NO.3

[クラック・デ・シュバリエ/シリア]

山の頂にたたずむその城は、英雄サラディンがひと目見ただけで攻略をあきらめ、

アラビアのロレンスが、「世界でもっともすばらしい城」と評した機能美に満ちている。

 

同時に、切り立った丘の上に建つその姿は凛として、

なにものにも侵されない聖地であるかのようでもあり、

旅人たちはこの城を「天空の城」と呼ぶ。



天空の城 ”クラック・デ・シュバリエ”

クラック・デ・シュバリエ全景。

城内へ侵入するための攻城塔や、カタパルトによる投石を防ぐため、山頂に築城され、周囲は即斜面となっている。

外壁が中の城壁より低いのは、両方から矢を同時に放てるようにするためだ。

さらに城内には濠もめぐらされており、堅牢な城塞を形造っていた。

聖ヨハネ騎士団によって建設され、当時の十字軍国家最大最強の要塞であった 。

高原に凛としてたたずむ城、 ”クラック・デ・シュバリエ”

クラック・デ・シュバリエの城壁。

守備塔は城壁に7つ、外壁に8つあり、この間に堀があって、かつては跳ね橋によってつながれていた。

ダマスカスから北に向かって約160キロほどの所にホムスの街がある。そこから東に向かえばパルミラに行くが、西に60キロほど向かうとクラック・デ・シュヴァリエがある。小高い丘の上に建ち、天に向かって純白の塔がそそりたつ。完成したのち完全に攻略されたことがなく、十字軍が残した城の中で最も保存状態の良いものとして知られている。

 

クラック・デ・シュバリエ=騎士の砦。

映画『アラビアのロレンス』で有名になったトーマス・エドワード・ロレンスは、この城を「十字軍の城の中では世界でもっともすばらしい」と評したという。いまでは宮崎駿監督作品 『天空の城ラピュタ』のモデルだったのではないかなんていう噂まで流れていたりするが、残念ながら確証がない

第1回十字軍の遠征

周囲を睥睨するクラック・デ・シュバリエの見張り台からの眺め。

地平線の彼方まで見渡すことができる 。

クラック・デ・シュバリエを語るには、十字軍の物語が不可欠だ。十字軍とは、キリスト教の聖地エルサレムを異教徒の手から奪回するための遠征軍 のことである。

 

十字軍がはじまる11世紀前後、西アジアからトルコにかけてをイスラム教のセルジューク朝が、エジプトをやはりイスラム教のファーティマ朝が、トルコからバルカン半島にかけてをキリスト教ギリシア正教会の東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が、西ヨーロッパはキリスト教カトリックのローマ教皇を冠する 神聖ローマ帝国や西フランク王国などが支配していた。

 

1095年、セルジューク朝の侵略を受けたビザンツ皇帝 アレクシオス1世がローマ教皇 ウルバヌス2世に救援を依頼。兵士を借りようと思っての依頼だったが、ウルバヌス2世はクレルモン公会議で聖地エルサレムの奪回を呼びかけ、参加者には 免罪が与えられると宣言した。これが、十字軍運動の大きな引き金となったのだ。

 

1096年、第1回十字軍はトルコのアナトリア高原を横断して西アジアに入り、途中の街で掠奪と虐殺を繰り返しながら進軍し、1099年、ついにエルサレムを奪回する。エルサレムを落とした十字軍は、城内のイスラム教徒はもちろん、ユダヤ教徒や正教会の人々をも無差別に虐殺・掠奪、エルサレム旧市街は文字通り血の海に埋もれたという。

十字軍国家の誕生とキャッスル・ベルト

クラック・デ・シュバリエと同じくキャッスル・ベルトと呼ばれる防衛線の一部として

周囲に睨みを効かせるカラット・サラディン。

第1回十字軍の進軍の途中、現在のトルコ、シリア、レバノン、イスラエル周辺に数々の十字軍国家が誕生した。特にエデッサ伯国アンティオキア公国エルサレム王国トリポリ伯国の聖地四国は、隣接するイスラム教国との間、特に見晴らしのいい山頂に城を築き、防衛線を張った。これがキャッスル・ベルトだ。

 

クラック・デ・シュバリエはもともと1030年代にイスラム教徒によって造られた砦だったが、第1回十字軍の進軍中に落とされてトリポリ伯国のものとなり、1144年に聖ヨハネ騎士団(ホスピタル騎士団)に移管された。このあと守備塔が加えられ、分厚い城壁が設置され、城内には広大な貯蔵庫が用意されて、数年間の包囲にも耐えられるよう整備された。

 

カラット・サラディンはクラック・デ・シュバリエよりも歴史が古く、フェニキアの時代(紀元前1千年紀の初頭)に建てられたと考えられている。フェニキア人は紀元前334年にアレクサンドロス大王にこの城を引き渡したといわれる。

 

以後しばらく歴史からは消えているが、 10世紀にビザンツ帝国が砦として建造し、12世紀初頭、十字軍のものとなった。やがてクラック・デ・シュバリエとともにキャッスル・ベルトの一端を担う城、サユーン城砦として整備されたのである。 1188年、下記に登場するイスラムの武将サラーフッディーン(サラディン)に落とされ、その後しばらくして放棄されたため、クラック・デ・シュバリエに比べてかなり崩壊が進んでいる。 

森と一体化した城砦 "カラット・サラディン" 

森に囲まれたクネクネ道を登り切ると、ヨルダンの世界遺産 ペトラのような断崖絶壁の間に造られた入り口が見えてくる。

 

城は山頂に立ち、周囲の山々を広く眺め渡す。かつてはクラック・デ・シュバリエと同じくキャッスル・ベルトと呼ばれる防衛線の一部として周囲に睨みを効かせていたが、いまでは森の浸食を受けて森に返りつつある。

 

こちらもやっぱり誰がいったか「天空の城」。特に東の斜面はあまりの断崖に近づくこともできなそうだ。それに岩々に木々や草が絡みつく様はよりラピュタに近いかも。自然に返りつつある廃墟はいつだって人々の心を打つ。

英雄サラディンとエルサレム奪還

クラック・デ・シュバリエの石組みには隙間はなく、堅固であるのがよくわかる 。

そのような時、現在でも「英雄」と崇められる、サラディン(サラーフッ ディーン、サラーフ=アッディーン)が登場する。現イラクのティクリート(イラクのサダム・フセインが捕まった村)のクルド族出身で、アレッポのヌールッディーンの地方官となる。ヌールッディーンがダマスカスを落とすとサラディンは要職を担うようになる。

 

エジプト遠征に参加したのち、次々と宰相が死に、人材不足に陥ったファーティマ朝によってサラディンは宰相に任命される。サラディンはこの職を望まなかったが、穏やかな彼の人柄を見てファーティマ朝のカリフ(最高指導者)は、彼ならコントロールできると考えたようだ。こうして1169年、サラディンの名字をとったアイユーブ朝が誕生する。

 

スンニ派のヌールッディーンは部下のサラディンに対し、ファーティマ朝の廃絶を要求するが、義を重んじるサラディンはのらりくらりとこれをかわす。こうして難しい立場に立ったサラディンだが、1171年にファーティマ朝のカリフが亡くなり、自然とファーティマ朝が消滅。ヌールッディーンも1174年に病没する。

 

立場を固めたサラディンは援軍の要請を受けていよいよ西アジアに進出。1187年、ついにエルサレム奪還に成功する。第1回十字軍が掠奪と虐殺を繰り返したのに対し、サラディンは自国へ帰還するなら捕虜をすべて解放し、財産の持ち出しを認め、貧困者や子供には贈り物まで持たせた。城攻めの最中に結婚式があればその場所への攻撃を中止するなど、サラディンの英雄譚は数多く、 敵味方に愛されたという。

サラディンと”カラット・サラディン”、”クラック・デ・シュバリエ”

クラック・デ・シュバリエのゴシック式回廊のアーチ天井。

十字軍時代、城内はゴシック式で統一された。

エルサレムを落としたサラディンは、十字軍国家と戦い、次々に版図を広げていく。1188年、サラディンはクラック・デ・シュバリエを包囲するが、近くでその城をひと目見ると攻略をあきらめて包囲を解き、軍を進めたとい う。

 

同年、サラディンは断崖絶壁の頂に建てられたサユーン城砦をわずか2日で落としてみせる。この砦はサラディンに敬意を込めて、20世紀にカラット・サラ ディンと呼ばれるようになった。

 

1189年、エルサレムを奪われたローマ・カトリックの三大王、イングランド王リチャード1世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世、フランス王フィリップ2世がまとまって第3回十字軍を結成。アッコンを攻略して臨時のエルサレム王国を建国し、サラディンを追い詰める。リチャード1世率いる十字軍は捕虜を大虐殺するなど相変わらず凄惨な戦争を仕掛けたが決定打はなく、1192年、サラディンはこれを退けてついに休戦協定を結ぶ。この協定でサラディンはキリスト教徒に聖地巡礼さえも認めた。

 

サラディンはこれを見届け、翌1193年、ダマスカスで病没。サラディンの廟はいまもダマスカスに残されているが、もともと蓄財をせずに財産は部下にすべてばら撒いてしまうため、死したときも財産はほとんどなく、棺も木製の非常に質素なものだった。

十字軍とふたつの城の意義

クラック・デ・シュバリエの外壁の守備塔内部。

マムルーク朝時代に取り付けられたもので、 アラブ式の造り。

十字軍の遠征によって、アラブの文化とキリスト教の文化は大きく融合し、 双方の文化に大きな影響を与えた。

 

城についても同様で、ビザンツ式やアラブ式が融合したカラット・サラディンと、ゴシック式をベースにアラブ式が融合したクラック・デ・シュバリエの築城は、ヨーロッパからアラビア全土に広がって、建築とテクノロジーに関して新しい文化を切り拓いた。

 

特に堅牢不敗を誇ったクラック・デ・シュバリエの築城はその後のヨーロッパの城砦の基礎となったという。この城は1271年にイスラム軍バイバルスによって落とされるが、このときも伝書鳩に「城を開けよ」というトリポリ伯からの偽文書を運ばせるという計略によって開門させたといわれている。


クラック・デ・シュバリエ」は、世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、2006年にカラット・サラーフ・アッディーン(サラディンの砦)と共にユネスコの世界遺産へ登録がなされた。

 

(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。

(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。

 

 

危機遺産:

2013年、シリア騒乱による保全状況の悪化を理由に、他のシリアの世界遺産とともに危機遺産リストに加えられた。