【中国西南部のチベット族】

中国の西南部には、現在、漢族以外に29もの少数民族が暮らしているが、それはこの地域に古くから諸民族が移動してきた歴史を反映するもので、その移動は潜在的には今も続いているのである。

 

1970年代末、中国の著名な社会学者である費孝通(ひこうつう)氏は、四川・チベット・ 雲献にまたがって南北に流れる灘濡江(メコン川)、恐江(サルウィン川)、長江上流の金沙江(きんさこう)・雅聾江(がりゅうこう)・大渡河 岷江(びんこう)の河川流域、すなわち、六江流域に沿って諸民族が南下してきた移動ルートを「民族走廊」と呼び、その学術的意義を喚起した。

 

現在、これらの流域にはチベット系諸民族が分布・居住している。 言語調査によると、彼らは唐代初めの七世紀にチベットに興った吐蕃 (とばん)によって征服され、チベット化したチャン(羌)人系の先住民と推測されている。このことは、六江流域の諸民族の母胎をなすのが古代羌(ちゃん)系種族であったことを示唆する。 また岷江が四川盆地に流れ込むちょうど入り口に形成された扇状地で、近年、宝墩遺址 (ほうとんいし)を代表とする新石器晩期から商(殷)にかけての城址遺跡、すなわち四周を城壁で囲んだ広大な集落遺跡がいくつも発見されている。これらの建造者は羌系種族の南下とどのような関係があったのだろうか。

 

それではそもそも、「羌」とはどのような種族だったのか。 羌の来源について、古文献には、上代五帝のひとりである帝舜に放逐された三苗の子孫などと記されている。しかしそれは伝説にすぎない。羌の名が見える確実で最古の史料は、河南省安陽市の殷墟から出土した甲骨文で、その出現は少なくとも紀元前11世紀以前にさかのぼる。

 

甲骨文の研究によれば、この時代の羌の活動範囲は現在の甘粛省の大部分と陝西省西部におよぶ。彼らはしばしば商(股)と対立し、敗れて俘虜となった羌人は商(股)王室の祭肥の供犠に供された。のちに羌は商(股)の軍事的圧力に押されて西遷し、甘粛の羌は青海一帯に移った。さらに西方に周が興り、周の武王が股周革命で商(股)を倒したとき、周と通婚関係にあった羌はその放伐(ほうばつ) に協力する。そして、その功によって羌の諸侯は周の領土の一部を分け与えられ、斉(現山東省北部)・許(現河南省許昌東)・申(現陵西省と山西省の間)・呂(現河南省南陽西)・紀(現山東省寿光)・向(現安徽省懐運)・州(現山東省安丘)などを建国した。

 

これに対し、青海の河湟地区(黄海上流と湟水の交わる地区)に残った羌は、春秋・戦国時代(紀元前770~前221)になると、秦の圧迫を受ける。伝説によると、春秋時代末、秦の厲(厲共公)の奴隷だった爰剣(えんけん)は河湟地区に逃げ帰り、羌人に家畜の放牧と農耕を教えて部族の首領に推戴されたという。さらに戦国時代中期には、秦の献公が滑水河源地帯に西進してきたため、羌の一部は恐れて移動した。

 

これが、史上に見える羌の最初の大移動である。あるものはチベットに、あるものは新疆ウイグル自治区の天山南路に、またあるものは北上して内モンゴル自治区のエチナ(額済納)河流域に移動し、その一方で多くの羌は西南にも移動した。その過程を通じて、諸羌は各地でさまざまな部族となり、あるいは国家を建国し、その後さらに複雑な過程を重ねながら、現在のチベット(蔵)族・イ(彝)族・ぺー(白)族・ナシ(納西)族などの祖となったと考えられている。なかでも、四川省西北の岷江上流一帯に移動し、羌の文化を最も多く保存しているのが現在のチャン族とされているのである。

 

現在、チャン族は四川省の省都・成都の北に位置するアバ(阿填)チベット族チャン族自治州の茂県・びん川県・理県・黒水県・松潘県、カンゼ(甘孜)チベット族自治州および綿陽市北川県などに居住している。総人口は20万人足らずで、大半が茂県に集中する。言語はチベット=ビルマ語族のーグループに属し、南北二つの方言圏に分かれて、固有の文字はもっていない。北部方言圏はチベット族の、南部方言圏は漢族の影響を受けており、両方言圏が重なる境界地域にその伝統文化が最もよく保持されているとされる。すなわち、白石信仰 、独特の石造建築物であるちょう(石辺に周)楼、火葬の習俗・母権制家族の名残り等々である。

 

かつてチャン族の先祖が岷江(びんこう)上流域に進入してきたときの伝承は、今も口承文学として残されている。それが「羌戈(きょうか)大戦」で、先人はこの地で先住民・戈基人(かきじん=ガァチィ)の抵抗に遭ったが、天神の支援を得てようやく征服することができ、定住するに至ったという。この「羌戈大戦」は、チャン族最大の年中行事である祭山会において、「端公(たんこう)=シャーマン」と呼ばれる宗教職能者(チャン語ではシピ)が古代羌語で誦(うた)いながら実演する。

 

伝えられる内容を詳細に分析すれば、古代に西北の草原地帯から岷江上流域に移動してきた過程をたどれるはずであるが、残念なことに端公はみずから語るその古代羌語の意味をすでに知らない。四川大学でもこうした端公の誦経(ずきょう)を大量に録音・記録しているが、もはや解読するすべはないようである。そのため、岷江上流域のチャン族と六江流域に居住する諸民族の間に通底する文化の古層を調査し、両者の関係を具体的に実証していくことが急務とされている。

 

一方で「民族走廊」は、その西南において「西南シルクロード」とつながっている。 この交易路を発見したのは張騫(ちょうけん) である。北方遊牧騎馬民族の匈奴 を挺撃するため、前漢武帝によって西域大月氏国 に派遣された張審は、帰路に訪れた現在のアフガニスタン北部の国、大夏 のバザール(市)で「蜀布(しょくふ)と邛竹杖(きょうちくじょう)=邛産の竹筒に入った四川の名産、麻の細布」が 売られているのを目撃する。彼はその仕入れ先を尋ねて、身毒(インド)であることを知った。

 

これにより、濁(成都)から身毒を通過して大夏に至る交易ルートの 存在を推知し、その開拓を武帝に進言したことは有名な話である。 ただし、西南シルクロード自体に対する関心は、オアシスルートやステップルートに比べれば日本ではそれほど高くはない。しかし、中国では実地調査も含む多くの研究の蓄積があり、実態はしだいに明らかになりつつある。

 

張審は元狩元年(紀元前122)に帰朝すると、旬奴に邪魔されることなく西域に通じる方法として、成都を下って西南地方を迂回し、身毒(インド)を経て西域に至るルートの探索を武帝に進言した。武帝は王然于・柏始昌・呂越人らを使者として遣わし、身毒(インド)に至るルートを探索させることにした。使者たちが雲南の昆明湖 を中心とする西南夷(せいなんい)の大国・滇国 (てんこく) )に着くと、滇王嘗羌は彼らをその地に逗留させ、代わりに10余人を西方に派遣して探索させた。1年余りを費やした結果、昆明などの部族に道を邪魔されてついに失敗したという。

 

1986年、中国・西南師範大学の鄧廷良氏は、成都を出発して西南シルクロードを踏査し、翌年6月、中国とミヤンマーの国境地帯にたどり着いた。

 

成都を起点として、そこから東西二つの道に分かれる。東線は、水路で岷江に沿って楽山(らくざん)・宜賓(ぎひん) (以上、四川省)に下り、宜賓からは陸路で雲南省の昭通(しょうつう)に入り、赫章(かくしょう) (貴州省)からさらに曲靖(きょくせい)・昆明(こんめい)・楚雄(そゆう)・祥雲(しょううん)(以上、雲南省)に達する。 西線は、成都から邛崍(きょらい)・蘆山(ろざん)・雅安(があん)・漢源(かんげん)・濾沽(ろこ)・喜徳(きとく)・西昌(せいしょう)・塩源(えんげん)(以上、四川省)、そして雲南省の大姚(だいよう)・祥雲(しょううん)に至る。東西両線は祥雲の南、雲南駅で合流し、 ここから西進して、大理(だいり)・保山(ほざん)・騰沖(とうちゅう)を経てミヤンマー、インドに向かう。 この二大幹線のほかにも複数の支線があり、今後の調査によってはさらに隠れたルートも発見されるであろう。西南シルクロードは、太陽熱と寒風にさらされるオアシスルートと異なり、湿気の多い熱帯・亜熱帯をつなぐ道である。

 

出典:工藤元男著「民族走廊」