NO.7

[ フィレンツェ歴史地区/イタリア]

 

~花の都、「フィレンツェ」~


 

ルネサンスの大輪の花、「花の都」フィレンツェ、
1400年代に、数多くの芸術家がキラ星のごとくメディチ家を取り巻き、
この町に、そして芸術史に、足跡を残していった。
彼らの遺産は今も光の中で輝く。

 

ルネサンスを具現化するかのようなミケランジェロの像、
アンジェリコの清らかで優美な天使達、
魅了してやまないボッティチェッリの女神たち、
ブルネッレスキの壮大なクーポラとジョットの鐘楼などなど・・・・。

 

数え上げることができないほどの、遺産が残るフィレンツェの小道を歩く時、
その街並みは、今もルネサンスの息吹を感じさせる。

 



ルネサンスを象徴する記念碑、

サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母)大聖堂

 

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          ―[目次]―

 

1 フィレンツェの発祥

    1.1 エトルリア人が設けた渡河地点にローマ人の植民市が生まれる

2 ルネサンスの文化遺産と中世の残照

    2.1 イタリア・ルネサンスの誕生

    2.2 サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母)大聖堂

       2.2.1 サンジョバンニの洗礼堂

       2.2.2 ルネサンス美術史に名高い「天国の門」が出来上がるまで

       2.2.3 大聖堂本堂

          2.2.3.1 ブルネッレスキが古代建築を研究して大円蓋を造りあげる

          2.2.3.2 大聖堂のファサードと本堂内部

       2.2.4 ジョットの鐘楼

       2.2.5 大聖堂付属博物館

    2.3 ヴェッキオ宮

    2.4 ロッジャ・デイ・ランツィ(ランツィの柱廊)

    2.5 ウッフィツィ美術館

       2.5.1 展示室と主な展示作品

    2.6 サン・マルコ美術館(修道院)

    2.7 アカデミア美術館

    2.8 サン・ロレンツォ教会とメディチ家礼拝堂

       2.8.1 サン・ロレンツォ教会

       2.8.2 メディチ家礼拝堂

    2.9 バルジェッロ国立博物館

    2.10 サンタ・クローチェ教会

    2.11 パラティーナ美術館

    2.12 サンタ・マリア・ノヴェッラ教会

       2.12.1 ファサード

       2.12.2 聖堂内部

       2.12.3 側廊

          2.12.3.1 左側廊の祭壇

          2.12.3.2 右側廊の祭壇

       2.12.4 翼廊

 

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[ フィレンツェの発祥]

 

エトルリア人が設けた渡河地点にローマ人の植民市が生まれる:

フィレンツェの北北東、市の中心から道路距離にして8キロの丘の上に、フィレンツェの母と呼ばれる小さな町フィエーゾレ (Fiesole)がある。昔も今も高級別荘地として名高く、古代の野外劇場の遺跡や中世のロマネスク式の教会などがあり、あたりの眺めもすばらしいので、訪れる人が絶えない。

フェゾーレからフィレンツェ市街の展望

 

このフィエーゾレが丘の上に位置していて、守るに易く、悪疫の害をこうむることも少なそうなので、紀元前8世紀頃にエトルリア人が町を築いたのが、フィレンツェ発祥の元になったと考えられている。

 

このようにエトルリア人は軍事と公衆衛生の観点から丘の上に町を設けたのだが、交易のためにはアルノ川 が一番渡りやすくなっている地点をも重視した。それが今もなおフィレンツェの名物、黄色と茶色の階上廊をもつポンテ・ヴェッキオ (古い橋という意味)がかかっている地点だ。

 

フィレンツェピサ シエーナなどを含む地方をトスカーナと呼ぶが、ローマ人が進出してくるまではこの地方はエトルリア人のものだった。

 

紀元前3世紀になるとローマの勢力が伸びてきて、エトルリア人の諸都市もローマの同盟都市にならざるを得なくなり、なし崩し的にローマ化されていった。紀元前59年カエサルは摩下の軍隊から退役した兵士達に土地を与え、現在フィレンツェの中心になっているあたりに新しく植民市を作らせた。カエサルがポンペイウスらと第1回三頭政治を組んだ翌年のことだ。

 

退役兵士らは当地の最も重要な地点つまりアルノ川の橋を押さえられるところに新しい都市を作った。新しい都市はローマの軍営の伝統に従って長方形をしており、城壁をめぐらしていた。その中心を南北に貫く大通りカルド.マクシムス(現在のローマ通りとカリマラ通り)が城壁の南門を出ると、その先にアルノ川の橋がくるという設計であった。

 

フィレンツェの市街地図を見ると、北はサンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母)大聖堂から、南はシニョーリア広場に至るまでの区域では、街路がほぼ整然と碁盤目になっていることが分かる。これがローマの退役兵士達が植民地を建設した時以来の最古の旧市街だ。そのまわりでは道路がだいたい放射状になっていて不規則なのとは、ハッキリした違いが認められる。

 

この旧市街の赤い屋根がつづく景観のなかでサンタ.マリア・デル・フィオーレ大聖堂の巨大な円蓋は、より強い赤の色調に輝いている。 街の北部をゆったりとアルノ川が流れている。いくつもかけられた橋の中で、とりわけ、中世以前に架けられ、その後14世紀に再建されたフィレンツェ最古の橋、ポンテ・ヴェッキオ(ヴェッキオ橋)の特異な美しさが目をひく。古都フィレンツェの中心、旧市街にあるこれらの建築遺産は、きわめて印象的な都市の肖像といえる。

 

[ ルネサンスの文化遺産と中世の残照]

 

イタリア・ルネサンスの誕生:

 

クワットロチェント(美術史においては、15世紀イタリアを指してこのようによぶ)の初め、ここでルネサンスが誕生した。

 

ルネサンスは“再生・復活“を意味するイタリア語のリナシタ(rinascita)が語源である。古代ギリシャ文化 古代ローマ文化 の再生という意味でイタリア・ルネサンスの建築家、画家、美術史家ヴァザーリ(1511-74)が用い始めた。英語でいえばリバイバルrevivalに当たる語である。この時期(16世紀)に丁度、古代彫刻や遺跡の発掘が盛んに行われたりと古代ギリシャ・ローマ文化に対する機運が高まり、再認識される時代となった。ルネサンスはこうした古代芸術を古典中の古典と捉え、芸術理念としたのであった。

 

ルネサンスは地中海貿易で繁栄した北イタリア、フィレンツェなどトスカーナ地方の諸都市を中心に、教会イスラム世界東ローマ帝国の保存していた古典文化の影響を受けて14世紀頃にはじまった。その先駆者とされるのはフィレンツェ出身で『神曲』の著者、ダンテ・アリギェリ(1265-1321)である。ダンテの影響の下で洗練されたイタリア語が発達し、ジョヴァンニ・ボッカチオ(1313-1375)が名著『デカメロン』を著したのもこのフィレンツェで、この著作は散文の原型として文学史に名を残すことになった。

 

イタリアでルネサンス文化が開花したのは、フィレンツェ、ミラノローマヴェネツィアなどの都市である。学芸を愛好し、芸術家たちを育てた パトロンとして、フィレンツェのメディチ家、ミラノの スフォルツァ家などの権力や財力のもとにルネサンス文化が花開いていった。

 

メディチ家は聖俗の両世界、つまり教会と国家に君臨し、芸術家や哲学者(新プラトン主義)などの擁護者となった。教会建築や教会芸術のために寄進し、この家系から教会最高位の ローマ教皇レオ10世・在位1513-21、クレメンス7世 ・在位1523-34)も出た。

 

ルネサンスはこうしてフィレンツェからローマ、マントヴァウルビーノ 、ヴェネツィア、そしてアルプス 北の国々のフランドルネーデルラントに大きな影響を与えていった。こうした全ヨーロッパに広まった美術、文芸等の文化上の革新運動がルネサンスであった。

 

ルネサンス芸術に用いられた題材を見ると大変興味深い。教会芸術には聖書から、世俗芸術にはギリシャ神話から題材が取られた。ギリシャ神話を用いたものでも当然ながら根幹にはキリスト教が投影され、寓意されている。

 

この時代、イタリア(フィレンツェ)ではブルネレスキ (金細工師、彫刻家、ルネサンス最初の建築家)、ドナテッロ (彫刻家)、マザッチョ (最初に科学的に、遠近法を使用した画家)、ボッティチェッリ (ロレンツォ・デ・メディチの時代を代表する画家、「春」や「ヴィーナス誕生」の題材はギリシャ神話)、ダ・ヴィンチミケランジェロなどの美術家が活躍した。

 

世界のどこにも、このフィレンツェほど、狭い区域にもっとも名高 い画家、彫刻家、建築家の手になる、これほど数多くの芸術作品や 建造物力集中している都市はない。

 

フランドル(現在のオランダベルギーフランス北部に当たる)では特異な画風をもつボスブリューゲルがいた。他の分野ではコロンブスマキャベリ (以上イタリア人)、コペルニクス (ポーランド人でイタリアの諸大学で学び活躍)、シェークスピア (イギリス人)などが輩出した。

 

ルネサンスの時代は決して明るい時代ではなく、ペストの流行や(マキアヴェッリが『君主論』を著したことで知られるように)政争、戦乱の続く波乱の時代であった。文化を享受していたのも宮廷教皇庁など一部の人々に過ぎず、魔術や迷信もまだ強く信じられていたのである。

 

ルネサンスのイタリアは文化の先進国としてヨーロッパを近代に導く役割を果たしたが、国内は教皇領や小国に分裂し、またイタリア戦争 (16世紀に主にハプスブルク家=神聖ローマ帝国・スペインとヴァロワ家=フランスがイタリアを巡って繰り広げた戦争)後は外国の勢力下に置かれたため国家統一が遅れ、政治・社会の近代化では立ち遅れる結果になった。

 

ドイツ人ルターのによる宗教改革(1517年~)やイギリスヘンリー8世の宗教改革(1533-34年)などが、時を同じくして起こった。

 

こうしたプロテスタントを生み出した宗教改革とカトリック側の反宗教改革との対立や摩擦が、興味深い文化改革を引き起こしていった。それは清楚を旨とするプロテスタンティズムと壮麗さを主張するカトリシズムの対立であり、ある時は反撥しあい、ある時は同調し、カトリック内部での論争や反省などが多様な文化を生み出していった。

 

つまりカトリック側の反宗教改革(トレント公会議 1545-63=カトリック教会の公会議)は、プロテスタントへの巻き返しと自省するという両面がある。このことはルネサンスの重要な側面といえよう。例えばパレストリーナの音楽は、カトリック側のひとつの反省的側面がみられる。その禁欲的とも思える程の硬質さと清楚さをもつ音楽は、そうした点を突いているといえないだろうか。