。

ユスティアヌスはラヴェンナをイタリア支配のための本拠と定め、総督府を置き、軍港を整備しなおした。また、資金を惜しみなく投じてラべンナの教会を荘厳な造りにし、自分の権威を誇示することにつとめた。 それからもラヴェンナではビザンチン式
の建造物がいろいろと造られるようになったのである。

その後ビザンチン帝国
(東ローマ帝国))のイタリアでの勢力は次第に衰えてゆき、まずロンゴバルド王国、次にはフランク王国の攻撃を受けてラヴェンナを失った。しかし、ビザンチン時代までに生み出された文化財はほとんど破壊されることなく、たびたびの修復を受けて今日まで保存されている。

 

 

[8つの初期キリスト教建築物群]

 

世界遺産「ラヴェンナの初期キリスト教建築物群」は、5~6世紀に建築された8つの構成資産からなっている。

 

■サン・ヴィターレ聖堂(Basilica of San Vitale)

 

6世紀前半の建築で、東ゴート族テオドリック王の時代に着工され547年前後に一応の完成を見るが、その後ビザンチン皇帝ユスティニアヌス1世ベネディクト会によっ て改修された。

 

珍しくも集中式 (集中式建築)で、二重の八角形を成し、ドームも八角形である。東面に向かって内陣が突出し、その他の7つの面には2層の3連アーチを擁するエセドラ(壁面につけられた半円形の窪み)が設けられている。堂内の中心に立つと、教会というよりは豪壮華麗な宮殿という感じがする。

サン・ヴィターレ聖堂のフレスコ、天から舞い降りる天使たち

外陣のモザイクは失われてしまったが、18世紀に描かれたバロック式のフレスコ画が代わりに描かれている。

 

本体はレンガ積みなのだが、堂内の壁面は美しい縞模様を持つ色大理石で化粧張りされたり、漆喰細工やモザイクで飾られたりしている。柱にもふんだんに縞模様の大理石が用いられ、柱頭にはビザンチン式のレースを思わせるような彫刻が施されている。やはり色石を豊富に使った床の象眼細工も見事だ。

 

内陣とその近傍の壁面や天井を飾っているモザイクは精緻を極めている。中でも名高いのはつぎの2場面だ。 1つは内陣の左側壁にある皇帝ユスティニアヌスと聖俗の臣下たち。

 

皇帝の隣りに名前入りで大きく表されているのは、この教会造営の中心人物だったラヴェンナの大司教マクシミアヌスで、皇帝とともに自分の権威を印象づけようという意図がまる見えである。

 

本来キリスト教では聖人にしか許されていないはずの後光が皇帝にも皇后にもついているのは奇妙な感じだ。ただし、皇帝に後光をつけるのはこの時代の習慣なのか、サンタポリナーレ・イン・クラッセにある皇帝のモザイクにもついている。

 

もう1つは右側壁にある皇后テオドラと廷臣や侍女たち。

 

皇后テオドラは素性の知れないサーカスの芸人あがりで、肝っ玉が据わっていたことで名高い。コンスタンチノーブルで暴動が起こり、皇帝ユスティニアヌスは逃げ出そうとしたのに、テオドラが叱咤して軍勢を呼び寄せ、一か八かの強硬策に出て危機を乗り切った話はよく知られている。

 

このモザイクではテオドラの豪華な装身具とか侍女たちの衣装の表現が素晴らしい。

 

■ガッラ・プラキディア廟(Mausoleo di Galla Placidia)

 

外観は質素な煉瓦造りの家という感じだが、内部は五彩のモザイクに彩られた別世界だ。

 

425年から430年にかけて造られ、ラヴェンナに現存するモザイクとしては時代的に最も古く、また色彩や構図の点からいえば最も優雅である。入口と、半透明のアラバスター(半透明となった岩石の一種)がはまっている窓から入ってくる光だけが唯一の明かりなので内部は暗いが、それでもなお一面の色彩の輝きは美しく静寂と癒しの空間となっている。


天井を覆っている紺地に花模様のようなモザイク、入口側のティンパヌム
(半円形の壁面)にある「善き羊飼い 」のモザイク、中央のドームを支えている壁面にある「 水を飲む鳩」のモザイクはことに美しい。

 

「善き羊飼い」

「 水を飲む鳩」

 

正面奥のティンパヌムには「鉄格子の上で火ぶりにされて殉教した聖ロレンツォ」のモザイクがある。

 

 

ラヴェンナで世界遺産に登録された8つの初期キリスト教建築の中でも、モザイク芸術の頂点を極めたのが、ガッラ・プラチディア廟だといわれている。見る者との距離を計り、巧みに視覚効果を考えた、19世紀の印象派を想わせる色の世界だ。

 

 

セザンヌクリムトは、何度もこの街を訪れ、モザイク技法を作品に採り入れたのだそうだ。

この建物はもともとがガッラ・プラチディア廟として造られたのではなく、現在では路地を隔てて東外側にある小さな聖十字教会付属のサン・ロレンツォ礼拝堂として造られたものだ。

 

学者の中には、ガッラ・プラチディアが本当にここに葬られたのかどうか疑問視するものもいる。しかし、ガッラ・プラチディア廟の名で広く知られているこの小堂の、たとえようもなく優雅で美しいモザイクの真価に変わりはない。

 

■ネオニアーノ洗礼堂《オルトドッシ洗礼堂》(Battistero Neoniano o degli Ortodossi)

 

 

ラヴェンナ最古の教会堂のひとつで、オルトドッシ(正教徒)という別名からも分かるように、ギリシャ正教の洗礼堂として5世紀に造られた八角形の洗礼堂。

後世にずっとカトリック
の大聖堂の洗礼堂として使われてきたため、大分手直しされてしまっている。

 

 

内部は豪華で、ドームの天井ばかりでなく側壁や窓のあたりもすべて、モザイク、フレスコ画、漆喰細工、大理石の付け柱などで飾られている。

しかし19世紀に間違ったやり方で修復された部分も多く、ドームの中心にはイエス
ヨルダン川ヨハネから洗礼を受ける情景があるが、イエスの顔は老人のように作り変えられている。また、ヨハネが手にしている宝石入りの十字架や勝利の円環は、5世紀の図像にはまったく存在しなかったもだ。

 

 

イエスやヨハネの体の部分やヨルダン川の中にいる河神(右端の老人。ヨルダン川の擬人像で古代から続く表現)などはオリジナルのままである。

 

 

■アルチヴェスコヴィーレ礼拝堂《聖アンドレア礼拝堂》 (Archiepiscopal Museum and the Chapel of St. Andrew 《The Archbishop's Chapel of St. Andrew》)

 

 

ラヴェンナ司教ペトルス2世によって、バシリカ・ウルシアーナ(ラヴェンナ司教ウルススによって創建された大聖堂)に隣接する司教宮殿内部に建てられたギリシア十字形礼拝堂である。

 

アルチヴェスコヴィーレ礼拝堂は、ラヴェンナに残る教会堂のうち唯一プライベートで建てられた。

初期はイエスに捧げられたものだったが、のちにイエス最初の弟子のひとりアンドレア(アンデレ)を奉じた。大理石の装飾や天井のモザイク画が特に美しい。

 

 

■サンタポリナーレ・ヌオーヴォ教会(Sant`Apollinare Nuovo)

 

 

テオドリック王によって6世紀初頭に造営され、王宮付属礼拝堂の役をも果たしていた。高さ38.5メートルの円筒形の鐘楼は11世紀初めに、ルネサンス式の前廊は15世紀に付け加えられた。

 

 

サンタポリナーレ・ヌオーヴォ教会には物語性の豊な興味深いモザイクがある。

 

堂内に入ると、そこは典型的なバシリカ式の建築空間だ。長方形の身廊の両側に石柱が並び、身廊の全長にわたって左右の壁面にモザイクが続いている。

 

一貫した物語を構成しているモザイクが長大な壁面を占めて連続しているという点において、ラヴェンナでも随一だ。しかも一つ一つの図像になんともいえぬ滋味があり、全体として驚嘆すべき効果をあげている。

 

 

壁面は上中下の3段に分かれ、上段は高窓と天井の間である。左側はイエスの布教時代の物語。ペテロアンデレの召命(伝道者としての使命を与えられる)、脚萎え(足が不自由で歩けない人)を癒す話、パンと魚の奇跡など、福音書でお馴染みの情景が次々に登場する。

 

ペテロとアンデレの召命

 

脚萎えを癒す話

 

パンと魚の奇跡

 

右側は最後の晩餐から復活に至るまでの物語。

 

最後の晩餐

 

復活

 

中段は高窓の間で、預言者や聖人たちの像が並ぶ。

 

 

下段は列柱上のアーチと高窓の間で、床に立っているわれわれから見やすい位置にあるため、最も迫力がある。左側は、まず入口のところにクラッセの城と港の情景。

 

 

続いて殉教した22人の聖処女たち。衣装のデザインが一人ずつみな違い、たわわに実を結んだナツメヤシや草花がまわりを飾っている。

 

 

そして星に導かれて東方からやってきた3人の博士たちが、幼子イエスを膝に抱いた聖母マリアに捧げ物をしている。

 

 

右側は、まず入口のところにテオドリック王の宮殿。

 

 

続いて殉教した26人の聖人たちが、玉座につく救世主キリストに向かって進んでゆく。

 

 

■アリアーニ洗礼堂(Battistero degli Ariani)

 

 

5世紀末から6世紀はじめにかけて東ゴート族テオドリック王が造った。

同じキリスト教徒
であっても東ゴート族はアリウス派(アリアーニ)であったから、今なおこのように呼ばれている。

煉瓦造りの八角堂で、四方にアプス
が張り出し、瓦屋根がかかっていて、非常に古さびた素朴な趣がある。現在の地面より2.3メートル低いところに建っているため、なお一層背が低く見える。

堂内に入ると、ドーム
の天井に大きな円形の見事なモザイクがある。中心は、イエスヨルダン川洗礼者ヨハネから洗礼を受けている情景だ。ヨハネは皮衣を着てヒゲをたくわえている。イエスは初々しい青年という感じで、その頭上に鳩がくちばしから「聖霊を注いでいる」光景が描かれている。

ちなみに、アリウス派は「父なる神、子なるイエス、および聖霊は同一である」という三位一体
を認めず、イエスを人と解釈したため、より人間らしく描かれているのである。

かたわらに河神(ヨルダン川の擬人像で古代から続く表現)がいて、皮袋からヨルダン川を流れ出させている。河神の頭にカニのハサミがついているのはローマ時代以来の河神のシンボルだ。ごく簡単な聖書
の記述をふくらませ、一編のメルヘンのような情景に仕立ててある。

 

 

天国への鍵を手にしたペテロを筆頭に12使徒が周りを囲んでいる。使徒たちの間には実を沢山つけたナツメヤシの樹が並び、イエスの教えの豊かさを象徴している。人物の表情にも姿勢にもモザイクとは思えぬほどの躍動感がある。

 

なお、側壁は今では煉瓦が露出しているが当初はびっしりモザイクが施されていた。今世紀の始めに学術調査が行われた時、床に多量のテッセラ(モザイクの細片)が堆積しているのが発見されてそれが判明した。

 

 

■テオドリック廟(Mausoleo di Teodorico)

 

 

テオドリックが亡くなる直前に自ら築いた霊廟。526年に没すると石棺に収めて祀られたが、異端者の墓であるとして561年に遺体が取り除かれてしまった。霊廟の内部に石棺が残るが、遺品や副葬品などはない。

切り石による組積構造で、ドームは巨大な一枚岩でできており、ローマのキリスト教建築やビザンチン建築の影響をほとんど受けない東ゴート独自のスタイルで築かれている。

 

■サンタポリナーレ・イン・クラッセ教会(Sant`Apollinare in Classe)

 

 

ラヴェンナ中心から南へ約8km、クラッセという街にある聖堂。クラッセとは古代のクラッシス(艦隊の意味)、つまり皇帝アウグストゥスが軍港を新設した場所である。ラヴェンナからクラッセに向うチェザーレア街道(Via Cesarea)は、アウグストゥスが町とこの軍港とを結ぶために建設した皇帝街道をそのまま受け継いでいる。

サンタポリナーレ・イン・クラッセ教会の周りは広々とした緑野で、その一角にアウグストゥスが造った軍港があったことを記念して彼の像が立っている。ラヴェンナに初めてキリスト教を広め、ここで殉教した聖アポリナーレの墓の上に建てられたのがこの教会であり、現在の本堂は6世紀前半、同じく鐘楼は10世紀後半の建築である。当初は本堂の前に方形の回廊を持つアトリウム
がついていたが、今では本堂に接している部分だけが残っている。

現存するバシリカ
で最も美しいものの一つといわれるサンタポリナーレ・イン・クラッセ堂内に入ると、両側に石柱がずらりと並んで身廊側廊に分かれ、典型的なバシリカ式になっていることが分かる。内陣の部分を除けばキリスト教的な装飾がほとんどなく、極めてあっさりした感じだ。バジリカとはもともとローマ時代に公共の集会場として使われた建物のことで、この教会の内部に立つとローマ時代のバジリカを想像させてくれる。

 

 

入口に近いほうの床が一ヶ所だけ掘り下げられていて、もっと古い時代の床のモザイクが露出している。最初のごく小さな礼拝堂から何度も建て替えられて現在のような大きな教会になったのである。

堂内に入ると、正面の内陣
の壁面を飾っている6世紀のモザイクが目に入る(列柱の上方の壁面に歴代のラヴェンナ司教の肖像画が並んでいるが、これは18世紀に描かれたもの)。 アプス (壁面に穿たれた半円形の部分)の半球型の天井の装飾は、2つの部分に分けられる。

上部は「タボル山
変容するキリスト」が表されている。

大きな円盤が星空を囲み、その中に十字架とキリストの顔がある。

 

 

十字架の上には、祝福を垂れる神の右手が見える。

 

 

十字架を囲む円盤の両側には右にエリヤ、左にモーセが描かれている。

 

エリヤ

 

モーセ

 

さらに下方には3頭の子羊がいるが、これはペテロヤコブヨハネの聖徒を象徴している。これは、タボル山のイエスの変容を暗示しているのである。

 


 

下部は 聖アポリナーレを中心にして牧歌的な緑の大地がモザイクで表されている。そこには草木が豊に生い茂り、鳥が舞い、様々の色美しい花が咲き、その間を羊たちが歩いている。心なごむような地上の楽園の様子だ。羊たちは信者を表す。

 

 

内陣の枠組みを成している壁体は、その形が凱旋門に似ているところから、さらにはまた「キリストの勝利(イスラエルの解放)」という意味合いを込めて、一般に凱旋門と呼ばれているが、ここで凱旋門の壁面を眺めると、中央に イエス・キリスト、その左右に四福音書記者のシンボル(聖マタイ・羽を持った人 、聖マルコ・ライオン、聖ルカ・雄牛、聖ヨハネ・ワシ)が見える。その下にはエルサレムベツレヘム(左端と右端の城壁都市)から出てタボル山に登ってゆく12頭の羊が見えるが、それは十二使徒を表している。

 

 

ずっと下がって、アプスの半円形に窪んだ壁面にはラヴェンナの4人の司教たち。

 

 

左側面の壁にはビザンチン皇帝コンスタンティヌス4世(中央)と侍臣たち。

 

 

右側面の壁には旧約聖書 の登場人物で、右に「わが子イサク を伴ったアブラハム 」、中央は「メルキゼデク」、そして左には子羊を捧げ持った「アベル 」たちの供犠の場面が描かれている。

 

 

全体として非常に色彩が美しく、人物の表情にはモザイクとは思えぬほどの生気がみなぎっているのが、このサンタポリナーレ・イン・クラッセ教会のモザイクの特色だ。また、アプスの天井の牧歌的な情景は他に比類がない。


ラヴェンナの初期キリスト教建築物群」は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、1996年に世界遺産へ登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。 

 

(1) 人類の創造的才能を表現する傑作。

(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザイン

     の発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。

(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。

(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。