【ラヴェンナ】

ラヴェンナ(Ravenna)は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州にある人口約15万人のコムーネ(国の行政区画の中で最小の単位で、首長や地方議会などの自治制度があるものを指す)。ラヴェンナ県の県都である。

 

古代ローマ時代から中世にかけて繁栄した都市で、ラテン語ではラウェンナ(Ravenna)と呼ばれる。

 

西ローマ帝国や東ゴート王国が首都を置き、東ローマ帝国ラヴェンナ総督領の首府となった。「ラヴェンナの初期キリスト教建築物群」はユネスコの世界遺産に登録されている。

ラヴェンナの位置

 

ラヴェンナはラヴェンナ県の東部に位置し、フェラーラから南東へ66km、州都ボローニャから東へ69km、フィレンツェから北東へ105km、ヴェネツィアから南へ114kmの距離にある。

 

歴史的にはアドリア海に面した海港都市として築かれたラヴェンナであるが、現代のラヴェンナ市街は内陸に所在しており、海との間は直線距離で8kmほど離れている。ラヴェンナ市街とアドリア海との間は運河でつながっている。運河の出口にあたるマリーナ・ディ・ラヴェンナ(ラヴェンナ港) (Port of Ravenna) は、イタリアの重要な港湾のひとつである。

 

[歴史]

 

古代:

 

ローマ時代

紀元前49年、ユリウス・カエサルがルビコン川を横断する前に自分の軍をこの地に集結させた。 紀元前31年、アウグストゥス帝がマルクス・アントニウスとの戦いの後、ラヴェンナに城壁で守られた重要なローマ海軍の艦隊用軍港クラッシス(Classis)を築いた。

 

ラヴェンナは、ローマ支配下で大いに繁栄した。トラヤヌス帝は2世紀初頭、70kmの長さのローマ水道を建設した。402年、ホノリウス帝は西ローマ帝国の首都をミラノからラヴェンナへ遷都した。遷都には、第一に防衛目的があった。ラヴェンナは泥沢地と湿地に囲まれており、防御が容易であったし、また海に面しているために海上ルートからの東ローマ帝国軍による支援が容易な為であった。

 

ラヴェンナは、キリスト教が宮廷において手厚く保護されることにより平和の時代を謳歌することができた。その時代に建造された正教会の洗礼堂、ガラ・プラシディアの墓碑、サン・ジョバンニ・エヴァンジェリスタなどの有名な建造物が遺産として残されたのであった。(現在、キリスト教建造物が広範囲に保存されている)。

 

中世:

 

東ゴート王国の首都

テオデリックの宮殿のモザイク

 

476年、西ローマ帝国が滅亡すると、東ローマ皇帝ゼノンは傭兵隊長を経てローマ帝国のイタリア領主となっていたオドアケルからイタリア半島を奪還するために東ゴート王テオドリックを送り込んだ。ヴェローナの戦い後、オドアケルはラヴェンナへ退却し、リミニが攻略されラヴェンナの補給が断たれるまでテオドリックに3年間包囲された(ラヴェンナ包囲戦)、結果ラヴェンナは東ゴート王国の首都となった。

 

493年の後、テオドリックは世俗と信仰の建物(サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂近くの失われた宮殿を含む)のためローマ人建築家を雇い入れた。テオドリック宮殿は付属建築物であった。テオドリックと家臣たちはアリウス派であったが、ラテン人らと平和に共存していた。

 

526年にテオドリックは死に、後を継いだ娘アマラスンタは535年に殺害された。

 

東ローマ帝国ラヴェンナ総督領

6世紀のキリストのモザイク画

長髪で髭を伸ばし、ギリシャ=ローマ風の聖職者か王族のような衣装を着ている

 

527年に即位した東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世は、ローマ帝国復興と正統教義擁護を掲げ、東ゴート支配にもキリスト教アリウス派にも反対していた。東ゴート王国の内紛による混乱に乗じたユスティニアヌス1世は、535年に将軍ベリサリウスらを派遣してイタリアに侵攻した(ゴート戦争)。540年、東ゴート王ウィティギスは降伏し、ベリサリウスはラヴェンナを占領した。ラヴェンナは東ローマ帝国政府のイタリアにおける首都となった。

 

ラヴェンナでの帝国の復活(ユスティニアヌス1世の外征でローマ帝国時代の旧領を取り戻したことを指す)も、クラッシス港のお蔭でもあった。この時代を代表する遺跡は、サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂(6世紀から7世紀)である。クラッシス(軍港)はすでにローマ時代には築かれていたのであるが、ラヴェンナの成長が著しかったのは帝国の末期であった。

 

ラヴェンナの港として、クラッシスは6世紀から7世紀のカギとなる交易の玄関口であり、イタリア・アドリア海沿岸の主要港であった。 皇帝マウリキウスはラヴェンナに総督府を置いた。 6世紀から7世紀にかけ、総督領はロンゴバルド王国とフランク王国に脅かされ、聖像破壊運動によって東西のキリスト教会は裂かれた。教皇庁とコンスタンティノープル総主教庁との競争が苛烈を極め、総督領の状況は支持されなくなっていった。 リウトプランド王時代のロンゴバルド王国が、712年にラヴェンナを占領した。しかし東ローマ帝国に市を返還させられた。751年、ロンゴバルド王アイストゥルフがラヴェンナ征服を継承し、この前後に最後のラヴェンナ総督エウティキウスが戦死した。 北イタリアでの東ローマ支配は終わった。

 

ピピンの寄進と教皇領

旧東ローマ帝国領を狙うローマ教皇ステファヌス2世は、フランク王国の小ピピンに加勢を求め、ロンゴバルド王国を攻撃させた。旧総督領の征服を完了した小ピピンは、征服した土地を教皇へ寄進し、784年にラヴェンナは教皇領となった。その見返りとして、小ピピンの子カール大帝は教皇庁から後押しを受けるようになった。

 

ハドリアヌス1世はカール大帝に対し、ラヴェンナから好みの物をどんなものも与えると認めた。カール大帝は3度の遠征で略奪を行い、ローマ時代の円柱、モザイク、像、その他持っていけるだけの品物を彼の首都アーヘンを富ませた。

 

教皇庁支配のもと、ラヴェンナ大司教はローマ教会からの独立教会の立場を謳歌した。東ローマ支配下で特権を獲得していたのである。リウドルフィング朝の皇帝らの寄進のため、ラヴェンナ大司教は教皇庁の次にイタリアで2番目に裕福であり、時に教皇の世俗的な権威を変えることができた。

 

シニョーリたち、ヴェネツィア共和国

ラヴェンナのポポロ広場

 

1218年の戦争後、トラヴェルサーリ家がラヴェンナ支配を行い、1240年まで続いた。

 

短期間の皇帝代理支配後、1248年にラヴェンナは教皇領へ戻り、ダ・ポレンタ家が1275年まで長期のシニョリーア制(事実上の君主制)を敷いた後、トラヴェルサーリ家が再び実権を掌握した。

 

ダ・ポレンタ家の最後のシニョーリ、オスタジオ3世は1440年にヴェネツィア共和国によって追われ、ラヴェンナはヴェネツィアの領土に併合された。

 

ヴェネツィアによる支配は1509年まで続き、ラヴェンナ周辺はイタリア戦争の過程で侵略された。1512年、カンブレー同盟戦争の最中、ラヴェンナはフランス軍に略奪された。

 

教皇領への復帰

ヴェネツィアが後退させられると、ラヴェンナは再度教皇領の一部として、教皇の全権委任大使による支配をうけることになった。

 

1636年5月、市はすさまじい洪水で被害を受けた。続く3世紀以上、運河網が近くの河川の流れを変え、湿地を干拓した。洪水の発生する可能性が減り、市の周りに広大な農業用のベルト地帯がつくられた。

 

近代・現代

1796年まで教皇領であったラヴェンナは、フランスの傀儡国家チサルピナ共和国(1802年からイタリア共和国、1805年からイタリア王国)に併合された。ナポレオン没落後の1814年、教皇庁へ戻された。

 

1859年、サルデーニャ王国軍に占領された。1861年にラヴェンナと周囲のロマーニャ地域は、新規に統合されたイタリア王国の一部となった。

 

第二次世界大戦では、1943年9月から1945年4月までの間、連合国側による攻撃にさらされた。イタリア解放のための攻撃に耐えたラヴェンナを讃え、1951年5月19日にヴァロール・ミリターレ金勲章が共和国政府から与えられた。


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