【クテシフォン】
クテシフォン(Ctesiphon)はイラクにある古代都市の遺跡。バグダードの南東、チグリス川東岸に位置する。
[概要]
紀元前1世紀頃にこの地域一帯を支配したパルティア王国によって建造され、その首都として栄えた。古代より豊かな土壌で知られたメソポタミアの中心として、また東西交易の重要な中継地としての役割を担い、パルティア滅亡後にサーサーン朝ペルシアの時代になっても首都が置かれて政治と経済の中心地であり続けた。イスラム支配期以降は衰え、廃墟となった。
砂漠地帯に多い日干し煉瓦や、ローマの水道橋などに見られるアーチを組む技術など、まさに東西の交易の中心地らしい遺跡が数多く残っている。
[呼称]
チグリス川を挟んで対岸にあった セレウキア(セレウケイア)と併せてクテシフォン・セレウキアなどとも称する。クテシフォンの名は古代ギリシア語のΚτησιφῶνに由来する。Ktēsiphônはギリシア語化された発音であり、Tosfōn または Tosbōnという発音を復元音とする説がある。中期ペルシア語(パフラヴィー語)やマニ教文書、ソグド語で記載されたキリスト教文書では Tyspwn / Tīsfōn と記載され、近世ペルシア語では (tysfyn)と表記される。シリア語では Qṭēsfōnと記載された。
クテシフォンが登場する最初の史料は 旧約聖書 の エズラ記 であり、Kasfia/Casphiaと表記された。
[歴史]
クテシフォン・セレウキア(al-Madā’in)の全体図
クテシフォンは紀元前1世紀のパルティア王国の時代に脚光を浴びるようになり、ほとんどの王はここを都とした。その重要性のために、ローマ帝国が東方を征服するときの軍事的な目標となった。クテシフォンはローマ帝国(または東ローマ帝国)により5回占領されたが、そのうち3回は紀元2世紀のことである。
トラヤヌス帝は116年にクテシフォンを占領したが、1年後にハドリアヌス帝は和平のために返還せざるを得なかった。ローマの将軍アウィディウス・カシウスは164年、対パルティア戦争の間にクテシフォンを占領したが、和平により放棄した。197年、 セプティミウス・セウェルス 帝はクテシフォンを略奪し、数千人(おそらく最大で1万人)の住人を連れ去って奴隷とした。
3世紀の終わりに サーサーン朝がパルティアに取って代わると、クテシフォンは再びローマとの係争地となった。295年、 ガレリウス帝はクテシフォンの近くでペルシアに敗北した。屈辱を晴らすためガレリウスは1年後に舞い戻り、戦争に大勝して4度目の占領を行った。ガレリウスはアルメニアと引き換えにクテシフォンを ナルセ1世 に返還した。325年ごろと410年、クテシフォン(または対岸のギリシャ人入植地)で アッシリア東方教会 の会議が開催された。
363年、 ユリアヌス 帝は シャープール2世 との戦争中に、クテシフォンの市壁の外で死んだ。 627年、 ニネヴェの戦い でサーサーン朝に勝利した東ローマ帝国のヘラクレイオス帝がサーサーン朝の首都であるクテシフォンを包囲したが、和平を結んで引き揚げた。637年、 正統カリフ・ ウマルの時代にアラブ諸部族から成るムスリム軍による対サーサーン朝との戦争はついにイラク(メソポタミア)にまで及び、イラク地方に進攻した サアド・ブン・アビー=ワッカースが率いる部隊はサーサーン朝最後の君主 ヤズデギルド3世 が派遣した総司令官ロスタム麾下のサーサーン朝軍に対し、 カーディシーヤの戦いにおいて勝利した。
征服によって人口が減ることはなかったが、政治的・経済的な中心地がほかに移り、8世紀始めに アッバース朝の首都が バグダードに定められると、都市は急速に衰え、やがて廃墟となった。『 千夜一夜物語』に現れる都市「イスバニル」は、クテシフォンを基にしていると考えられる(139話、第667-79夜)。
1915年11月、クテシフォンの遺跡は 第一次世界大戦の戦場となった。 オスマン帝国軍がバグダードを奪おうとしたイギリス軍の部隊を撃破し、40マイル後退させて降伏させた。
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