【 吐 蕃 】

吐蕃(とばん、拼音:TŭbōまたはTŭfān、チベット語:བོད་ཆེན་པོ、ワイリー転写:Bod chen po)は、7世紀初めから9世紀中ごろにかけてチベットにあった統一王国。

800年ごろの吐蕃の版図

 

[名称]

 

བོད་ཆེན་པོ(Bod chen po)とは、「チベット」(བོད、Bod)と「偉大な」(ཆེན་པོ、chen po)で構成され、「偉大なチベット」という意味である。 中国では、が吐蕃と呼んで以来、17世紀中ごろまでチベットの総称として使用され続けた。 日本では一般的に中国名の「吐蕃」を王朝名とした他、吐蕃王国、吐蕃帝国などの呼称が用いられており、呼称は定まっていない。

 

[概要]

- 詳細は「吐蕃 」を参照-

 

7世紀初めのソンツェンガンポによる統一以後、唐とは東部では吐谷渾(とよくこん)の帰属、南東部では南詔、北方では西域の東西通商路の支配権を巡って度々戦った。唐王室より公主(皇族の女性)を迎え和平を結ぶこともあったが、唐とはたびたび和平と抗争を繰り返した。

 

安史の乱以降は唐に対して軍事的優位を保ち、河西、隴右地区とシルクロードの大部分を支配するに至った。9世紀になるとチソンデツェン王が仏教を国教とする方針をたて(791年、サムイェー寺の宗論)、やがて仏教指導者が国政を行うようになり、大蔵経の訳出などが実施された。

 

822年には唐との間で、対等、平等の形式で国境画定と和平を定めた条約を締結した。その後ほどなく、国内で仏教をめぐって対立が起こり、また王位継承問題から南北に分裂、やがて滅亡した。


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