【アウグストゥス】

アウグストゥス(Gaius Julius Caesar Octavianus Augustus ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス・アウグストゥス、紀元前63年9月23日 - 紀元14年8月19日)は、ローマ帝国の初代皇帝(在位:紀元前27年 - 紀元14年)。志半ばにして倒れた養父カエサルの後を継いで内乱を勝ち抜き、地中海世界を統一して帝政(元首政)を創始、パクス・ロマーナ(ローマの平和)を実現した。

 

ちなみにアウグストゥスは、ラテン語で「尊厳ある者」を意味しており、現在のギリシア語では「8月」の意になっている。

ローマ帝国初代皇帝

アウグストゥス

[生涯]

 

幼少期:

 騎士階級に属するガイウス・オクタウィウスとアティア(カエサルの姪)との間に生まれる。出生の時の名はガイウス・オクタウィウス・トゥリヌス(Gaius Octavius Thurinus)と称する。姉には小オクタウィアがいた。幼少の頃はウェレトラエ(現ヴェッレトリ)の祖父のもとで過ごす。

 

紀元前58年、父と死別する。その後、母アティアはルキウス・マルキウス・ピリップスと結婚、この時、トゥリヌスは新夫妻の元へ引き取られ、継父は実の息子とともにトゥリヌスを可愛がったという。

 

政治に参加:

紀元前47年には神祇官 (Pontiff) に任命される。紀元前46年には大叔父カエサルの建造したウェヌス神殿を記念してギリシアの古代オリンピックに参加させられる。本来は大叔父のアフリカ遠征に付き従いたかったが、母アティアの反対により断念となった。

 

紀元前46年にカエサルのヒスパニア遠征に従軍したが、ムンダの戦いでカエサル軍が勝利をすでに収めた後であり、自身も出立直前に病に倒れる結果となってしまった。病が治るとすぐに戦場に船で急行したが、途中で船が難破し、カエサルと敵対する勢力の真ん中に漂流してしまう。ここでトゥリヌスは生き残った少数の兵を掌握して敵陣を横断、この彼の行動はカエサルに強い印象を与え、一説にはこの時にカエサルは自分の後継者としてトゥリヌスを選ぶことにしたという。またトゥリヌスは、計画されていたパルティア遠征には司令官として赴くことになっていた。そして虚弱体質で軍才もないという弱点を補うべく、生涯の盟友となるマルクス・ウィプサニウス・アグリッパともこの前後に引き合わされた。

アグリッパ

権力掌握へ:

[カエサル暗殺]

ガイウス・ユリウス・カエサル

紀元前44年3月15日にカエサルがマルクス・ユニウス・ブルトゥス、ガイウス・カッシウス・ロンギヌスらに暗殺される。この時はカエサルの指示で、オクタウィウスはギリシア西海岸にて遊学中であったが、急遽ローマへ帰還する。その途中、ギリシアからほど遠くない南部イタリア、ブルンディシウム近郊のリピアエでカエサルが自分を後継者に指名していたことを知る。これにより、わずか18歳の無名な青年に過ぎなかったトゥリヌスは、一躍有名になった。そして以後、ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス(Gaius Julius Caesar Octavianus)を名乗ったようである。

 

ブルンディシウムでカエサル配下の軍団兵たちから温かい歓迎を受けたオクタウィアヌスは、カエサルの側近たちの協力も得て、カエサルの遺志であるパルティアとの戦争を遂行するため、カエサルが集めた公的資金を要求、70万セステルティウスもの資金がブルンディシウムに集められた。そして元老院の査察のもと、その資金で軍団を編成し、東方に派遣したとされているが、実情はアントニウスを中心とする元老院の反オクタウィアヌス派に対抗するための軍団を編成していた。そして、また彼は、権限なしで東方の属州からローマにわたるはずの税収を収用した。

 

パルティアはカエサルが戦うはずであった宿敵であり、この戦争をちらつかせることでオクタウィアヌスはカエサルの後継者としての支持を集める。そしてローマへの帰還中、オクタウィアヌスのもとに様々な支持、とくにカンパニア在住のカエサル配下の退役兵から熱烈な支持を受ける。6月までに3,000の退役兵が集合し、オクタウィアヌスは1人につき500デナリウスの給付金を配った。

 

こうしてカエサルの古参兵、側近とともにオクタウィアヌスは勢力を拡大し、有力なカエサルの後継者候補として政治の表舞台に躍り出た。

 

[ローマ帰還]

紀元前44年5月6日にオクタウィアヌスがローマに戻った時点で、この年カエサルとともに執政官であったマルクス・アントニウスとカエサルを殺した元老院派との間で既に不戦条約が結ばれており、カエサル暗殺の首謀者は各自恩赦により3月17日付で国外に退去、マルクス・ブルトゥスとカッシウスはギリシアに赴任し、デキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌスはガリア・キサルピナ属州(現在の北イタリアの一部を当時は本土イタリアの内と考えていなかった)を支配下に抑えていた。

 

ローマに戻ったオクタウィアヌスは、軍団兵の支持厚い名将、民衆派の政治家として人気の高かったカエサルの葬儀を執り行った。カエサルの財産の4分の3を相続するはずだったオクタウィアヌスだが、下記のようにアントニウスの妨害にあってそれを入手出来ないでいた。しかし借金などの金策に努めてカエサル配下の軍団に給与を支払い、ローマ市民にも遺言に従って一時金を支給するなどして、支持を取り付けた。

 

次第に頭角を現すオクタウィアヌスに対して、カエサルの死後、単独の執政官として事実上権力を掌握していたアントニウスは危機感を募らせた。当時アントニウスはカエサルの公的遺産を着服していたため、これを譲り渡すようオクタウィアヌスが説得した。アントニウスはこれを拒否し、オクタウィアヌスは説得には失敗するものも、多数のカエサル支持者から同情を買うこととなった。

 

同年9月には、アントニウスと対立していたキケロがオクタウィアヌスと接近し、協力するようになる。オクタウィアヌスはキケロら元老院派と手を組んでアントニウスを論難、アントニウスは元老院の脅威となっていると弾劾した。次第にアントニウスは元老院で孤立してゆき、さらに1年間である執政官の任期も迫ってきたため窮地に陥った。

 

この窮地に対してアントニウスは防衛策を打つ。執政官の任期が切れる前に、自分の身柄を保護する場所として属州ガリア・キサルピナに注目したのである。この属州は、上述のとおり当時デキムス・ブルトゥスが統治していたが、彼に代わり自らの統治を認める法案を元老院で成立させる。

 

この間、オクタウィアヌスはカエサルの古参兵を招集して自らの軍隊を着々と編成、加えて10月28日にアントニウス配下の2個軍団も指揮下に入れる。12月31日に執政官の任期を終えたアントニウスは、翌紀元前43年1月1日にガリア・キサルピナへと逃れた。

 

[オクタウィアヌス、元老院議員に]

 

レピドゥスとオクタウィアヌスが描かれたコイン

ガリア・キサルピナの委譲を拒否するデキムス・ブルトゥスはムティナ(現モデナ)でアントニウス軍に包囲された。元老院は争う両者を止めようとするも失敗し、自らの軍を持たない元老院に代わってオクタウィアヌスがこの状況を活用しようとする。この時点でオクタウィアヌスが自ら配下の軍団を持っていることは周知の事実であり、血統的に元老院の新参者であるオクタウィアヌスの弱点を突くアントニウス派の攻撃を、キケロが弁舌で擁護していた。そして紀元前43年1月1日、元老院はオクタウィアヌスを元老院議員に任命、そして指揮権を与えた。この年の執政官であるヒルティウスとパンサとともにアントニウスが行っている包囲攻撃を中止させようと試みるが、両執政官はアントニウスとの戦いで戦死した(ムティナの戦い)。

 

元老院は台頭するオクタウィアヌスを恐れてデキムス・ブルトゥスに近づき、上記の両執政官が率いた軍団の指揮権を委ねることを決議した。これに反発したオクタウィアヌスは前線から撤退、ポー川流域に留まり、それ以上のアントニウスへの攻撃要請を拒否した。 6月にオクタウィアヌス配下のケントゥリオがローマに赴き、ヒルティウスとパンサが有していたこの年の執政官特権を委託するよう要請、またアントニウスを「国家の敵」として断罪することを破棄するよう要請した。元老院がこれを拒否すると、オクタウィアヌスは8個軍団を率いてローマに進軍する。さしたる抵抗なく8月19日にローマに入城した彼は、親戚であるクィントゥス・ペディウスとともに改めて執政官に選ばれる。

 

一方でアントニウスは、同僚でカエサル支持派でもあったマルクス・アエミリウス・レピドゥスと連合して元老院と対峙した。ここで、内心はカエサルの後継者として帝政(元首政)を目指すオクタウィアヌスは、彼らとの妥協を模索した。

 

第2回三頭政治:

[元老院派の粛清]

紀元前43年10月、ボローニャにおいてオクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスによる会談により第二回三頭政治が成立した。この同盟関係は、密約であったカエサル、ポンペイウス、クラッススが結んだ第一回三頭政治と異なり、公然としたものであった。彼らは国家再建三人委員会を開設し、カエサル暗殺者逮捕を名目に、元老院派の排除に乗り出した。その際、かつてのルキウス・コルネリウス・スッラのように、作成された名簿に基づいて元老院派と目された元老院議員約300人、騎士身分約2,000人が殺害、財産が没収されたといわれる。粛清リストにキケロの名があったため、盟友であったオクタウィアヌスは粛清の実行をためらっていたが、アントニウスのキケロに対する憎悪は激しく、この大量粛清は非情に断行され、キケロも殺害された。こうして元老院派は、ギリシアで兵を集めていたマルクス・ブルトゥスとカッシウスを残すのみとなった。

 

[フィリッピの戦い]

紀元前42年1月1日、元老院はカエサルの神格化を決定、神君ユリウス (Divus Julius) となる。これによりオクタウィアヌスは自らを「神君の息子」とし、元老院での影響を強めた。一方アントニウスは、オクタウィアヌスの影響を恐れてカエサルの神格化に反対したが、このためにローマ市民やカエサル配下の退役兵からの支持を失うことになった。

ガイウス・マエケナス

今や同盟関係となったオクタウィアヌスはアントニウスとともに28個もの軍団を率いてマケドニア属州に進攻、親友であり側近のアグリッパと共に転戦した。最終的にギリシアのフィリッピの戦いでブルトゥス、カッシウスらに勝利し、敗れた2人は自害した。この戦いではオクタウィアヌス自身は軍を指揮せず、配下のアグリッパに指揮を託していた。このオクタウィアヌスの態度をアントニウスは臆病者となじり、この戦いの勝利は自分の功績だと主張したという。

 

オクタウィアヌスがアグリッパと並ぶ片腕であるガイウス・マエケナスを見出したのは、この時期であったとされる。軍事のアグリッパに対し、マエケナスは内乱期の外交交渉に活躍した。しかも、その役目を十全に果たすために自らのクルスス・ホノルムを犠牲にして、オクタウィアヌスの私設顧問のような形をとった。内乱終結後は文化振興に従事して、メセナの語源となった。

 

[戦後処理]

戦後、再び三頭政治内で三者の支配地域の取り決めが行われ、アントニウスはガリア・キサルピナからエジプトへ移った。ここでカエサルの愛人であったプトレマイオス朝女王クレオパトラ7世とその息子カエサリオンと出会う。レピドゥスはアフリカへと赴任する。イタリア本国に留まることになったオクタウィアヌスだったが、迅速に解決すべき問題に迫られる。軍団兵たちの処遇問題で、フィリッピの戦いで味方として戦った兵士だけでなく、敵兵も軍役の義務の対価として土地の要求をしていた。もし譲歩しなければ、これらイタリア在住の兵士は敵方に寝返りかねない。しかし内紛では、兵士に配るだけの新たな土地もあるわけがなく、既存のローマ市民の自治体に強引な割り込みをしなくてはならない。兵士を取るか、市民を取るか、苦渋の選択でオクタウィアヌスは兵士の側に立ち、強引に地方共同体に退役兵の入植を行った。しかしこの戦後処理は十分とは言えず、兵士の中には不満が残った。これを元老院と結託したルキウス・アントニウス(マルクス・アントニウスの弟)に攻撃の隙ととらえられてしまう。

 

[アントニウス派の武装蜂起]

ルキウスと手を組んだアントニウスの妻フルウィラは、イタリア本国在住の兵士と結託、8個軍団を編成してオクタウィアヌスへ攻撃をしかけようとする。しかし、彼らの兵士の給付金は三頭政治の3人の管轄である以上、この武装蜂起自体がリスクの高い賭けであった。ルキウス側はすぐに資金が困難となり、即座にペルシア(現ペルージャ)でオクタウィアヌスに包囲される。結果、ルキウス・アントニウスは紀元前40年初頭に降伏、フルウィラは東方へと亡命した。この敵対行動をオクタウィアヌスは許さず、ルキウスと結託した元老院議員と騎士階級300人を処刑した。この処刑は汚点となり、後の詩人セクストゥス・プロペルティウスに批判されている。

 

同年、オクタウィアヌスはセクストゥス・ポンペイウスの親族スクリボニアと再婚した。しかし後に、スクリボニアの性格に耐えきれず、またセクストゥスとの間が険悪化したため、翌年に唯一の実子であるユリアが誕生すると同時に離婚した。そして紀元前38年、健康で聡明なリウィア・ドルシラと再々婚した。これは恋愛結婚あるいは略奪婚といわれ、オクタウィアヌスは彼女の夫ティベリウス・クラウディウス・ネロに直談判をして離婚させリウィアを娶ったとされる。また、リウィアは連れ子ティベリウスの他に夫の子を妊娠中であったため、紀元前38年1月14日に大ドルススを出産した後に夫と離婚し、1月17日に結婚式を挙げた。

 

対するアントニウスは、エジプト滞在中にクレオパトラと関係を深め、後に2人の間にはアレクサンデル・ヘリオス、クレオパトラ・セレネ、プトレマイオス・ピラデルプスが生まれる。

 

アントニウスはルキウスの反乱に呼応して、紀元前40年にエジプトからイタリアへ遠征、ブルンディシウムを包囲する。しかしこのような内紛はオクタウィアヌス、アントニウス双方の兵士にも耐えがたく、カエサル配下であったケントゥリオたちは相次ぐ戦争への従軍を拒否した。また、先の武装蜂起を起こした1人であったフルウィラは同年死去、妻の死を見取れなかったアントニウスは落胆したこともあり、秋になると2人は再び盟約を結んだ(ペルシアの戦い)。

 

この盟約でそれぞれの支配地域が再確認され、アントニウスは東方の属州、レピドゥスは北アフリカ、そしてオクタウィアヌスはイタリア半島以西となった。先の紛争では困難な状況に陥ったオクタウィアヌスであったが、別の視点から見ればイタリア半島は兵の募集が容易で、東方にいるアントニウスの方が不利であった。さらにオクタウィアヌスは盟約を確固とするために、姉である小オクタウィアと妻を失ったばかりのアントニウスを結婚させた。後にこの2人の間には大アントニアと小アントニアが生まれる。

 

[ポンペイウス派との戦い]

セクストゥス・ポンペイウスが描かれたコイン

三頭政治が成立し、中央の元老院派が根絶やしになった後も、地方では元老院派が残っていた。その最たるものはポンペイウスの次男セクストゥス・ポンペイウスで、カエサル派で統一された三頭とは本来敵対関係にあるはずだったが、当初オクタウィアヌスとアントニウスは競ってこのポンペイウスの次男と同盟を結ぼうとした。当初オクタウィアヌスはセクストゥクスと和議、サルディニア島、コルシカ、シキリア、ペロポンネソス半島の領有権を認め、さらに紀元前35年の執政官になることも確約していた。

 

しかし、セクストゥスがイタリア半島への小麦の運搬船を妨害し始め、イタリア半島の食糧供給が悪化する。自らを「ネプトゥヌスの息子(Neptuni Fillius)」と呼び、地中海の制海権を脅かすセクストゥスをオクタウィアヌスは看過できず、両者の関係は悪化した。オクタウィアヌスはセクストゥスとの戦争をはじめるためにアントニウスへ援助を要請、アントニウスはこれを承諾した。

 

アントニウスが政敵であるオクタウィアヌスに力を貸したのは、自身の野心、すなわちカエサルが実現できずに終わったパルティア遠征を達成するために貸しを作りたかったからであった。カルラエの戦いでクラッススが破れ、屈辱的な敗北のままでいるローマにとって、パルティアへの勝利は市民や軍人の支持を得るには格好の事業であった。

 

そして紀元前37年、三頭が再び集まり、三頭政治の5年間延長を決定した。アントニウスはオクタウィアヌスに120隻の軍船を、オクタウィアヌスはアントニウスに2万の軍団兵を相互に提供することを約束した。アントニウスはオクタウィアヌスに約束した軍船を送った。しかしオクタウィアヌスは紀元前36年のパルティア戦争の際、姉のオクタウィアがアテネへ行くときに、約束の10分の1である2,000人を送っただけであった。

 

紀元前36年9月3日、ナウロクス沖の海戦でセクストゥス・ポンペイウスは、アグリッパ率いるオクタウィアヌス軍に敗北する。そしてオクタウィアヌスとレピドゥスはシチリア島に上陸した。セクストゥスは逃亡を図るが、紀元前35年にアントニウス派の手の者に捕まり処刑された。

 

[レピドゥス失脚]

シキリアを占拠したオクタウィアヌスとレピドゥスは、ポンペイウス派の残存勢力を一掃した。レピドゥスはオクタウィアヌスを放逐し、シキリアを独占するつもりでいたが、ここでレピドゥスの部下がオクタウィアヌスに買収されて寝返った。孤立したレピドゥスはオクタウィアヌスに降伏、終身職たる最高神祇官職の保持は許されたが、これにより三頭政治の一角が失脚した。

 

オクタウィアヌスはローマ人の権利を確約、今度は退役兵をイタリア半島外へと入植させ、ポンペイウスの軍に参加した持ち主が帰参した後もそのままポンペイウスのもとに留まっていた奴隷を元の持ち主に返還させた。こうして共和政ローマは東のアントニウス、西のオクタウィアヌスと2分され、カエサル暗殺時に18歳だった無名の青年はローマの半分を支配する人物となっていた。

 

[アントニウス弾劾]

紀元前33年の共和政ローマおよび地中海世界

緑、 オクタウィアヌス支配地域  

青、 アントニウス支配地域  

薄紫、プトレマイオス朝およびアントニウスの同盟国

アントニウスは念願のパルティア遠征を実行に移す。しかし結果は惨敗に終わり、エジプトに戻った司令官としての彼のイメージは大きく損なわれた。また前述のように、オクタウィアヌスの支援は2,000人に過ぎなかった。クレオパトラはアントニウスの軍隊を再建できるほどの財力を持っており、これを好機として、クレオパトラと親密であったアントニウスは妻オクタウィアを一方的に離縁する。しかし、この一件はオクタウィアヌスにアントニウス攻撃の格好の口実を与えた。 オクタウィアヌスはアントニウスを弾劾した。アントニウスはエジプト人と公式に結婚し、ローマ人の妻である姉を見捨て、ローマ人以下になったと演説した。アントニウスがローマ人としての振る舞いを正さない限り、このローマの内乱は終わらないと非難した。しかし、アントニウスはこれを拒絶、それどころかローマ人の神経を逆なでするようなことを繰り返す。

 

紀元前34年、アントニウス配下のローマ軍がアルメニア王国を攻撃、国王アルタウァスデス2世を捕虜とした。アントニウスはアルメニア遠征の成功によりアレクサンドリアで凱旋式を行ったが、彼はクレオパトラとの実子アレクサンデル・ヘリオスを王に据えたほか、妻となったクレオパトラにエジプト女王の称号を授けるなどした。オクタウィアヌスはこれを政治的に利用して、アントニウスはローマ人をないがしろにすると民衆および元老院を扇動、アントニウスをローマ社会から孤立させることに成功する。 紀元

 

前33年1月1日、この年の執政官となったオクタウィアヌスは、元老院にてアントニウスとクレオパトラへの宣戦布告の決議案を提出する。しかし一部の元老院議員は、彼が行ってきたアントニウス非難を政治的なプロパガンダとしか見ておらず、アントニウスの告発の根拠を求める。これに応じたオクタウィアヌスは、ウェスタの巫女からアントニウスの遺書を奪い、その封印を開いた。

 

アントニウスの遺書には、ローマの征服した地域はアントニウスの子に受け継がれるべきこと、アントニウスの墓はアレクサンドリアに立てられ、クレオパトラと共に葬られるべきことが書かれていた。これを受けて元老院もアントニウスを見限り、紀元前32年末にプトレマイオス朝に宣戦布告した。

 

[アクティウムの海戦]

アクティウムの海戦

オクタウィアヌス軍はアグリッパの指揮の下、アドリア海の制海権を確立し、クレオパトラの兵站補給路を寸断した。その後、ギリシアのコルフ島の対岸に上陸し、そこから南方へ軍艦で進軍する。補給路が断たれ孤立したアントニウスの軍ではオクタウィアヌスのもとに帰参する者も出たが、戦争の実績と軍事力ではアントニウス軍が圧倒的に有利な立場にあった。こうしてオクタウィアヌスとアントニウスとの対決の布石は整い、以前ギリシア西海岸に遊学していたこともありオクタウィアヌスが立地条件に詳しかったアクティウム沖、現在のニコポリスにアントニウスとクレオパトラが誘い出されて、狭い海峡で両軍が激突することになった。この戦いに、当時世界最大の海軍を保有していたアントニウスとクレオパトラの軍は約230隻の大型の軍艦を投入した。対してオクタウィアヌス軍の実質的な指揮官であるアグリッパは、大きさは劣るものの機動力で勝る軍艦約400隻を投入した。アグリッパはローマ人には珍しく海戦を得意とした将軍であり、ナウロクス沖の海戦でセクストゥス・ポンペイウス軍に圧勝した実績もあった。

 

紀元前31年9月2日、オクタウィアヌスとアグリッパ率いる海軍は苦戦を強いられていたものの、機動力と地の利により、戦況は徐々にアグリッパ艦隊有利に傾いた。すると、戦場から突然クレオパトラがエジプトに逃げ去り、アントニウスもその後を追ったため、指揮官を失ったアントニウス軍は総崩れとなった。結果、オクタウィアヌスとアグリッパ率いる海軍はアクティウムの海戦で勝利した。アントニウスとクレオパトラはアレクサンドリアへ逃れるも、その後を追撃されアントニウスは自害、直後にクレオパトラも自害したため、ここにプトレマイオス朝は滅亡した。その際、オクタウィアヌスは多数の財宝を得ており、これを兵士の退職金に充てたと思われる。カエサルの実子を名乗るカエサリオンは殺されたが、その他のアントニウスの遺児たちはオクタウィアの下で養育された(カリグラ、クラウディウス、ネロらはその血筋である)。こうして、1世紀に及ぶ内戦の時代は終結した。

 

紀元前29年、ローマに凱旋したオクタウィアヌスは元老院のプリンケプスとなった。プリンケプスとは、元老院内での第一人者を表す称号であり、かつてはクィントゥス・ファビウス・マクシムスやスキピオ・アフリカヌスがそうであった。帝政下では全てのローマ市民の中で第一の地位を占める「元首=皇帝」を指すようになった。

 

帝政の始まり:

執政官のアウグストゥス

[共和制への回帰]

紀元前27年1月13日、オクタウィアヌスは元老院で突如、全特権を返上し共和制への復帰を宣言する演説を行った。元老院は驚喜したが、実際にはこのとき放棄した特権とは、三頭政治権などの内戦時の非常大権であった。これらはすでに有名無実化しているものばかりであり、首都ローマおよびイタリア、つまり本国を直接支配する執政官職は放棄しなかった。しかしそれに気付く者もなく驚喜する元老院はまた、平和が回復するまで属州の防衛も依頼する。これに対しオクタウィアヌスは、比較的安全な地域と軍団駐屯の必要のある国境地域とに分け、前者を元老院が総督を選出できる元老院属州、後者を軍団総司令官であるオクタウィアヌス自身が総督兼軍団指揮官の任命権を持つ皇帝属州とする逆提案で返す。厄介な地域はオクタウィアヌスが引き受けてくれる分、公職キャリアの終着点とも言える属州総督を大過なくこなせるということで、元老院はさらに驚喜した。そしてその骨が折れる軍団指揮と属州統治を行うためにプロコンスル命令権(インペリウム・プロコンスラレ)を元老院から取り付けて、正式な法的根拠とした。この結果、ローマ全軍の一元管理が可能となり、オクタウィアヌスは名実共に「インペラトル」となった。

 

[ローマ皇帝の誕生]

共和制復帰宣言から3日後の1月16日、かつてユリウス・カエサルの副官であったルキウス・ムナティウス・プランクスが、オクタウィアヌスにアウグストゥス(尊厳者)の称号を贈ることを提案し、元老院は満場一致で国の全権を掌握するよう懇請した。オクタウィアヌスは数度にわたり辞退した上でこれを承諾し、この日以降正式にインペラトル・カエサル・アウグストゥス (Imperator Caesar Augustus) と名乗るようになった。慎重なアウグストゥスことオクタウィアヌスは、すでに政敵がいないにもかかわらず、一度権力を返還し、元老院によって再び譲渡されるという形式をとったのである。これにより共和制は、元老院議員たちには気付かれないうちに(オクタウィアヌスが巧妙に偽装しつつ)終焉し、ローマは帝政へと移行した。初代ローマ皇帝アウグストゥスの誕生である。なお、アウグストゥスに始まる帝政ローマの前期の政治体制は、後期帝政(ドミナートゥス)と区別して「元首政」と呼ばれている。

 

アウグストゥスの創始した帝政(元首政)は、カエサルのような非常大権の獲得といったイレギュラーなものではなく、あくまでも従来から存在するレギュラーな公職、つまり執政官職とプロコンスル職を兼任するといったものであった。すなわち、臨時職として位置づけられすでに廃止されていた独裁官の官職を復活させるような直接的なことはせず、また共和制の枠を超える新たな地位を創設することも行わなかったのである。アウグストゥス自身、「私は権威において万人に勝ろうと、権力の点では同僚であった政務官よりすぐれた何かを持つことはない」と述べている。しかし、この執政官職やプロコンスル職の兼任こそがローマ帝国全土を支配する政治的・軍事的根拠となり、あわせて「アウグストゥス」の尊称授与といった権威が備わったため、この紀元前27年の取り決めこそアウグストゥスにとってローマ皇帝権力が確立する「第一段階」となったのである。このようなことから、紀元前27年にアウグストゥスが初代ローマ皇帝に就任したと後世いわれるようになった。

 

紀元前27年秋から紀元前24年にかけて西方の再編に着手、紀元前23年にローマに帰還した。同年、連続して就任していた執政官を辞任する代わりに、1年限りの護民官職権を付与され、以後は例年更新されることになった。アウグストゥスはこの護民官職権のうち身体不可侵権については既に保持していたが、法案に対する拒否権等、残余の権限がこのとき与えられたのである。さらに、プロコンスル命令権が上級プロコンスル命令権(インペリウム・プロコンスラレ・マイウス)に強化されたため、元老院属州でも権限施行が可能となり、この結果、皇帝権力はより強固なものとなった。これが皇帝権力確立の「第二段階」である。 表面上はともかく実質的には、アウグストゥスは終始唯一のローマの統治者であり続けた。そして彼の後継者達もアウグストゥスの称号を名乗り続ける事により、帝政は既成事実化していく。アウグストゥスは、インペラトルやカエサルなどとともにローマ皇帝を示す称号の一つになっていった。

 

紀元前22年からは東方の再編に着手した。紀元前19年に帰還し執政官命令権(インペリウム・コンスラレ)を得た。紀元前18年には、ユリウス姦通罪・婚外交渉罪法、ユリウス正式婚姻法を制定し秩序の安定化と道徳の確立を試みた。なお、紀元前12年にアグリッパ、紀元前8年にマエケナスと相次いで長らくの腹心が死去した。紀元前7年、それまでポメリウムの内外程度しか区分がなかった首都ローマを、14の行政区に分割して各区の行政上の責任を明確にした。

 

[晩年と後継者問題]

紀元2年、元老院より国家の父 (pater patriae) の称号が贈られた。

 

アウグストゥスは権威を確立し、権力が磐石になると後継者問題に取り組んだ。その際、アウグストゥスは自分の血筋にこだわっていたとされ、妻リウィアの前夫との子という血のつながりはないが近い位置にあり、能力的には卓越していたティベリウスが「最後の保険」的な扱いをされ続けた末に、「正統な後継者」ゲルマニクスの中継ぎとして後を継ぐことになる。当初、姉オクタウィアの息子マルケッルスに目をつけ、前妻との間にもうけた一人娘のユリアを嫁がせた。しかし、紀元前23年にマルケッルスが死亡すると、ユリアを腹心アグリッパと再婚させた。この結婚は多くの孫をアウグストゥスにもたらした。そのうちガイウス・カエサル、ルキウス・カエサルの2人を養子とし後継者候補とした。しかし、この2人も夭折した。紀元4年、ガイウス・カエサルが没したため、同年6月27日に、ユリアとアグリッパの末子アグリッパ・ポストゥムスと、ティベリウスを養子とした。同時にティベリウスに甥ゲルマニクス(アウグストゥスと血が繋がる)を養子とさせ、ティベリウスの次まで定めさせた。後に、アグリッパ・ポストゥムスは粗野で放蕩な性格から追放され、軍事・政治ともに実績があるティベリウスが明確に後継者とされた。それでも死亡の直前にアグリッパ・ポストゥムスを極秘訪問したという。

 

胃腸を患ったアウグストゥスは、紀元14年8月19日、ポンペイ近郊のノラの町で76歳で死去した。最期の日、友人に「私がこの人生の喜劇で自分の役を最後までうまく演じたとは思わないか」に尋ね、「この芝居がお気に召したのなら、どうか拍手喝采を」との喜劇の口上を付け加えたといわれている。遺灰はローマ市内のアウグストゥス廟に葬られ、神格化された後にカレンダーに Augustus (= August) 、つまり8月と記された。そして暗殺されたユリウス・カエサルつまり Julius (= July) には7月が神格化されカレンダーに記されたことは有名な話である。カレンダーに記されている1月から8月までの名前は全て、神として古代に崇められた人物の名である。

 

業績:

アウグストゥスを刻印した硬貨

何よりも「パクス・ロマーナ」を実現したことが最大の功績である。

 

[政治]

・ローマ皇帝を頂点とする統治体制を樹立。

・アウグストゥスはローマ帝国における様々な官職や権限を一身に集めることで中央集権体制を確立し

 た。

・歴代ローマ皇帝の中で最長の在位年数を誇った(紀元前27年から紀元14年までの40年間)。

・内政の充実に努め、平和な時代がつづいた。

・紀元前23年から、ガイウス・マエケナスに命じ通貨制度改革に着手。

・1アウレウス金貨=25デナリウス銀貨=100セステルティウス銅貨。これらはその後300年にわたり

 ローマ帝国の基軸通貨となる。

・ローマ市の整備。「煉瓦の市街であった首都ローマを受けついで、大理石の市街を残した」と自ら記し

 た通り、首都の中心部から周辺部に至るまで整備を行った。当時、人口が100万人に達していた首都ロ

 ーマを14の行政区に分け、犯罪・出火対策を充実させる。

・「永遠の都ローマ」というフレーズも彼の時代に誕生したものである。

・版図を拡大し、帝国の領土は地中海を中心に、西はイベリア半島、東はシリア、南はエジプト・チュニ

 ジアに及んだ。北部国境は当初エルベ川とドナウ川を想定していたが、9年のトイトブルク森の戦いで

 アルミニウスらゲルマン人から手痛い打撃を受けたために挫折を強いられ、後継者ティベリウスの時代

 にライン川とドナウ川が国境と定まる。

・ゲルマニア侵攻が彼の唯一の失敗とも言われる。

・植民都市の建設。

・地方総督の整備。

・財源確保のために税の徴収権を自分の派遣する官僚に一任した。

・世界初の年金制度。

・国家の平安に貢献した兵士の退役後の生活をサポートした。

 

[軍事]

・「市民=戦士」という伝統の復活。

・アウグストゥスはローマの伝統であった対外拡張政策を止め、防衛体制の整備に努めた。

 一方で、国境線画定のために多くの征服事業を行い、実際にはグナエウス・ポンペイウスやユリウス・

 カエサルを凌ぐ広大な領土を獲得した。

 アウグストゥスの時代にエジプト(アエギュプトゥス)、モエシア、ガラティア、カンタブリア、アス

 トリア、アルプス、ラエティア、ノリクム、ユダヤ、パンノニア等が新たにローマ領に組み入れられ、

 アエギュプトゥス総督ガイウス・アエリウス・ガッルスの軍がアラビア半島のイエメンにまで兵を進め

 た。

・軍の再編成。

 内戦終結後、50万を数えた兵士を20万に減らし、30万人は帰郷や入植をさせた。最終的に28個軍団

 16万8千人にまで規模を縮小した。 ローマ史上初となる常備軍を編成し、国境に沿って軍団を配置し

 た。辺境で長い兵役を勤める彼らに報いるために、史上初めてとなる軍隊の退職金制度を始めた。

 正規軍(ローマ市民権を持つ軍団兵)を支援するためにローマ市民権を持たない属州民によって構成さ

 れる補助兵(アウクシリア)制度をシステム化した。彼らの「退職金」はローマ市民権(世襲)だった

 ようである。軍団兵に少し劣る数の補助兵が軍団兵と共に国境の守備についた。 皇帝を護衛する親衛

 隊プラエトリアニを創設し、ローマ市内に3個大隊、ローマ市周辺に6個大隊を分散配置した。

 

[文化]

大帝国となったローマの首都を比類なき都にするため、芸術に心血を注いでいった。 友人であるガイウス・マエケナスを通じてウェルギリウス、ホラティウス、セクストゥス・プロペルティウスなどを庇護し、彼の時代にラテン文学は全盛期を迎えた。庇護を受けていなかった作家・詩人としてはティトゥス・リウィウスやオウィディウスなどがいる。

 

アウグストゥスは「私は煉瓦の街を受けついで大理石の街を残した」と言っていたが、大胆にギリシャ様式を取り入れた大理石の芸術を次々と生み出していった。ローマ帝国最高の芸術の水準は、アウグストゥスによって花開いた。この時代の主な建築に戦争の終結を記念して作られた平和の祭壇アラ・パキスがある。

 

[人物像]

スエトニウスの「皇帝伝」によれば、アウグストゥスの背丈は約170cm ほどで均整の取れた体格の、稀に見る美男子であったという。 元来皇帝としては短気で残酷な側面を持っていたが、3度目の妻リウィアの影響を受け、寛大で温和な性格へと変わっていったといわれている。事実、リウィアの懇願を受けてアウグストゥスは幾度か死刑を追放に免じている。また、老境に達した頃、孫たちがかつて自分が粛清したキケロの本を読んでいるのを見つけた際、叱られるのを心配した孫たちに対し「彼は教養があった。教養があって、真に国を想う人だった。」と言った。

 

アウグストゥスの権力を理解する上で何よりも重要なのは『神君アウグストゥスの業績録』で、第34章3節の「権威において万人に優越していても、権力においては同僚たちを凌駕しない」という趣旨の一文は元首制の本質を端的に述べたものである。

 

ローマ史研究家のF・E・アドコックによれば「アウグストゥスはアレクサンドロス大王やカエサルのような、圧倒的な知力の持ち主ではなかった。しかしあの時期の世界は、彼のような人物こそを必要としていた」とする。カエサルのように軍団兵を前に演説を行い鼓舞し、戦場に立ち兵に剣や盾の使い方を実際に示してみせ、軍団に指令を与え戦場を差配するという才能を示すようなことはアウグストゥスにはなかった。戦闘の実際の指揮は親友にして腹心のアグリッパがとっていた。数々の勝利は彼によるところが大きいが、15年間にも及ぶ厳しいアルプス遠征はアウグストゥス自身による歴史的功績であり、今でも南仏にはアウグストゥスの業績を称えた古代のトロフィが残っている。

 

若い頃は病弱であり、その虚弱体質は一生付きまとった。しかし、不得手で消耗の激しい軍事はアグリッパやティベリウスに任せ、変に見栄を張らずに疲れたら休むなど、無理をしない生活を心掛けたことで、当時としては長寿を全うすることとなった。

 

参考文献:

・ピエール・グリマル『アウグストゥスの世紀』 北野徹 訳、白水社〈文庫クセジュ〉

・塩野七生『パクス・ロマーナ ローマ人の物語VI』 新潮社

・クリスティアン=ジョルジュ・シュエンツエル『クレオ パトラ』 北野徹訳、白水社

・スエトニウス『ローマ皇帝伝(上)』 国原吉之助訳、 岩波文庫

 

・南川高志『ローマ皇帝とその時代 元首政期ローマ帝国 政治史の研究』 創文社


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