【 ピ サ 】

ピサの位置

 

ピサ(イタリア語:Pisa)は、イタリア共和国 トスカーナ州 にある都市であり、その周辺地域を含む人口約9万人の基礎自治体 コムーネ )。ピサ県の県都である。

 

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―[目次]―


[名称]

 

Pisaは[ˈpiːza]と発音される。ピーサの表記もある。

 

[地理]

 

位置・広がり・地勢

市北部にはピサーノ山があり、ヴァルダルノ谷と接する。

 

隣接コムーネ

隣接するコムーネは以下の通り。LIはリヴォルノ県所属を示す。
カーシナ

コッレサルヴェッティ(LI)
リヴォルノ
(LI)
サン・ジュリアーノ・テルメ

 

[歴史]

 

古代

ピサの起源は数世紀に渡って不明なままである。市は2つの川、リグリア海 で潟地帯を形成するアルノ川とセルキオ川の合流地点にある。ペラスゴイ 人、ギリシャ人 エトルリア人 リグーリア人 といった多様な民族が市の創立者として名を連ねてきた。紀元前5世紀からの考古学的痕跡は、市が海に面してギリシャガリアと交易を行っていたことを立証している。エトルリアネクロポリスの存在は、1991年のアレーナ・ガリバルディ (プロサッカークラブ、ピサ・カルチョ のホームグラウンド・スタジアム)での発掘作業中に発見され、エトルリアの痕跡を明らかにするため許可が出された。

 

古代ローマ の作家は、ピサを古い都市と称した。マウルス・セルウィウ・ホノラトゥスはピセイ王(Pisei)テウティまたはペロペスが紀元前13世紀に町を作ったとした。ストラボン はピサの起源を神話の中のトロイ陥落後のピュロス ネストール にあるとした。ウェルギリウスは『アエネイス』において、ピサは既に大きく発展した都市だと記述した。エトルリア人 の土地にできた市の基礎は、アルフェウス川流域出身の移住者にあるとされていた。

 

ピサ海運の役割は既に古代から、船嘴の発明のために自治体としての地位は揺るぎのないものとなっていた。当時小さな村にすぎなかったジェノヴァから、オスティア へ至る沿岸唯一の港湾として、ピサは利用されていった。ピサは、ローマ海軍の対リグーリア人 ガリア人、カルタゴ 人遠征の基地とされた。紀元前180年、ローマ法の下で植民地ポルトゥス・ピサヌス(Portus Pisanus)となった。紀元前89年、ポルトゥス・ピサヌスはムニキピウムとなった。皇帝アウグストゥスは重要港として植民地の防衛を強化し、その名をコロニア・ユリア・オブセクエンス(Colonia Iulia obsequens)へ変更した。313年以降、キリスト教 司教座 が置かれていた。

 

古代後期・中世初期

ローマ帝国 の衰退期、ピサはイタリアの他都市大半のように衰えなかったといわれている。川の体系の複雑さゆえと、防衛の結果の平穏ゆえであった。7世紀、ピサはローマ教皇 グレゴリウス1世に対し、教皇が行うラヴェンナの対東ローマ帝国軍事遠征においておびただしい数の船舶を供給することで支援した。ピサは、トスカーナ(当時はトゥスキア)が自らの通商権が妨げられた近郊地域とともに同化したことで、大した抵抗もなくロンゴバルド族の手に陥ちた中、たった一つ残った東ローマ帝国の中心であった。ピサはこのやり方で北ティレニア海の主要港としてその存在を重くし、トスカーナ=コルシカ島 及びサルデーニャ島フランス スペイン の南岸間の主要貿易中心地となった。

 

カール大帝 が、ロンゴバルド王デジデリウス 指揮のロンゴバルド軍を774年に打破した後、ピサは危機を迎えたがすぐに回復した。政治的にはルッカ公国の一部となった。930年、ピサはトゥスキア(トスカーナ)の辺境侯内の州都となった(この地位は神聖ローマ皇帝 オットー1世 が即位するまで保持された)。ルッカは首都となったが、ピサはそれをしのぐ最重要都市となった。

 

10世紀半ばのクレモナ 司教リウトプランドは、ピサを『トゥスキア州の首都』(Tusciae provinciae caput)と呼んだ。そして一世紀後、トゥスキア(トスカーナ)辺境侯はピサ侯と普通に称されるようになった。

 

1003年、ピサは、ルッカの方針に反し、イタリアにおける最初のコムーネ戦争の主役となった。海軍の要衝としての観点から、9世紀以降におけるサラセン人海賊の出現が、ピサの海軍力の拡大につながった。

 

その後、この海軍力がピサにさらなる拡大の機会を与えた。828年、ピサ艦隊が北アフリカを猛襲した。871年、ピサ艦隊はサラセン人からサレルノ を防衛するための兵力の主力となった。970年、ピサ艦隊は、カラブリア沿岸の前線で東ローマ帝国艦隊を打ち負かすという、オットー1世の遠征に強力な支援も行った。

 

11世紀

ピサ共和国 の旗

イタリア海軍 旗を構成する歴史的なイタリア海洋共和国旗の一つ

 

詳細は「ピサ共和国 」を参照

 

ピサの力は強固な海運国家として成長し始め、歴史的なイタリアの海洋国家4つのうち1つ(その他の3つとは、アマルフィ共和国ジェノヴァ共和国、そしてヴェネツィア共和国)に数えられる伝統ある栄誉を獲得した、11世紀に頂点に達した(レプブリケ・マリナーレ)。 当時、ピサは非常に重要な貿易市であり、突出した地中海商人の艦隊及び海軍によって管理されていた。

 

1005年、南イタリアのレッジョ・カラブリア略奪によってその勢力を伸ばした。ピサは絶え間なく、サルデーニャやコルシカを基地とし、地中海を手中に置こうとするサラセン人と対立した。1017年、サラセン人王ムガヒドの敗北によって、ジェノヴァと同盟したピサがサルデーニャを陥落させた。この勝利は、ピサにティレニア海での覇権を与えた。

 

ピサがその後サルデーニャからジェノヴァを追い出すと、新たな対立と敵対関係が2つの海洋共和国の間に生まれた。1030年から1035年の間、ピサはシチリア においていくつもの敵対する町との戦いに勝利し、北アフリカのカルタゴをも征服した。

 

 

1060年、ピサはジェノヴァとの最初の戦いを始めた。ピサの勝利が、地中海でのその地位を堅固にすることとなった。教皇グレゴリウス7世は1077年にピサ人によって施行された『海の慣習法』を承認した。そして皇帝ハインリヒ4世 はピサに、長老会議で助言される独自の執政官を任命する権利を授けた。これは単純に当時の状況の確認であった。なぜならばそれまでピサ侯が既に権力から閉め出されていたからである。1092年、教皇ウルバヌス2世は、ピサをコルシカ及びサルデーニャにおける宗主国として認め、同時に町の地位を大司教座の位へ引き上げた。

 

1088年、ピサは北アフリカのマフディア(現チュニジア )を略奪した。4年後、ピサとジェノヴァの艦隊は、バレンシア王国エル・シッドを討つカスティーリャ王国アルフォンソ6世を支援した。120隻ものピサ艦隊は第1回十字軍 にも参加した。そしてピサ人は1099年のエルサレム 占領において助けとなった。聖地へ至るピサの艦隊は、東ローマ帝国領の島々をいくつか略奪する機会を忘れなかった。ピサ人の十字軍はピサ大司教ダゴベルト(のちにエルサレム総主教となる)に率いられていた。ピサとその他の海洋共和国は十字軍で、シリアレバノン パレスチナ の東地中海沿岸諸都市で通商地点や植民地をつくった。特にピサ人はアンティオキアヤッファ トリポリ ティルス ラタキヤ アッコンに植民地をたてた。彼らはエルサレムカエサリアにも別の所領を持ち、加えてカイロアレクサンドリアに、より小さな自治権を持つ植民地を抱えていた。もちろんコンスタンティノープルにも、皇帝アレクシオス1世コムネノスから特別な係留許可と通商権とを授けられていた。これら全ての都市で、ピサ人は特権と徴税免除権を授けられていた。しかし都市が攻撃された場合は防衛に貢献しなければならなかった。12世紀、コンスタンティノープル東部にあるピサ人居住区は人口1,000人に成長していた。12世紀の数年間、ピサはヴェネツィア共和国に勝利し、東ローマ帝国と軍事同盟を結び、多くの権益を有する確固たる地位を築いた。

 

12世紀

大聖堂付属洗礼堂

 

1113年、ピサと教皇パスカリス2世は共にバルセロナ伯とその他プロヴァンス及びイタリア諸侯(ジェノヴァを閉め出している)と組んでムーア人 からバレアレス諸島を解放する戦争を始めた。マジョルカの王・王妃は鎖につながれてローマへ連行された。ムラービト朝はすぐに諸島を再征服したのだが、戦利品はピサ人が壮麗な建物の部品とするため持ち出していた(特に大聖堂建設のため)。ピサは西地中海における最高位を狙える地位を得た。

 

その後数年の強力なピサ艦隊は、ピエトロ・モリコーニ大司教に率いられ、残忍な戦闘の後にサラセン人 を海へ投げ込んだ。短期間ではあるが、ピサのこのスペインにおける戦勝はジェノヴァとの敵対関係を悪化させた。ピサの対ラングドック 貿易、対プロヴァンス貿易(ノーリサヴォーナ フレジュス モンペリエ )は、イエール フォスアンティーブマルセイユ のような都市でジェノヴァ勢力の障害となったのである。

 

1119年にジェノヴァが、母国へ戻る途中の数隻のピサ船舶に攻撃したことで戦争が始まり、1133年まで続いた。2都市は互いに陸海で争ったが、戦闘行為は海賊のような猛攻と略奪に限られていた。

 

1135年6月、クレルヴォーのベルナルドゥスピサ公会議の主導者となり、彼は1130年に選出された教皇アナクレトゥス2世に対抗してインノケンティウス2世の権利を援護した。アナクレトゥス2世はノルマン人支持を得て教皇に選出されたが、ローマの外では正式な教皇に認められていなかった。インノケンティウス2世はジェノヴァとの対立を解消すべく、ピサとジェノヴァそれぞれの領域を取り決めた。 ピサは決定にならったが、ジェノヴァによって妨げられた。シチリア王ルッジェーロ2世とインノケンティウス2世の対立が関係していたためである。海洋共和国の一つアマルフィ共和国(ノルマン支配に変わってから既に衰退し始めていた)を、ピサが1136年8月6日に征服した。ピサは港に停泊する船舶を破壊し、周辺地域の複数の城を略奪、そしてアヴェルサ からルッジェーロ2世が送り込んだ軍を後退させた。この勝利がピサをその権力の頂点へ導き、ヴェネツィアと対等の位置へと押し上げた。2年後、ピサ兵がサレルノを略奪した。

 

続く数年、ピサはギベリン(皇帝派)の忠実な支持者の一つであった。これが皇帝フリードリヒ1世によってさらに評価された。彼は1162年と1165年に2つの重要な公文書と、以下の特権を授けた。『ピサの田園地帯における司法権から帝国が手を引くこと、ピサ人は神聖ローマ帝国全土、チヴィタヴェッキアポルトヴェーネレパレルモ の半分、メッシーナ サレルノ ナポリガーエタ 全体、マツァーラ・デル・ヴァッロトラーパニ など沿岸都市で貿易の自由が授けられること、シチリア王国の全ての都市でピサ商人の家が通りに建てられること』。これらの特権の一部は後にハインリヒ6世 オットー2世 フリードリヒ2世らによって追認された。これらはピサの権力の最高潮を記していた。しかし、ルッカマッサヴォルテッラフィレンツェ といった都市のピサへの敵意にも拍車がかかった。これら諸都市は海に向かって横切り自国の力を拡大するもくろみがあった。ルッカとの衝突も、モンティノーゾ城の所有と、フランチジェナ街道(ローマ=フランス間の主要交易道)の掌握という狙いに関係していた。ピサの突然の権力拡大は、ジェノヴァとの別の戦いへ導くことになっただけだった。

 

ジェノヴァは南フランスの市場で広範囲に優勢な地位を獲得していた。戦争は1165年にローヌ川 で、ピサの通商中心地へ護送していたピサ船を、ジェノヴァと同盟者であるトゥールーズ伯が攻撃したことで始まった。これは失敗した。ピサは他方でプロヴァンス伯とも同盟していたのである。戦争は1175年まで決定的な勝利のないまま続けられた。摩擦の別の局面は、ピサ、ジェノヴァともハインリヒ6世によって特権を授けられていたシチリアで起きた。1192年、ピサはメッシーナ 征服を成し遂げた。この挿話は、1204年のジェノヴァのシラクーザ占領という全盛を極めた戦いによって、続いて起きた。後、シチリアの貿易地点は新教皇インノケンティウス3世が即位したことで失われた。彼の前任者ケレスティヌス3世(フィレンツェ率いるトスカーナのゲルフ同盟と同盟していた)によってピサが破門された見解を排除したにもかかわらずである。すぐに彼はジェノヴァとの条約を明文化し、南イタリアでのピサの存在がさらに弱まることになった。

 

南ティレニア海でジェノヴァが優勢であるのと反対に、ピサはスペイン・フランスの伝統的な基盤との協力関係を強化していた(マルセイユ ナルボンヌ バルセロナ など)。そしてアドリア海 を治めるヴェネツィアへ挑もうとしていた。1180年、ピサとジェノヴァはティレニア海及びアドリア海での非集団的条約に同意した。しかしコンスタンティノープルの皇帝マヌエル1世コムネノスが死んだことで状況が変化した。すぐにヴェネツィアの護送船団が東ローマで攻撃されたのである。ピサはアンコーナ プーラ ザダルスプリト 、そしてブリンディジとの貿易・政治的法令に署名した。1195年、ピサの船隊はヴェネツィアからの独立を守るプーラへ到着したが、セレニッシマ(ヴェネツィア共和国の別称)はすぐ反乱を起こした海港を再平定し遂げたのである。

 

1年後、2都市はピサにとって好ましい結果となった和平条約に署名した。しかし1199年、ピサ人がプッリャ にあるブリンディジ港を封鎖するという乱暴をジェノヴァに対して働いた。続く海戦ではピサはヴェネツィア艦隊に破られた。1206年に終わった戦争で、ピサはアドリア海への拡大の野望を全てあきらめる条約を結んだ(アドリア海での既にある貿易地点は保持された)。ピサ=ヴェネツィア共闘における観点から、ジェノヴァの台頭に対抗して団結し、時には対コンスタンティノープル貿易による恩恵の増大に手を結んだのだった。

 

13世紀

1209年と1217年、レーリチ でジェノヴァとの敵対関係の最終解決のため2度の会議が開かれ、20年間の和平条約が結ばれた。しかし1220年、フリードリヒ2世がチヴィタヴェッキアからポルトヴェーネレまでのティレニア海沿岸を自分の宗主権が及ぶ地域と確認した。反ピサを旗印に掲げたジェノヴァとトスカーナの反感が再燃したのである。その後の数年間のピサは、ガルファニャーナでルッカと激突し、カステル・デル・ボルコでフィレンツェ軍によって敗退させられた。ピサの強力な皇帝支持派としての位置が、神聖ローマ皇帝と争っていた教皇に対してこの町を全く正反対にしてしまっていた。そしてついに教皇は北サルデーニャにあるピサの所領と町を奪い取ろうとした。

 

1238年、グレゴリウス9世は反皇帝派であるジェノヴァ=ヴェネツィア間の同盟関係を樹立させ、結果としてその同盟は反ピサ同盟にもなった。一年後、グレゴリウス9世は皇帝フリードリヒ2世を破門し、1241年にはローマで反皇帝会議が招集された。1241年5月3日、皇帝の息子エンツォ率いるピサの連合艦隊とシチリア船団が、北イタリアとフランス、トスカーナの前にあるイーゾラ・デル・ジーリオ から運んできた高位聖職者を乗せたジェノヴァの護衛船へ攻撃を仕掛けた。ジェノヴァは25隻の船とおよそ1000人の船乗りが失われ、2人の枢機卿と1人の司教は身代金のため捕虜として連れ去られた。この勝利の後のローマでの会議は失敗した。結果、ピサは破門されたが、この処置は1257年には見直された。いずれにしろ、トスカーナ諸都市はコルシカの都市アレーリアを征服するのに都合の良い状況にあり、それを利用しようとし、さらにジェノヴァを包囲しようともしていた。

 

しかし、ジェノヴァ共和国はこの攻撃から素早く態勢をたて直し、数年前にピサに征服されたレーリチを奪い返した。

 

衰退

アルベルティーノ・モロシーニが指揮するピサ艦隊が、1284年8月6日のメローリアの海戦で、ベネデット・ザッカリーアオベルト・ドーリア率いるジェノヴァ艦隊に大敗を喫した時からピサの衰退が始まった。この敗北でピサの海運力は終わり、共和国は二度と以前のような力を取り戻すことはなかった。1290年、ジェノヴァはピサの主要港であるピサーノ港を破壊した。そして、スキピオ・アエミリアヌスカルタゴ にしたように、塩で覆ったのである。また、ピサ周辺地域は、メローリア海戦によって数千人の船員を失った痛手からピサが復活することは許さなかった。一方でリグーリア地方がジェノヴァへ十分な船員を補充した。品質は劣ったが品物は貿易で行き来し続けたのだが、アルノ川がその流れを変え始めた時、終焉がやってきた。川から上がって市の港へ入るガレー船 を妨げるようになったのである。そして近郊でマラリア の流行がみられるようになった。1324年のうちに、サルデーニャ全体がアラゴン王国に奪われた。

 

常に皇帝派であったピサは、14世紀の過程で、コンドッティエーレであるウグッチョーネ・デッラ・ファッジュオーラ指揮のピサ軍はモンテカティーニの戦いフィレンツェ共和国を敗退させさえし、ピサは再び軍事力を増強しようとした。しかしそのすぐ後、ピサは共和国内の内部闘争によって二分され、力を失ったことで弱体化し、1406年にフィレンツェに占領された。1409年、ピサは大シスマ 解消を目的としたピサ公会議の場となった。さらに15世紀、港が堆積され海から切り離されたことで、海への行き来がさらに困難になった。1494年にフランス王シャルル8世はナポリ王位を請求してイタリア諸国へ侵攻、フィレンツェ共和国が敗退し、ピサは第二次ピサ共和国として自治権を再生する機会をいきなりつかんだ。

 

しかし新たな自由は長くなかった。15年間の戦争と包囲戦の後、ピサは1509年にアントーニオ・ダ・フィリカヤ、アヴェラルド・サルヴィアーティ、ニッコロ・カッポーニ率いるフィレンツェ軍に再征服されたのである。トスカーナ第1の港の地位はリヴォルノに奪われた。ピサは主として第2の地位に甘んじ、1343年創立のピサ大学の存在によって文化的役割に駆り立てられた。その衰退ぶりは人口に明らかに見られ、中世以後ほぼ不変であった。

 

ピサは科学者ガリレオ・ガリレイの生誕地である。

 

第二次世界大戦 中、繰り返し爆撃を受けたが、現在は工業中心地及び鉄道のハブ地となっている。

 

[ピサのドゥオモ広場]

 

ピサのドゥオモ広場(ピサのドゥオモひろば、Piazza del Duomo)は、イタリアにある世界遺産の物件名である。

 

詳細は「ピサのドゥオモ広場」を参照

 

[気候]

 

[交通]

 

・空港 - 中心から市バスで10分ほどでガリレオ・ガリレイ国際空港がある。
・バス - カンパーニア・ピサーナ・トランスポルティが市バスを運営。

 バス・ステーションはサンタントニオ広場にある。
・鉄道 - 市内には、ピサ中央駅、ピサ・アエロポルト駅(ガリレオ・ガリレイ国際空港の隣)、ピサ・サ

 ン・ロッソーレ駅がある。

 ピサ中央駅からは、ローマ、ジェノヴァ、トリノ、リヴォルノ、フィレンツェなどへの路線であるピサ=

 ラ・スペーツィア=ジェノヴァ線レオポルダ線ピサ=リヴォルノ=ローマ線ある。
・道路 - 高速道路アウストラーダA11、アウストラーダA12の他、幹線道路ストラーダ・スタターレ12を

 利用する。


クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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