【ピサ共和国】

北イタリアのピサやジェノヴァは、南イタリアのビザンツ系都市にくらべれば、その発展は遅かった。それは中世にはイベリア半島を支配下に置いたサラセン勢力が西地中海に進出しており、ティレニア海北部はプロヴァンスのラ=ガルド=フレネ(サントロペ近郊)を拠点としたサラセンの脅威にさらされていたからであった。

 

ピサ(外港は河口のポルト・ピサーノ)は、ローマ帝国末期まで、海軍基地であった。9世紀以降、サラセンの侵略でサルデーニャから逃れた富裕な人々の移住により発達、海上勢力として発展する。

 

972年プロヴァンス伯ギョームがサラセンを駆逐すると、ピサの海洋進出が始まった。手始めは1015年頃にサラセン勢力のサルデーニャ島進出に対抗した時であり、この時はジェノヴァと同盟して島からサラセン勢力を駆逐し、ピサは島の北部をジェノヴァは中部と東部を保護領とした。アフリカでは、1034年にアルジェリアのボナ(現アンナバ)、1087年にチュニジアのマーディーア、ついでバレアレス諸島(マジョルカ島)を強襲して、勝利を収める。

 

これらの遠征によって、ピサは西地中海の制海権を確保する。ピサは12世紀後半から13世紀前半までが最盛期とされる。その勢いを示すかのように、1063年にドゥオモ(大聖堂)、1153年洗礼堂、1173年斜塔の造営がはじまる。前者は1118年に完成するが、後2者は14世紀までかかる。1063年南イタリアの支配権を握ったノルマン人のルッジェーロ1世アルタヴィッラのパレルモ攻略に際しては艦隊を派遣して支援し、1137年にはアマルフィを破壊してティレニア海の制海権を奪取した。

 

更に十字軍遠征への協力によりパレスティナでの特権を得たピサは、1111年にコンスタンティノープルに居留地を設置する特権を獲得し、東方市場を巡って競争するヴェネツィアやジェノヴァとパレスティナの十字軍諸公国やビザンツ帝国の政情に関与して競合し、莫大な利益を得た。

 

1165年にドイツ王フリードリヒ1世バルバロッサより全サルデーニャ島の領有権が認められた13世紀に入ると、海ではジェノヴァ、陸では河川航行権をねらうフィレンツェとの対立が激化して、たび重なる戦争が起きる。ピサは1241年にジリオ、1258年にサン・ジョヴァンニ・ダグリでジェノヴァを破り、1260年にはモンタペルティでフィレンツェに対して大勝を収めるが、ドイツ王ホーエンシュタウフェン家の敗北により後ろ盾を失い、1284年にメロリア岩礁でジェノヴァ艦隊に大敗を喫して衰退を始め、地中海沿岸の植民地を総て失ってしまった。

 

14世紀を通じてピサは経済的には沈滞したが、大学が創設されるなど文化的芸術的水準は依然として保たれていた。しかし1406年遂にフィレンツェの支配に下ると更に衰退し、海岸線が後退して港湾が使用不能となり、周辺の湿地化が進んでマラリアの汚染地域が広がって人口も減少した。現在市の中心は海岸から八キロ程離れて港湾は無く、現在のピサのイメージと言えば大学都市ということになる。1494年のフランス王シャルル8世にフィレンツェが敗れると独立するが、マキャヴェッリの組織した国民軍に1509年、制圧される。中世四大海上共和国のなかで勝ち残ったのはジェノヴァとヴェネツィアの二国となった。