【ミラノ】
ミラノの位置
アルプス山脈を背景としたミラノの街並み
ミラノ(伊: Milano)は、イタリアで最大の都市圏人口を擁する都市で、ミラノ県の県都およびロンバルディア州の州都である。ヨーロッパ有数の世界都市。イタリア語のアクセントの関係でミラーノと記されることもある。英語ではミラン(英: Milan)、フランス語ではミラン(仏: Milan)、ドイツ語ではマイラント(独: Mailand)、スペイン語ではミラン(西: Milán)、ラテン語ではメディオラーヌム(羅: Mediolanum)と言う。
[概要]
ミラノはイタリア全土では首都ローマに次ぎ第2位、北部イタリアにおいては最大の都市で商業、工業、金融の中心。観光地としても名高い。1982年に1,607,804人いた人口はその後ドーナツ化現象で長く減り続けたが、ここ数年はおよそ130万人前後で落ち着いている(2013年時点の人口は1,324,169人)。2015年の近郊を含む都市圏人口は約526万人であり、イタリアで最大、南ヨーロッパではスペインのマドリードに次ぐ都市圏を形成している。 日本の稚内市とほぼ同緯度に位置するが、最寒月の平均気温がおよそ5℃程度と、比較的温暖。
ミラノ・コレクションなどで知られるように古くから服飾・繊維産業などファッション関連の産業が盛んな土地柄であるが、近年は航空産業や自動車産業、精密機器工業なども発達しておりイタリア最大級の経済地域を形成している。
日本の民間研究所が2016年に発表した「世界の都市総合力ランキング」では、世界31位と評価された。また、アメリカのシンクタンクが2016年に発表した世界都市ランキングでは世界45位と評価された。
[歴史]
詳細は「ミラノの歴史」および「en:Timeline of Milan」を参照
古代
ミラノは古代にはメディオラヌムと言い、紀元前600年のケルト人の町を元にしている。前222年にローマが征服したが、そのどちらにもMediolanum(平原の真中)と呼ばれた。293年から402年まではMailandとも言った。その後はローマ帝国のもとで繁栄した。4世紀、司教アンブロジウスと皇帝テオドシウス1世の時代には西ローマ帝国皇帝の宮殿が置かれ、西ローマ帝国の首都であった。450年ごろ、アッティラに指揮されたフン族の略奪をうけ、539年にはゴート族に破壊されたが、8世紀末ごろに再び繁栄し始めた。
中世
中世を通じてミラノは大司教に統治されたが、都市の独立性をある程度保ちながら、下層の封建貴族たちは次第に大司教の世俗的支配から脱していった。東ゴート王国、東ローマ帝国、ランゴバルド王国の時代を過ぎ、11世紀にはそうした貴族たちがミラノを富裕な自治都市へと変化させ、成長の回復と神聖ローマ帝国からの独立を果たした。1162年、ミラノは神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世の軍隊に破壊された。しかしすぐに復興し、ロンバルディア同盟を結成して、1176年にはレニャーノの近くでフリードリヒ1世を打ち破った。この勝利でミラノは新しい繁栄の時代を迎えた。1277年、貴族のヴィスコンティ家が、領主のデッラ・トッレ家からミラノの統治権をうばった。
ミラノ公国
中世後期とルネサンス時代にはミラノはヴィスコンティ家とスフォルツァ家のミラノ公国になった。1395年にミラノ公の称号を授かった初代ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ(1351~1402年)の時代には繁栄を極め、黄金時代を迎え、ヴィスコンティ家の支配は1447年まで続いた。
1450年には軍人フランチェスコ・スフォルツァが権力を握り、ミラノの統治者としての地位を固めた。続いて息子ルドヴィーコは学芸の保護にも熱心でレオナルド・ダ・ヴィンチをミラノに迎えた。しかし、15世紀の北部イタリアの拡張時代の後の1500年、フランス軍がこの町を占領。このときレオナルドもミラノを去るがのちに再訪、約二十数年の滞在はこの地にミラノ派とよばれる画派を生んだ。スフォルツァ家はフランス、スイス、オーストリアにあやつられながらも支配をつづけた。1535年にスフォルツァ家の血筋が途絶え、ミラノ公国は終焉した。
諸外国の支配
イタリア戦争後のカトー・カンブレジ条約(1559年)によりミラノは神聖ローマ帝国、次いでスペインハプスブルク家の統治下にはいった。18世紀初頭のスペイン継承戦争後、1714年のラシュタット条約によってオーストリア・ハプスブルク家に帰属することになった。ナポレオンは、1796年のイタリア戦役 (1796-1797年)でオーストリア人を追い出し、ミラノをチザルピーナ共和国、イタリア共和国 (1802年-1805年)、イタリア王国 (1805年-1814年)の首都とした。1815年、ミラノは、ロンバルド=ヴェネト王国としてオーストリアの手に戻った。
1848年にミラノは、イタリア統一運動の中心地となり、短期間だがヨーゼフ・ラデツキーのオーストリア軍を追放した(ミラノの5日間)。1859年の第二次イタリア独立戦争のソルフェリーノの戦いの結果、オーストリアはイタリアに対する影響力を喪失し、フランスの援助を受けたサルデーニャ王国が、ミラノをオーストリアから奪取した。
イタリア
1861年にミラノはイタリア王国の一部に編入され、引き続き発展した。
第二次世界大戦では、イタリアが降伏した1943年以降にドイツ軍及びサロ政権の統治下に入ったため、イギリス軍やアメリカ軍をはじめとした連合国軍による激しい爆撃をうけたが、戦後急速に発展して復興をとげた。ミラノは文化的にも戦後のモダン・デザインの発信地として知られ、国際デザイン美術展であるミラノ・トリエンナーレが開催されている。
[地理]
ポー平原の水田
ミラノはイタリア北部でトリノ、パルマ等の都市と共にポー平原に位置し、南にポー川、北にコモ湖等のあるアルプス山麓が位置する。地形は平たんで標高は122m。 気候はケッペンの気候区分で温暖湿潤気候 (Cfa) に属し、夏は蒸し暑く、冬は寒冷・多霧である。アルプス山脈とアペニン山脈に挟まれるため欧州で最も降水量が少なく無風の日が多いが、公害が最もひどい都市でもある。平均気温は5~9月が最高20~30度C、10~4月が18~6度Cである。
[経済・産業]
化学工業と繊維ではイタリアの諸都市をリードし、航空機、自動車、機械やガラス、皮革、ゴム製品、薬なども重要な産業である。出版業や音楽産業、数多くの銀行があつまり、イタリアの主要な株式取引所がある。また、毎年4月に国際貿易フェアが開催される。
1971年にヴァレンチノ・ガラバーニがミラノにブティックを開店、これを機にイタリアン・ファッションの中心地はローマから徐々にミラノへ移っていくこととなった。
アメリカのダウ・ジョーンズらの2013年の調査によると、世界35位の金融センターと評価されており、イタリアの都市では1位である。
観光はスフォルツァ城(スフォルツェスコ城)、 ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリア、ドゥオーモ(ミラノ大聖堂)、大聖堂広場、 レオナルド・ダ・ヴィンチ作『最後の晩餐』(サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会)、サンタンブロージョ教会(it)、サン・ロレンツォ聖堂、スカラ座、ブレラ絵画館、近代美術館 (la Galleria d'Arte Moderna)、レオナルド・ダ・ヴィンチ国立科学技術博物館、バガッティ・ヴァルセッキ美術館 などの歴史的な建造物や美術館・博物館が中心である。
[交通]
鉄道
・ミラノ近郊鉄道
・ミラノ通過線
・トレニタリア - ミラノ中央駅など
・ミラノ・ロゴレード駅
・ATM - ミラノ交通社
・MSR
航空
・ミラノ・マルペンサ空港(市外)
・ミラノ・リナーテ空港 主に国内・欧州近距離便
・オーリオ・アル・セーリオ空港 (市外) 主にLCCが使用
ミラノ・マルペンサ空港と成田国際空港との間にアリタリア航空が直行便を運航している。
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