【 コペルニクス (ニコラウス・コペルニクス) 】

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   ニコラウス・コペルニクス

 

ニコラウス・コペルニクス(ラテン語名: Nicolaus Copernicus、ポーランド語名: ミコワイ・コペルニク Pl-Mikołaj Kopernik.ogg Mikołaj Kopernik1473年2月19日 - 1543年5月24日)は、ポーランド出身の天文学者カトリック司祭である。当時主流だった地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)を唱えた。これは天文学史上最も重要な発見とされる。(ただし、太陽中心説をはじめて唱えたのは紀元前三世紀のサモスのアリスタルコスである)。また経済学においても、貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなる (「悪貨は良貨を駆逐する」) ことに最初に気づいた人物の一人としても知られる。

 

コペルニクスはまた、教会では司教座聖堂参事会員(カノン)であり、知事長官法学者占星術師であり、医者でもあった。暫定的に領主司祭を務めたこともある。

 

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人物伝

コペルニクスの生家
母方の叔父ルーカス

 

幼少期

 

コペルニクスは、1473年2月19日にトルンで生まれた[1]。生家は旧市街広場の一角にある。トルンは1772年ポーランド分割によってプロイセン王国領となり、現在はポーランドの一部に復帰している。ナチス時代にはドイツ人ポーランド人かで論争がおこなわれたが、現在ではドイツ系ポーランド人と思われている。ポーランド・リトアニア共和国は単一民族による国民国家ではなく、ポーランド王に従う多民族国家であったため、ポーランド人、リトアニア人、ドイツ人、チェコ人、スロバキア人、ユダヤ人、ウクライナ人、ベラルーシ人、ラトビア人、エストニア人、タタール人などが民族に関係なく暮らしており、ポーランドの市民権を持っている人は皆「ポーランド人」であった。王国内の共通言語はラテン語ポーランド語であり、クラクフ大学で大学教育を受けてもいることから、コペルニクスが日常生活に困らない程度のポーランド語を話すことができたことは推定されているが、本人がポーランド語で書いたものは現在発見されておらず、彼が実際に日常会話以上のポーランド語をどの程度使えたかは定かではない。

 

彼のの「コペルニクス」はラテン語表記の Copernicus日本語で読み下したもので、ポーランド語では「コペルニク (Kopernik)」となる。ポーランド語で「銅屋」の意味。すなわち彼は「銅屋のミコワイ(ニコラウス)」である。父方の一族のコペルニク家はポーランドのシレジア地方オポーレ県にある古い銅山の街コペルニキ の出身。シレジア地方は13世紀のモンゴルによるポーランド侵攻で住民が避難して散り散りとなるか逃げ遅れて殺されるかして人口が大きく減少したため、ポーランドの当地の諸侯は復興のために西方から多くのドイツ人移民を招いている(ドイツ人の東方殖民)。そのなかでコペルニクスの父方の先祖(の少なくとも一部)もドイツの各地からやってきて、そのため一族がドイツ語を母語としていたものと推測される。

 

10歳の時、を商う裕福な商売人だった父親が亡くなり、母親のバルバラ・ヴァッツェンローデは既に亡くなっていた。そのため、母方の叔父であるルーカス・ヴァッツェンローデが父の死後、コペルニクスと兄弟を育てた[2]。ルーカスは当時教会の律修司祭(カノン)であり、後にポーランド王領プロイセンにあるヴァルミア (Warmia) の領主司教となった。コペルニクスの兄弟アンドレーアス (Andreas) はポーランド王領プロイセンのフロムボルクのカノンとなり、妹バルバラ (Barbara) はベネディクト修道院修道女となった。他の妹カタリーナ (Katharina) はの評議委員だったバルテル・ゲルトナー (Barthel Gertner) と結婚した。

 

学生時代

 

コペルニクスの後見をしていた叔父は彼が司祭になることを望んでおり、1491年にコペルニクスはクラクフ大学に入学し、自由七科を学んだ。この過程での精密な軌道計算を史上はじめて行った著名な天文学者で、従来より定説とされていた天動説に懐疑的な見解を持っていたアルベルト・ブルゼフスキ教授によってはじめて天文学に触れた。さらにニコラウスが化学に引き込まれていたことが、ウプサラの図書館に収蔵されている当時の彼の本からも窺うことができる。1495年に学位を取らずにクラクフ大での学業を終えると、叔父の計らいでヴァルミアの律修司祭の職につき生活の保障を得、1年ほどバルト海沿岸にあるフロムボルクにいたあと、1496年にはイタリアボローニャ大学に留学し、法律カノン法)について学んだ。カノンとローマ法について学んでいる間に、彼の恩師であり著名な天文学者であるドメーニコ・マリーア・ノヴァーラ・ダ・フェッラーラと出会い、その弟子となった。1500年にはボローニャ大学での学業を終え、ローマを見物したのちにいったんフロムボルクに戻り、ヴァルミアの聖堂参事会に許可を取って1501年に再びイタリアに留学した。今度の留学先はパドヴァ大学であり、ここでコペルニクスは今度は医学を学んだ。この際、コペルニクスは当時医療に必須とされていた占星術も学んでいる。パドヴァでの学生生活は2年間に及び、最終的には1503年フェラーラ大学でカノン法の博士号を取ったのちにヴァルミアに戻り、再び律修司祭の職に就いて、こののちヴァルミア地方およびその近隣から出ることはなかった[3]

                     
クラクフ大学

          コレギウム・マイウス

               (大カレッジ)

           同左、ヤギェウォ教室
     ここでコペルニクスが学んだ

   恩師のブルゼフスキ教授

                 ボローニャ大学


 

地動説の完成

 

戻ってきた当初コペルニクスは律修司祭ではあったが、ヴァルミア領ではなく叔父付きの補佐となり、リズバルク(リズバルク=ヴァルミニスキ)にある司教宮殿に移り住んだ。ここで聖職者として、また医師として多忙な日々を送るようになったが、一方で余暇を見つけては天体観測を行い、自らの考えをゆっくりとまとめていった。本格的に地動説の着想を得たのは1508年から1510年ごろと推定されており[4]、天動説では周転円により説明されていた天体の逆行運動を、地球との公転速度の差による見かけ上の物であると説明するなどの理論的裏付けを行っていった。またこのころ彼はギリシア語も独習しており、1509年にはギリシア語からラテン語に翻訳した手紙集を出版している。1510年にはコペルニクスは叔父のもとから独立し、再びヴァルミア領の律修司祭に戻り、フロムボルクにて職務に就くようになった。そしてこの年、コペルニクスは同人誌として「コメンタリオルス」(Comentariolus)を出版し、太陽中心説(地動説)をはじめて公にした。ただしこれは友人の数学者たち数人に送られたものに過ぎず、一般にはほとんど知られていなかった。

 

司祭として

 

   フロムボルク大聖堂   
    (フロムボルク城内)
     コペルニクスの塔 
 (フロムボルク城内)
司教座聖堂参事会員とし
赴任してきたコペルニ
    クスの住居兼執務室
  第二次大戦で破壊され、
      戦後に復元された

1511年には聖堂参事会の尚書に選ばれ、文書管理や金融取引の記録を行った。その後も有能で勤勉な司祭として多くの仕事をする一方、フロムボルクの聖堂付近の塔で天体の観測・研究を続け、新しい理論の創造に向かっていた。ただし、コペルニクスは理論家・数学者としては優れていたものの天体観測の腕は必ずしも良くなかったとされる[5][6]1512年にはヴァルミアの領主司教だった叔父のルーカス・ヴァッツェンローデが死去している。このころには天文学者内において少しずつ名が知られ始めており、1515年には開催中の第5ラテラン公会議において改暦が議題に上がる中、フォッソンブローネ司教であるミデルブルクのパウル(ミドルバーグのパウロ)がコペルニクスに意見を求めている

 

1516年には聖堂参事会の財産管理を担当するようになった。この仕事の過程で貨幣の質のばらつきとそれによる害に気が付いたコペルニクスは、1517年に執筆した論文で貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなる (「悪貨は良貨を駆逐する」) ことを説明するとともに、貨幣の質を安定させ経済を活性化させるために国王が貨幣鋳造を監督し品質を保障することを提案した[7]。この論文は1519年にはラテン語からドイツ語に翻訳され、1522年には王領プロシアの議会にかけられた。コペルニクスは議会の席上でこの理論について説明し、いくつかの提案が採用され実行された。

 

しかし、このころからヴァルミアを取り囲むように存在するドイツ騎士団国ポーランド王領プロイセン内ヴァルミアに盛んに侵入を繰り返すようになり、1520年にはフロムボルクが攻撃され、大聖堂こそ生き残ったものの町は大打撃を受けた。コペルニクスはヴァルミア南部のオルシュティンへと逃れ、同地の防衛にあたった。1521年にはオルシュティンが攻撃されたものの2月に休戦協定が結ばれ、コペルニクスは再びフロムボルクへと戻った。1523年にはファビアン・ルジャインスキ司教が死去したため、10月にモーリッツ・フェルベルが次の司教に正式に選出されるまでの9か月間、コペルニクスはヴァルミア全体の行政を担当していた。1525年にはドイツ騎士団国の最後の総長アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクがポーランド国王ジグムント1世に臣従し、プロイセン公を称してプロシア公領を創設したため抗争は完全に終結した。

 

ドイツ騎士団国との抗争は終結したものの、まもなく宗教改革の波がヴァルミアにも押し寄せてきた。1517年マルティン・ルターが開始した宗教改革は周囲に急速に広がり、1523年には隣接するドイツ騎士団国がルター派に改宗し、ヴァルミア近隣にもルター派寄りの勢力が現れ始めた。コペルニクスはカトリックの立場を堅持したが、友人である司祭ティーデマン・ギーゼとともに、ルター派の禁教には反対の立場だった。1526年にはクラクフ大学時代のブルゼフスキ教授の天文学の講座の同窓の先輩親友地図学者 (ベルナルド・ヴァポフスキ) がポーランド王国リトアニア大公国の版図全体の地図を作成した際、コペルニクスはその事業を手伝った[8]。1530年代に入ると、コペルニクスは聖堂参事会の古参として教区内で相談役的立場につくようになり始めた。

 

地動説の発表と死

 

1529年ごろからコペルニクスは地動説についての論考をまとめ始め、推敲と加筆を繰り返していたが、これを出版するつもりは全くなかった。しかしコペルニクスの考えは友人たちを通じてこのころにはかなり知られるようになっており、1533年には教皇クレメンス7世にこの考えが伝えられている。1535年にはヴァポフスキがコペルニクスの元を訪れ、地動説についての話を聞いている。1536年には枢機卿の一人であるニコラス・シェーンベルクがコペルニクスに賞賛の手紙を送っている。しかし、このころはいまだコペルニクスはこの考えを出版する気持ちを持っていなかった。このころにはヘウムノの司教となっていた親友のギーゼは何度も出版を進めたが、それでもコペルニクスは動かなかった。

 

  第二次トルンの和約成立したポーランド
  王領プロシアの区分。
       黄色がヴァルミア司教領(エルムラント)で
  あり、コペルニクスはこの黄色の地域で
生涯の大半を過ごした
 コペルニクスの遺物
オルシュティンの聖ヤコブ大聖堂

1539年ヴィッテンベルク大学の教授であるゲオルク・レティクスがコペルニクスのもとを訪れ、地動説の話を聞き、感銘を受けて弟子入りを申し込んで、コペルニクスの唯一の弟子となった。レティクスはコペルニクスの理論を急速に吸収するとともに、この理論の出版を強く勧めた。ここに至ってコペルニクスも重い腰を上げ、自らの理論の集大成に取り組み始めた。1539年にはレティクスが自らの天文学の師であったヨハネス・シェーナーに長い手紙を送り、このなかでコペルニクスの理論の要約を載せている。この手紙の写しをレティクスはグダニスクの出版業者に持ち込み、1540年には「最初の報告」との名で出版された。この書物の中でレティクスはコペルニクスの理論の要約を広めるとともに、完成版の出版を予告した。コペルニクスとレティクスは理論のチェックを進め、1542年にはコペルニクスの主著となるであろう『天体の回転について』の草稿が完成し、ニュルンベルクの印刷業者であるヨハネス・ペトレイウスのもとで印刷された。しかしここでレティクスがライプツィヒ大学の数学教授に招聘されたため、レティクスはルター派の神学者アンドレアス・オジアンダー校正を依頼した。こうしてこの理論は出版を待つばかりとなったが、1542年11月にコペルニクスは脳卒中で倒れ、半身不随となった。仕上がった校正刷りは、コペルニクスの死の当日に彼のもとに届いたという[9]。1543年5月24日、コペルニクスは70歳でこの世を去った。

 

死後コペルニクスは埋葬されたものの、どこに埋葬されているのかは不明だった。コペルニクスの墓は、各国の学者によって2世紀にわたって捜索が続いていた。こうした中、シュチェチン大学などのチームがコペルニクスの主な任地であったフロムボルクの大聖堂で2004年から発掘を進め、大聖堂の深さ約2メートルの場所から2005年夏、遺骨を発見した。この遺骨は肖像画と頭蓋骨が互いに非常に似ていて、時代と年齢もほぼ一致していたので、遺骨がコペルニクスのものである可能性が高まった。2008年11月、シュチェチン大学とウェーデンウプサラ大学との共同で、この遺骨と、ウプサラ大学で4世紀以上も保管されていたコペルニクスのものとされる本に挟まっていた2本の毛髪とのDNA鑑定を行い、両者のDNAの一致によりこの遺骨がコペルニクスのものと最終的に認定された[10]

 

著作

地動説

『天体の回転について』に描かれているコペルニクスの宇宙

コペルニクスのもっとも重要な業績は、地動説の再発見である。当時はプトレマイオスが2世紀中ごろに大成した天動説が一般的な学説であったが、惑星観測の精度が上がるたびに、惑星の運行を説明するための周転円の数が増えていき、非常に複雑なものとなっていた[13]

 

この複雑さを解消するために、コペルニクスは地球を太陽の周りを回るものと仮定し、その結果従来の天動説よりもずっと簡単に天体の逆行運動などを説明できることを発見した。それまでの天動説においては地球を中心にし、内側から水星金星太陽火星木星土星の順に、惑星を並べていたのに対し、コペルニクスは太陽を中心として公転周期の短い惑星から順に配置していき、惑星は内側から水星、金星、地球、火星、木星、土星の順に太陽の周りをまわっているとした。また、月のみは地球の周りを回転していると考えた。

ただしコペルニクスは、惑星は完全な円軌道を描くと考えており、その点については従来の天動説と同様であり、単にプトレマイオスの天動説よりも周転円の数を減らし、エカントを排除したに過ぎない。

 

実際には、惑星の軌道は楕円軌道を描いていることは、ヨハネス・ケプラーの『ケプラーの法則』により発見された(もっとも天体が円運動を描いているという仮定により、天文学者は天体の逆行運動の説明を迫られたのであり、そういう思い込みが存在しなかったのならそもそも天体運動を探求する動機すら存在しなかったのであり、コペルニクスが円運動にこだわった限界はやむを得なかったとする評がある[14])。またコペルニクスは、惑星や恒星がその上に張り付き運動すると考えられた、いわゆる天球については実在を疑っていなかった。

 

グレシャムの法則

 

コペルニクスのもう一つの重要な功績は、貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなる (「悪貨は良貨を駆逐する」) ことを突き止めたことである。これは、当時ドイツ騎士団が粗悪な銀貨を鋳造して大量に流通させていたため、隣接するヴァルミアで経済混乱が起きつつあったことに、教会の財務担当だったコペルニクスが気付いたことにより理論化された[15]。この理論はほぼ半世紀後、1560年に彼とは別に独自にこのことに気付いたイギリス国王財政顧問のーマス・グレシャムによって知られるようになり、「グレシャムの法則」の名で知られるようになった。

 

死後の影響

 

コペルニクスの死と同時に世に送り出された地動説は、しかし直ちに大きく学界を動かすといったことはなかった。『天体の回転について』は禁書となることもなく各地の天文学者のもとに広く知られるようになっていったが、だからと言ってこの理論が正しいと考える者もあまりいなかった。コペルニクスの観測記録は精度が悪く、それを基にした地動説も天動説と比べてそれほど精度に差があるものではなかったためである。1551年にはエラスムス・ラインホルトが『天体の回転について』に基づいて『プロイセン表』を作成したが、これも従来の星表の精度から大きく離れるものではなかった。コペルニクスの地動説の普及に努めたトマス・ディッグズは恒星の天球を取り除いたものの、残りの惑星についてはいまだ天球上に存在するものであるとした。この状況が大きく変わるのは、1619年ヨハネス・ケプラーが惑星は楕円軌道を描いているというケプラーの法則を発見し、これによって地動説を補強するデータが大幅に精度を上げて以降のことである。1627年にはケプラーが地動説に基づいて『ルドルフ表』を完成させ、これによって地動説は天動説に対し完全に優位に立った。そしてアイザック・ニュートン1687年に『自然哲学の数学的諸原理』(プリンキピア)の中で万有引力の法則を発表し、これによって地動説は完全なものとなった。

 

コペルニクスの説が完全に受け入れられるまでには100年以上の時がかかり、また発表から数十年間は目立った動きは起きなかったものの、最終的にはコペルニクスの説は世界観そのものを覆すような大きな影響力を持つこととなった。18世紀後半には、哲学者イマヌエル・カントが「コペルニクス的転回」という言葉を作り、やがてこの言葉がパラダイム転換と同じような意味で使われるようになったのも、コペルニクスの業績が広く受け入れられるようになったひとつの証左である。

 

『天体の回転について』とローマ教皇庁・キリスト教

 

上記のとおり、コペルニクス存命中および死後数十年の間は、コペルニクスの理論についてローマ教皇庁が反対をするなどということはなかった。コペルニクスは存命中にすでにこの考えを公表しており、本人自身がこの考えがキリスト教に反するものだとは全く考えていなかった。積極的に考えを広めてはいなかったものの、すでに1533年に教皇クレメンス7世にこの考えが伝わっていること、およびその下にいた枢機卿ニコラス・シェーンベルクが1536年にこの考えに対し賞賛の手紙をコペルニクスに送っていること、そしてコペルニクス自身がローマ教皇パウルス3世へと『天体の回転について』を献呈していることからも、ローマ教皇庁が当初反対の立場を取っていなかったことは明らかである。逆にプロテスタント、特にコペルニクスの活動期に急速に勢力を伸ばしていたルター派においても、明確にこの考えに関して反対をしているというわけではなかった。マルティン・ルター本人はコペルニクスの考えに対して明確に拒否反応を示し、聖書から外れていると批判している。宗教的見地からの地動説反対論としてはこれは最も早い時期のものである。しかしながら、ルター派においてもコペルニクスを支持するものは多かった。『天体の回転について』の出版を主導したレティクスはルター派であったし、彼の人脈で出版にこぎつけた関係上、この書籍の出版にかかわったものはルター派が多くを占めている。校正及び最終的な出版を担当したアンドレアス・オジアンダーもルター派の神学者であった。こうしたことから、カトリック・プロテスタント両派において、『天体の回転について』は禁止されていなかった。

 

『コペルニクス: 神との対話』
ヤン・マテイコ・1872年作

しかし、1616年ガリレオ・ガリレイに対する裁判が始まる直前に、コペルニクスの著書『天体の回転について』は、ローマ教皇庁から閲覧一時停止の措置がとられた。これは、地球が動いているというその著書の内容が、『聖書』に反するとされたためである。(因みに「聖書」には天動説が載っているわけではなく「初めに、神は天地を創造された」という記述があるだけである。) ただし、禁書にはならず、純粋に数学的な仮定であるという注釈をつけ、数年後に再び閲覧が許可されるようになった。

 

アメリカ合衆国の科学関連のゴンゾー・ジャーナリズム雑誌OMNIの創設者の一人であるアマチュア科学研究者ディック・テレシによると、このアイデアはアラビア自然学からの剽窃であり、また近代社会における西欧の興隆にともない、西洋中心主義および白人中心主義史観によって、非西欧文明圏の影響を故意に見落としてきたことがあるとしている[16]

 

ナチス政権下での国籍論争

 

ドイツナチスが勢力を誇っていた時代は、彼がポーランド人ドイツ人かが大きな論争の的となった(コペルニクスの国籍論争)が、現在は「多民族国家ポーランド王国の国民(すなわち国籍はポーランド人)であり、クラクフの大学を出るなどポーランドの教育を受けた、この地方のドイツ語の方言を母語とする家系(民族はドイツ人)出身の人物」、すなわち「ドイツ系ポーランド人」ということで落ち着いている。

 

記念

 

元素名

 

超アクチノイド元素のひとつ、原子番号112の元素はコペルニクスにちなんで "copernicium"(コペルニシウム)と命名された。この新元素名 "copercinium" は2009年に発見者であるドイツの重イオン研究所 (GSI) により提案された。その後 2010年の2月19日、コペルニクスの誕生日に合わせて IUPAC(国際純正・応用化学連合)から正式名として発表された[17]。その発表文の中では、コペルニクスが考えた太陽系のモデルが、ニールス・ボーアによる原子モデルに通じると述べられている。

 

その他

 

コペルニクスはポーランドでもっとも有名な偉人の一人であり、ポーランドには彼にちなむ事物が多く存在する。コペルニクスの生家はトルンの旧市街に現在も残っており、コペルニクス博物館となっている[18]。また、彼が観測を続けたフロムボルク城内のコペルニクスの塔にも1948年に同じくコペルニクス博物館が開設されている[19]。上記の2つはコペルニクスが実際に暮らした場所であるが、それ以外にもコペルニクスの名がつけられたものは数多い。ポーランドにおいて1965年10月29日より発行されていた1000ズウォティ紙幣に彼の肖像が使用されていた。この紙幣は1996年まで発行されていた。1945年にはコペルニクスの生地であるトルンに大学が設置されたが、大学名は彼の名を取りニコラウス・コペルニクス大学とされた。2005年ワルシャワに建てられたポーランド最大の科学館は、コペルニクス科学センターと名付けられている。1972年にはコペルニクス生誕500周年を祝うため、ヘンリク・グレツキにより交響曲第2番『コペルニクス党』が作曲された。

 

天文学関係においても彼にちなんで名付けられたものは多い。嵐の大洋の東部にある最も目立つクレーターコペルニクスの名が与えられている。また、1972年に打ち上げられ1981年2月まで運用されたOAO3号にもコペルニクスの名が与えられていた。

 

 

脚注

  1.  ^ 『コペルニクス 地球を動かし天空の美しい秩序へ』p13 O.ギンガリッチ,ジェームズ・マクラクラン 林大訳.大月書店,2008.11.オックスフォード科学の肖像
  2. ^ 『コペルニクス 地球を動かし天空の美しい秩序へ』p22 O.ギンガリッチ,ジェームズ・マクラクラン 林大訳.大月書店,2008.11.オックスフォード科学の肖像
  3. ^ 『コペルニクス 地球を動かし天空の美しい秩序へ』p60 O.ギンガリッチ,ジェームズ・マクラクラン 林大訳.大月書店,2008.11.オックスフォード科学の肖像
  4. ^ 『コペルニクス 地球を動かし天空の美しい秩序へ』p84 O.ギンガリッチ、ジェームズ・マクラクラン 林大訳.大月書店,2008.11.オックスフォード科学の肖像
  5. ^ 「Newton別冊 現代の宇宙像はこうして創られた 天文学躍進の400年」p107 ニュートンプレス 2009年5月15日発行
  6. ^ 『コペルニクス 地球を動かし天空の美しい秩序へ』p130 O.ギンガリッチ,ジェームズ・マクラクラン 林大訳.大月書店,2008.11.オックスフォード科学の肖像
  7. ^ 『コペルニクス 地球を動かし天空の美しい秩序へ』p121 O.ギンガリッチ,ジェームズ・マクラクラン 林大訳.大月書店,2008.11.オックスフォード科学の肖像
  8. ^ Life of Nicolaus Copernicus”. Nicolaus Copernicus Museum in Frombork. 2006年6月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。
  9. ^ 『コペルニクス 地球を動かし天空の美しい秩序へ』p144 O.ギンガリッチ,ジェームズ・マクラクラン 林大訳.大月書店,2008.11.オックスフォード科学の肖像
  10. ^ コペルニクスの遺骸DNA鑑定で確認される 2世紀にわたる墓探しに終止符 - AFPBB 2008年11月23日 
  11. ^ コペルニクス 『天体の囘転について矢島祐利訳、岩波書店〈岩波文庫 青版〉、1953年5月5日。ISBN 4-00-339051-2
  12. ^ コペルニクス 『コペルニクス・天球回転論』 高橋憲一訳・解説、みすず書房、1993年12月24日。ISBN 4-622-04092-1
  13. ^ 「Newton別冊 現代の宇宙像はこうして創られた 天文学躍進の400年」p12 ニュートンプレス 2009年5月15日発行
  14. ^ 竹内薫著 『99.9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』光文社新書 ISBN 978-4334033415
  15. ^ 『コペルニクス 地球を動かし天空の美しい秩序へ』p121 O.ギンガリッチ,ジェームズ・マクラクラン 林大訳.大月書店,2008.11.オックスフォード科学の肖像
  16. ^ ディック・テレシ 『失われた発見 : バビロンからマヤ文明にいたる近代科学の源泉』 大月書店、2005年6月。ISBN 4-272-44033-0
  17. ^ News: Element 112 is Named Copernicium”. IUPAC (2010年2月20日). 
  18. ^ コペルニクス博物館 - ポーランド政府観光局 
  19. ^ フロムボルク・ミコワイ・コペルニク博物館

 

参考書

  • 『太陽よ,汝は動かず コペルニクスの世界』 A.アーミティジ奥住喜重訳.1962.岩波新書
  • 『コペルニクス』 広瀬秀雄 牧書店 1965.世界思想家全書
  • 『コペルニクス』 アーサー・ケストラー 有賀寿訳.すぐ書房,1973.
  • 『コペルニクスと現代』 広瀬秀雄等 時事通信社,1973.
  • 『ニコラウス・コペルニクス その人と時代』 ヤン・アダムチェフスキ 小町真之,坂元多訳.日本放送出版協会,1973. のち恒文社
  • 『コペルニクス その生涯と業績』 フレッド・ホイル  中島竜三訳.法政大学出版局,1974.
  • 『コペルニクス・天球回転論』 高橋憲一訳・みすず書房,1993.12.
  • 『誰も読まなかったコペルニクス 科学革命をもたらした本をめぐる書誌学的冒険』 オーウェン・ギンガリッチ 柴田裕之訳.早川書房,2005.9.
  • 『コペルニクス 地球を動かし天空の美しい秩序へ』 O.ギンガリッチ,ジェームズ・マクラクラン 林大訳.大月書店,2008.11.オックスフォード科学の肖像

 

関連項目

 

外部リンク


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