【カンボジアの歴史】

 

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[先史時代(西暦紀元前)ー新石器時代ー]

 

コンポン・チュナン州の太湖北岸にあるサムロン・セン、口ンニフラオおよびプリヤ・ヴィヒャ州のメルー・フレイの三カ所で、大量の貝殻、磨かれた石、器具・器物の破片などが発見され、フランス人考古学者の研究によって、これらが新石器時代における村落のごみ捨て場の跡、すなわち貝塚であることが明らかにされた。

 

カンボジア では旧石器時代の遺跡や遺物はいまだまったく発見されていないので、この地域に人が住むようになったのは新石器時代からであると考えられている。

 

先史時代のカンボジア人が、歴史時代のカンボジア人の祖先であるかどうかは明らかでないが、いずれにせよ彼らは、筋肉が発達して骨格のがっしりした人間で、小部落を作って狩猟・ 漁労・土器の製造・機織りなどを行なっていた。

 

カンボジアの先史時代は1世紀頃まで続いた。

 

建国神話

どこの国にもその建国を物語る神話があるように、カンボジアにも次のような建国神話がある。

 

インドから父王に追われてカンボジアにやってきたプリヤ・トン王子は、あるタべ海岸を歩いていると、潮が満ちて砂浜を通れなくなり、やむなくそこで一夜を過ごそうとした。すると波間からナーガ・ラージャ(蛇王)の娘である美しいナーギー(雌蛇)が現われ、そっと王子に寄りそった。ナーギーの世にも稀な美貌に魅せられた王子は、その場で夫婦の契りを結び、ナーガ・ラージャが海水を飲み干して作った国の王として、末永く国を治めた。」 この神話は、次のように形を変えて古碑文の記録にも紹介されている。

 

「インドからやって来た婆羅門僧カウンディンヤは、夫婦の契りの儀式を行なうため雌蛇と交わり、魔法の槍をもって月族の女王の支配する国を討ち、そこに都を定めて国を治めた。」 (ミーソンの石碑)

 

[古代(1ー802)ーフーナン・チェンラ時代ー]

 

山の王国 フーナン

中国の史書によると、1世紀の頃、シャム湾(タイランド湾)沿岸のメコン河下流域ーほぼ現在のカンボジアの地にフーナン(扶南国) いう王国が出現した。 フーナンとはモン・クメールの古語で山を意味するブナム(現在のカンボジァ語ではプノン)の訛ったもので、フーナン王国とは「山の王国」を意味し、フーナンの王は自ら「山の王」と称していた。 フーナンは、2世紀頃まではまったく未開のままであったが、インド中国を結ぷ中間に位置し、貿易船が立ち寄ったため外国文化の影響を受け、特にインドから多くの文物とともに宗教思想を輸人して開花した。

 

3世紀から7世紀にかけて完全にインド化されたフーナンでは ヒンドゥー教(ヒンドウー社会)シヴァ神信仰小乗仏教(上座部仏教) をとり入れ、シャム湾に面するオック・エオの港を中心に海洋商業国として繁栄し、かつ数次にわたり中国に使節が派遣された。

 

フーナンの都は、現在のプレイ・ヴェン州のバナムに近いバ・プノンにおかれ、ヴィヤーダプラとよばれたが、六世紀の後半には、現在のタケオ州プノン・ダーに近いアンコール・ボレイに遷(うつ)った。

 

太陽族の国 力ンボジア

6世紀の後半には、フーナンの属国のひとつであったカンボジア(カンブージャ)の勢いが盛んになった。中国の史書では、古代カンボジアをチェンラ(真臘)とよんでいる。 カンボジアは、太陽の子である聖なる隠者カンブと天上の舞姫メラとの結婚により生じた太陽族の後裔(こうえい)であると称し、フーナンの盛時には現在のラオスのチャン・ハサック付近を支配していた。しかし次第に勢力を得ると南進して宗王国フーナンを脅かし、6世紀の末にはフーナンへの朝貢を行なわなくなった。 7世紀に入ると、イーシャーナヴァルマン1世(615~635)が、現在のカンボジア中央部からタイの南東部までの地域を平定してフーナン制覇の事業を成し遂げ、現在のコンポン・トム州サンボール・プレイ・コックにイーシャーナプラの都をおいた。

 

古代カンポジアは、ジャヤーヴァルマン1世(657ー681)の治世に最も強大になり、シャム湾沿岸からメコン河中流域まで、すなわち現在のカンポジア全土とラオス南部をその領土とした。 しかし同王の死後国が乱れ、715年頃カンボジア( チァンラ)は、 現在のラォス南部を領土とする陸のチァンラ(陸真臘)と、ほぽ現在のカンボジアを領土とする水のチァンラ(水真臘)に分裂し、 後者はやがてさらに多数の小国に分裂した。

 

カンポジアが分裂して弱休化したことは、当時スマトラ島シュリーヴィジャヤ王国に対抗して北へ勢力の伸展をはかっていたジャワ島中部のジャヴァ王国の好餌(こうじ)となり、8世紀の後半、水のチァンラはジャヴァの宗主権(他国の主権を従属的に制限する権能)下におかれた。

 

[中世(802ー1431)ーアンコール時代ー]

クメール王朝

出典:Wikipedia

 

9世紀のカンボジア

力ンボジアのジャヴァからの解放は、9世紀の初めにジャヤーヴァルマン2世(802~854)によって行なわれた。水のチェンラの王子であったジャヤーヴァルマン2世は、幼少期をジャヴァの虜囚(りょしゅう)として送り、長じて帰国後は太湖北岸地方を中心に急速に権力を拡大し、現在のシェムリアップ市の北にあるクーレン山を中心のマヘーンドラパルヴァータ(現在のプノン・クレーン丘陵)に都をおき、そこで即位して、カンボジアの再統一とジャヴァの宗主権からの解放を宜言した。またジャヤーヴァルマン2世は、マヘーンドラパルヴァータにヒンドゥー教の大賢者ヒラニヤダーマをまねき、カンポジアを永遠にジャヴァの宗主権から解放して、国王を唯一の統治権者とするための新たな信仰をつくらせた。これがデーヴァ・ラージャ崇拝すなわち神王崇拝(王は神の化身として崇められた)である。

 

ジャヤーヴァルマン2世は晩年、現在のシヤムリヤップ州ロルーオス村付近のハリハラーラヤブラに都を遷(うつ)し、その地で没した。

 

ジャヤーヴァルマン2世の甥にあたるインドラヴァルマン1世(877ー889)は、ハリハラーラヤプラ周辺の農業の発展をはかるためロレイに灌漑用貯水池を掘り、プリア・コーの神殿および最初のビラミッド型寺院バコンを建造した。

 

インドラヴァルマン1世の子ヤショーヴァルマン1世(889ー900)は、ハリハラーラヤプラのロレイの貯水池の中心に王祖の冥福を祈るためロレイの神殿を建造し、続いて、後のアンコール・ワットアンコール・トムの中間にあたるプノンバケンの小山を中心に、約5キロ四方のヤショーダラブラの都(第ーアンコール)を建設した。

 

ヤショーヴァルマン1世は神王崇拝の思想に撤し、都は王の世界すなわち神の世界であり、人間世界において神の世界を象徴するものであるから、神の世界の中心にメール山(須弥山)がある如く、 都の中心には神王のための山上の寺院がなければならないと考えた。 そしてプノン ・バケンの山上に神王崇拝の神殿を構築し、周辺の他のニつの小高い山プノン・クロムとプノン・ポックの山上にも、ヒンドウ教の3主神ブラフマーヴィシュヌおよびシヴァを祀るそれぞれ三つの塔のある同一型の神殿を建造した。

 

さらにヤショーヴァルマン1世は、当時の三つの宗教であるシヴァ神信仰、ヴィシュヌ神信仰および仏教のための僧院を建設し、そこには僧侶のみならず巡礼者や学者をも受け入れて哲学的研鑽を行なわせ、国民の宗教的、精神的高揚をはかった。 また同王は、ヤショーダラプラの住民に水を供給し、あわせて周辺の農業灌漑に役立てるため、都の東に東西7キロ、南北1.8キロの大人造湖東バライを掘鑿(くっさく)した。

 

10世紀

ヤショーヴァルマン1世の子ハルシャヴァルマン1世(900ー923)は、小さいながら美しく整った小神殿プラサット・クラヴァンを建造した。

 

912年、ハルシャヴァルマン1世の母方の叔父の一人が王位を纂奪(さんだつ)し、都をヤショーダラプラの北東約100キロのチョック・ガルギャー(現在のコー・ケー)に遷(うつ)し、ジャヤーヴァルマン4世(921ー940)と名乗った。同王は、コー・ケーに五層のピラミッド型寺院を建造 し、灌漑用貯水池を掘鑿(くっさく)した。

 

ジャヤーヴァルマン4世の娘婿でヤショーヴァルマン1世の甥にあたるラージェンドラヴァルマン2世(944ー968)は、都をヤショーダラプラにもどし、三つのビラミッド型寺院、パクセイ・チャムクロン東メボンおよびプレ・ループを建造した。 同王は、東の隣国チャンパ(占婆)に戦いを挑み、古碑文によれば、945年頃王の軍隊が現在のべトナムのニャチャンにおいて、チャンパの守護神である黄金像を奪ったと伝えられている。

 

ラージェンドラヴァルマン2世の子ジャヤーヴァルマン5世(968ー1001)は、幼少で王位についたため、王室のヒンドゥ僧ヤージニャヴァラーハが摂政になった。ヤージニャヴァラーハにより、繊細な彫刻をほどこされた華麗なバンティアイ・スレイの寺院が建造された。

 

ジャヤーヴァルマン5世は、長じて勇猛果敢な王となり、近隣諸国を征服し、晩年は都の郊外においてピラミッド型寺院タ・ケウの建造に着手し、そのそばに王居を構えたが、寺院が未完成のうちに没した。

 

11世紀

11世紀初頭のカンポジアでは、王位をめぐって豪族間に闘争が続けられたが、けっきょくカンボジアの東部に割拠していたマレイ半島北部出身のスーリヤヴァルマン1世(1002ー1049)が勝利を得て国内を平定した。同王は、ヤショーダラプラの中心を少し北に遷(うつ)し、後のアンコール・トムの中央に王都(第ニアンコール)を建造した。スーリヤヴ1ルマン1世は、中世カンボジアに初めて大乗仏教を導入し仏教寺院としてピミヤナカスを完成した。

 

スーリヤヴァルマン1世の子、ウダヤーディチャヴァルマン2世(1049ー1066)は、国内で反乱が続発して政情が混乱をきわめたにもかかわらず、都の西に新たに東西8キロ、南北2.2キロの大人造湖西バライを掘鑿(くっさく)し、その中央の島にビラミッド型寺院西メボンを建造したほか、新手法による巨大なビラミッド型寺院 バプーオンを建造した。

 

ウダヤーディチャヴァルマン2世の弟ハルシャヴァルマン3世(1066ー1080)の治世には、2度にわたるチャンバ軍の攻撃にあってカンポジアが大敗を喫し、国力が著しく衰微(すいび)した。 ハルシャヴァルマン3世の没後、同王に仕えていたヒンドゥ僧ディヴプカーラの裏切りにより、王とは血のつながりのないカンボジア北部の一豪族が王位を纂奪(さんだつ)してジャヤーヴァルマン6世(1080ー1107)と名乗り、都をヤショーダラプラからはるか北の方に遷(うつ)した。ジャヤーヴァルマン6世の王位墓奪(さんだつ)により、ハルシャヴァルマン3世の子孫は、南の方にわずか名前だけの王位を保つにすぎなくなり、一時南北朝時代が出現したが、南朝は間もなく滅ぼされた。

 

12世紀前半

ジャヤーヴァルマン6世の没後、その兄弟であるダラーニンドラヴァルマン1世(1107ー1112)が王位につき、同王の没後、その甥の子にあたるスーリヤヴァルマン2世(1113ー1145)が王位についた。 スーリヤヴァルマン2世は、都をヤショーダラプラにもどして国内を統一し、次いで隣国に 兵を進めて盛んにベトナム北部の大越国およびベトナム中部のチャンパを攻撃したが、結局戦いにはあまり恵まれなかった。

アンコール・ワット

 

スーリヤヴァルマン2世は、寺院や神殿の建造には非常な熟意をもち、最大のピラミッド型ヒンドゥ教寺院アンコール・ワットを建設し、さらにトムマノンプリヤ・パリライプリヤ・ビトウの中央部、バンティアイ・サムレなど、大小さまざまの寺院を建造した。

 

12世紀後半

スーリヤヴァルマン2世の没後、ジャヤーヴァルマン6世の甥の子にあたるダラーニンドラヴァルマン2世(2501ー1612)が王位についたが、同王は 「仏の道こそ最高の悟りへ導くものであり、この道こそ現実を知るための道である。仏法は三界の尊ぶべきもので、 情欲の密林を開く剣である。」(タ・プロームの石碑文)と信ずる熱心な大乗仏教徒であった。

タ・プローム

 

ダラーニンドラヴァルマン2世没後のカンポジアでは、王位纂奪者(さんだつしゃ)が現われて国内が大いに乱れ、さらに1177年にはチャンパの大軍が侵略してヤショーダラプラの都は焼き払われた。

 

こうした外憂内患に悩まされたカンボジアの疲弊状態は、1181年にジャヤーヴァルマン7世(1181ー1201)が王位につくまで続いた。

 

ジャヤーヴァ ルマン7世は、中世カンポジアにおける最大最強の王であるが、さいわい他の歴代の王の個人的伝記がほとんど伝えられていないのとは異なり、その生い立ちや業績を伝える石碑文が非常に多い。

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ジャヤーヴァルマン7世は、ダラーニンドラヴァルマン2世の子で、1120年から1125年の聞に生まれ、若くして結婚し、父王の命でチャンバに逮征し、その地で青年時代を過ごした。ジャヤーヴァルマン7世がチャンバにいる間「妻は遠くヴィジャヤ(チャンバの都)の地にある夫を夢に見、それを喜び、それを悩み、夫の帰国をねがって願をかけ、仏道に励んで苦行を行なった。妻は、姉インドラデヴィのすすめで仏こそ願望をかなえてくれるものと信じ、悟りへの道を歩もうとしたが、その道はきびしく、煩悩の火に灼かれ、情欲の海に溺れることがしばしばあった。」(ビミヤナカスの石碑文)

 

このジャヤーヴァルマン7世の妻の姉イソドラデヴィは、妹の死後第2夫人となるが非常な学者で、「深く神秘主義を奉じて霊界のことのみを考え」、ジャヤーヴァルマン7世に強い影響を与え、同王を熱心な大乗仏教徒にした。

 

さてジャヤーヴァルマン7世は、父王の死を聞いて急遮帰国したが、祖国では王位纂奪者(さんだつしゃ)が勢力を張っていたため、なお18年聞を隠忍自重して待ち、ようやく1181年、60才前後で王位についた。 ジャヤーヴァルマン7世は外交および用兵の術に長け、無謀な戦争を行なわず、一国と戦う場合は他国と中立を保って背後の危険をなくし、敵国の王子であっても時には優遇して傀儡に仕立て、こうして1190年には遂に宿敵チャンパを降伏させ復讐をとげることができた。

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大乗仏教徒であったジャヤーヴァルマン7世は、バンティアイ・クデイタ・プロームプリア・カーンスラ・スランタ・ソムなどの仏教寺院や僧院を建造し、チャンバの進攻によって荒らされたヤショーダラプラの都を再建した。これがアンコール・トム(第3アンコール)で、その中心にはピラミッド型仏教寺院バイヨンを建造し、 都をとり巻く城壁と五つの門および王宮前のテラスを完成した。ジャヤーヴァルマン7世は、慈悲心に厚く「民の病を自分の病以上に苦しみ」(サィ・フォンの石碑文)国内の102カ所に病院を建設し、主要3街道の約15キロおきに22カ所の宿泊所を設置した。

バイヨンの四面像

 

中世カンポジアはジャヤーヴァルマン7世の時代に繁栄をきわめ、領土は最も広大になり、遠征による多数の戦利品や捕虜が続々と アンコールに運び込まれたが、相次ぐ逮征と大建築によって国庫は窮之し、王の死後、国力は次第に傾いて行った。

 

13世紀から15世紀初頭

ジャヤーヴァルマン7世の後を継いだ王は、5人まで石碑文に現われているが、その後は全くわからなくなり、代わってカンポジア編年史の記す王の時代となる。石碑文に現われた歴代の王と編年史に現われる歴代の王との関連は明らかでない。

 

ジャヤーヴァルマン7世から三代目のシュリーンドラヴァルマン王(1295ー2107)の時代に、周達観クビライ汗の使者に随行してカンボジアにやって来た。当時のカンボジアは、ジャヤーヴァルマン7世の時代のような活気はなかったが、未だ前世紀の栄光を受け継いでかなり繁栄を続けていたことが、真蝋 (チァンラ)風土記により明らかである。 しかし、周達観も「近頃しばしばシャムと兵を交えるので、曠野となる村落が多い」(真蝋 風土記「村落」の項)と述べているとおり、13世紀の末からシャムのカンポジアに対する侵略が始まった。とくに1350年にシャムのウートン侯がラーマ・ティポディ1世としてアユタヤに新王朝を開いて以来、シャムの対カンボジア侵略はいちだんと激しくなり、1353年と1394年にはシャムの大軍がカンボジアを蹂躙してアンコールを荒廃させた。

 

1431年シャムのボロモラージャ2世は、ダルマソカ王治下のカンポジアに軍を進め、遂にアンコールを陥落させた。 ダルマソカ王はアンコールの包囲戦中に没し、シャムの王子がカンボジアの王位についたが、間もなくカンポジアの王子ポニャーヤットがシャムの王子を殺して王位を回復した。

 

ポニヤーヤット王(1405ー1467)は、シャムのアユタヤ王朝からの侵略を免れるため、アンコールを放棄して都をプノンぺンに遷(うつ)した。

 

[近世(1431ー1863)ー苦難の時代ー]

 

アンコールの放棄後もシャムの侵略は続けられ、十五世紀の後半にカンポジアはチャンタブーンコーラートアンコールの諸州をシャムに奪われた。

 

16世紀の前半、アン・チャン1世(1505ー1555)はシャムの侵略軍を撃退し、1528年に都をプノンペンの北北西約40キロのロヴェックに遷(うつ)し、一時は国威を回復したようであった。しかし、16世紀の後半チェイ・チェッタ1世(1574ー1595)の時代に、カンボジアは二度にわたりシャム軍の大攻撃を受け、1593年遂にロヴェックの都はシャム軍によって陥落された。 チェイ・チュッタ1世は陥落直前に父プリヤ・ソッター前王とともに脱出したが、北の僻地で客死した。口ヴュックの陥落は、カンポジアの過去の栄光と国威への弔鐘であり、暗い悲惨な時代の幕明けであった。

 

17世紀のカンボジアは、執拗に続けられるシャムの侵略に苦しめられ、シャムはカンボジアに対する宗主権を主張した。 チェイ・チェッタ2世(1618ー1626)は、都をロヴェック南東のウドンに定め、シャムからの侵略と圧力を防ぐため、べトナム(広南)の家の王女と結婚し、べトナムの援助を求めようとしたが、その結果は従来のシャムからの侵略と干渉に加えてべトナムからの侵略と干渉をも招くようになり、以来カンポジアは東西の両隣国から玉葱の皮をむくように領土を蚕食(さんしょく)されて行った。

 

カンポジアの国内では、不安定な王が続き、王位継承をめぐって王族の間で争いが絶えず、 肉親の間でも暗殺や虐殺が日常茶飯事の如く行なわれ、女子や子供までが権力闘争の道具にされた。また王位をねらう王族は、自分の地位を有利にするため、進んでシャムまたは、べトナムに支援を求め、両隣国はこれに乗じて侵略と干渉を行なった。

 

こうして18世紀の末のカンボジアは、プレィ・ノコー(サィゴン)をはじめ交趾支那 (こーちしな)全土をべトナムに、バッタンバン、アンコール(シェムリアップ)、ストウン・トウレンなどの諸州をシャムに奪われ、全く悲惨な小国になってしまった。

 

下って1845年、カンボジアに対する宗主権を争っていたシャムとべトナムとの間に合意が成立し、シャムに亡命していたカンポジアの王子が帰国し、アン・ドウオン王(1845-1859)として王位についた。

 

アン・ドウオン王は、やがてシャムとべトナムがメコン河を共通の国境としてカンボジアの国土をニ分し、力ンポジアを滅ぼしてしまいそうな情勢を憂慮し、ひそかにシンガポールのフランス領事を通じて書簡をナポレオン三世に送り、その援助を要請した。しかし、フランス領事の不注意により、書簡の内容がシャムに洩れてしまったため、アン・ドウオン王はシャムの反発を恐れ、フランスへの援助要請を取り止めてしまった。

 

19世紀の中頃になると、アジアに対する英国とフランスの進出競争がしのぎをけずって行なわれ、フランスは1858年以来べトナムの征服に乗り出し、1859年にはサイゴンを陥落させた。 強気になったフランスは、ベトナム征服を続ける一方、1863年6月、海軍大佐ドゥダール・ド・ ラグレをカンポジアの都ウドンに派遣し、当時王位を弟シヴォタに奪われて再起の機会をねらっていたアン・ドウオン王の子ノロドム王(1860-1904)と交渉し、王位回復を条件としてカンポジアとの保護条約を締結した。

 

[近代(1863-1945)ー仏領時代ー]

フランス領インドシナ

出典:Wikipedia

 

1863年6月のフランス・カンボジァ間保護条約の内容は比較的ゆるやかなもので、1864年に条約が発効すると、ノロドム王は、反乱の平定や奴隷解放など安定と近代化のための政策に着手し、1866年には都をプノンペンに遷(うつ)した。フランスの保護国となったカンポジアは順調に発展を遂げるかと見られたが、1884年8月、交趾支那(こーちしな)知事シャルル・トムソンが突如プノンベンの王宮にやって来て、文字どおりノロドム王の寝込みを襲い、カンポジアの主権を全面的に抹殺する厳しい内容の新保護協約を威嚇的に押しつけ、強引に調印させた。 その後のカンボジアは、1887年10月仏領インドシナ連邦に編入され、ノロドム王に続いてその弟シソワット王(1904ー1927)、その子シソワット・モニヴォン王(1927ー1941)が王位についた。その間カンポジアは、フランスの力によりシャムおよびべトナムの侵略と千渉を阻止し、1907年3月のフランス・シャム間条約でシャムからバッタンバンおよびアンコール(シヤムリヤップ)の両州をとりもどすことができたが、他方フランス植民政策の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)により、他の多くのアジア・アフリカ諸国と同様の苦難な道を歩み続けた。

 

1840年頃から日本の勢力が南下するにしたがい、インドシナにおけるフランスの勢力は漸次後退し、1940年未から1941年初めにかけてのフランス・タイ(シャムが国名を変えた)問紛争の後、日本の調停によって1941年5月東京で調印された平和条約により、フランスはカンボジアのバッタンバン、シヤムリヤップなどの諸州を再びタイに割譲した。 1941年7月、日本軍はカンボジアに進駐した。

 

1941年4月シソワット・モニヴォン王が崩御し、同年10月、父方ではノロドム王の、母方ではシソワット王の曽孫にあたるノロドム・シハヌーク王が即位した。

 

[現代Ⅰ(1945-1949)ー独立と平和の時代ー]

 

第二次大戦末期の1945年3月9日、仏領インドシナの日本軍はいっせいに軍事行動に入り、フランスの勢力を駆遂した。これにともない3月12日、ノロドム・シハヌーク王はカンポジアの独立を宣言したが、フランスの勢力がカンボジアに舞いもどり、同年8月15日、日本が連合国に降伏すると、1946年1月7日フランスは、カンボジアに若干の内政の自治を認めるとはいえ、両国間関係を旧に復する暫定協定を押しつけて調印させた。

 

こうして1945年3月9日の独立は、いかなる国からも承認されないまま消滅してしまった。

 

独立獲得のための運動をゼロから再出発しなければならなくなったノロドム・シハヌーク王は、まず、1946年11月7日、1941年5月の条約によりタイに割譲した領土を回復し、 続いて1947年5月6日、憲法を公布して独立国にふさわしい立憲国家の体制を確立し、さらにフランスとの交渉を続け、1949年11月8日フランス・カンボジァ間条約の調印により、司法・警察・軍事を除く諸権限の委譲をうけた。ここにカンボジアはフランス連合内における協同国として、独立が認められたのである。

 

[現代Ⅱ]

 

カンボジア王国(1953-1970)

1955年、アジア・アフリカ会議(バンドン会議、バンドン、インドネシア)において、シハヌークは非同盟・中立外交政策を表明した。王位を父ノロドム・スラマリットに禅譲し、サンクム・リアハ・ニヨム(人民社会主義共同体、サンクム)を組織した。「独立の父」として国民の人気を集めたシハヌークは同年の選挙で首相兼外務大臣に就任した。

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1956年、東南アジア条約機構への加盟を拒否。

 

1960年に王であるスラマリットが亡くなると、シハヌークは王位を空けたまま国家元首という新しい位を作って就任した。

 

1965年5月、シハヌークは北ベトナムへの爆撃を行なうアメリカ合衆国との断交を宣言した。ベトナム戦争により国内は不安定となったものの、シハヌーク政権時代にはまだ爆撃・内戦は激化しておらず、食糧は豊富で輸入に頼らず大量の国内避難民も発生していなかった。

 

1967年4月、バタンバン州のサムロートで、政府による余剰米強制買い付けに反対する農民と地元政府の間で衝突が起こる。カンボジアの余剰米の少なくとも4分の1あまりが北ベトナムとベトコンに買い上げられていたが、政府の買い付け値はこれより安く、地元共産主義勢力は反米反政府のビラを撒き暴動を煽動した。サムロート周辺の鎮圧作戦は数ヶ月間続き、右派と左派の衝突は強まる。

 

クメール共和国(1970年-1975年)

1970年3月17日、親米のロン・ノルがシハヌークの外遊中にクーデターを決行し、シハヌーク一派を追放、10月9日、クメール共和国の樹立を宣言した。ロン・ノルは政権を取ると、激しい反ベトナムキャンペーンを行い、南ベトナム解放民族戦線への支援が疑われるカンボジア在住のベトナム系住民を迫害・虐殺した。 このためシハヌーク時代に50万人だったベトナム系住民のうち20万人が1970年にベトナムに大量帰還する事態となった。 続いてロン・ノルは1970年4月、ホーチミン・ルートを粉砕するため、アメリカ軍と南ベトナム軍に自国を侵攻させた。さらに、1968年から局地的に行われてきたアメリカ軍によるカンボジア空爆を、人口高密度地域を含むカンボジア全域に拡大させた。これにより数十万人もの農民が犠牲となり、爆撃からわずか一年半の間に200万の国内難民が発生した。とくにカンボジアで人口の集中する東部地域は、都市も激しい爆撃を重点的に受けた。 ロン・ノル政権は国民の不人気を買い、反政府活動は激化していった。

 

クーデター後、シハヌーク中国(北京)へ脱出し、カンプチア民族統一戦線を結成し、反ロン・ノル諸派の共闘を呼びかけた。彼を助け、共にカンボジア帰国を果たしたのは、毛沢東主義に心酔したポル・ポトキュー・サムファンイエン・サリらの指揮する共産主義勢力「クメール・ルージュ」だった。 10月、ポル・ポトはシハヌークを擁立してロン・ノル政権との間で内戦となった。

 

1971年1月、アメリカはロン・ノル政権支援のために南ベトナム派遣軍の一部をカンボジアへ侵攻させた。10月、ロン・ノルは軍事 独裁体制を宣言し、1972年3月に新憲法を公布した。しかし1973年3月29日アメリカがベトナムから完全撤退したため、ロン・ノルは強力な後ろ盾を失った。さらに、爆撃で農村インフラ(農業の生産性と農村の生活環境の向上を図るために整備された施設,制度)は破壊され、カンボジアの農業生産は大打撃を受けていた。

 

カンボジアは1969年には耕作面積249万ヘクタールを有し米23万トンを輸出していたが、1974年には耕作面積5万ヘクタールに激減し28万2000トンの米を輸入し、米の値段は1971年10リアルから1975年340リアルにまで急騰した。

 

1971年アメリカ会計監査院の視察団はカンボジアの深刻な食糧不足を報告している。こうした状況のなか、都市部は米国からの食糧援助で食いつなぐことができたが、援助のいきわたらない農村部では大規模な飢餓の危機が進行しつつあった。

 

民主カンプチア(1976年-1979年)

1975年4月1日、クメール共和国側が守っていた最後のメコン川の町ネアク・ルアンが陥落し、その日のうちにロン・ノルは国外に脱出、最終的にハワイへ亡命した。 同年4月12日に在カンボジアアメリカ大使ジョン・ガンダーディーンはアメリカ大使館を閉鎖し、ヘリコプターでタイへ脱出した。同年4月17日午前9時30分にクメール共和国は降伏し、クメール・ルージュが首都プノンペンに入城した。プノンペン入城後クメール・ルージュは、都市部の住民を強制的に農村へ移住させる意図を持って、「B-52による爆撃を避けるため」というデマゴーグを理由にしてプノンペンから離れるよう強制した。プノンペンからの立ち退きに例外はなく、重病人や妊婦も強制的に立ち退かされた。住民は行き先も教えられないまま炎天下を何日も徒歩で移動させられたため行き倒れになる者が続出し、大量の死者が出た。

 

1976年1月に「カンボジア民主国憲法」を公布、国名を民主カンプチア(Democratic Kampuchea)に改称した。 クメール・ルージュは貨幣制度廃止、都市住民の農村入植と強制労働といった極端な原始共産制 社会への回帰政策を実行した。旧政権関係者、都市の富裕層や知識層、留学生、クメール・ルージュ内の親ベトナム派などは虐殺された。 反乱の疑いのあるものは政治犯収容所S21(現トゥールスレン虐殺博物館)などに収容され虐殺された。 1975年~1979年のポル・ポト時代の4年間は、中国の毛沢東主義を奉じた極端な農本主義 政策が採られたものの、非効率的なやり方は大旱魃をもたらし、出生率が異常に低下する一方、飢餓と虐殺、マラリアの蔓延などで100万人を超えるともいわれる大量の死者を出した。

 

1975年当時、カンボジアの食糧事情は危機的状況にあった。同年4月にはUSAIDが「カンボジアの食糧危機回避には17.5万~25万トンの米が必要である」と報告し、アメリカ国務省は「共産カンボジアは今後外国からの食糧援助が得られなくなるため100万人が飢餓にさらされることになるだろう」と予測していた。

 

クメール・ルージュの強制移住・重農政策はこうした状況で食糧増産を図ったものと思われるが、非科学的・非現実的な諸政策により結果的には食糧危機を一層増大・深刻化させる結果となった。 この年5月、クメール・ルージュはベトナムのフーコック島を攻撃。 1978年1月、クメール・ルージュはベトナム領内を攻撃し、ポル・ポトはベトナムと断交した。この頃、ベトナムはソビエト連邦との関係を強化しており、中ソ対立の構図から、中華人民共和国と関係の深いポル・ポト政権と対立することとなった。4月から5月にかけベトナムのアンザン省バチュク村が攻撃され村民が虐殺された(バチュク村の虐殺)。 5月には中央のポル・ポトへの反乱の疑いを持たれた東部軍管区(東部はベトナム系カンボジア人の住民が多い)を攻撃し、東部地区の大量のクメール・ルージュ将兵が処刑された。このため、ベトナムには10数万人にのぼる東部地区軍民の避難民が流入した。(カンボジア・ベトナム戦争

 

サムリン政権(1979年-1991年)

1978年12月25日、ベトナム人民軍は、亡命カンボジア難民からカンプチア救国民族統一戦線を組織し、元クメール・ルージュ将校でベトナムに亡命したヘン・サムリンを擁立し、ポル・ポト打倒を掲げカンボジアに侵攻した。

 

1979年1月6日、ベトナム軍がプノンペンを攻略、幽閉に近い状態にあったシハヌークは再び北京へ逃亡、クメール・ルージュはタイ国境近くまで駆逐される。 1月10日親ベトナムのカンプチア人民共和国(People's Republic of Kampuchea)が樹立される。しかし、ヘン・サムリンのカンボジア人民党による政権は、ベトナムの傀儡政権であるとして世界各国の承認を得られなかった。

 

同年2月には中国人民解放軍がカンボジア侵攻の報復としてベトナムを攻撃した(中越戦争)。しかし、中国軍は実戦経験豊富なベトナム軍に惨敗し、3月には撤収した。

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1981年6月にサムリンは新憲法を採択し、フン・センが閣僚評議会副議長(副首相)に就任する。1982年2月、巻き返しを図る反ベトナム3派(ポル・ポトシハヌークソン・サン)は北京で会談を開き、7月には3派による「民主カンプチア連合政府」 (The Coalition Government of Democratic Kampuchea:CGDK)が成立し、サムリン政権との内戦状態に入った。

 

1983年2月に開かれたインドシナ3国(カンボジア、ラオス、ベトナム)首脳会談でベトナム軍の部分的撤退が決議されたが、3月にベトナム軍はポル・ポト派の拠点を攻撃した。

 

1984年7月の東南アジア諸国連合 外相会談では、駐留を続けるベトナムを非難する共同宣言を採択した。しかし、ベトナム軍は内戦に介入し続け、1985年1月に民主カンプチア連合政府の拠点を攻略、3月にシハヌーク派の拠点を制圧した。

 

1988年3月、ベトナム首相ファム・フンが急死し、政変が起こると、6月にベトナムは軍の撤収をはじめ、1989年9月に撤退を終えた。 その結果、当時首相に昇格していたフン・センはベトナム軍の支えを失って弱体化し、内戦はさらに泥沼化した。

 

1990年6月4日5日、東京でカンボジア各派が参加する和平に向けた直接対話の場として「カンボジアに関する東京会議」が開催された。 続く1991年10月23日、カンボジア和平パリ協定が開催され、最終合意文章(「国際連合カンボジア暫定統治機構(UNTAC)」の設置、武装解除と内戦の終結、難民の帰還、制憲議会選挙の実施など)の19ヶ国による調印に達した。ここに、20年に及ぶカンボジア内戦が終結した。

 

1992年以降2007年までのカンボジア王国

カンボジア和平パリ協定でフン・セン政権と民主カンプチア連合政府を合わせた四派によるカンボジア最高国民評議会(SNC)が結成された。 翌年1992年3月より、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC。事務総長は明石康)が平和を維持する活動を始めた。

 

1993年5月には国民議会総選挙が行なわれ、立憲君主制が採択された。選挙結果は、全120議席のうち、フンシンペック党が58議席、カンボジア人民党が51議席、ソン・サンの仏教自由民主党が10議席、その他1議席であった。これにより「二人首相制」となり、フンシンペック党党首でシハヌークの二男 ラナリットが第一首相、 カンボジア人民党のフン・センが第二首相に選出された。

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同年9月23日、制憲議会が新憲法を発布した。9月24日、シハヌークが国王に再即位、カンボジア王国が、およそ23年ぶりの統一政権として誕生した。 自由で公正な選挙、選ばれた議会の憲法発布・政府設立を見届け、UNTACの暫定統治は1993年9月に終了した。

 

1997年7月、プノンペンにてフンシンペック党とカンボジア人民党の軍隊が衝突するという事件が起こった。第一首相であったラナリットはパリに逃亡し、約半年後の1998年3月にシハヌーク王の恩赦で帰国、9月には国民議会の議長に就任した。同年7月の総選挙で、今度はカンボジア人民党が第一党となり、フン・センが第一首相に就任している。

 

カンボジアは東南アジア諸国連合 (ASEAN) への加盟が延期されていたが、1999年4月に加盟を果たした。 なお、ポル・ポトは1998年4月に山中で死亡しており、12月にポル・ポト派幹部が国民へ謝罪した。

 

2001年1月、ポル・ポト派幹部を裁くカンボジア特別法廷の設置が国際連合との間で取り決められた。 2004年10月14日、シハヌークが退位、息子のノロドム・シハモニが国王に即位した。 2006年10月18日、フンシンペック党は、ラナリット党首を解任、駐ドイツ大使のケオ・プット・ラスメイを選出、第1副党首にはルー・ライスレン、第2副党首にはシソワット・スリウッド(シソワット王家の出身)が選出された。

 

2006年11月16日、ラナリットは、ノロドム・ラナリット党(The Norodom Ranariddh Party)を設立した。 2007年3月13日にフィリピンマニラに滞在中のラナリットに背任罪の実刑判決(禁固1年6カ月)が下っている。また4月の地方統一選挙を前にして、ラナリットが妻の告発で1月に姦通罪で訴追されていたことも発表された。 カンボジアの法律により、禁固刑の判決を受けた者は刑期の3分の2を終えないと2008年度の総選挙に立候補できないため、海外に滞在したままのラナリットの動きが注目されている。

 

参考文献

 ・「アンコールの遺跡」霞ヶ関出版 ・ 内田悦生・下田一太(コラム執筆)『石が語るアンコール遺跡』早稲田大学出版部〈早稲田大学学術叢書〉、2011年。


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