【パールス】
ファールス(ペルシア語: Fārs、英語:Fars)は、イラン南部の歴史的地域名。現在の ファールス州 を中心とした地方を指す。
ファールスの位置
[名称]
語源は騎馬者を意味する「パールス(Pârs)」からきており、古代にはパールサ(Pârsâ)と呼ばれた。ギリシャ語ではペルシス (Πέρσις Persis) と呼ばれ、「ペルシア」の語源ともなった。サーサーン朝時代にはパールス(Pārs)となり、古代中国でも「波斯」という語に音訳され、しばらく「ペルシア」の訳語として用いられた。やがてアラビア語形でpの発音がfになったため、現在ではファールス(Fārs)と発音されている。
[歴史]
アカイメネス朝:
アカイメネス朝の領域
紀元前1000年頃に イラン高原に進出した イラン系の(後に ペルシア人と呼ばれる)民族は、紀元前7世紀までに高原南西部の パールサ地方に定着したと考えられている。
パールサ地方が「良き人と良き馬に恵まれたパールサ」と呼ばれたように、本来遊牧騎馬民族であったペルシア人はその軍事力を背景に紀元前550年、 アカイメネス(ハカーマニシュ)朝をこの地で建国した。
サーサーン朝:
3世紀初め、パールサの支配権を得たと推定されるパーパクに代わり、224年に即位した アルダシール1世 (在位:224年 - 241年)は イスファハーン北方で パルティア最後の王 アルタバヌス5世(在位:213年 - 224年)を破り、230年までには メソポタミア 全域を支配し、長男の シャープール1世(在位:240年頃 - 272年頃)の代で サーサーン朝を創始した。
ゾロアスター教:
サーサーン朝の国教とされた ゾロアスター教は紀元前1千年前半、 中央アジア西部で成立し、アカイメネス朝の時代になってイラン高原に浸透、ペルシアの中心地であったパールサ地方においては永らく信仰されてきた。
イスラーム王朝:
ブワイフ朝の領域
サッファール朝の君主 アムル・イブン・アル=ライス(在位:879年 - 901年)は、 カリフ(ハリーファ)から スィースターン、 ホラーサーン、ファールスの支配を公認された。
アッバース朝の時代に10%であったイランの ムスリム人口は、サッファール朝の時代に80%を越え、 ブワイフ朝の時代には90%以上となる。 ブワイフという名の父を持つ三兄弟は ズィヤール朝に仕えて台頭し、932年にはイラン南部のファールス地方に進出してここでブワイフ朝の支配を確立した。ブワイフ朝はその三兄弟とその子孫からなる王族たちにより、ファールス、ジバール、イラクの3政権と、その他の群小政権からなる連合体であり、長男のイマード・ウッダウラの一族がファールス地方を支配した。
1148年、 オグズ系のサルグル氏族出身のスンクルは前代のファールスの実力者ボズアパから アタベグの称号を引き継ぎ、ファールス地方においてサルグル朝を建国した。
モンゴル王朝:
イルハン朝後の諸政権
(インジュー朝、ムザッファル朝)
モンゴル の侵入後、イランには イルハン朝(フレグ・ウルス)が建国され、それまでファールス地方を支配してたサルグル朝は1285年にイルハン朝に組み込まれた。
オルジェイトゥ・ハンの時代(在位:1304年 - 1316年)、イルハン朝の王領(インジュー)を管理するシャラフ・アッディーン・マフムードシャーがファールスを本拠に独立をした( インジュー朝)。1336年、彼は アルパ・ケウン(在位:1335年 - 1336年)の命により処刑されたが、彼の4人の息子たちはチュパン家のアミールたちと協力したり、争ったりしながら、1353年までファールスを支配し続けた。この年、イラン中央部の ヤズドを支配する ムザッファル朝のムハンマドにファールスの中心地 シーラーズを占領され、続いて1357年にイスファハーンを攻略されたことで、インジュー朝は滅亡した。
この時代、ペルシア文学を代表するサアディー、ハーフィズの二大詩人は共にファールスの文化的な中心地シーラーズに居住して、それぞれ13世紀と14世紀に現在でも愛誦される作品を残した。また、インジュー朝の支配下で11世紀のイランの大詩人フェルドウスィー作の大叙事詩『 シャー・ナーメ』の ミニアチュール入りの写本が1330年代にシーラーズで製作されている。このミニアチュールは『 集史』のミニアチュールとは技法も作風も違うために、シーラーズ派として区別される。
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