【 匈 奴 】

紀元前2世紀、匈奴とその周辺国

 

匈奴(きょうど、拼音: Xiōngnú)は、紀元前4世紀頃から5世紀にかけて中央ユーラシア に存在した遊牧民族および、それが中核になって興した遊牧国家(紀元前209年 - 93年)。モンゴル高原を中心とした中央ユーラシア東部に一大勢力を築いた。

 

[名称]

 

語源: 「匈奴」というのは彼らの自称した(もしくは他称された)民族名の音訳と考えられており、その語源については諸説ある。

葷粥(くんいく)の古代音「ヒュエンツュク」からきているとする説。

・「匈奴(Chiung-nu)」という名称はその始祖である「淳維(Chiun-yü)」からきているとする説。

 ただし史記の説に従えば、四方に住む全ての異民族は夏の末裔となる、あくまで根拠の示されないお伽

 話であり信憑性はない。

・「匈」「奴」ともに中国語における悪字で、匈は胸に通じ「匈匈」は喧騒・騒乱を意味する、奴も下に

 見た呼び方で、「匈奴」は騒乱を起こす連中の意、これを周・春秋戦国時代の北方民族の音写「葷粥」

 「胡貉」「昆夷」「玁狁」に当てたとする説。

・匈奴という族名はそのトーテム獣の名称であり、匈奴のトーテム獣はノヨン・オール(ノインウラ)匈

 奴王侯墳出土の縫込刺繍毛織物に見られる豕形奇獣がそうではないかとする説。

・また、中国の史書にでてくる「匈奴河水」という河川名が匈奴の語源なのか、匈奴が割拠していたから

 ついた河川名なのかは不明である。

 

[起源]

 

史書による起源:

史書における記述としては、『戦国策』、『山海経』、朝の詔勅文書を集めた『逸周書』(いずれも戦国時代末期~前漢初期の成立)に匈奴の名が登場する。直接的な言及は、『戦国策』・燕策・燕太子丹質于秦に登場するのが最も早期のもので、仮託した記述としては、『逸周書』・王会篇・湯四方献令に殷・周の時代の初めに犬やラクダ、馬、白玉、良弓を貢献する民族という記述がある。

 

考古学による起源:

スキタイは近年、東方起源説が有力になっている。墳墓の出土品(金製品など)から漢(中国)-匈奴(ブリャーチャ)-サルマタイ(西北カフカス)の間に交易が行われていたとされる。

 

[歴史]

-「歴史」・秦の時代以降の詳細は「匈奴・「歴史」・白登山の戦い以降」を参照-

紀元前210年、秦帝国と匈奴(上部)

紀元前2世紀、匈奴の最大版図とその周辺国 Xiongnu khanate=匈奴、Chinese Han Dynasty=前漢、Greco-Bactrian Kingdom=グレコ・バクトリア王国、Mauryan Empire=マウリヤ朝、Seleucid Empire=セレウコス朝

 

戦国時代: 紀元前318年、匈奴はの五国とともにを攻撃したが、五国側の惨敗に終わった。

 

趙の孝成王(在位:前265年 - 前245年)の時代、将軍の李牧雁門で匈奴を防ぎ、単于 の軍を撃破した。

 

秦の時代: 紀元前215年、秦の始皇帝は将軍のに匈奴を討伐させ、河南の地(オルドス地方)を占領して匈奴を駆逐するとともに、長城を修築して北方騎馬民族の侵入を防いだ。 単于の頭曼は始皇帝および蒙恬の存命中に中国へ侵入できなかったものの、彼らの死(前210年)によってふたたび黄河 を越えて河南の地を取り戻すことができた。ある時、単于頭曼は太子である冒頓を人質として西の大国である月氏へ送ってやった。しかし、単于頭曼は冒頓がいるにもかかわらず月氏を攻撃し、冒頓を殺させようとした。冒頓は命からがら月氏から脱出して本国へ帰国すると、自分に忠実な者だけを集めて単于頭曼を殺害し、自ら単于の位についた。

 

単于となった冒頓はさっそく東の大国である東胡に侵攻してその王を殺し、西へ転じて月氏を敗走させ、南の楼煩、白羊河南王を併合した。さらに冒頓は漢楚内戦中の中国へも侵入し、瞬く間に大帝国を築いていった。

 

以上の項目以外の「歴史」を含めた匈奴に関する記事の詳細は

匈奴・「歴史」・白登山の戦い以降」を参照-


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