【クテシフォン】

クテシフォン・セレウキア(al-Madā’in)の全体図

クテシフォンは紀元前1世紀のパルティア王国の時代に脚光を浴びるようになり、ほとんどの王はここを都とした。その重要性のために、ローマ帝国が東方を征服するときの軍事的な目標となった。クテシフォンはローマ帝国(または東ローマ帝国)により5回占領されたが、そのうち3回は紀元2世紀のことである。

 

トラヤヌス帝は116年にクテシフォンを占領したが、1年後にハドリアヌス帝は和平のために返還せざるを得なかった。ローマの将軍アウィディウス・カシウスは164年、対パルティア戦争の間にクテシフォンを占領したが、和平により放棄した。197年、 セプティミウス・セウェルス 帝はクテシフォンを略奪し、数千人(おそらく最大で1万人)の住人を連れ去って奴隷とした。

 

3世紀の終わりに サーサーン朝がパルティアに取って代わると、クテシフォンは再びローマとの係争地となった。295年、 ガレリウス帝はクテシフォンの近くでペルシアに敗北した。屈辱を晴らすためガレリウスは1年後に舞い戻り、戦争に大勝して4度目の占領を行った。ガレリウスはアルメニアと引き換えにクテシフォンを ナルセ1世 に返還した。325年ごろと410年、クテシフォン(または対岸のギリシャ人入植地)で アッシリア東方教会 の会議が開催された。

 

363年、 ユリアヌス 帝は シャープール2世 との戦争中に、クテシフォンの市壁の外で死んだ。 627年、 ニネヴェの戦い でサーサーン朝に勝利した東ローマ帝国のヘラクレイオス帝がサーサーン朝の首都であるクテシフォンを包囲したが、和平を結んで引き揚げた。637年、 正統カリフ ウマルの時代にアラブ諸部族から成るムスリム軍による対サーサーン朝との戦争はついにイラク(メソポタミア)にまで及び、イラク地方に進攻した サアド・ブン・アビー=ワッカースが率いる部隊はサーサーン朝最後の君主 ヤズデギルド3世 が派遣した総司令官ロスタム麾下のサーサーン朝軍に対し、 カーディシーヤの戦いにおいて勝利した。

 

サアド率いるムスリム軍はチグリス東岸の諸都市を次々に征服しクテシフォン近郊まで迫ったため、これによってヤズデギルド3世は北東にあったフルワーンまで逃亡した。アッバース朝時代の記録よると、この年は飢餓と悪疫に見回れ防衛戦力の低下に悩まされていたが、クテシフォンの守備軍はチグリス川に掛かる全ての船橋を落としてムスリム軍の侵攻を防ぎ抗戦した。しかしムスリム軍は人馬ともに水流に乗って渡河する作戦に出た。クテシフォンの各地区はムスリム軍に対しておのおの抗戦しあるいは帰順したが、ついにはクテシフォンの全地区は陥落した。

 

征服によって人口が減ることはなかったが、政治的・経済的な中心地がほかに移り、8世紀始めに アッバース朝の首都が バグダードに定められると、都市は急速に衰え、やがて廃墟となった。『 千夜一夜物語』に現れる都市「イスバニル」は、クテシフォンを基にしていると考えられる(139話、第667-79夜)。

 

1915年11月、クテシフォンの遺跡は 第一次世界大戦の戦場となった。 オスマン帝国軍がバグダードを奪おうとしたイギリス軍の部隊を撃破し、40マイル後退させて降伏させた。


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