【東ローマ帝国(ビザンツ帝国)】

東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の国のひとつであり、東側の領域である。

 

ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。

 

西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブル)であった。

 

西暦476年に西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスが当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。

 

また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。

東ローマ帝国の版図の変遷

[名称]

 

建国

この国家(およびその類似概念)については、いくつかの呼び方が行われている。

 

ローマ帝国

この国家の政府や住民は自国を単に「ローマ帝国(ラテン語:Imperium Romanum,ギリシア語:Basileia tōn Rhōmaiōn)」と称していた。ローマ帝国本流を自認する彼らが「ビザンティン帝国」、「ビザンツ帝国」といった呼び方をしたことはない。

 

後述するように、中世になると帝国の一般民衆はギリシア語話者が多数派となるが、彼らは自国をギリシア語で「ローマ人の土地」と呼んでおり、また彼ら自身も「ギリシア人( Hellēnes)」(「ギリシア人という言葉はビザンツ時代は蔑視語で、異教徒や偶像崇拝者を意味したとされる)ではなく「ローマ人(Rhōmaioi)」を称していた。

 

東ローマ帝国

古代のローマ帝国はあまりに広大な面積を占めていたため、3世紀以降にはこれをいくつかの部分に分け、複数の君主が分割統治するという体制がとられることとなった。さらに、4世紀前半のコンスタンティノポリス遷都により、政治的にも「東の部分」が帝国の中心であることが明白となった。395年のテオドシウス1世の死後、長男アルカディウスは東を、次男ホノリウスは西を分割統治するようになり、帝国の「西の部分」と「東の部分」はそれぞれ別個の途を歩むこととなった。これ以降の帝国の「東の部分」を指して、「東ローマ帝国」という通称が使われている。 ビザンツ帝国、ビザンティン帝国、ビザンティオン帝国 ローマ国家自体は古代から1453年まで連綿と続いたものであり、上述の通り「東ローマ帝国」の住民も自らの国家を「ローマ帝国」と認識していた。

 

ところが、この時期のこの国家は「古代ローマ帝国」とは文化や領土等の面で違いがあまりにも顕著となっていたため、便宜上、別の名称が使用されるようになった。「ビザンツ」「ビザンティン」は、すでに帝国が滅びて久しい19世紀以降に使われるようになった通称である。いずれも首都コンスタンティノポリスの旧称ビュザンティオンに由来している。「ビザンティン」は英語の形容詞 Byzantine に、「ビザンツ」はドイツ語の名詞 Byzanz、「ビザンティオン」は古典ギリシア語の名詞に由来している。日本語での呼称は、歴史学では「ビザンツ」が、美術・建築などの分野では「ビザンティン」が使われることが多い。「ビザンティオン帝国」は、英語やドイツ語表記よりも古典ギリシア語表記を重視する立場の研究者によって使用されている。ただし、この呼称は6〜7世紀以降のこの帝国を指して使われることが多く、その点で、4世紀末以降の「東ローマ帝国」とはややその概念を異にしている。

 

ギリシア帝国、コンスタンティノープルの帝国 カール大帝の戴冠による「西ローマ帝国」復活以降は、西欧でこの国を指す際には「ギリシアの帝国」「コンスタンティノープルの帝国」と呼び、コンスタンティノポリスの皇帝を「ギリシアの皇帝」と呼んでいた。東ローマ帝国と政治的・宗教的に対立していた西欧諸国にとっては、カール大帝とその後継者たちが「ローマ皇帝」だったのである。

 

また、例えば桂川甫周は、著書『北槎聞略』において蘭書『魯西亜国誌』(Beschrijving van Russland ) の記述を引用し、「ロシアは元々王爵の国であったが、ギリシアの帝爵を嗣いではじめて帝号を称した」と述べている。

 

ローマ帝国の継承者を自称したロシア帝国であるが、ルーシの記録でも東ローマを「グレキ」(ギリシア)と呼んでおり、東ローマ帝国をギリシア人の帝国だと認識していた。

 

中世ローマ帝国

この国家を「東ローマ帝国」「ビザンツ帝国」「ギリシア帝国」と呼ぶのは中立的でないとし、少なくとも日本における呼称としては適切でないとする見解が日本の学界の一部では古くから主張されており、そこでは「中世ローマ帝国」の呼称が提案されてきた。この呼称はなかなか普及しなかったが、1980年に渡辺金一が普及力の強い岩波新書における自らの著書の題名に冠したことにより、一般の読書人にも知られるようになった。

 

[概要]

 

初期の時代は、内部では古代ローマ帝国末期の政治体制や法律を継承し、キリスト教(正教会)を国教として定めていた。また、対外的には東方地域に勢力を維持するのみならず、一時は旧西ローマ帝国地域にも宗主権を有していた。しかし、7世紀以降は相次いだ戦乱や疫病などにより地中海沿岸部の人口が激減、長大な国境線を維持できず、サーサーン朝ペルシアやイスラム帝国により国土を侵食された。

 

8世紀末にはローマ教皇との対立などから西方地域での政治的影響力も低下した。 領土の縮小と文化的影響力の低下によって、東ローマ帝国の体質はいわゆる「古代ローマ帝国」のものから変容した。「ローマ帝国」と称しつつも、住民の多くがギリシア系となり、7世紀には公用語もラテン語からギリシア語に変わった。これらの特徴から、7世紀以降の東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と評す者もいる。「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」も、この時代以降に対して用いられる場合が多い。

 

9世紀には徐々に国力を回復させ、皇帝に権力を集中する政治体制を築いた。

11世紀前半には、東ローマ帝国はバルカン半島やアナトリア半島東部を奪還し、東地中海の大帝国として最盛期を迎えたが、それも一時的なもので、その後は徐々に衰退していった。

 

11世紀後半以降には国内の権力争いが激化し、さらに第4回十字軍の侵攻と重なったことから一時首都コンスタンティノポリスを失い、各地に亡命政権が建てられた。

 

その後、亡命政権のひとつニカイア帝国によってコンスタンティノポリスを奪還したものの、内憂外患に悩まされ続けた。文化的には高い水準を保っていたが、領土は次々と縮小し、帝国の権威は完全に失われた。そして1453年、西方に支援を求めるものの大きな援助はなく、オスマン帝国の侵攻により首都コンスタンティノポリスは陥落し、東ローマ帝国は滅亡した。

 

日本ではあまり知られていないが、古代ギリシア文化の伝統を引き継いで1000年余りにわたって培われた東ローマ帝国の文化は、正教圏各国のみならず西欧のルネサンスに多大な影響を与え、「ビザンティン文化」として高く評価されている。また、近年はギリシャだけでなく、イスラム圏であったトルコでもその文化が見直されており、建築物や美術品の修復作業が盛んに行われている。

 

[歴史]

 

東ローマ帝国は「文明の十字路」と呼ばれる諸国興亡の激しい地域にあったにもかかわらず、4世紀から15世紀までの約1000年間という長期にわたってその命脈を保った。その歴史はおおむね以下の3つの時代に大別される。なお、下記の区分のほかには、マケドニア王朝断絶(1057年)後を後期とする説がある。

 

前史

コンスタンティヌス1世がローマからコンスタンティノポリスへ遷都した330年をもってビザンツ(東ローマ)帝国史の始まりとする場合もある。たとえば著名なビザンツ史学者ゲオルク・オストロゴルスキーの『ビザンツ帝国史』では、遷都直前の324年(テトラルキアの内戦Civil wars of the Tetrarchyが終結した年)を始点としている。

 

378年、皇帝ウァレンスがハドリアノポリスの戦い(ゴート戦争)で敗死。 390年、ゴート族Buthericusの逮捕のために、テオドシウス1世が派遣した軍によるテッサロニカの虐殺が起こった。(ギリシアの歴史に残る最初の虐殺である。

 

前期(395年 - 610年頃

[再興と挫折]

本項では、統一されたローマ帝国の最後の皇帝となったテオドシウス1世が395年の死に際し、長男アルカディウスに帝国の東半分「東ローマ帝国」を、次男ホノリウスに西半分「西ローマ帝国」を、継がせた時点をもって帝国の始まりとしている。

 

第2代皇帝テオドシウス2世(401年 - 450年)は、パンノニアに本拠地を置いたフン族の王アッティラにたびたび侵入されたため、首都コンスタンティノポリスに難攻不落の大城壁テオドシウスの城壁を築き、ゲルマン人やゴート人に対する防御力を高める事に専心した。

 

第3代皇帝マルキアヌス(450年 - 457年)は、451年にカルケドン公会議を開催し、第2エフェソス公会議以来の問題となっていたエウテュケスの唱えるエウテュケス主義や単性説を改めて異端として避け、三位一体を支持し、東西教会の分裂を避ける事に尽力した。

 

453年にアッティラが急死するとフン族は急速に弱体化し、フン族への献金を打ち切った。

 

マルキアヌスが急死すると、第4代皇帝にレオ1世(457年 - 474年)が据えられたが、アラン人のパトリキでマギステル・ミリトゥムだったアスパルの傀儡であった。しかし、471年にアスパル父子を殺害してレオ朝を確立することに成功した。

 

西ローマ帝国はゲルマン人の侵入などで急速に弱体化し、476年に滅亡した。

 

東ゲルマン族のスキリア族のオドアケルは西ローマ皇帝を退位させ、自らは帝位を継承せずに東ローマ皇帝ゼノン(474年 - 491年)に対して帝位を返上し、イタリア王としてイタリア半島を支配下にした。

 

東ローマはゲルマン人の侵入を退けて古代後期ローマ帝国の体制を保ち、コンスタンティノポリスの東ローマ政府が唯一のローマ帝国の正系となった。イタリア王のオドアケルは、東ローマ皇帝の代官として振る舞い、西ヨーロッパのゲルマン人諸国やローマ教皇に宗主権を認めさせた。 西ローマと違って東ローマがゲルマン人を退けることが出来た理由は

・アナトリア・シリア・エジプトのような、ゲルマン人の手の届かない地域に豊かな穀倉地帯を保持して

 いた。対する西ローマ帝国は穀倉地帯であるシチリアを、ゲルマン人に奪われた。

・アナトリアのイサウリア人のようにゲルマン人に対抗しうる勇猛な民族がいた。

・西ゴート人や東ゴート人へ貢納金を払って西方へ移動させた ただし、これによって西ローマ側の疲弊

 は進んだ。

・首都コンスタンティノポリスに難攻不落の大城壁を築いていたことなどが挙げられる。

 

しかし488年にイタリア王オドアケルが東ローマ帝国へ内政干渉したことがきっかけとなり、東ローマ皇帝ゼノンがオドアケル追討を命じた。

 

489年に東ゴート族のテオドリックがイタリア侵攻を開始した。491年、皇帝ゼノンが急死し、皇后アリアドネはアナスタシウス1世(491年 -518年)と結婚して皇帝に据え、混乱を防いだ。493年にオドアケルは暗殺され、テオドリックが東ゴート王国(497年-553年)を建国した。

 

名君アナスタシウス1世の下で東ローマ帝国は力を蓄えたが、その一方で、単性論寄りの宗教政策によってカトリック教会と対立が再び表面化した。

 

502年のAnastasian Warが長きにわたるサーサーン朝とのビザンチン・サーサーン戦争の発端となった。アナスタシウス1世が急死すると、次のユスティヌス1世(518年 - 527年)はローマ教皇との関係修復に腐心することになった。

 

6世紀のユスティニアヌス1世(527年 - 565年)の時代には、相次ぐ遠征や建設事業で財政は破綻し、それを補うための増税で経済も疲弊。名将ベリサリウスの活躍により旧西ローマ帝国領のイタリア半島・北アフリカ・イベリア半島の一部を征服し、533年のアド・デキムムの戦いでヴァンダル族を破ってカルタゴを奪還すると、ヴァンダル戦争(533年 - 534年)で地中海沿岸の大半を再統一することに成功した。特にこの時期、442年(455年)以来ヴァンダル族に占領されていた旧都・ローマを奪還した事は、東ローマ帝国がいわゆる「ローマ帝国」を自称する根拠となった。

 

528年にトリボニアヌスに命じてローマ法の集成である『ローマ法大全』の編纂やハギア・ソフィア大聖堂の再建など、後世に残る文化事業も成したが、529年にはギリシャの多神教を弾圧し、プラトン以来続いていたアテネのアカデメイアを閉鎖に追い込み、数多くの学者がサーサーン朝に移住していった。

 

535年のインドネシアのクラカタウ大噴火の影響で535年から536年の異常気象現象に見舞われた。

 

イタリア半島においてはゴート戦争(535年 – 554年)が始まる。543年、黒死病(ユスティニアヌスのペスト)。ラジカ王国をめぐるサーサーン朝ペルシアとの抗争(ラジカ戦争)で手がまわらなくなると、スラヴ人(542年)・アヴァール(557年)などの侵入に悩まされた。

 

546年に東ゴート軍は、イサウリア人の裏切りによってローマを陥落させることに成功し、この時のローマ略奪と重税によって、いわゆる「ローマの元老院と市民」(SPQR)が消滅し、古代ローマはこの時滅亡したのだと主張する学者もいる。

 

552年にナルセス将軍が派遣され、ブスタ・ガロールムの戦い、タギナエの戦いでトーティラを敗死させ、東ゴートは滅亡した。翌年、イタリア半島は平定された。

ユスティニアヌス1世時代の東ローマ帝国(青)。

青と緑色部分はトラヤヌス帝時代のローマ帝国最大版図。

赤線は東西ローマの分割線

ユスティニアヌス1世

565年にユスティニアヌス1世が没すると、568年にはアルプス山脈を越えて南下したゲルマン系ランゴバルド人によってランゴバルド王国が北イタリアに建国された。

 

558年、突厥の西面(現イリ)の室点蜜はサーサーン朝のホスロー1世との連合軍でエフタルを攻撃し、567年頃に室点蜜はエフタルを滅ぼした。その後、室点蜜とホスロー1世の関係が悪化し、568年に室点蜜からの使者が東ローマ帝国を訪れた。

 

572年から始まったビザンチン・サーサーン戦争 (572年-591年)で、東ローマ帝国もサーサーン朝に対抗する同盟相手を求めていたため、576年に達頭可汗にサーサーン朝を挟撃することを提案した。588年、第一次ペルソ・テュルク戦争でサーサーン朝を挟撃した。

 

598年、達頭可汗がエフタルとアヴァール征服を東ローマ帝国の皇帝マウリキウスに報告した。602年にユスティニアヌス朝で政変が起こりマウリキウスが殺され、混乱の中でフォカスが帝位を僭称した。

 

7世紀になると、サーサーン朝にエジプトやシリアといった穀倉地帯を奪われるにまで至った(サーサーン朝のエジプト征服)。フォカスは、逆襲のためにサーサーン朝ペルシアへ侵攻した(ビザンチン・サーサーン戦争 (602年 - 628年)。

 

中期(610年頃 - 1204年

[危機と変質 (7世紀 - 8世紀)]

608年にカルタゴのアフリカ総督大ヘラクレイオスが反乱を起こし、610年にカルタゴ総督・大ヘラクレイオスの子のヘラクレイオス(在位 : 610年 - 641年)が皇帝に即位した。ヘラクレイオスは、西突厥の二度にわたる戦争(第二次ペルソ・テュルク戦争、第三次ペルソ・テュルク戦争)に助けられ、シリア・エジプトへ侵攻したサーサーン朝ペルシアをニネヴェの戦い (627年)で破るなどして東ローマ・サーサーン戦争 (602年-628年)に勝利し、領土を奪回することに成功した。

 

627年にハザールを主力とする「東のテュルク」と同盟を結んだが、628年に統葉護可汗が殺され、後継者問題にゆれる西突厥との同盟関係は失われた。

 

[アラブ・東ローマ戦争(629年頃 - 1050年代)]

イスラーム教徒のペルシア征服(633年 - 644年)を開始したイスラム帝国(正統カリフ)は、カーディスィーヤの戦いでメソポタミアからペルシアを駆逐して間もなく、シリア地方への攻撃を開始した。

 

636年にヤルムークの戦いで東ローマ軍は敗北し、シリア・エジプトなどのオリエント地域や北アフリカを再び失ってしまった。

 

641年、ヘラクレイオスが死亡すると、コンスタンティノス3世とヘラクロナスとの間で後継者問題が起き、コンスタンス2世が即位して落ち着いた。

 

651年、ウスマーン率いるイスラム帝国(正統カリフ)がサーサーン朝を滅ぼす(オクサス川の戦い)。東ローマ軍は、655年にアナトリア南岸のリュキア沖での海戦(マストの戦い)でイスラム軍(正統カリフ)に敗れた後は東地中海の制海権も失った。

 

656年、イスラム帝国内で第三代カリフのウスマーンが暗殺され、第一次内乱(656年 - 661年)が始まる。

 

661年、ウマイヤ朝が成立。 674年から678年までのコンスタンティノポリス包囲戦では、連年イスラム海軍(ウマイヤ朝)に包囲され、東ローマ帝国は存亡の淵に立たされたが、難攻不落の大城壁と秘密兵器「ギリシアの火」を用いて撃退することに成功した。

ギリシア火薬を用いてアラブ船を攻撃するローマ軍

 

680年にはオングロスの戦いでテュルク系ブルガール人に破れ、681年の講和で北方に第一次ブルガリア帝国が建国された(ブルガリア・東ローマ戦争、680年 - 1355年)。

 

698年、カルタゴの戦いではイスラム軍(ウマイヤ朝)に敗れ、カルタゴを占領されてカイラワーンに拠点を構築された。その後も8世紀を通じてブルガリアから攻撃を受けたために、領土はアナトリア半島とバルカン半島の沿岸部、南イタリアの一部(マグナ・グラエキア)に縮小した。公用語がラテン語からギリシア語へと変わったのはこの時代である。

 

717年に即位したイサウリア王朝の皇帝レオーン3世は、718年にイスラム帝国軍(ウマイヤ朝)を撃退(第二次コンスタンティノポリス包囲戦)。以後イスラム側の大規模な侵入はなくなり、帝国の滅亡は回避された。

 

しかし、宗教的には726年にレオーン3世が始めた聖像破壊運動などで東ローマ皇帝はローマ教皇と対立し、カトリック教会との乖離を深めた。聖像破壊運動は東西教会ともに787年、第2ニカイア公会議決議により聖像擁護を認めることで決着したが、両教会の教義上の差異は後にフィリオクェ問題をきっかけとして顕在化した。

 

女帝エイレーネー(イリニ)治下の800年、ローマ教皇がフランク王カール1世(カール大帝)に「ローマ皇帝」の帝冠を授け、802年10月31日のクーデターでニケフォロス1世が即位し、803年にパクス・ニケフォリを締結したが、政治的にも東西ヨーロッパは対立。古代ローマ以来の地中海世界の統一は完全に失われ、地中海はフランク王国・東ローマ・イスラムに三分された。

 

イスラム軍(アッバース朝)とは、804年のBattle of Krasos、806年のAbbasid invasion of Asia Minor (806)で戦火を交えたが敗北し、貢納金を支払う条件で和約を結んだ。811年には第一次ブルガリア帝国に侵攻したが、撤退時のプリスカの戦いで皇帝ニケフォロス1世が殺害され、後継者問題が起こった。

 

ミカエル1世ランガベーが皇帝に即位し、対立していたフランク王国と妥協し、カール大帝の皇帝就任を承認。813年にヴェルシニキアの戦いで再び第一次ブルガリア帝国に敗北し、レオーン5世への譲位を余儀なくされた。814年に第一次ブルガリア帝国のクルムが死去すると、オムルタグと30年不戦条約を結んだ。

 

827年にアラブ人(アッバース朝支配下のアグラブ朝)がシチリア島へ侵攻し(ムスリムのシチリア征服、827年-902年)、シチリア首長国((831年 - 1072年)が成立。902年にイブラーヒーム2世がタオルミーナを攻略してシチリア島の征服が完了した。

 

こうして東ローマ帝国は「ローマ帝国」を称しながらも、バルカン半島沿岸部とアナトリアを支配し、ギリシア人・正教会・ギリシア文化を中心とする国家となった。このことから、これ以降の東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と呼ぶこともある。

 

[最盛期(9世紀 - 11世紀前半)]

9世紀になると国力を回復させ、バシレイオス1世が開いたマケドニア王朝(867年 - 1057年)の時代には政治・経済・軍事・文化の面で発展を遂げるようになった。

1025年の東ローマ帝国

一方、東ローマ皇帝とローマ教皇の対立はフィリオクェ問題をきっかけとして再び顕在化した。バシレイオス1世はローマ教会との関係改善を謀ってフォティオスを罷免した「フォティオスの分離」などによって亀裂を深め、東西両教会は事実上分裂した。

 

政治面では中央集権・皇帝専制による政治体制が確立し、それによって安定した帝国は、かつて帝国領であった地域の回復を進め、東欧地域へのキリスト教の布教も積極的に行った。また文化の面でも、文人皇帝コンスタンティノス7世の下で古代ギリシア文化の復興が進められた。これを「マケドニア朝ルネサンス」と呼ぶこともある。

 

10世紀末から11世紀初頭の3人の皇帝ニケフォロス2世フォカス、ヨハネス1世ツィミスケス、バシレイオス2世ブルガロクトノスの下では、北シリア・南イタリア・バルカン半島全土を征服して、東ローマ帝国は東地中海の大帝国として復活。東西交易ルートの要衝にあったコンスタンティノープルは人口30万の国際的大都市として繁栄をとげた。

軍装のバシレイオス2世 東ローマ帝国の全盛期を現出した

[衰退と中興(11世紀後半 - 12世紀)]

1011年、西からノルマン人の攻撃を受けた(ノルマン・東ローマ戦争、1011年 - 1185年)。 しかし、1025年にバシレイオス2世が没すると、その後は老齢・病弱・無能な皇帝が続き、大貴族の反乱や首都市民の反乱が頻発して国内は混乱した。

1040年にはブルガリア でPeter Delyanの反乱が起こり、ピレウスも呼応して蜂起した。

 

[セルジューク・東ローマ戦争(1055年 - 1308年)]

1055年、セルジューク・東ローマ戦争が始まり、1071年にはマラズギルト(マンジケルト)の戦いでトルコ人のセルジューク朝に敗れたため、東からトルコ人が侵入して領土は急速に縮小した。

 

小アジアのほぼ全域をトルコ人に奪われ、ノルマン人のルッジェーロ2世には南イタリアを奪われた。 1081年に即位した、大貴族コムネノス家出身の皇帝アレクシオス1世コムネノス(在位:1081年 - 1118年)は婚姻政策で地方の大貴族を皇族一門へ取りこみ、帝国政府を大貴族の連合政権として再編・強化することに成功した。また、当時地中海貿易に進出してきていたヴェネツィアと貿易特権と引き換えに海軍力の提供を受ける一方、ローマ教皇へ援軍を要請し、トルコ人からの領土奪回を図った。

 

アレクシオス1世と、その息子で名君とされるヨハネス2世コムネノス(在位:1118年 - 1143年)はこれらの軍事力を利用して領土の回復に成功し、小アジアの西半分および東半分の沿岸地域およびバルカン半島を奪回。東ローマ帝国は再び東地中海の強国の地位を取り戻した。

ヨハネス2世コムネノス

彼の下で帝国は再び繁栄の時代を迎えた。

ヨハネス2世の後を継いだ息子マヌエル1世コムネノス(在位:1143年 - 1180年)は有能で勇敢な軍人皇帝であり、ローマ帝国の復興を目指して神聖ローマ帝国との外交駆け引き、イタリア遠征やシリア遠征、建築事業などに明け暮れた。しかし度重なる遠征や建築事業で国力は疲弊した。特にイタリア遠征、エジプト遠征は完全な失敗に終わり、ヴァネツィアや神聖ローマ帝国を敵に回したことで西欧諸国との関係も悪化した。

 

1176年には、アナトリア中部のミュリオケファロンの戦いでトルコ人のルーム・セルジューク朝に惨敗した。犠牲者のほとんどはアンティオキア公国の軍勢であり、実際はそれほど大きな負けではなかったらしいが、この敗戦で東ローマ帝国の国際的地位は地に落ちた。

 

[分裂とラテン帝国(12世紀末 - 13世紀初頭)]

1180年にマヌエル1世が没すると、地方における大貴族の自立化傾向が再び強まった。アンドロニコス1世コムネノス(在位:1183年 - 1185年)は強権的な統治でこれを押さえようとしたが失敗し、アンドロニコス1世に替わって帝位についたイサキオス2世アンゲロス(在位:1185年 - 1195年)が無能だったこともあって皇帝権力は弱体化した。

 

またセルビア王国(1171年)・第二次ブルガリア帝国(1185年)といったスラヴ諸民族も帝国に反旗を翻して独立し、帝国は急速に衰微していった。

 

[第4回十字軍]

十字軍兵士と首都市民の対立やヴェネツィアと帝国との軋轢も増し、1204年4月13日、第4回十字軍はヴェネツィアの助言の元にコンスタンティノポリスを陥落させてラテン帝国を建国。東ローマ側は旧帝国領の各地に亡命政権を建てて抵抗することとなった。

 

後期(1204年 - 1453年)

[帝国の再興(1204年 - 1261年)]

第4回十字軍による帝都陥落後に建てられた各地の亡命政権の中でもっとも力をつけたのは、小アジアのニカイアを首都とするラスカリス家のニカイア帝国(ラスカリス朝)だった。ニカイア帝国は初代のテオドロス1世ラスカリス(在位:1205年 - 1222年)、2代目のヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス(在位:1222年 - 1254年)の賢明な統治によって国力をつけ、ヨーロッパ側へも領土を拡大した。

 

[モンゴル襲来(1223年 - 1299年)]

周辺国では、1223年のカルカ河畔の戦い以来、モンゴル帝国による東欧侵蝕(チンギス・カンの西征、モンゴルのヨーロッパ侵攻)が始まり、1242年にはジョチ・ウルスがキプチャク草原に成立し、1243年のキョセ・ダグの戦いでルーム・セルジューク朝がモンゴル帝国(1258年にイルハン朝に分裂)の属国化し、1245年のヤロスラヴの戦いではハールィチ・ヴォルィーニ大公国がジョチ・ウルスの属国化した。

 

3代目のニカイア皇帝テオドロス2世ラスカリス(在位:1254年 - 1258年)の死後、摂政、ついで共同皇帝としてミカエル8世パレオロゴス(在位:1261年 - 1282年)が実権を握った。

 

1259年9月、ペラゴニアの戦いで、アカイア公国・エピロス専制侯国・シチリア王国の連合国軍をニカイア帝国(東ローマ亡命政権)軍が破り、1261年にはコンスタンティノポリスを奪回。東ローマ帝国を復興させて自ら皇帝に即位し、パレオロゴス王朝(1261年 - 1453年)を開いた。

 

フレグの西征で1258年にはイルハン朝がイラン高原に成立していた。さらに1260年にモンケが没して帝位継承戦争が勃発し、1262年11月にはベルケ・フレグ戦争でジョチ・ウルスとイルハン朝の争いが始まる中、東ローマ帝国はジョチ・ウルスと直接接触することになった。

 

1265年に、ノガイ・ハーン率いるジョチ・ウルス軍がトラキアに侵攻し、ミカエル8世パレオロゴスの軍は敗北し、ジョチ・ウルスと同盟することになった。その後も1271年、1274年、1282年、1285年にモンゴル軍はヴォルガ・ブルガールに侵攻していた。

1265年のバルカン半島及び小アジア

1277年に第二次ブルガリア帝国でイヴァイロの蜂起が起こり、ミカエル8世とノガイ・ハーンが介入し、1285年に第二次ブルガリア帝国はジョチ・ウルスに従属した。

 

この間の1282年に、テッサリアで反乱が起こり、ノガイ・ハーンはトラキアへミカエル8世への援軍を送ったが、ミカエル8世は病気になり急死した。ミカエル8世の息子・アンドロニコス2世パレオロゴスは、援軍をブルガリアと同盟するセルビア王国攻撃に用いた。

 

1286年に、セルビア王国のステファン・ウロシュ2世ミルティンが講和を申し入れた。 アンドロニコス2世パレオロゴス(在位:1282年 - 1328年)の時代以降、軍事的な圧力が強まる中で1299年にノガイ・ハーンが死亡して強力な同盟を失うと、かつての大帝国時代のような勢いが甦ることは無く、祖父と孫、岳父と娘婿、父と子など皇族同士の帝位争いが頻発し、経済もヴェネツィア・ジェノヴァといったイタリア諸都市に握られてしまい、まったく振るわなくなった。そこへ西からは十字軍の残党やノルマン人・セルビア王国に攻撃された。

 

[オスマン・東ローマ戦争(1326年 - 1453年)]

1352年に東からオスマン帝国のオルハンに攻撃されてブルサを奪取され(ビザンチン内戦 (1352年 - 1357年))、1352年には領土は首都近郊とギリシアのごく一部のみに縮小。

 

14世紀後半の共同皇帝ヨハネス5世パレオロゴス(在位:1341年 - 1391年)とヨハネス6世カンタクゼノス(在位:1347年 - 1354年)は、1354年のガリポリ陥落でオスマン帝国スルタンのオルハンに臣従し、帝国はオスマン帝国の属国となってしまった。

 

1380年のクリコヴォの戦いで急速に国力を増大したモスクワ大公国がジョチ・ウルスを破り、周辺国でも激動の時代であった。東ローマ帝国滅亡後に、モスクワ大公国は正教会の擁護者の位置を占めることになる。

 

14世紀末の皇帝マヌエル2世パレオロゴス(在位:1391年 - 1425年)は、窮状を打開しようとフランスやイングランドまで救援を要請に出向き、マヌエル2世の二人の息子ヨハネス8世パレオロゴス(在位:1425年 - 1448年)とコンスタンティノス11世ドラガセス(在位:1449年 - 1453年)は東西キリスト教会の再統合を条件に西欧への援軍要請を重ねたが、いずれも失敗に終わった。

 

この時期の帝国の唯一の栄光は文化である。古代ギリシア文化の研究がさらに推し進められ、後に「パレオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれた。このパレオロゴス朝ルネサンスは、帝国滅亡後にイタリアへ亡命した知識人たちによって西欧へ伝えられ、ルネサンスに多大な影響を与えた。

 

[滅亡(1453年)]

1453年4月、オスマン帝国第7代スルタンのメフメト2世率いる10万の大軍勢がコンスタンティノポリスを包囲した。ハンガリー人のウルバンが開発したオスマン帝国の新兵器『ウルバン砲』による砲撃に曝され圧倒的に不利な状況下、東ローマ側は守備兵7千で2ヶ月近くにわたり抵抗を続けた。5月29日未明にオスマン軍の総攻撃によってコンスタンティノポリスは陥落。皇帝コンスタンティノス11世は部下とオスマン軍に突撃して行方不明となり、東ローマ帝国は完全に滅亡する。これによって、古代以来続いてきたローマ帝国の系統は途絶えることになる。

コンスタンティノープルの陥落

通常、この東ローマ帝国の滅亡をもって中世の終わり・近世の始まりとする学説が多い。

 

同年には百年戦争が終結し、この戦いを通じてイギリス(イングランド王国)とフランス(フランス王国)は王権伸長による中央集権化および絶対君主制への移行が進むなど、西ヨーロッパでも大きな体制の変化があった。

 

1460年にはペロポネソス半島の自治領土モレアス専制公領が、1461年には黒海沿岸のトレビゾンド帝国がそれぞれオスマン帝国に滅ぼされ、地方政権からの再興という道も断たれることとなった。

 

なお、東欧世界における権威を主張する意味合いから、メフメト2世やスレイマン1世などオスマン帝国の一部のスルタンは「ルーム・カイセリ」(ローマ皇帝)を名乗った。また1467年にイヴァン3世がコンスタンティノス11世の姪ゾイ・パレオロギナを妻とし、ローマ帝国の継承者(「第3のローマ」)であることを宣言したことから、モスクワ大公国のイヴァン4世などや歴代のロシア(ロシア・ツァーリ国、ロシア帝国)指導者はローマ帝国の継承性を主張している。

 

[政治]

 

イデオロギー

東ローマ帝国は自らを単に「ローマ帝国」と称していた。そして、「ローマ帝国」は「文明世界全てを支配する帝国」であり「キリストによる最後の審判まで続く、地上最後の帝国」だと考えられていた。(東ローマ国民が本気にしていたかは疑問だが建前で)自らをキリスト教的意味での「世界史」に位置づける強い意識は、世界創造紀元の使用にも現れる。

画像はコンスタンティノポリス総主教庁の正門に今も掲げられているもの 。

このイデオロギーは一千年にわたって貫かれる一方で、政治体制は周囲や国内の状況に合わせて柔軟に変えられていた。強固なイデオロギーと、変化に対応する柔軟性を併せ持っていたことが、帝国が千年もの長きにわたって存続出来た理由の一つではないかと考える研究者もいる。

 

政治体制

東ローマ帝国は、古代ローマ時代後期以降の皇帝(ドミヌス)による専制君主制(ドミナートゥス)を受け継いだ。東ローマの皇帝(バシレウス)は「元老院・市民・軍」によって推戴された「地上における神の代理人」「諸王の王」だとされ、政治・軍事・宗教などに対して強大な権限を持ち、完成された官僚制度によって統治が行われていた。課税のための台帳が作られるなど、首都コンスタンティノポリスに帝国全土から税が集まってくる仕組みも整えられていた。 しかし、皇帝の地位自体は不安定で、たびたびクーデターが起きた。それは時として国政の混乱を招いたが、一方ではそれが農民出身の皇帝が出現するような(6世紀のユスティニアヌス1世や9世紀のバシレイオス1世など)、活力ある社会を産むことになった。このような社会の流動性は、11世紀以降の大貴族の力の強まりとともに低くなっていき、アレクシオス1世コムネノス以降は皇帝は大貴族連合の長という立場となったため、皇帝の権限も相対的に低下していった。

 

このほか、東ローマ帝国の大きな特徴としては、宦官の役割が非常に大きく、コンスタンティノポリス総主教などの高位聖職者や高級官僚として活躍した者が多かったことが挙げられる。

 

また、9世紀末のコンスタンティノポリス総主教で当時の大知識人でもあったフォティオスのように高級官僚が直接総主教へ任命されることがあるなど、知識人・官僚・聖職者が一体となって支配階層を構成していたのも大きな特徴である。

  

[宗教論争 ]

 

東ローマ帝国では単性論・聖像破壊運動・静寂主義論争など、たびたび宗教論争が起き、聖職者・支配階層から一般民衆までを巻き込んだ。これは後世、西欧側から「瑣末なことで争う」と非難されたが、都市部の市民の識字率は比較的高かったためギリシア人の一般民衆でも『聖書』を読むことができたという証左でもある。『新約聖書』は原典がギリシア語(コイネー)であり、『旧約聖書』もギリシア語訳のものが流布していた。また、教義を最終的に決定するのは皇帝でも総主教でもなく教会会議によるものとされていたため、活発な議論が展開される結果となったのである。

 

この宗教論争に関しては、一般民衆がラテン語の聖書を読めず、また日常用いられる言語への翻訳もあまり普及していなかったために教会側が一方的に教義を決定することができたカトリック教会との、文化的な背景の違いを考えなければならないだろう。

 


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