NO.6

[アンコール遺跡/カンボジア]

 

 

~19世紀、忽然とジャングルの中から姿を現した 謎の文明、「アンコール」~

 



9世紀から13世紀にかけて栄えた力ンボジアクメール王国

その都アンコール周辺には、数多くの神殿、僧院、王宮などが建造された。

 

889年にヤショヴァルマン1世が即位し、

アンコールの最初の王都となる ヤショダラプラ (第一アンコール)を造営する。

その後ここを中心にして、代々の王たちが、さまざまな建造物を建立し、

アンコールはクメール王国の 権力のシンボルである巨大で神聖な都に発展していった。

 

中世カンポジアはジャヤーヴァルマン7世の時代に繁栄をきわめたが、

1431年にシャム(タイ)のアユタヤ王朝による侵攻でアンコールは陥落し、徹底的に破壊された。

 

空前の繁栄を誇り、密林に消えて行った謎の文明は、

幾世紀もの間インドシナの深い密林に埋もれ、忘却の彼方に眠り続けてきたが、

19世紀になって忽然とジャングルの中から姿を現したのだ。

 

1860年、フランス人アンリ・ムオがこの東南アジア屈指の文化遺産であるアンコールを発見し、

本格的な調査・研究が開始された。

アンコール・ワット全景 中央にある5基の塔は、

ヒンドウー教の宇宙観で世界の中心と考えられた須弥山(メール山)の 5つの頂を表している



クメールの信仰、シヴァとヴィシュヌ

 

インドシナ半島南部に王国を築いていた扶南 (ふなん)を倒したクメールは、数世紀の混乱期を経て9世紀初頭に権力を確立する。 クメール族は、すでに2世紀から5、6世紀にこの地に侵入をくりかえしており、経済的、社会的な影響をおよぼし、とくに宗教上は深く混交的な体系が形成されてきていた。

 

9世紀から12世紀のクメール王国では、目をみはるようなヒンドウー教の寺院が相ついで建築された。とりわけ篤い信仰の対象とされたのが、破壊をつかさどる刷新の大神シヴァと、宇宙を管理し人々を救済する大神ヴィシュヌである。

 

神話では、ヴィシュヌは多種多様な性格を与えられており、また凶暴な力を有するシヴァについては、芸術上の表現としてはもともとの温和な一面が強調される傾向がみられた。全宇宙を支配するこの2大神は、単に神界を代表するだけでなく、より具体的に人々の信仰のなかで生きていた。人々にとっては、シヴァもヴィシュヌも捧げられた寺院の神殿にまつられた像のなかに、たしかに息づいていたのである。

 

神王崇拝

 

神が身近な現世に存在すると考えられていたクメール王国では、王は神格を有するとみなされた。国内の征討を行いアンコール朝の初代王となったジャヤヴァルマン2世(在位802- 834)は、聖山マヘンドラパルヴァタ(現在のプノン・クレーン丘陵)で、王国の貴顕たちを前に、みずから「神王(デーヴァ・ラージャ《王を神と同一視する信仰=神王崇拝))の宣言をして「神王信仰」を確立した。このときから、王は神の化身として肉体をもち、天と地の仲介者となった。王は象徴としてだけでなく、実際に神として崇められたのである。

 

国の統治者としての王は暫定的な存在で、木造の宮殿に住んだ。 一方、神としては、神王を明確化した彫像となって寺院の中に表現された。もともとヒンドウー教にあった男根像リンガや神々、仏の像に王の顔がつけられ、それが寺院の本尊とされたのである。 その彫像は、「生命を吹き込む」ための壮大な儀式力執行されて初めて「神王の像」となった。寺院はもちろん王と高僧たちの空間ではあったが、随所に神々の神話の場面を表現した浮き彫りがほどこされ、人々は神殿に参って、そうした浮き彫りに表された教えを学ぶことができた。信仰上のかずかずの儀式は、人々のために屋外で執行されていた。 神王が没すると、その本尊を納めた寺院は御陵(王の墓)とされ、以後代々の後継者たちが信仰を捧げる場となった。 新王は、また新たに自分自身のための寺院を建設した。

アンコール・ワットは、

クメールの「神王崇拝」思想による神の世界を具現化するための壮大な伽藍だ

 

仏教の伝来

 

13世紀のクメール王国では、しだいに仏教が浸透していった。その浸透のしかたはけっして過激ではなく、それまでの土着的信仰に混交し融合していった。

 

今日もなお仏教寺院のなかには、正面入り口にヒンドウー教の神々の像を表現しているところがある。 より民衆的な小乗仏教(上座部仏教)も、活動的で積極的に涅槃(ねはん《死・入滅》)を求める大乗仏教も、どちらも広く知られ、王国内に多くの信徒を獲得するのに長くはかからなかった。

 

大乗の教えは、実質的につねに無数の仏が存在するにちがいないと説いていて、衆生(しゅじょう《一切の生きとし生けるもの(生類)》)を仏に変えて、その存在を高めていくことができるとされている。釈迦のみ涅槃への道を知るとする一方、大乗ではその釈迦を天上的存在として崇拝する。そしで悟りを求め、教化に努める菩薩も釈迦に並ぶ聖なる者とされた。悟リをひらいた菩薩は、すでに涅槃に入ることができるのだが、他の人々の苦しみを和らげるために涅槃への入滅(にゅうめつ)を延期していると説かれた。この「救済者」としての菩薩像は、絵画にもさかんに表現されて、救いを求める人々の切なる願いがかけられた。

 

大乗仏教が浸透した後、13世紀末には「古き教え」に従うことを説き、信仰の始原への回帰を標傍する上座部仏教の教えが王国内に広まった。その『三蔵教』は、涅槃到達の唯一の道が「釈迦とその弟子、その法」にこそあるとしたものである。この純粋主義的な宗教は、石造りの巨大寺院を忌避し、集会には木造で質素な建物を好んで用いた。

 

宇宙の中心、アンコール

 

ヒンドウー教の宇宙観においては、地球の地殻の中心は神々の住む伝説の須弥山 (しゅみせん《メール山》)である。その周囲に6つの同心円状の大地があり、同心円の大地のあいだを区切るのは7つの海である。そしてヒマラヤ山系をかたどる岩壁が全体を取り囲む。

 

アンコール遺跡で、寺院が高い壁に隔てられながら多様で複雑に配置されているのは、おそらく偶然ではないだろう。壁で囲まれた区域は、正方形か長方形で、その周囲に海を象徴する灌漑用水路がめぐっている。寺院の四隅と中央の5基の高塔は、5つの頂を有すると言い伝えられる須弥山に対応する。須弥山は神々の住むところであるばかりでなく、世界の中心で天と地と地獄の結合する場所にほかならない。アンコールで3層基壇の上に建てられた寺院が多いのは、この考え方に従っている。ほとんどの寺院は東向きに建てられ、平面は宇宙的な曼陀羅 (まんだら)をかたどり、同軸上に各階が重ねられる。10世紀まではレンガを用材としたが、その後は砂岩のブロックを積み重ねて創建された。正面や各所の (まぐさ)、外壁はおびただしい数の浮き彫りや彫像などの装飾で飾られている。

 

[ 盛者必衰の理]

 

強力な王国の常として、クメール王国も絶えず戦闘にまきこまれていた。近隣の村々を服従させ、その新たな反抗を退け、一方では内部の政治的、軍事的混乱を治めていかなければならなかった。戦いの勝利と敗北がくりかえされる日常であったが、それでも国家体制は比較的平静が保たれていた。これはヒンドウー社会カースト制仏教信仰が、クメール王国の基盤をしっかりと支えつづけていたからである。そして、代々の「神王」の熱心な建築設営の活動が、戦闘のつづく日々にも脅かされることなくつづけられたのは、驚異に値するといえよう。

アンコールの寺院のひとつ タ・ケウ

幾何学的な立体美を誇るピラミッド型寺院だ

バンテアイ・スレイ

アンコール遺跡群のなかで最も格調の高い美しさを誇る 南北の祠堂には、

「東洋のモナリザ」と評されるデヴァターの像が 柔らかな曲線で彫られ、美しい姿を見せている

出典:wikipedia

バンテアイ・スレイの北経蔵・西側破風の繊細精徴な彫刻 『マハーバーラタ』の一場面で、

クリシュナの復讐を描いている 建物全体を埋め尽くすように精緻な浮き彫り彫刻が施されたこの寺院は、

「クメールの至宝」と言われている

 

889年から900年ごろまで王国を治めたヤショヴァルマン1世は、ヤショダラプラを新しい王都とした。これがアンコールの発展の始まりであった。893年、ヤショダラプラの中心寺院プノン・バケンが、小丘の頂に建てられた。この小丘を須弥山に模し、中央祠堂(しどう《神仏を祭った小さな堂》)には王の名を付した「ヤショダレシュヴァラ」というリンガが按置されている。

 

ラージェンドラヴァルマン2世 (在位944-968)は、御陵(王の墓)としてピラミッド状3層基壇のプレ・ループの建築を命じる。ジャヤヴァルマン5世(在位968-1001)は、壮大な5層基壇のピラミッド形寺院のタ・ケウの建設を始めた。王の死によって工事が中断し未完成ではあるが、このタ・ケウは従来の基壇寺院に新たに回廊様式を取り入れている。未完成であるため、建築の仕様や手順、石材の積み上げ方、組み方など、それまで謎とされていた諸問題が解明される手がかりとなった。このタ・ケウの建築技術が、その後の壮大なアンコール・ワットなどの建造を可能にした。これらのほかに、まだ多数の遺構をあげることができる。

 

アンコール遺跡では何世紀にもわたって、彫像や浮き彫り、フリーズ状装飾、柱などに、さまざまな場面や装飾的モティーフが表現されてきた。ここに集中した富、人々の建築的・芸術的営為の壮大さは、今日の私たちの想像をはるかに超える。アンコールのひとつの墓碑に刻まれた銘文の内容も驚くべきもので、そこに記されたところでは、タ・プロームには18人の最高位の僧、2740人の一般僧、2202人の使用人、615人の踊り子がいた。重量が5トンを超える金およひ銀の壷、さらには35のダイヤモンド、4万620の真珠、4540の貴石、947の中国絹製のスカーフ、512の寝台、523のパラソルまでが寺院の財産としてリストアップされていた。 現存する聖なる捧げ物は、盛時のほんの一部にすぎない。またそこで働いていた何千もの人々の生活費も莫大であったと思われる。遺構に残るかずかずの彫刻は、当時の職人の優れた手腕と豊富な知識を物語っている。

 

芸術的価値の高い奉納品やさまざまな用具が、クメール王国の崩壊後に強奪者たちによって盗み出されてしまった。彼らは、高価な値のつく財宝が、中央塔の中央像の下や塔の最上階に集められているのを熟知していた。また数多くの彫像も奪い取られてしまった。そしておびただしい数の彫刻の断片が、植民地宗主国の博物館に持ち出されたり、国際的な美術市場に流出した。しかし、もっとも多いのは行方不明や紛失したもので、これらはもはや回収不能である。

 

1860年にフランス人の博物学者アンリ・ムオが、この巨大な都市の遺跡を発見して以来、考古学者がこぞって貴重なモニュメントの眠る未踏のジャングルへと分け入った。

 

[アンコール・ワット]

 

アンコール・ワットとは「寺院によってつくられた街」という意味で、さらに正確にいえば都城に付属した寺院のことである。スールヤヴァルマン2世(在位1113一1150年頃)が、約30年の歳月をかけて建立したアンコール・ワットは、アンコール遺跡群のなかでもっとも大きく、クメール芸術を代表する建造物である。ピラミッド形大寺院の建築技術が頂点に達するのは、このアンコール・ワ ットにおいてである。

 

この寺院は、幅190メートル、周囲5.4キロメートルの環豪 (かんごう集落の四周にめぐらした濠《ほり》)に囲まれ、540メートルの西参道、三重の回廊、高さ65メートルの中央尖塔をもつ本殿を中心とする5基の堂塔からなりたっている。この5基の堂塔は須弥山を、周壁はヒマラヤの霊峰を、環豪は無限の大洋を象徴するという。また、王は「パラマヴィシュヌロカ(ヴィシュヌ神の崇高なる地へ向かった王)」の諡号(しごう《贈り名》)を受け、中央尖塔では、王とヴィシュヌ神の合体したヴィシュヌ・ラージャ神像が礼拝されていたという。こうしたことは、クメール的な神の世界を地上に具現しようとした寺院建立の思想的背景を示している。

 

アンコール・ワットは西向きに建てられている。塔門をくぐると石畳の西参道がつづき、高さ5メートルのテラスに出て、第1、第2の回廊を抜けると、第3回廊と中央尖塔が現れる。急傾斜の大階段を13メートルのぼって本殿にいたる。ここに立つと、この寺院が幾何学的な左右対称美を強調した建築設計になっていることがわかる。

 

第1回廊は1辺が約200メートルあり、壁面全体に精級な浅浮彫りの浮き彫りがほどこされ、あたかも浮き彫りの絵巻物を見るようである。スールヤヴァルマン2世の行進、ヒンドウー神話インドの叙事詩をモティーフにしたこれらの浮き彫りは、アンコール・ワットのなかでもきわだったものである。 アンコール・ワットにある浮き彫り、文様、建築装飾などはスールヤヴァルマン2世が篤信したヴィシュヌ神に捧げられたものである。破風 (はふう)や (まぐさ)、付け柱の下部にいたるまで、神像や神の化身で飾られている。この壮大な伽藍が何のためにつくられたのか、じつはまだ解明されていないが、御陵(王の墓) であったとする説がある。この説では、浮き彫りに表現されたスールヤヴァルマン2世の栄光を描いた場面は、ジャヤヴァルマン7世(在位1181-1220年頃)が、この先々王に捧げた称賛と敬意を表したものとみている。また別の浮き彫りの叙事詩の筋をたどると、時計の針とは逆の動きをすることになり、それは当時の葬儀の進行に対応し、最後には西の広大な入り口にたどり着く。アンコール・ワットが、ほかの寺院がー般的に東向きであったのに対し西向きであるのには、このような儀礼的意味を明らかにする意図があったと推論している。

アンコール・ワットの第1回廊は東西約200メートル、南北約180メートルあり、

壁面はあますところなく浮き彫りで飾られている

アンコール・ワットの回廊の外面・柱・壁にはあますところなく、

端麗な容姿のアスパラス(天女)やデヴァター(女神)の浮き彫りがある

アンコール・ワットの第1回廊に、

ヒンドウー神話「乳海攪拌」の図が約50メートルにわたって壁面いっぱいに描かれている 

この壁面の図は、アンコールの数多くの壁画の中でもたいへんすぐれたものである

 

[ジャヤヴァルマン7世]

 

1177年のチャンパ軍のアンコール攻撃による被害 が、どの程度のものであったかは正確には知ることは不可能だが、甚大なものであったにちがいない。

 

1181年のジャヤヴァルマン7世の即位にともなって開始されたアンコールの再建は、非常に活発であった。

ジャヤヴァルマン7世は、クメール王国最後の偉大な支配者だった。その後王国内には重要な寺院がひとつとして創建されなかったばかりか、衰退に向かいはじめたのである。

 

ジャヤヴァルマン7世は、かつてのように王国内のすべての力を結集させて寺院の建築に努めた。この時代に属する多くの信仰の場のなかには、父王に捧げられたプリヤ・カーン (1191年)と皇太后のためのタ・プ ローム (1186年)の遺構も含まれる。いずれもラテライト(紅土)の壁で囲まれた御陵(王の墓)建築だが、見る者に大きな感動をよびおこす。タ・プロームでは、ジャングルという建築にとって大きな障害を克服しながら、人間の業(わざ)の限界がきわめられているのである。

 

[アンコール・トム]

 

チャンパを駆逐したジャヤヴァルマン7世は、タ・プロームの西方、旧都城ヤショダラプラアンコール・トムを造営した。アンコール・トムとは「大きな都市」の意味である。ここにはすでにウダヤーディティヤヴァルマン2世(在位1050- 1066)が都を築いていたうえジャヤヴァルマン7世はアンコールの発展の始まりの地であるここに新都をつくったのである。 詩的な表現の記録によれば、「王は貴石でつくられた宮殿を擁するこの都市と結婚して、宇宙を創世した」と記されている。

 

新しい都城は、1辺が3キロメートルの正方形平面で、まわりを幅113メートルの環豪(集落の四周にめぐらした濠《ほり》)で囲まれている。さらにラテライトでできた高さ8メートルの城壁と、5つの城門(北大門、南大門、西大門、勝利の門、死者の門)がある。各城門の上部には、四面仏顔の観世音菩薩が彫られていて四周を見すえている。観世音菩薩は人々の篤い信仰を集めた「救済者」であり、この仏顔から大慈大悲が世のなかにあふれるようにとのジャヤヴァルマン7世の願いがこめられていたという。この仏顔はアンコール・トムの随所で見られる。観世音菩薩は王の化身にほかならないのである。

 

城内に入るには環豪にかかった橋を渡る。この橋の両側には、7つ頭のナーガ (大蛇)の胴体で綱引きをする巨像が並び欄干をつくっている。左側に並ぶ巨像は宝冠をかぶったデーヴァ(神々)で、右側には好戦的な髪形をしたアスラ(阿修羅)の巨像が並んでいる。ナーガは、神の世界と人間の世界を結ぶ虹を象徴しているといわれている。

アンコール・トムの南大門

城門の高さは20メートル強 右側に並らぶアスラ(阿修羅)の顔は

図像学上高い評価を受けている憤怒の面相表現だ 

城門の上部の巨大な四面像は、観世音菩薩である

 

最盛期には10万の住民の住居がひしめいていたアンコール・トムも、今では森のなかに埋もれてしまっている。運河や堤防の痕跡が、ここになんらかの灌漑システムがあったことを想像させる。街の外の東と西に大きな人工湖がつくられ、そこから周辺の水田に水を供給し、年に2、3回の米の収穫をもたらした。運河は物資の運搬にも使われ、寺院建築の石材もこの運河によって運ばれた。

 

アンコール・トムの中心にそびえるのが須弥山を象徴した仏教寺院バイヨンである。ピラミッド形の大寺院の中央祠堂の高さは45メートル、全部で54基の四面仏顔塔が林立する。この四面仏顔塔はクメール独特の建築様式でバイヨン様式ともよばれ、ジャヤヴァルマン7世が仏教に篤く帰依(きえ)していたことがわかる。中央嗣堂は円形で、16の小礼拝室に分けられていた。ここは、王の祖先への礼拝と各地方の神々の祭壇であったという。他の寺院と同様に、ここでも随所に豊麗な装飾がほどこされている。回廊では、壁面、支柱、 (まぐさ)の浮き彫りにさまざまな人物像表現が含まれ、なかでも王の戦勝図や各種の改革を表した図は注目に値する。これらは石に彫られたクメールの歴史にほかならず、王の権力と栄光を示す宮殿場面のほかに、商売の様子や狩猟、競技の情景、人々の日常生活など、当時の社会状況を明らかにする資料として貴重な遺物である。

アンコール・トムの中心に位置するバイヨン寺院には四面仏顔塔が林立する
観世音菩薩の仏顔は深い瞑想と慈悲を暗示するおだやかな表情をもつ
人々はこれを「バイヨンの微笑」とよぶ
あらゆる危難から人々を守り、衆生に救いの手をさしのべる救世主の菩薩
この善薩の慈愛こそ、ジーャヴァルマン7世治下の時代精神の最高の価値であるとされ、その徴笑は美の極致であった

上部テラスに上がると、数多くの塔に刻み込まれた観世音菩薩の四面像は、手にとるように真近かにせまる
顔の長さは1メートル75センチから2メー トル40センチに達する
これらの四面仏顔塔の大胆な建築意匠は、 世界の建築史上でも、もっとも特異なものである
この神秘的な微笑をたたえた観世音菩薩の尊顔は、仏教美術にも人問描写の迫真性を求めたといわれる
バイヨン様式
とよばれるこの仏顔塔はクメール独特の美術様式である

 

アンコール・トムバプーオン寺院は、ウダヤーディティヤヴァルマン2世が建立したものであり、高さ24メートルのピラミッド形寺院でシヴァ大神をまつる。ここでは構造力学上の問題が生じ、12世紀には修理・改築が必要となった。この改築によって崩壊を免れたのだった。

 

「勝利の門」を入って西へたどると王宮にいたる。二重の高い城壁で囲まれた王宮は、外部から遮断された独自の空間性を有していた。木造の王宮はすでになく、元来どのような姿であったのかは今ではわからないが、アンコールでは、世俗建築はつねに木造であって王宮もその例外ではなかった。永遠を象徴する石造建築は、神聖な寺院建築に限られていたのである。

 

王宮の前には13世紀初めにつくられた、高さ3メートル余、長さ350メートルにおよぶ「象のテラス」とよばれる大露台がある。壁面にはさまざまな神象とガルーダ(神鷲)の浮き彫りがある。

5つ城門のひとつ「勝利の門」からの大道は、「象のテラス」へのびている

この長さ350メートルにもおよ、テラスの壁面には一面に象の彫刻がほどこされている

 

「象のテラス」の横には「癩王(らいおう)のテラス」とよばれる二重の壁からなる高さ6メートルのテラスがある。ここにはかつて「癩王像」という彫像があったが、現在はプノンペン国立博物館の中庭に展示されている。この彫像にまつわる説はさまざまで、この人物が誰であるのかは謎のままである。

 

残念なことにこのアンコールの遺跡群は、1970年から今日まで、内戦と混乱のために一部を除いて放置され、部材が落下したり、堂塔が傾いたりしている。ユネスコではこの遺跡を「危機にさらされている世界遺産リスト」に登録し保護措置を進めている。

ジャヤヴァルマン7世が神々の縁者たちの栄光を願い、
また、母の菩提を弔うために建立した僧院タ・プローム
ここは自然によって破壊されたままの姿で残されているが、
建物に覆いかぶさったガジュマルの根が自然の脅威を見せつけている

 

[アンコール遺跡を構成する主な遺跡群 ]

 

アンコールに含まれる主な遺跡は以下の通りである。

中心部:

アンコール・トム : 12世紀末-13世紀初頭、ジャヤーヴァルマン7世建立、仏教(観音菩薩)。

バイヨン : 12世紀末、ジャヤーヴァルマン7世建立、仏教(観音菩薩)。

象のテラス : 12世紀末、ジャヤーヴァルマン7世建立、仏教(観音菩薩)。

ライ王のテラス : 12世紀末、ジャヤーヴァルマン7世建立、仏教(観音菩薩)。

ピミアナカス : 10世紀末-11世紀初頭、スーリヤヴァルマン1世建立、ヒンドゥー教。

プラサット・スゥル・プラット : 12世紀末、ジャヤーヴァルマン7世建立、仏教。

クリアン : 11世紀初頭、ジャヤーヴァルマン5世、スーリヤヴァルマン1世建立、ヒンドゥー教。

バプーオン : 1060年頃、ウダヤーディティヤヴァルマン2世建立、ヒンドゥー教、15世紀以降仏教。

プリア・パリライ :12世紀前半、仏教。

プリア・ピトゥ : 12世紀前半、ヒンドゥー教(シヴァ)。

アンコール・ワット:1113-1145年頃、スーリヤヴァルマン2世建立、ヒンドゥー教 (ヴィシュヌ)。 

プノン・バケン : 900年頃、ヤショヴァルマン1世建立、ヒンドゥー教(シヴァ)。

プラサット・バイ : ヤショヴァルマン1世建立、ヒンドゥー教(シヴァ)。

バクセイ・チャムクロン : 947年、ハルシャヴァルマン1世(910-944年)、ラージェンドラヴァル

 マン2世(944-968年)建立、ヒンドゥー教(シヴァ)。

トマノン : 12世紀前半、スーリヤヴァルマン2世建立、ヒンドゥー教。

チャウ・サイ・テヴォーダ : 12世紀前半、スーリヤヴァルマン2世建立、ヒンドゥー教。

スピアン・トマ : 11世紀初頭

 

東部:

プレ・ループ : 961年、ラージェンドラヴァルマン2世建立、ヒンドゥー教(シヴァ)。

タ・ケウ : 1000年頃、ジャヤーヴァルマン5世建立、ヒンドゥー教(シヴァ)。

バンテアイ・サムレ : 12世紀中頃、スーリヤヴァルマン2世建立、ヒンドゥー教(ヴィシュヌ)。

タ・プローム : 1186年、ジャヤーヴァルマン7世建立、仏教(観音菩薩)。

スラ・スラン : 12世紀末、ジャヤーヴァルマン7世建立、仏教(観音菩薩)。

バンテアイ・クデイ : 12世紀末、ジャヤーヴァルマン7世建立、仏教(ヒンドゥー教様式と混交)。

• タ・ネイ : 12世紀末、ジャヤーヴァルマン7世建立、仏教。

東バライ 

東メボン : 952年、ラージェンドラヴァルマン2世建立、ヒンドゥー教(シヴァ)。

プラサット・クラヴァン : 921年、ハルシャヴァルマン1世建立、ヒンドゥー教。

 

北東部:

• クオル・コー : 12世紀末-13世紀初頭、ジャヤーヴァルマン7世建立、仏教。

ニャック・ポアン : 12世紀末、ジャヤーヴァルマン7世建立、仏教(観音菩薩)。

タ・ソム : 12世紀末、ジャヤーヴァルマン7世建立、仏教(観音菩薩)。

 

北東部郊外:

バンテアイ・スレイ : 967年、ラージェンドラヴァルマン2世、ジャヤーヴァルマン5世建立、ヒンド

 ゥー教(シヴァ)。

プノン・クーレン : 802年、ジャヤーヴァルマン2世

クバール・スピアン :11世紀中頃、ヒンドゥー教。

ベンメリア : 12世紀、おそらくスーリヤヴァルマン2世建立、ヒンドゥー教(ヴィシュヌ)。

 

北部:

プリヤ・カーン : 1191年、ジャヤーヴァルマン7世建立、仏教(観音菩薩)。 

 

西部:

西バライ  : 11世紀末、ジャヤーヴァルマン6世建立。

西メボン : 11世紀後半、スーリヤヴァルマン1世建立、ヒンドゥー教(ヴィシュヌ)。

• アック・ヨム : 7-9世紀、ヒンドゥー教(シヴァ)。

 

南部郊外:

ワット・アトヴィア : 12世紀、スーリヤヴァルマン2世建立、ヒンドゥー教(ヴィシュヌ)。

• プノン・クロム : 9世紀末-10世紀初頭、ヤショヴァルマン1世建立、ヒンドゥー教(シヴァ、ヴィシ

 ュヌ、ブラフマー)。

 

南東部郊外:

プリア・コー : 879年、インドラヴァルマン1世建立、ヒンドゥー教(シヴァ)。

バコン : 881年、インドラヴァルマン1世建立、ヒンドゥー教(シヴァ)。

ロレイ : 893年、ヤショヴァルマン1世建立、ヒンドゥー教(シヴァ)。

スピアン・プラプトス : 12世紀末-13世紀初頭、ジャヤーヴァルマン7世建立。


 

[アンコール美術フォトギャラリー]



この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

 (1) 人類の創造的才能を表現する傑作。

 (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。

 (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。

 (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。

 

これに対し国際記念物遺跡会議は以下のような推薦理由を付けている(要旨)。

・アンコール遺跡は9世紀から14世紀にかけてのクメール美術のすべてを伝えていて、議論の余地のない

   ほどの傑作である(1)。

・アンコールで培われたクメール美術は東南アジアに大きな影響を及ぼし、その過程に置いて基本的な役

   割を演じた(2)。

・9世紀から14世紀にかけてのクメール王朝は東南アジアの方向を大きく定め、当地域で政治的にまた文

   化的に先駆的な役割を演じた。その文明の遺物は煉瓦や石で出来た豊かな宗教建築に残っている(3)。

・クメールの建築はインドの副大陸的な様式から、独自の文化を創造したり周辺の文化を取り入れたりし

   て抜け出すことによって東南アジアの様式との境界線を作った(4)。