【シエーナ】

シエーナの位置

 

シエーナ(イタリア語:Siena)は、イタリア共和国 トスカーナ州中部にある都市であり、その周辺地域を含む人口約5万3000人の基礎自治体 コムーネ 。シエーナ県の県都である。カナ転記としては「スィエーナ」が現地音に近い。「シエナ」とも表記される。

 

中世には金融業で栄えた有力都市国家 であり、13世紀から14世紀にかけて最盛期を迎えた。トスカーナ地方の覇権をフィレンツェ と競い、またその経済力を背景として、ルネサンス期には芸術の中心地のひとつであった。中世の姿をとどめる旧市街は「シエーナ歴史地区」として世界遺産 に登録されている。

 

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[名称]

 

Siena は [ˈsjɛna] あるいは [ˈsjena] と発音される。子音とアクセントの関係から、カナ転記としては「スィエーナ」が現地音に近い。

 

日本語文献では「シエーナ」のほか、「シエナ」とも記される。

 

シエーナの風景

 

[地理]

 

位置・広がり・地勢

トスカーナ州の南東部にあたる シエーナ県 の西北部に位置する。州都 フィレンツェ からは南へ約50km、首都 ローマからは北西へ約185km、 リヴォルノ からは南南東へ約87km、 ペルージャ からは西北へ約89kmの距離にある。

 

隣接コムーネ

隣接するコムーネは以下の通り。
アシャーノ
カステルヌオーヴォ・ベラルデンガ
モンテリッジョーニ
モンテローニ・ダルビア
ソヴィチッレ

 

[歴史]

 

古代から中世へ

この地方の丘陵上の都市と同様、 エトルリア人 の居住地に都市の起源があるとされるが、シエーナの古代の姿は明らかではない。 古代ローマ 時代には主要な街道からも外れており、 キリスト教が伝わったのも4世紀であった。シエーナが重要な都市として姿を現し、歴史の上に明確な位置を占めるようになるのは、中世以降となる。

 

6世紀半ば、ランゴバルド人は北イタリアに侵入し、ランゴバルド王国を建国した。 アウレリア街道カッシア街道といったローマ時代の幹線道路は 東ローマ帝国側の勢力下にあったため、ランゴバルド人たちは北方とローマを結ぶ安全な交易路としてシエーナを経由する道をとった。またローマへ往来する巡礼者たちが恒常的にいたことで、シエーナには安定した収入がもたらされ、シエーナは交易の拠点として繁栄を見せるようになった。774年、シエーナの貴族はカール大帝 に降伏し、フランク王国の領域に入った。

 

シエーナ共和国

 

詳細は「 シエーナ共和国」を参照

 

共和国の勃興

1115年、北イタリアの大領主であったトスカーナ女伯マティルデ・ディ・カノッサが後継者なく没すると、その領域は細分化されて自治的な勢力が勃興し、都市国家 群が生まれることになる。金融の一大センターとなり、また羊毛取引の重要な担い手として成長したシエーナでは、市民による自治組織(コムーネ )が勢力を伸ばした。1167年、シエーナのコムーネは、司教による統治からの独立を宣言した。1179年には都市の憲章が制定されている。

 

カンポ広場 は、13世紀初頭までには都市の世俗生活の中心として重要な役割を担うようになった。市場やスポーツ行事(サッカーの原型とされるカルチョ・フィオレンティノなど)の場として利用され、また新しい街路はカンポ広場を中心に作られた。1194年、カンポ広場に面した現在の市庁舎のある場所で、土壌浸食を防ぐための壁が建設されており、このことは広場が重要な役割を持つこととなったしるしと言えるだろう。

 

1240年にはシエーナ大学 が設立された。シエーナ大学は法学と医学で知られた。

 

シエーナとフィレンツェ

シエーナ共和国は、内部に貴族と市民の間の対立を抱えながら、外に最大のライバルであるフィレンツェとの抗争を繰り広げた。教皇派と皇帝派の抗争では、フィレンツェが教皇派(ゲルフ)であったのに対抗し、シエーナは主に皇帝派(ギベリン)の立場に立っていた。1260年のモンタペルティの戦いで、シエーナはフィレンツェに大勝を収めるも、1269年にはコッレ・ヴァル・デルサの戦いで大敗を喫している。この敗戦を契機にシエーナでは皇帝派の政府が倒れ、フィレンツェとの関係が改善された。

 

13世紀後半から14世紀半ばにかけて、ゴシック 期からルネサンス期への移り変わる時代に、シエーナは最盛期を迎えている。ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャはシエーナを拠点に活躍し、シエナ派の祖とされる。アンブロージョ・ロレンツェッティ はシエーナのプブリコ宮殿(市庁舎)の壁画(フレスコ画 )として、「善政の効果」などを描いた。

市庁舎壁画

アンブロージョ・ロレンツェッティ作『善政の効果』

 

 

14世紀後半から滅亡まで

1348年、黒死病の流行によりシエーナは打撃を受けている。14世紀後半以降には貴族と市民との内部抗争が激化し、政変が繰り返された。

 

1458年には、シエーナ出身のピウス2世 が教皇に選出されている。1472年には、モンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナ銀行(通称モンテパスキ銀行)が創業している。現在営業している銀行では世界最古の歴史を持ち、現在もシエーナに本店がある。

 

1487年、貴族党派のパンドルフォ・ペトルッチ (Pandolfo Petrucci)が政権を掌握した。ペトルッチは1512年に没するまでシエーナをよく治め、芸術と科学を保護し、チェーザレ・ボルジアから都市を防衛した。しかしパンドルフォの死後、ペトルッチ家の内紛などにより政情は安定せず、皇帝カール5世はスペイン軍団にシエーナを占領させた。1552年、フランスと手を結んだシエーナ共和国はスペイン兵を追放したが、カール5世は傭兵隊長 ジャン・ジャコモ・メディチ (Gian Giacomo Medici)を派遣してシエーナの攻略に当たらせた。1555年4月17日、シエーナはスペインに降伏し、シエーナ共和国は終焉を迎える。1559年のカトー・カンブレジ条約で、スペインはシエーナをフィレンツェ公国(のちにトスカーナ大公国)に割譲した。以後、20世紀のイタリア統一 まで、シエーナはトスカーナ大公国領となる。

 

[シエーナ歴史地区]

 

詳細は「 シエーナ歴史地区」を参照


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