【ウィンストン・チャーチル】

ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル(英語: Sir Winston Leonard Spencer-Churchill, 1874年11月30日 - 1965年1月24日)は、イギリスの政治家、軍人、作家。

ウィンストン・チャーチル

[概略]

 

サンドハースト王立陸軍士官学校で軽騎兵連隊に所属し、第二次キューバ独立戦争を観戦し、イギリス領インドパシュトゥーン人反乱鎮圧戦、スーダン侵攻、第二次ボーア戦争に従軍した。

 

1900年のイギリス総選挙にオールダム選挙区から保守党候補として初当選。 しかしジョゼフ・チェンバレン保護貿易論を主張すると、自由貿易主義者として反発し保守党から自由党へ移籍した。

 

ヘンリー・キャンベル=バナマン自由党政権が発足すると、植民地省政務次官としてイギリスに併合されたボーア人融和政策や 中国人奴隷問題の処理など英領南アフリカ問題に取り組んだ。アスキス内閣では通商大臣・内務大臣に就任し、ロイド・ジョージとともに急進派として失業保険制度など社会改良政策に尽力したが暴動やストライキ運動に直面し社会主義への敵意を強めた。

 

ドイツとの建艦競争が激化する中、海軍大臣に就任。第一次世界大戦時には海軍大臣、軍需大臣として戦争を指導した。しかしアントワープ防衛やガリポリ上陸作戦で惨敗を喫し、辞任した。しかしロイド・ジョージ内閣で軍需大臣として再入閣。戦後は戦争大臣と航空大臣に就任し、ロシア革命を阻止すべく反共産主義戦争を主導し、赤軍のポーランド侵攻は撃退した。だが、首相は干渉戦争を快く思わず、植民地大臣への転任を命じられ、イギリス委任統治領イラクパレスチナ政策、ユダヤ人のパレスチナ移民を推し進めた。

 

マクドナルド内閣に反社会主義の立場から自由党を離党し、保守党へ復党した。スタンリー・ボールドウィン内閣では財務大臣を務め、新興国アメリカ日本の勃興でイギリス貿易が弱体化する中、金本位制復帰を行ったが失敗し、労働党政権となった。 1930年代には停滞したが、インド自治政策やドイツナチ党への融和政策に反対した。

 

第二次世界大戦を機にチャーチルは海軍大臣として閣僚に復帰したが、北欧戦で惨敗。しかしこの惨敗の責任はチェンバレン首相に帰せられ、1940年に後任として首相職に就き、1945年まで戦争を主導した。西方電撃戦ギリシャ・イタリア戦争北アフリカ戦線でドイツ軍に敗北するが、バトル・オブ・ブリテンでは撃退に成功した。独ソ戦開始のためソ連と協力し、またアメリカとも同盟関係となった。

 

しかし1941年12月以降の日本軍参戦後に、東方植民地である香港シンガポールをはじめとするマレー半島一帯のイギリス軍の相次ぐ陥落やインド洋からの放逐などの失態を犯した上に、ドイツ軍によるトブルク陥落でイギリスの威信が傷付き、何とかイギリスの植民地として残っていたインドやエジプトでの反英闘争激化を招いた。

 

1944年6月にノルマンディー上陸作戦で攻勢に転じたものの、1945年5月にドイツが降伏すると労働党が挙国一致内閣を解消し、総選挙で保守党は惨敗した。

 

第二次世界大戦で戦勝国の地位を獲得した中、チャーチルは野党党首に落ちたものの冷戦下で独自の反共外交を行い、ヨーロッパ合衆国構想などを推し進めた。イギリスはアメリカとソ連に並ぶ戦勝国の地位を得たが、大戦終結後に労働党政権がインド等の植民地を手放していくことを帝国主義の立場から批判し、植民地独立の阻止に力を注いだが、大英帝国は植民地のほぼ全てを失うこととなり、世界一の植民地大国の座を失って米ソの後塵を拝する国に転落した。

 

1951年に再び首相を務め、米ソに次ぐ原爆保有を実現し、東南アジア条約機構(SEATO)参加など反共政策も進めた。1953年、ノーベル文学賞受賞。1955年にアンソニー・イーデンに首相職を譲って政界から退いた。

 

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第一次世界大戦:

1914年6月のサラエボ事件を機に7月終わりから8月初めにかけてドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国対ロシア、フランス第一次世界大戦が勃発した。イギリスはロシアともフランスとも正式な軍事同盟は結んでいなかったので参戦義務はなく、閣内でも参戦すべきか否か意見が分かれ、とりわけロイド=ジョージが参戦に反対した。しかしチャーチルは、熱烈に参戦を希望し、ドイツがロシアに宣戦布告した8月1日には独断で海軍動員令を出した。自由党以外では保守党とアイルランド国民党が参戦を支持していた。チャーチルはもし戦争賛成・反対で内閣や自由党が分裂するなら、反戦派は容赦なく追放し、保守党と連立政権を作るべきことを主張した。

 

8月2日にドイツ軍がベルギーの中立を犯して同国に侵攻を計画していることが判明し、これを機にロイド=ジョージも参戦派に転じたことで、アスキス内閣は対独参戦を決定した。参戦反対派のジョン・モーリー (初代ブラックバーン子爵)枢密院議長によればロイド=ジョージの転向はチャーチルの影響であったという。8月4日にイギリス政府はドイツにベルギーからの撤退を求める最後通牒を発したが、午後11時までの期限になってもドイツからの返信はなく、同時刻から参戦を決定する閣議が首相官邸で開催されたが、アスキス首相夫人マーゴットによると、この時チャーチルは幸せそうな顔つきで大股で歩いて閣議室へ向かっていたという。この頃の妻への手紙の中でチャーチルは「全てが破滅と崩壊に向かっているが、私は興味津津で、調子がよく、幸せです。恐ろしいことかもしれないが、戦争の準備は私には魅力的です。それでも私は、平和を守るために最善を尽くすつもりです」と書いている。

 

英独の最初の海戦は8月5日に王立海軍軽巡洋艦「アンフィオン」がドイツ帝国海軍機雷敷設艦「ケーニギン・ルイゼ」を撃沈するも機雷に接触し、「アンフィオン」も沈没したという小規模戦闘だった。以降、このような小規模戦闘が繰り返されることになり、両国とも主力艦隊は軍港に温存して決戦を避けた。 チャーチルは艦隊を英仏海峡から北海へ移し、陸軍を安全に大陸へ輸送することに貢献した。また海兵部隊をダンケルクに送りこみ、ここに海軍航空部隊の基地を置き、ドイツ軍の爆撃飛行船ツェッペリンの英本土飛来を阻止しようとした。またこの飛行場を防衛するため、陸軍兵器の開発にも携わり、陸上戦艦委員会を創設して装甲自動車や無限軌道自動車の開発を行い、後に戦車を生み出した。

 

10月初めには予備水兵から成る師団をドイツ軍に包囲されるベルギーのアントワープ防衛に送り、かつ彼自身もアントワープに入り、防衛戦の直接指揮を執った。しかし結局アントワープ防衛には失敗し、イギリス軍のうち二個大隊がドイツ軍の捕虜となった。チャーチルは何の戦果もあげられずに、アントワープ陥落の4日前の10月6日にイギリス本国へ逃げ戻ってきた。これによりチャーチルはマスコミや保守党から「無駄な犠牲を出した愚かな作戦」「ヒーロー気取り」と激しい批判を受けた。チャーチルは、開戦以来マスコミの評判が悪かった第一海軍卿ルイス王子(ドイツ人の血をひいていた)にアントワープ事件の責任を取らせて辞職させ、その後任としてフィッシャーを第一海軍卿に任じた。 12月にはフォークランド沖海戦が勃発し、王立海軍が勝利した。チャーチルは勝利に浮かれ、更なる大規模海戦を希望したが、ドイツ海軍はますます軍港に閉じこもってしまい、以降チャーチルの海相在任中には大規模な海戦は起こらなかった。

 

ガリポリの戦い:

1915年、ガリポリの戦いのイラスト

- 詳細は「ガリポリの戦い」を参照-

 

1914年10月には反露親独的な オスマン=トルコ帝国がドイツ側で参戦しており、1915年1月にロシア帝国軍最高司令官ニコライ大公はイギリス政府に対してトルコを圧迫してほしいと要請した。閣内にはロシア軍との連携を重視する東方派とフランス軍との連携を重視する西方派の争いがあったが、このロシアからの要請を期に戦争大臣ホレイショ・キッチナーは東方派に転じた。チャーチルも東方派になり、王立海軍をダーダネルス海峡に送りこむことを閣議で主張するようになった。閣議の結果、膠着状態の西部戦線打開策としてこの作戦が承認され、海軍だけではなく陸軍兵力をガリポリ半島から上陸する作戦も決定された。この作戦は1915年3月18日に英仏連合軍で実施、合計18隻の英仏艦隊でもってダーダネルス海峡沖に攻めよせ、トルコ軍要塞を砲撃で壊滅させた。ところが戦闘中に英仏軍の戦艦3隻が機雷に接触し、2隻は沈没、もう1隻も大被害を受けたため、ジョン・ド・ロベック提督はエジプトからの増援の到着するまで作戦を延期すべしとの判断を下した。報告を受けたチャーチルは激怒し、ただちに再攻撃を行い、ダーダネルス海峡を突破し、マルマラ海にいるトルコ艦隊を撃破すべしと主張したが、ド・ロベックの判断を支持するフィッシャーらが反対し、再攻撃を要求しつつも最終判断は提督に任せるという返信を送ることとなった。既に上陸を開始していた陸上部隊は海上からの援護なきまま戦う羽目となり、しかも一気に大軍を上陸させず、少しずつ上陸させたために、英仏海軍の攻撃から立ち直ったトルコ軍から攻撃を受けて大損害を被った。 チャーチルは後年までこの時に迅速な行動を起こさなかったことを後悔し、「もし英国艦隊がこの時にコンスタンティノープルに砲塔を向けられていれば、トルコは戦争から脱落し、バルカン半島諸国はすべて連合国側につき、1915年までには連合軍の勝利で終わり、ロシア革命が起こる事もなかったであろう」と推測している。

 

中東の委任統治領をめぐる問題:

イギリスは大戦時、アラブ人にトルコに対する反乱( アラブ反乱)を起こさせるため、彼らに戦後の独立を約束していた( フサイン=マクマホン協定)。これによりハーシム家ファイサル王子らアラブ勢力は『アラビアのロレンス』として知られるイギリス軍人トーマス・エドワード・ロレンスらとともにトルコと戦った。

 

一方でイギリスは大戦中にユダヤ人の協力を引き出すため、パレスチナにユダヤ人国家建設も認めており(バルフォア宣言)、さらに他方でフランスとの間に「肥沃な三日月地帯」を英仏で分割統治するというサイクス・ピコ協定も結んでいた(三枚舌外交)。戦後にはサイクス・ピコ協定が最優先され、パレスチナ(イギリス委任統治領パレスチナ)とイラク(イギリス委任統治領メソポタミア)はイギリス委任統治領、シリア(フランス委任統治領シリア)とレバノン(フランス委任統治領レバノン)はフランス委任統治領になったから、ファイサル王子の立てていた大アラブ帝国構想は粉々になり、アラブ人の間に不満が起こり、イラクやシリアで暴動が発生するようになった。

1921年5月18日のカイロ会議

中央に座っている人物がチャーチル植民地大臣

これを鎮静化すべくチャーチルはロレンスを補佐役とし、1921年にカイロ会議を主宰した。この会議によりファイサルはファイサル1世としてイラク王に即位することとなり、またその兄アブドゥッラー1世もパレスチナから切り離したトランスヨルダン王に即位することが取り決められた。パレスチナ、トランスヨルダン、イラクの実質的支配権、またイランとの通商、エジプトのスエズ運河はイギリスががっちりと握りつつ、ハーシム家の顔も立てた形であった。またイラクに駐留するイギリス陸軍を撤退させ、変わって空軍が秩序維持にあたった。

 

一方ユダヤ人もバルフォア宣言でパレスチナ移住が認められており、国際連盟がイギリスにパレスチナ統治を委任した規約の第6条では「パレスチナの統治機構は、この地域の他の住民の権利と地位が侵害されないことを保証しながら、適切な条件下でユダヤ人の移住を促進する」と定められた。この条項には様々な解釈があったが、チャーチルは「この地域の経済力を超えない範囲、パレスチナ人の職が奪われない範囲内でのユダヤ人の移住促進」という意味だと解釈し、以降これがイギリス植民地省の基本スタンスとなった。これにより裕福なユダヤ人が無制限に入国・移民できる一方、貧しいユダヤ人は移住に様々な制限がかけられることが多いという不平等が生じた。

 

以降イスラエル独立までに50万人のユダヤ人がイギリス植民地省の監督のもとにパレスチナへ移民し、パレスチナの総人口の30%を占めるようになった。

 

これを鎮静化すべくチャーチルはロレンスを補佐役とし、1921年にカイロ会議を主宰した。この会議によりファイサルはファイサル1世としてイラク王に即位することとなり、またその兄アブドゥッラー1世もパレスチナから切り離したトランスヨルダン王に即位することが取り決められた。パレスチナ、トランスヨルダン、イラクの実質的支配権、またイランとの通商、エジプトのスエズ運河はイギリスががっちりと握りつつ、ハーシム家の顔も立てた形であった。またイラクに駐留するイギリス陸軍を撤退させ、変わって空軍が秩序維持にあたった。 一方ユダヤ人もバルフォア宣言でパレスチナ移住が認められており、国際連盟がイギリスにパレスチナ統治を委任した規約の第6条では「パレスチナの統治機構は、この地域の他の住民の権利と地位が侵害されないことを保証しながら、適切な条件下でユダヤ人の移住を促進する」と定められた。この条項には様々な解釈があったが、チャーチルは「この地域の経済力を超えない範囲、パレスチナ人の職が奪われない範囲内でのユダヤ人の移住促進」という意味だと解釈し、以降これがイギリス植民地省の基本スタンスとなった。これにより裕福なユダヤ人が無制限に入国・移民できる一方、貧しいユダヤ人は移住に様々な制限がかけられることが多いという不平等が生じた。以降イスラエル独立までに50万人のユダヤ人がイギリス植民地省の監督のもとにパレスチナへ移民し、パレスチナの総人口の30%を占めるようになった。

 

-ウィンストン・チャーチルのより詳細な情報は「 こちら」を参照-


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