【アンコール・トム】

アンコール・トム (Angkor Thom) は、アンコール遺跡の1つでアンコール・ワット寺院の北に位置する城砦都市遺跡。12世紀後半、ジャヤーヴァルマン7世により建設されたといわれている。

 

周囲の遺跡とともに世界遺産に登録されている。

バイヨン

 

アンコールは、サンスクリット語のナガラ(都市)からでた言葉。またトムは、クメール語で「大きい」という意味。

 

アンコール・トムは一辺3kmの堀と、ラテライトで作られた8mの高さの城壁で囲まれている。外部とは南大門、北大門、西大門、死者の門、勝利の門の5つの城門でつながっている。各城門は塔になっていて、東西南北の四面に観世音菩薩の彫刻が施されている。また門から堀を結ぶ橋の欄干には乳海攪拌を模したナーガになっている。またこのナーガを引っ張るアスラ(阿修羅)と神々の像がある。

 

アンコール・トムの中央にバイヨン (Bayon) がある。その周囲にも象のテラス癩王のテラスプレア・ピトゥなどの遺跡も残っている [1]



[概要]

 

アンコール・ワットから北へ約1.5キロほど行くと、アンコール・トムの城壁の南門に達する。 アンコール・トムは、一辺3キロ、高さ8メートルのラテライトの城壁で囲まれ、9平方キロの広さをもつ。この広大な地域の中に、バイヨン寺院をはじめバプーオン 神殿、王宮象のテラス、癩王のテラステップ・プラナムプリア・パリライプリア・ビトウクリアンなど数々の遺跡がある。

 

ア ンコールの意味は、サンスクリット語のナガラ  (城市、国家)  から出たことばで、ローマ人のurbs

(塀に囲まれた町、都会)と同じく、都市国家の意味を表わすものである。トムはカンボジア語で「大きい」という形容詞である。したがって、アンコール・トムの意味は大都市国家のことであるが、一般にカンボジア人はアンコール・ワットを小アンコールと呼び、これに対し、バイヨン寺院を中心としたこの城壁内を大アンコールと言っている。

 

[城門]

 

観世音菩差の四面像と神蛇を抱える巨人の石像:

建築年代:12世紀末
建築者:ジャーヴァルマン7世
信仰:仏教
様式:バイヨン様式

 

アンコール・トムの大城壁には、五つの巨大な城門が設けられている。バイヨン寺院を中心に、城壁の東西南北に築かれた四つの城門と、王宮正面に達する東側城壁に設けられた勝利の門がこれである。

“勝利の門“と同じく東側城壁に設けられたもうーつの城門は、バイヨン寺院正面に達するが、これは、”死者の門”(または東大門)と名づけられている。他の門はその位置より、それぞれ南大門、西大門、北大門と呼ばれる。アンコール・ワットから来ると、南大門の方からアンコール・トムに入ることになる。

南大門

 

大門の前面には、通路の両側に巨人の石像が左右それぞれ54体ずつ、一列に並べられている。右側の巨人たちは、目が丸く、髪がちぢれ、恐ろしげな中にやや滑稽味をおびた顔をしているが、左側の巨人たちは、鼻すじが通り整った容貌をしている。前者はアスラ(阿修羅)で、 後者はデーヴァ(神々)である。アスラや神女は、綱引きをするようなかっこうで、大蛇ナーガを抱えているが、これはアンコール・ワットの第一回廊東面南側の壁面彫刻に描かれている乳海攪拌の図、にあるものとまったく同じモチーフである。

アスラの像

デーヴァ(神々)の像

 

アンコール・トムの城壁は堀によって囲まれ、蛇を抱える巨人の石像は堀を渡る石橋の欄干の役を果たしている。かって堀には水が満々とたたえられていたものであろうが、現在はほとんど涸れている。城門は、高さ20メートルに砂岩を積み上げて築かれている。 城門の上部の巨大な四面像は、ジャヤーヴァルマン7世の信仰した観世音菩薩である。顔の長さは約3メートルもある。城門は、大型バスが通り抜けられるが、往時は王や将軍が象に乗ってここを出入りしたのである。

 

城門の左右には、3つの頭をもつ象が彫刻されている。この象は鼻で蓮の花をつかんでおり、雷神インドラの乗用獣アイラーヴァタである。

 

[バイヨン]

 

大アンコールの中心寺院:

建築年代:12世紀末
建築者:ジャーヴァルマン7世
信仰:仏教
様式:バイヨン様式

バイヨン南面

 

バイヨンはアンコール・トムの中心、すなわち東西南北の各大門から1キロ半の所に位置し、岩石を山のように築きあげた壮大な寺院である。 この寺院は、仏教を信仰したジャヤーヴァルマン7世により、大アンコールの中心寺院として建立されたもので、王のもっとも崇拝した観世音菩薩の巨大な四面像が、そびえ立つ多数の塔に刻まれている。観世音菩薩の面は全部で196面ある。また中心塔の高さは、約45メートルに達する。

 

寺院は、東西南北のどちらからもはいることが出来るが、東側が正面である。東側正面には崩壊した砂岩が無数に並ぷ中、ナーガの手すりに 縁どりされたテラスが突き出ている。 このテラスは、幅が15メートル、長さが70メートルあり、テラスに上がるための階段は正面に1つ 左右(南北)に2つずつ、計5つとりつけられている。

 

第1回廊:

 第1回廊は東西160メートル、南北140メートルあり、東西南北の回廊各中央部に第2回廊に通ずる入ロが設けられている。回廊の上部天井はくずれているが、壁面は良く残され、いち面の彫刻で飾られている。

 

この回廊壁面の浮彫りには、当時の貴族や民衆の実生活とか、ジャヤーヴァルマン7世シャム軍を駆逐した戦争物語などが如実に描き出されている。 また回廊の石柱には、美しい姿態で舞う天女アプサラスの図が無数に刻み込まれている。

アプサラスのダンス

 

南面東側
この壁面には、当時の人々の日常生活、およびチャンバ
軍との戦いが描かれている。描写は細部まで念入りに描かれており、当時の生活状態を知る上からも貴重な資料である。

 

南中央口から右へ進むと、まず石工が岩石を加工している図。つづいて料理人が食事を作っ ている図。その上部には、王宮内で人々が料理を食べている図などがある。 その右側はカンボジア軍とチャンバ軍との戦いの模様を描いたもので、断髪にしているのがカンボジア軍である。

 

壁面は3段に分けられ、上部は森の中の象軍の戦い、中は森林中の白兵戦、下部は大湖での水上戦である。 壁面上部は破損が激しいが、下部の水上戦の図は非常によく残され、へさきに神鳥の装飾をほどこした軍船に乗って矛と盾をふりかざす兵士や漕手の勇ましい姿が、再現されている。 水中にはワニや大魚なども描かれている。 その右側は、王宮内で戦の前祝いをしている図である。

カンボジア軍とチャンバ軍との戦いのレリーフ

 

館の上部では王・女王・王子などが召使いや踊り子を側にはべらせ、館の中央部では将軍が部下に命令を与えている。 その横の部屋には、剣を持つ将官が待機し、 控えの間には、将棋を指している人の姿が見える。右側の部屋は調理場であろう。 大広間には兵士が居並び、幔幕をはりめぐらした庭では、士気を上げるため矛と盾を持った2組の兵士が試合をしている。 その右側では闘犬が行なわれ、左側には矛と盾を持って観戦する兵士たちの図が描かれている。

 

次は、平和な生活を送る一般庶民の生活を描いた図である。上部の投網を打って魚をとっているのは中国人漁師である。 下部には、市場の物売りと買い手の様子が描かれている。 有名な闘鶏のレリーフがあるのもこの場面である。

闘鶏のレリーフ

 

外部に通ずる小門を過ぎると、壁面上部には水上戦のもようが描かれ、下部には森林に住む動物たちと人々の様子が描かれている。 この壁面の最後、東端の部分には、軍隊の出陣を命ずる王の図が描かれている。王の前では士気を鼓舞する御前試合が行なわれ、その下では兵土が戦勝を祈る舞いをまっている。 軍船には、すでに10数名の兵士が乗りこみ、矛をふりかざしてまさに出撃しようとしており、壁面最下部には、糧食を作る兵士の家族の図が描かれている。

 

東面南側第1回廊の東南端には、3基の塔をもつ寺院の図が描かれている。塔の頂には三叉がついており、中央にはリンガを形どった宝物が置かれている。 寺院の前では、束髪にした人々が手をあわせて祈りを捧げている。この図は、ジャヤーヴァルマン7世が建立した数多くの寺院の中の1模型図であろう。

 

この回廊の壁面最初の部分には、召使いたちの奉仕する王宮内部の様子が描かれている。屋根にとまった鶏の図が印象的である。 つづいて壁面いっぱいに、象に乗って森の中を進むカンポジア軍が描かれている。象軍のあとからは、長いのぼりを立て矛や盾を持った兵士がつづいている。 兵士たちははだしで、胸の中央であわせる裾の短い着物を着ている。壁面の中央部から北側は、糧食補給の図が描かれている。 象の背や2頭立ての牛車に糧食を積み、戦陣へ向かう行列が続いているが、その中には、子供を肩車にして車を押していく人や、頭の上に荷物を乗せた女や、天秤棒で大きな箱をかついで行く人など、当時の荷物運搬の様子が描かれている。

 

東面北側
この壁面には、カンボジア軍とチャンバ軍の合戦殺戮の図が描かれている。チャンパ軍は壁面右方から、カンポジア軍は左方から激しい攻防戦を展開している。 チャンパ軍は頭にかぶとをかぶっている。象使いのあやつる象に乗って矢を射る武将、丸型の盾をかざしながら敵兵に矛を突き出す兵士、打ち倒された死骸など、この壁面の彫刻は戦いの様子をリアルに描き出している。描写は写実的であるが、技法としては巧みな様式化が行なわれている。

カンボジア軍の行進

 

北面東側
この部分は、かなり破損がひどい。壁面中央部はまったく崩れさり、ここから第2回廊ごしに中央塔が望める。 この壁面東端には、激しい戦争のもようがダイナミックに描かれている。ある兵士は敵に攻めたてられ、山上に敗走している。 破損した壁面部分も、おそらく同様の戦いの図が描かれていたものであろう。

 

北面西側
最初の場面は戦争の図である。つづいて森の中のシヴァ
信者の図、その次には珍しい曲芸師の図が描かれている。広げた両手と頭の上にそれぞれ子供を乗せたり、寝ころんで両足をあげ車回しをする曲芸師の周囲には、おおぜいの見物人が集まっている。 脇で奏でられている伴奏楽器が興味をひく。 この壁面の最後に近い部分は、荒削りのままだが、宮殿で王が召使いに何か指示を与えている図が描かれ、宮殿の庭には鳥・牛・鹿・猿・兎などの動物の姿が見られる。

 

西面北側
軍団の行進している図。壁面上部には、弓矢をたずさえて象に乗った王の姿が描かれている。残された碑銘の記述によれば、この行進は戦争に敗れた軍団が、 森の中へ退却して行くところだと言われる。この退却の図につづいて、戦争の場面を描いた図があるが、この部分は彫刻が未完成で、人物など輪郭を刻んだだけであり、 あたかも線画を見る感じである。壁面上部は、まったく彫刻がほ どこされず放置されている。

 

西面南側
この壁面には、象軍の戦いの図、 寺院の建立者ジャヤーヴァルマン7世
の図、寺院建設の図などがある。 象軍の戦いの図中に描かれた兵士たちは、ふんどし一つの姿である。 この図に続いて、回廊途中の小門に達する手前に、王宮内部の図がある。思慮深い姿で召使いたちにかしずかれているのが、ジャヤーヴァルマン7世だとされている。 つづいて軍団の行進が描かれているが、左下部には、1匹の虎に追われた苦行者が樹上に逃げる滑稽なようすが描かれている。

 

次に、アンコール研究者にとっては見落とすことのできない建築工事の現場を描いた貴重な図がある。腹のつき出た棟梁の指図で、大勢の石工たちが仕事にはげんでいる。 削られた石は綱で引かれ、やぐらにつるして積み上げられている。壁面左上部を見ると、ピラミッド型に積み上げられた石に彫刻している職人の図がある。 仕事をなまける石工は、棟梁に腕をとられ罰を受けている。巨大なアンコール遺跡の建築過程を示す貴重な浮彫りである。

 

南面西側
この壁面には、象軍団の行進と戦争の図が描かれている。

 

第2回廊:

第2回廊の長さは、南北70メートル、東西80メートルである。回廊の彫刻は、第1回廊の浮彫りとは主題が異なり、ほとんどがヒンドウ神話や伝説などを描いたものである。

 

南面東側
▶南中央階段と東階段との間の小都屋
この部分は、浸蝕のためやや不明瞭ではあるが、クリシュナ
神の逸話に取材した興味ある図が描かれている。

 

左 側   :宮殿の図。

               中央玉座にはだれもいない。王は剣をもち、象に乗って出発するところである。

               宮殿内には、王妃・召使いたちが残されている。

               下部には戦争の場面がわずかに認められる。

正面左側:池の端で火をたく2人の人物の図。

正面右側:海中に投げこまれたクリシュナ神の子供時代の逸話が描かれている。残念ながらやや不鮮明で

               ある。    

中 央 部 :人のいない宮殿の図。

     宮殿に寝ていた子供は、悪い侍女と召使いに抱かれ、宮殿から連れ去られる。 侍女と召使い

     は、その子供を箱に閉じ込め、これを舟に乗せて海に漕ぎ出し、海中に投げ込んでしまう。

     空には天女アプサラスが舞っている。 子供は魚に呑み込まれてしまうが、小舟に乗った漁師

     の投げる網にかかり、その魚は漁師にとられる。

右   側   :漁師は、珍しい魚なので、それをシャムラ王の宮殿に持参して王に捧げる。 王は剣を取り上

     げ、その魚の腹を切り開く。中からクリシュナ神が現われる。

 

▶南中央門東階段隅
左 側   :大力無双のクリシュナ
神が象と格闘し、これを倒した図。下方には、花の形に髪を結い上げ

               た兵士の行進する図が描かれている。

正   面   :クリシュナ神が獅子と格闘している図。

 

▶回廊壁面基本部
剣を持ち象に乗って宮殿を出発した王の図。

宮殿内には美しい2人の王妃が残されている。 1人は鏡に向かい、足を組んで髪を結っており、もう1人は、手に持った花の香りをかいでい る。2人の王妃とも美しいボーズで描かれている。 壁面中央部に進むと、神鳥ガルダの姿が、その先には、軍団行進の図が描かれている。

 

東面南側
▶回廊壁面基本部
軍団行進の図が描かれている。軍団は象に乗った将軍に率いられ北より南へ向かっている。 軍団の中央部には、椎をかつぐ男、笛を吹きドラを打ち鳴らす音楽隊、 音楽に合わせて踊る男、宝物と聖なる弓を乗せた2頭立ての馬車など興味ある図が多い。

 

▶東中央門南階段隅
片ひざを立てて座す王女と召使いの図。宮殿内のヒンドゥ
僧と天に舞うアプサラスの図。屋根に鳥のとまっている宮殿の中でバラモン僧に指示を与えている王の図。

 

▶東中央階段と南階段との間の小部屋
左 側   :浸蝕のため不明瞭であるが、シュロ
の繁る宮殿内にヒンドウ僧の図が認められる。

正   面   :宮殿の中の王と召使い、舞姫、竪琴を弾く女、天に舞うアプサラスの図。
右   側   :森の中の動物、母牛の乳を飲む仔牛、坂を上がる猪、蛇をつかむ苦行僧の図。

 

東面北側
▶東中央階段と北階段との間の小部屋
この壁面には、癩王物語(癩王のテラス
を参照)を描いた図が彫刻されている。
左 側   :宮殿内で歓楽にふける王の図。

               ナーガ
の欄干のついた宮殿内に座す王は、王妃・召使い・舞姫・竪琴を弾く女・胡弓を弾く

               女などに取り巻かれている。 彫刻は非常によく残されている。

正   面   :毒蛇と格闘している王の図。

         毒蛇の血で身体を汚し、癩病に感染したといわれる。  宮殿内にもどった王は、召使いになに

               か訓令を与えている。
右   側   :癩病の第1次徴候を知った王が、召使いに手足をもませている図。

         これは、現在もカンボジアに伝わる油を塗って身体を強く摩擦する民間療法の1種といわれて

               いる。 その右側には、病の重くなった王が女のひざに足を乗せ、寝  台に伏している図が描

               かれている。その脇でヒンドゥ僧が治療 についての指示を与えている。
               アンコール
滅亡の内的要因の1つに癩病の蔓延をあげている学者もあるほどで、癩病につい

               ての畏怖と絶望感が、この壁面彫刻からもうかがえる。

 

▶東央門北階段隅
この部分についでの解釈は一定せず、人により種々の推定が行なわれている。

左 側   :平然と立つ女の左右から、梶棒で打ちかかる男の蛮行を描いた図。象に綱をつけて引き回す

               象使いの図。
正   面   :河に2隻のジャンク
を浮かべて、潜水夫を水にもぐらせている図。水中では、ワニが魚を食べ

              ている。その右下には、宮殿内の シヴァ神と、伏し拝むヒンドゥ教シヴァ神崇拝信者の図が

              描かれている。

 

▶回廊壁面基本部
南から北へ向かって行進する王の行列の図。先頭から音楽隊、供物の動物を棒につるしてかつぐ男、ドラを打つ男、3つの車輪のついた館の形をした輿に乗る王と王妃が進んでいる。
輿はおおぜいの召使いにかつがれ、そのあとには、天蓋のついたハンモック
に揺られていく3人の王女、象に乗った将軍と、長い兵士の行列が続く。

 

北面東側
▶回廊壁面基本部
東側より見ていくと、まず、宮殿内の剣を持つ王に供物を捧げ、胸に手をあてて忠誠を誓人々、その後方には宮廷の舞姫、竪琴を弾く官女たちが描かれている。
次に、ひげをはやした王が、大きな車輪のある輿に乗ろうとしている図がある。この乗物は 輿というより、館に車をつけたといった感じのもので、館の屋根には怪物カーラ(死の神)の顔が刻まれている。

王の後方から召使いたちが天蓋をさしかけている。 その前方には、長い軍団の行進するようすが描かれているが、 行列の中にはシヴァ神の象徴であるリンガを様式化した宝物を乗せた象の姿も見られる。
行列の先頭には、旗さし物を持つ男、長い棒の上によじ登った見張りの男などがいる。
北中央門近くの壁面には、ひげを長くのばした苦行僧たちの図が描かれている。この部分は、素材として用いられた砂岩の材質が不ぞろいである。おそらく素材の選択をよく行なわず、急いで積み上げたものであろう。

 

▶北中央門東階段隅
森の中のヒンドゥ
信者の行列が描かれているが、この部分の浮彫りは鮮明でない。

 

▶北中央階段と東階段との間の小部屋
この部分の浮彫りも浸蝕のためあまりはっきりしない。 左側:宮殿の中に座す王の図。
正面左側:シヴァ
神の座す山を揺り動かそうとする悪魔の王ラーヴァナの図。
正面右側:マハーバーラタ
物語中の1場面を描いた図。
               弓矢を射合う2人の人物は、シヴァ神と、森の中で方術を会得したクリシュナ
王子の親友アル

               ジュナである。
               1匹の猪を互いに 射止めようとすることから決闘となり、ついにアルジュナはシヴァ神の前

               にかぶとを脱いだと伝えられる。
               この話は、インドネシア
にも普及しており、バリ島の踊りの中にも見られる。
右   側   :聖牛ナンディン
に乗ったシヴァ神の図。

               シヴァは、右手には三叉の矛を、左手には妻パールヴァティーを抱いている。

 

北面西側
▶北中央階段と西階段との間の小部屋
左 側   :聖牛ナンディンに乗ったシヴァ神の図。
正   面   :カーマ
の伝説より取材した図。

     山上に座すシヴァ神を、山の麓から片ひざをつき弓でねらうのが恋の神カーマで、右側の髪を

     長く編んだ女は、女神ガンガーである。 右側:宮殿の中のシヴァ神の図。

 

▶北中央門西階段隅
左 側   :ヒンドゥ教
の3主神を描いた図。

     中央山上の神がシヴァ神、左右はヴィシュヌ神と四面の顔を持つプラフマー神である。天空に

     は2人の天女アプサラスが舞っている。

 

▶回廊壁面基本部
3隻の屋形舟に分乗し水遊びをする王女たちの図。

舞姫や料理人たちも舟に乗り込んでいる。壁面中央部には5つの頭を持つ竜神の住む宮殿が描かれている。 その先は捧げ物を頭に乗せて森の中を行列するヒンドゥ教の信者たちの図である。

 

西面北側
▶回廊壁面基本部
北隅から中央部分までは壁面が破損している。怪獣の引く車に乗り槍を投げようとする悪鬼アスラ
と魔神たちの図が描かれている。怪獣は頭部が獅子で身体は馬の形をしている。 魔神たちは花形に髪を結い上げている。それにつづいてヒンドゥ教の天地創造に関する伝説“乳海攪拌”の図が描かれている。 中央の軸に足を巻きつけて攪拌を司っているのがヴィシュヌ神である。天にはアプサラスが舞っている。

 

▶西中央門北階段隅
この部分の壁面浮彫りも破損がひどく不明瞭である。弓を引く男の図。下部にはヒンドゥ僧たちの姿が判別できる。

 

▶西中央階段と北階段との間の小部屋
左 側   :森の中を行進する軍団の図。
正   面   :馬の引く車に座した王と騎馬兵の図。
右   側   :破損が激しく不明瞭。宮殿の図。

 

西面南側
▶西中央階段と南階段との間の小部屋
左 側   :宮殿の中の神の図。
正面左側:破損がひどい。下部に3隻の舟が認められる。
正面右側:四本の腕を持つヴィシュヌ
神の図。
右   側   :寺院建築のようすを描いた図。アンコール
の巨大な遺跡群の建設過程を知る上で非常に貴重

     な図である。寺院建築のエ事現場と、その過程を描いた浮彫りは、この壁面と第1回廊西面南

     側の2カ所にしかない。

 

▶西中央門南階段隅
左 側   :格闘する2人の男の図。天女アプサラス
の図。

下部右側:髪を長く編んだ女神、左側は2人の美しい舞姫の舞う図。

正   面   :宮殿の中の舞姫の図。竪琴をひく官女の図。

 

▶回廊壁面基本部
象に乗った将軍と兵士たちの行進する図。

中央部はガルダに乗ったヴィシュヌ神、そのにはヴィシュヌ神を拝む人そして壁面下部には剣をふりかざして進む軍団の図が描かれている。
南側隅には宮殿内の3人の王妃と庭に立つ王の姿が見られる。

 

南面西側
この壁面には非常に美しい図が多数描かれている。

▶回廊壁面基本部
西側隅には肩を組んで立つ美しい女子立像が刻まれ、その下部には従者を連れて舟に乗った王女が描かれている。王女は両手に蓮の花を持っている。 宮殿の広間では、王が訪問者の謁見に応じている。

宮殿入ロには獅子の像が置かれ、訪間者は宮殿の階段にさしかかったところ。 下部の浮彫りは、病んで伏している女と看護をしている人の図である。

その先には、4本の腕に法輪・ほら貝・蓮の花・剣を持ち館の中に立っているヴィシュヌ神が描かれている。 空に舞う天女アプサラスの美しい姿。

その先、壁面中央部にひげをはやして立つのはシヴァ神である。

左側には虎に追われて逃げまどうバラモン僧のこっけいな図がある。

シヴァ神の両脇には胸に手を合わせて拝む人、下部にはヒンドゥの苦行僧が描かれている。

南中央門近くの壁面。ナーガの欄干で縁どりされた宮殿内には再びシヴァ神が描かれている。宮殿の前では、3人の天女アプサラスが舞っており、両脇の池では王女が舟遊びをしている。

 

▶南中央門西階段隅
山の麓に建てられたバンティヤイ・スレイ
様式の宮殿の図。

損傷が激しい。

 

▶南中央階段と西階段との間の小部屋
左 側   :三叉を持って宮殿中に立つシヴァ
神の図。
     ひざまずいて拝む信者・舞姫・竪琴を弾く官女などが描かれている。
正   面   :シヴァ神立像と、それを拝む信者の図。信者の礼拝の仕方に3種類あることがこの壁面浮彫り

     でわかる。

     ・第1は片ひざを立て、片手を胸にあてて祈る形。

     ・第2は胸の前に両手を合わせて祈る形。

     ・第3は立てひざで胸の前に両手をひろげ、捧げ物を差し出すかっこうで祈る形である。

右   側   :宮殿の中の図。

     損傷のため不明瞭。

 

聖水の湧く井戸 アンドン・プレン:

第2回廊を東側から入って北側の門へ通じる暗い通路を行くと、通路の南側の窪んだ個所に1メートル60センチ四方の井戸がある。 この井戸に達するには、曲りくねった暗い通路を行かねぱならないので懐中電灯などが必要である。井戸の深さは約10メートル、壁のくぽみには、セメントの柵が設けられている。

 

この井戸にまつわる言伝えはいろいろあるが、もっとも興味をひくのは、このバイヨン寺院の建立者ジャヤーヴァルマン7世の姿を模したブッダラージャと呼ばれる仏像が、この井戸から発見されたという話である。 この仏像が現在どこにあるか不明であるが、プノンぺンの国立博物館にあるジャヤーヴァルマン7世の彫像は冥想にふけっており、あたかも仏像を想わせるものがある。

 

この井戸は地下から湧いてくる水と、積み上げた岩石の間を通ってくる雨水を集めるようになっているという。 井戸の排水口は第1回廊北面中央階段東寄りの腰石に設けられている。カンポジア人は、この井戸をアンドン・ブレン(油の井戸)と呼んでおり、昔は石油を採取したのだなどという者もいるが、ブレンは文語で昔という意味で"昔の井戸"が正しく、現代のカンポジア人はこれをあやまって通称し理解しているものと思われる。

 

ともあれ、数多くのアンコール遺跡群の中で建造物内部に井戸があるのはここだけであり、非常にめずらしい存在である。 今でも祭日などには、この井戸からくみ上げた水で身体を清める善男善女の姿を見ることができる。

 

上部テラスと観世音菩薩の四面像: 

上部テラスへ行くには、非常に急な石段を上がらねばならないが、南側または北側の階段を利用すると比較的上がりやすい。 神蛇ナーガの欄干によって縁どりされた上部テラスに上がると、第2回廊の屋根がすぐ目前に見える。数多くの塔に刻み込まれた観世音菩薩の四面像は、手にとるように真近かにせまり、“クメールの微笑“と言われるとおり、荘厳さの中にやさしいほほえみを浮かべている。

バイヨン様式の四面像

 

観世音菩薩は、全部で196面あるといわれ、顔の長さは1メートル75センチから2メー トル40センチに達する。頭部は蓮の花形をしており、バイヨン様式と呼ばれる独特の塔を形造っている。 中心塔の高さは約45メートルで、塔の基部はクメール遺跡群の中でも他に類例を見ない円形をしている。円形の中心塔の周囲には12の小礼拝所が設けられ、 それぞれ内部には聖像が安置されている。外部の壁面はあますところなく女神像、あるいは天女アプサラスの優美な舞姿の浮彫りで飾られている。

 

このバイヨン寺院は、チャンパ軍に占領されていた祖国を回復したジャヤーヴァルマン7世が戦勝を記念し、第3アンコールの中心寺院として、永遠の平和をねがう意味から建立したと伝えられている。

 

「静寂の中にそびえるこの寺院には、“死者の門”を通る勇者の菩提をとむらい、菩薩の慈悲によりおのが罪を永劫のかなたに滅却しようとする王の悲願がこめられている」という。

女神テヴォタ

 

 

[バプーオン]

 

隠し子の寺院:

建築年代:11世紀中頃
建築者:ウダヤーディチャヴァルマン2世
信仰:ヒンドゥ教
様式:バプーオン様式

バプーオン

 

バイヨンの北側を巡回道路にそって北へ約200メートル進むと、芝生の王宮前広場に出る。左側には"象のテラス"が長く続いているが、 その手前、南端のテラスは独立している。ここがバプーオン寺院の入ロである。つまり、この寺院はパイヨンの北西、王宮の南側に位置している。

 

バプーオンとは“隠し子”という意味であるが、この名称の由来については次のような伝説がある。 「昔、シャム王とカンボジア王とは兄弟であり、それぞれ国造りにいそしんでいた。 ある日シャムの王は、自分の子供をカンボジア王のもとに預け養育をまかせた。カンボジア王は喜んでその申し出を受け、王子を自分の手もとに引きとって育てることにした。 ところが、カンボジアの廷臣たちは、これはシャム王の謀略で、その王子によって王位が纂奪されるにちがいないと反対し、送られてきた王子を王に殺させてしまった。 これを知ったシャム王は激怒し、大軍をカンボジアにさし向けた。カンボジアの王妃は戦争が始まると、今度は自分の子供がシャム軍に殺されるのではないかと恐れ、王子をこの寺院に隠した。」それで、この寺院を“隠し子“すなわちバプーオンと呼ぶようになったという。

 

参道: 

本殿に達するには、王宮前広場の巡回路から西へ約250メートル、入ロのテラスから美しい円柱で支えられた参道を進む。 円柱の高さは 約1メートル、参道は入ロのテラスと本殿とを結ぶ見事な掛け橋になっている。 この様式は、アンコール・ワットの第2回廊と本殿を結ぷものと同じで、その規模をずっと大きくしたものである。

参道

 

第1階層:

第1階層は、高さ4メートル、東西120メートル、南北100メートルに台石を組み上げて造られている。かっては、この第1階層にもりっばな回廊が4周に設けられていたのだが、 後に仏教徒によって破壊しつくされ、西側に石門および回廊の基石が、東側正面には修復された石門が残っているだけである。 仏教徒によって破壊された第1回廊の石材は、第2回廊西面、すなわち寺院裏側に運び上げられ、巨大な寝仏の像(頭部だけでも10メートル以上ある)を彫刻するための壁面として使用された。

 

第2階層: 

第2階層は東西70メートル、南北65メートル、第1階層からの高さは4メートル30センチある。第1階層から東西南北に設けられた急な階段をのぼると、石門に達する。 第2階層の東西南北の石門は砂岩で築かれた回廊によって結ばれている。各石門の壁面には、ヒンドゥの伝説や逸話を描いた美しい浮彫りがほどこされている。

 

南門の彫刻 

▶南面西
ヴィシュヌ
神の化身であるクリシュナの誕生および幼少時代を描いた図。左側最下部には王の命により嬰児殺しを行なっているところが描かれている。

嬰児殺しの図

 

「姪の腹にできた子によって命を奪われると占者から聞いた王は、猪疑心のあまり姪の生むすべての嬰児を殺すことを命じたのである。これを知ったヴィシュヌ神は、化身して王の姪の腹に宿りこみ、クリシュナとなって誕生した。嬰児殺しを命じた王は、後に成長したクリシュナによって、占者の予言どおりに命を奪われた」という。

 

嬰児殺しの図の上は、クリシュナ誕生の図がある。

クリシュナ誕生の図

 

その上部は、大力無双の腕白なクリシュナが大蛇を引き裂いている図。さらにその上部には牡牛をねじ伏せているクリシュナ、右側には虎に追われて樹上に逃げのびた猟師、樹上の鳥を吹矢で射ようとしている男などの図が描かれている。

クリシュナが大蛇を引き裂いている図

 

虎に追われて樹上に逃げた猟師については、次のようなヒンドゥの教訓がある。 「昔、ある猟師が鳥をとろうとしていたところ、虎に追われ樹にのぼった。ところがそこには熊がいた。 虎は熊に向かって、猟師はわれわれの敵だから木からたたき落とせといった。 “前門の狼、後門の虎”ならぬ“樹上の熊、樹下の虎”という窮地に追いつめられた猟師は、熊に助けを求めた。熊は保護を求める者を殺すことはできぬと、虎の申し出を拒否した。 そこで虎は猟師をそそのかし、熊のすきをみて熊を樹からたたき落とせといった。猟師は身の安全をはかるため、熊を打ち落とそうとしたが失敗した。 虎は熊に向かって裏切り者の猟師を落とせとさらにすすめたが、それでも熊は《智恵あるものは、他人にそそのかされて悪事をするものは罰しない》と答えて、 猟師を樹から落とそうとはしなかった。」

 

▶南面東側
猪と争うヒンドゥ
苦行僧の図。怪獣と兵士の闘う図などが描かれている。右側は牛車に乗るバラモン僧の図である。

 

▶北面東側
ラーマーヤナ
物語に取材した図。ラーマ王子と同盟を結んだ猿軍が敵の怪物と戦う図。怪物は髪がちぢれ、どんぐり眼をしている。 上部には悪魔ラーヴァナに捕われたラーマの妻シーターの姿が描かれている。 彼女が2匹の女ラークシャシーに監視され悲嘆にくれているところへ、ラーマからつかわされた忠義な猿の将ハヌマンが現われ、間もなく救援軍が到達するであろうと慰めている。

 

その下部にはヒンドゥ僧が傍に伏している病人のため、壷の中の薬をかき混ぜている図がある。中央階段近くの浮彫りは、ヴィシュヌ神崇拝信者の図である。

 

▶北面西側
森の中で人と動物の闘っている図。ラーマーヤナ物語から取材したものと思われる。

 

東門の彫刻 

▶東面南側
ラーマーヤナ
物語およびマハーバーラタ物語に取材した図が描かれている。樹陰に座ラー マと妻シーターの図。シーターが自分の純潔を証するため、燃える薪木に身を投じ神の審判を受ける図。髪を結っている女と按摩をしている女の図。シヴァ神とアルジュナが森の中で1匹の猪を射合い、シヴァ神が勝利をおさめた図などである。

 

▶東面北側
マハーバーラタ物語に取材した戦争の図が描かれている。カウラーヴァ
軍の指揮官ビーシュマの図。兵士が楽器を鳴らしている図。男が女の着物を脱がせている図などである。

 

▶西面北側
野生の象の足を綱でしばり飼い馴らそうとしている図。樹下に集まった苦行僧の図などが描 かれている。

 

▶西面南側
動物を調教している図、苦行憎の図などが描かれている。

 

北門の彫刻 

▶北面東側
ラーマーヤナ
物語に取材した図。悪魔王ラーヴァナラーマの戦いの模様が描かれている。ラーヴァナの乗る軍車を引く怪獣の首をねじ伏せているのは、猿の将ハヌマンである。 右側の浮彫りは、猿軍とラークシャサの戦いを、下部の浮彫りは、南門北面東側の図と同様ラーヴァナのとりことなったシーターのもとを訪れた猿軍の将ハヌマンを描いたものである。

 

▶北面西側
上部は、象使いにあやつられる二匹の象、下部は壷をかき混ぜ薬を作っている。バラモン僧の図である。脇から女が茶をささげている。壷をかき混ぜる方法が興味深く、 天井からつるした棒に紐を巻きつけ、紐の先端を交互に引くと、壷にさし込んだ棒が回転する。”乳海撹拝の図“で描かれた方法とまったく同じ原理であり、 当時から攪拌や穴あけのやり方として、この方法が一般に用いられていたものと思われる。

 

その下部には、ラーマが弟ラクシュマナを従え、猿王ヴァーリンと争う一方の猿王スグリーヴァを助けに来たところが描かれている。 左側の入ロに近い壁面には、興味深いラーマーヤナ物語中の逸話が描かれている。 悪魔の王ラーヴァナの息子は非常に魔術にたけ、ラーマ王子とその弟ラクシュマナに矢を射かけると、矢は魔法によって蛇の姿に変わり、兄弟の身体をぐるぐる巻きにしばりあげてしまう。身の自由を失って地上に倒された二人の王子は、しめつける蛇の力に息も絶え絶えとなり、あわや絶命かと思われる。これを見て驚き恐れた猿たちは、王子をよみがえらせる薬草を探しに行くが、ちょうどその時、天に神鳥ガルダが現われる。

 

アンコールの遺跡群には、蛇ナーガの頭に爪をたてて乗るガルダの彫刻をよく見かけるが、ナーガにとってガルダはもっとも恐るべき天敵である。 悪魔の放った蛇は、神鳥ガルダの出現に恐れをなして逃げ去ってしまい、2人の王子は救われる。 壁面上部の6羽の鳥によって支えられた館はプシュパカという乗物で、 勝利を得たラーマ王子が、これに乗ってアョ-ディヤの都へ凱旋する図である。館を運ぶ鳥は聖なる白鳥ハンサである。

 

▶南面西側
矛と盾を持って争う二人の男の図。馬と闘う人、牛と闘う人などの図。とらわれの身となったなげきのシーター
を慰める猿の将ハヌマンの図などが描かれている。

 

▶南面東側
ラーマーヤナ
物語に取材した図。ラーマ王子兄弟が猿王スグリーヴァを助けに来たところ。 右側には、森の中で相争う二匹の馬が写実的に描かれている。その足もとでは、驚いてとび出した大きな兎が逃げ回っている。

 

西門の彫刻

▶西面北側
猿や兵士たちが戦っている図。

 

▶西面南側
下部から、首につるした太鼓を打つ楽隊の図。2頭立ての馬車にとび乗って敵の首をはねようとする兵士の図など。 その上部は一風変わった図で、台の上に手を上方に上げ片足で立とうとしている苦行僧が描かれているが、ヨーガ
の修練をしているのであろうか。 上部は、宮殿の前に立ちはだかる髪のちぢれた怪物に対し矢を射かけている人の図である。

 

▶東面南側
動物の争う図。猿と兵士の戦う図など、細部がよく描かれている。

 

▶東面北側
猪の争う図。

 

第3階層および頂上:

第3階層は東西50メートル、南北45メートル、高さ4メートル80センチの台石からなっている。第二階層の東西南北いずれの石門あらも上れるが、階段は非常に急である。 第3階層には正面東側に小さな今にも崩壊しそうな石門を残すだけで何もない。かっては、中央に高くそびえ立つ雄大な塔が築かれいたが、完全に破壊して砂まじりの岩石の山を残すだけとなっている。

 

13世紀にこの地をおとずれた中国人周達観は、「真蝋風土記」の中でこの寺院の塔を銅の塔と呼び、バイヨン寺院よりも高かったと述べている。 崩壊した岩石の山の頂上の高さは地上24メートルある。ここから四方を眺めると、まったく対称的な形につくられたこの寺院構造の全貌が手にとるようにわかる。 東には正面参道が緑の樹々を分けて帯のように続き、北には王宮内部にあるビミヤナカスの宮殿が高くそびえている。はるか南方の緑の樹海の上に首を出 しているのは、プノン・バケン山上の遺跡である。 バプーオンは、9世紀の第1アンコールの中心プノン・バケンと12世紀の第3アンコールの中心バイヨンのちょうど中間期、第2アンコール王朝の菩提寺として建立されたと言われている。

 

[王宮]

 

天上の宮殿や男女の池など:

王宮は東西600メートル、南北300メートル、高さ5メートルの2重の城壁に囲まれている。ここには、 有名な象のテラスをはじめ5つの城門と城壁・ピミヤナカス宮殿・男池、女池・ 王のテラスなどが残されている。

 

象のテラス:

建築年代:12世紀末
建築者:ジャヤーヴァルマン7世
信仰:仏教
様式:バイヨン様式

象のテラス

 

王宮前広場に面したこのテラスは、長さ350メートル、高さは中央部と両端が4メートル、中間部が3メー トル50センチで、テラスの壁には一面に象の彫刻がほどこされている。 象のテラスと名付けられたゆえんである。 テラスの北端は壁が2重になっていて、内壁には馬に乗って戦う兵士、5つの頭を持つ神馬、象の鼻と遊ぶ可愛い子供、剣を持つ兵士、 ポリネシア系人種の容貌をした男など興味深い彫刻がある。テラス中央部には3つの階段がとりつけられ、ここにはヴィシュヌ神の乗るガルダの像が多数刻まれている。 テラスの欄干には7頭の蛇ナーガが用いられている。 中央階段を上ってまっすぐ進むと、内壁中央に設けられた正面大門に通じる。

 

王宮城壁と5つの城門:

建築年代・・・11世紀初頭
建築者・・・スーリヤヴァルマン1世
信仰・・・仏教
様式・・クリヤン様式

 

王宮を囲む2重の城壁はラテライトで築かれているが、外壁はあちらこちら崩壊している。城壁の高さは1メートル余りの台座を含めて約6メートルに達し、外壁と内壁の間はラテライトを階段状に敷き並べた幅25メートルの堀になっているが、現在は水もまったく涸れて、その形跡をとどめているにすぎない。

 

王宮の出入ロとして城壁の南側、北側に各2つ、 東正面に1つ計5つの城門が設けられている。それぞれに美しい装飾のきざまれたこの5つの 門は、堂々と落ちついた感じを与えている。 正面大門の各横窓上部には、6つの碑銘が刻み残されている。この記述は1011年に記されたもので、スーリャヴァルマン1世に捧げられた忠誠を誓うことばである。

 

「われわれは聖なる王権を掌握されたスーリヤヴァルマン王に命をささげて忠誠を誓うものであり、他の王を敬わず、我国に敵対せず、敵対するものに加担せず、 我国の害になるいっさいのことを行なわず、ひとたび戦いの起った場合には、王のために死を賭して戦場におもむき云々」とある。 王国の中心を第1アンコールのプノン・バケン山から第2アンコールへ移したと言われる王位纂奪者スーリヤヴァルマン1世にとって、部下の絶対的服従は、国家形成のために不可決の絶対的条件であったのだ。

 

ピミヤナカス宮殿:

建築年代・・・10世紀末―11世紀初頭
建築者・・・ラージェンドラヴァルマン2世
信仰・・・ヒンドゥ教(シバ派)・仏教
様式・・・クリヤン様式

ピミヤナカス

 

王宮のほぼ中心に位置する通常ピミヤナカスとよばれる神殿は、正しくはヴィミヤン・アーカスすなわち天上の宮殿、空中楼閣の意味で、ラテライトを3層に積み上げて築かれている。

 

第1階層は東西35メートル、南北28メートル、最上層で東西30メートル、南北23メートル、階層の高さは下から4メートル60センチ、4メートル、3メートル42センチ、計約12メートルあり、その上に中心塔が置かれている。形は小さいながらも何代もの王にわたって念入りに作られたこの聖殿は、非常に重要な意味を持っている。

 

フランス人学者グレーズの研究によれば、西の戸ロに残されている910年の記述から考えて、聖殿はすでにヤショーヴァルマン1世の時代に存在したと言われる。 また側柱の記述で、“この場所に用いた石材は、プノン・バケンの山上寺院の石材を移転し再使用した”とあることが、明らかにされている。

 

グレーズは、4方形に高く石を築いて作った様式や塔の形などから、この聖殿が須弥山の観念と一致するものであることを指摘し、 9世紀の末に須弥山としてヤショーダラプラの中心に築かれ国家支配の中心観念とされていたプノン・バケンに、このピミヤナカスがとってかわったものであろうと述べている。

 

いずれにせよ、この時期に国家支配の形態が強化されたと考えられる。 宇宙支配神の座すと信じられる須弥山を王の住居の中に持ちこんだことは、国家を支配する者、すなわち王は神であり、神の座所須弥山は王の住居であるということで、ここに神王思想を強く形の上からも国家支配に利用したと見ることができる。 また一方、王は神聖にしておかすべからずという観念を具体的な形で示さざるを得なかった社会的な要因も考えられる。

 

事実、ビミヤナカスを完成したスーリヤヴァルマン1世以後、同王自身をも含め3名の王位纂奪者が出ていることによっても、王位をめぐる争いがはげしくなりヒンドゥ教仏教の混交、葛藤の中で、王自身がいかに地位保全の努力をはかったかが知られよう。

 

王のテラス:

ピミヤナカスから王宮の南門へ向かい南東にのびる林の中の小道をたどると、朽ちはてた木の葉にうずもれ、訪れる人も少ない小さな露台がある。高さ2メートル20センチ、東西約20メートル、南北約32メートルの十字形に砂岩を積んで作られたこのテラスは、周囲も美し い円柱の支えで飾られている。人民が王に謁見する場合に使用されたといわれる。

 

テラスの前の小道をさらに進むと、正面大門から左手に望まれるラテライト造りの四つの建物に達する。崩壊が激しいが、これらの建物は倉庫として使用されたものであろうといわれ、また城壁近くの砂岩で築か た白い建物は礼拝所であったといわれる。

 

男池・女池:

ピミヤナカスの北約50メートル、北壁から約10メートルの位置に、東西125メートル、南北45メートル、深さ5メートルの大きな池がある。腰石は砂岩を階段状に積んであり、観覧席に用いたものと思われる。腰をおろすのに具合の良いように窪みがつけてある。ふちの砂岩には動物・魚・蛇・ガルダなどいろいろの彫刻がなされている。 この大池の東には、東西40メートル、南北20メートル、深さ約4メートル半の小池が並んで設けれらている。 大池では男が、小池では女が水浴したといわれ、それぞれ男池、女池と俗称されている。

 

王宮内部の区分と変遷:

フランス人学者アンリ・マルシャルは、王宮内部をその用途から次の五つのブロックに分けている。
①入口広場:正面から約70メートルまでの部分、正面大門、南北第一門に通ずる。
②王の座所:その先約280メートルまでの部分、ピミヤナカスを含み、南北第二門に通ずる。
③後宮 : その先約150メートルの部分、南の下屋、侍女たちの住居に通ずる。
④下屋 :後宮の南側の部分、おそらく侍女たちの住居があったものと思われる。
⑤用途不明 :完全に閉ざされ、外部に通じない。
現在見ることのできるのは②の部分までで、③から先はやぶに閉ざされて入るのは困難である。王宮は長い年代の間に建設、破壊が何度か繰り返された。

 

最初の王宮はジャヤーヴァルマン5世によって970年から980年ごろ建てられ、後スーリャヴァルマン1世によって城門、城壁、ピミヤナカスなどが完成されたが、 1177年のチャンパ軍の侵入によって、石造建築物以外はほとんどすべて破壊された。ジャヤーヴァルマン7世は、チャンバ軍の侵攻を撃退し、破壊された建物を再建し、 すばらしい王宮を造営した。正面外壁を象のテラスで飾ったのもこの時代である。 十三世紀の末、同王の子ジャヤーヴァルマン8世の時、災害により不燃性の建造物以外は灰塵に帰したという。

 

再建された第3の王宮の模様は、13世紀末にこの地を訪れた周達観の記述から推察される。ピミヤナカスの北には5、6基の塔があり、屋根を鉛でふいた木造の邸宅や、黄色の土で築いた建物もあったという。長いべランダや廊下が並び、広間の窓枠は金で作られ、四角い窓々の両脇にはたくさんの鏡がはめ込まれていたという。 この荘麗な建物も1350年ごろシャム軍の侵入によって破壊された。その後シャムの王を迎えるために用意された第4番めの王宮は非常に貧弱なもので、すでにクメール民族の衰運を示していた。この王宮も王都アンコールの放棄とともに崩壊した。

 

[癩王のテラス]

 

裸の王様の像と神々の世界の迷路:
建築年代・・・12世紀末
建築者・・・ジャヤーヴァルマン7世
信仰・・・仏教
様式・・・バイヨン様式

癩王のテラス

 

象のテラスと並んで、壁面にたくさんの彫像を刻みこんだ独立したテラスがある。これが癩王のテラスと呼ばれるもので、その上に癩王の像と呼ばれる彫像が安置されている。

 

癩王の彫像は高さ約1メートルの座像で、インド風の口ひげをはやし、めずらしいことに衣服をまとわず、まったくの裸身で、性器を欠いている。 おそらく癩病患者の王の像であるとして名付けられたのだが、この像が誰をあらわしているかについては学者の間に異説が多い。 ムーラは癩病患者であった富の神クーベラの像であるといい、エーモニェはヤショーヴァルマン1世の像、またコマーユはマハーデーヴァ(「大いなる神」=シバ神の別名)すなわちシヴァ神像であると主張しているが、最近の学説では、裁判を司る地獄の神ダルマラージャ、すなわち閻魔大王の像であるといわれている。

癩王の像

 

癩王の像の左右には侍者の像が置かれているが、首が破損している。テラスの高さは約6メートル、1辺約25メートルでラテライトおよび砂岩を積み上げて築かれている。

 

その南東部は2重の壁になっていて、内壁と外壁の間は幅 約10メートルの通路が曲りくねって迷路のような観がある。外壁の彫刻はやや破損が激しいが、内壁のそれは美しい姿で残され、あたかもクメール美術の宝庫といった感がある。

 

通路の入ロはテラスの南面にそって、道路から約20メートル入ったところにあり、曲りくねった通路の最終部はラテライトを積み上げた階段となり、テラス上部に出られるようになっている。またテラスの北面のいちばん奥には、 宮殿に座す王の脇で剣をロに呑もうとしている珍しい奇術師の浮彫りがある。

 

テラス壁面の数々の彫像は、世界の中心にあるといわれるメール山(須弥山)の何段もの階層に住む神々や動物などを具象化したものである。

壁の彫刻

 

[テップ・プラナム]

 

古い参道と新しい大仏: 

建築年代・・・10世紀初頭
建築者・・・イーシャーナヴァルマン2世
信仰・・・ヒンドゥ教
大仏座像・・・後代のもの

テップ・プラナム

出典:wikipedia

 

癩王のテラスの北に、道路から南へ入る長いラテライトの参道がある。長い年月の間にでこぽごになったこの参道を約160メートル進むと、参道が切れて左右に獅子の石像が置かれたテラスに達する。テラス正面に高さ約4メートルの大仏が安置されているが、これは後代のもので、初めはここにシヴァ神を肥った聖殿があったといわれている。現在、台石以外は何も残されていない。 この大仏には最近新たに木造の屋根が設けられ、信仰の対象として崇敬されている。

 

大仏の後方やや北よりに、仏の立像があり、その西側には大きな池が掘られていた形跡があるが、現在では深いやぶにおおわれている。

 

[プリア・パリライ]

 

自然の静表に囲まれた美しいテラス:

建築年代・・・12世紀前半
建築者・・・不明
信仰・・・ヒンドゥ教

プリア・パリライ

 

テップ・プラナムの大仏の後方の小道をたどって行くと、約200メートルでこの遺跡の前に出る。この遺跡のテラスはナーガを様式化した欄干が2重にとりつけられ非常に美しい。

 

テラスに上る石段の両脇には獅子と首の破損した番人ドヴァーラ・ハーラの彫像が置かれている。正面には高さ約3メートルの仏の座像が安置され、その後方に3つの入ロを持つ大門がそびえている。

入ロの上部には砂岩に刻んだ美しい彫刻がみられる。この門をくぐると中央聖殿が目の前に仰がれる。

 

中央の塔は下部は砂岩、上部は煉瓦を積み上げたもので、内部には仏像数体が置かれている。聖殿の周囲は樹木が生い茂り、自然の静寂につつまれている。

 

[プリア・ピトウ]

 

2つのテラスと五つの聖殿:

建築年代・・・主要部分12世紀前半
建築者・・・不明
信仰・・・ヒンドゥ教
様式・・・バイヨン様式

プリア・ピトゥ

出典:wikipedia

 

王宮前の道路の北側の北端、すなわちテップ・プラナムのちょうど反対側に、プリヤ・ピトウと呼ばれる遺跡群がある。この遺跡群は2つのテラスと5つの聖殿からなっている。 第1の聖殿は、向かって右側、北クリヤンにもっとも近い建物で、この聖殿の手前には砂岩でできた小さなテラスが設けられている。周囲は円柱の支えで飾られており、蛇ナーガを様式化した欄干で2重に縁どりされたこのテラスは、プリヤ・パリライのテラスと共にアンコール遺跡の中でも美しいテラスの1つに数えられている。

 

聖殿は、東西45メートル、南北40メートルの塀で囲まれ、東西にそれぞれ小さな門がある。内部は崩壊が激しく一面にくずれ落ちた石が乱雑に置かれている。聖殿は3層に石が積まれ、最上段には基部12メートル四方の塔が築かれている。内部にリンガのある点から考えて、 この聖殿はシヴァ神殿でシヴァ信者によって建立されたものであろう。

 

第2の聖殿は、この後方東側にあり、第1の聖殿同様砂岩の塀に囲まれている。この聖殿は前者より規模はやや小さく層も1段で、上部に4つの入ロを持つ塔が築かれている。 塔の周囲には数々の彫刻があるが、損傷が激しい。西入口上部の上框(うわがまち=戸・障子などの周囲の枠のうち、上部の横木)の彫刻は、怪物カーラ(死の神)の上に乗ったシヴァ神を描いたものである。

 

第1、第2聖殿の塀の周囲は水をたたえた堀で囲まれている。 第3の聖殿は、この堀跡を越えたさらに後方、最東端に位置し、プリヤ・ピトウ群の中では もっとも大きく、1辺約35メートル、高さ3メートル80センチの台石を基部として3層に築かれている。聖殿内部の各壁面には、仏の座像の浮彫りがあるが、仏の額の白毫に焰形(えんけい)の突起のあることなどから考えて、おそらくシャム占領時代になって作られたものと推測される。

 

第4の聖殿は、第2の聖殿の北側に堀跡をへだてて置かれている。この聖殿は2層に積み上げられた台石の上に築かれ、基部は1辺約3メートル80センチある。 この聖殿には美しい彫刻がほどこされている。南入口東側の上框の彫刻は末完成のまま残されている。また聖殿内部北側には、高さ1メートル50センチに達する巨大なリンガがある。 この聖殿の西側正面すなわち巡回路に面した位置に、円柱で周囲を飾った十字形の美しいテラスがある。形も規模もほぼ王宮内部の“王のテラス”と同様である。

 

第5の聖殿は、第4の聖殿の北側少しはなれた位置にある。この建物は前4者と構造、趣きがやや異なっている。塔の形をした四角い礼拝所につながる部屋は、巡礼者のために設けられた休息所であったといわれている。

 

[プラサット・スウル・プラット]

 

綱渡りの踊り子の塔:

建築年代・・・12世紀末
建築者・・・ジャヤーヴァルマン7世
信仰・・・仏教
様式・・・バイヨン様式

プラサット・スウル・プラット

出典:wikipedia

 

王宮前広場に“象のテラス と向かい合って、ラテライト を積み上げた四角い塔が一列にずらりと並んでる。 “勝利の門“へ向かう道を対称軸として左右に6つずつ計12基のこの塔を“綱渡りの踊り子の塔“と言う所以は、カンポジア正月にこの塔から塔へ綱を渡し、その上で踊り子に綱渡りをさせ、象のテラスから王が眺めたという話から名づけられたということである。

 

しかし、13世紀にこの地をおとずれた周達観は”真臘風土記「争訟」の項“で、「これらの塔が神明裁判に用いられたと述べている。「また2家族の間で訴訟を相争い、その曲直(正邪)がわからない場合には、王宮の反対側 に12基の小石塔がある。2人をしておのおの1つの塔の中に坐らせる。塔の外では、両家の親類がたがいに監視しあう。坐ること1、2日あるいは3、4日で正しくないものには必ずその徴候があらわれ、身体にできものが出たり、咳、発熱のような症状になる。正しい者はほぼそのようなことがないので、これをもって曲直を判断する。」と述べている。

 

12の塔は中央部の2つを除いて王宮に向かって一直線上に並んでいる。塔の台石は1辺約12メートル、塔とやの間は35メートルある。

 

[クリアン]

 

南北に同じ形の「収蔵庫」:

建築年代・・・10世紀―11世紀初頭
建築者・・・ジャヤーヴァルマン5世
信仰・・・ヒンドゥ教
様式・・・クリヤン様式

クリアン

出典:wikipedia

 

“綱渡りの踊り子の塔”の後方、ちょうど“象のテラス”の最端部の正面に、クリヤン (収蔵庫) と呼ばれるまったく同じ形の建物が、南北対称的な位置に2つある。

 

この遺跡は、収蔵庫とも言われ、あるいはまた宮殿とも言われるが、いずれも決定的な根拠はない。 他の数々の遺跡に比べて構造はきわめて単純で、住居としても使用できそうだし、また一方、北クリヤンからはブロンズの彫像が発見されたし、ラテライトに囲まれた建物内部には四角い石の祭壇などもあるので、宗教的用途に供せられたとも考えられる。また謁見所とか集会所などとも言われる。

 

南クリヤンの外壁は砂岩造り、北クリヤンのそれはラテライト造りである。南クリヤンの内部後方の建築物は、樹林の中に破損し残されている。これに反して北クリヤンは全体の構成を良く残している。

 

小さなテラスにつづく石段を上がると、広い建物の両翼が回廊のように左右に伸び、円柱の枠をはめ込んだ大きな窓が美しく並んでいる。南翼東側の窓は上部の窓枠がはずれ落ちて、そこに見事な石の切込みが見られ、当時の石造建築技術の一端をうかがうことができる。建物の端はラテライトの塀につながり、この遺跡をとりまいていたのであるが、大部分の塀はくずれ落ち、東南隅に一部分だけはめ窓が残され、往時の偉容をしのぶことができる。

 

正面石段をおりて内部にはいると、中央に砂岩造りの塔があり、左右には経蔵と思われる建物がある。いずれも崩壊が極度にいたんでいる。

 

ラテライトの塀跡を越えてさらに後方に進むと、石塀に囲まれて独立した小寺院がある。中央にバンティヤイ・スレイ様式の美しい小さな塔があり、左右には対称的な位置に経蔵と思われる建物がある。中央塔周囲の彫刻は精細優美で薄い石段のきざみ方は、まったくバンティヤイ・スレイ寺院と同様である。 [2]


[1]までの記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0 のもとで公表されたウィキペディアの項目アンコール・トム を素材として二次利用しています。

[1]以下[2]までの記事に関する参考文献:

・Parmantier, H. Angkor-Guide ・Office National du Tourisme.A Preface to Angkor