【ダビデ】
ダビデ(ヘブライ語: דוד Dāwīḏ (ダーウィーズ), ギリシア語: Δαβίδ, ラテン語: David, アラビア語: داود Dāʾūd)は、古代イスラエルの王(在位:前1000年 - 前961年頃)。ダヴィデ、ダヴィドとも。
羊飼いから身をおこして初代イスラエル王サウルに仕え、サウルがペリシテ人 (古代カナン南部の地中海沿岸地域周辺に入植した民族群)と戦って戦死したのちにユダで王位に着くと、ペリシテ人を撃破し要害の地エルサレムに都を置いて全イスラエルの王となり、40年間、王として君臨した。
旧約聖書の『サムエル記』および『列王記』に登場し、伝統的に『詩篇』の作者とされてきた。イスラム教においても預言者の一人に位置づけられている。英語の男性名デイヴィッド(David)などは彼の名に由来する。
ダビデ像
(Nicolas Cordier作、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂)
[旧約聖書による生涯]
少年期から即位まで:
ダビデの父エッサイ
(イングランド:オール・セインツ教会)
イスラエルの最初の王であったサウルは、アマレク人(古代パレスチナの遊牧民族)との戦いで主なる神の命令に背き、その寵(めぐみ)を失った。
神の命をうけたサムエル(旧約聖書の『サムエル記』に登場するユダヤの預言者)は新たな王を見出して油を注ぐべく、ベツレヘムのエッサイなる人物の元に向かった。そこでサムエルはエッサイの第八子で羊飼いの美しい少年ダビデに目をとめてこれに油を注いだ。主の霊がサウルを離れたため、サウルは悪霊にさいなまれるようになった。そこで家臣たちが竪琴の巧みな者を側に置くように進言し、戦士であり竪琴も巧みなダビデが王のもとに召し出された。ダビデが王のそばで竪琴を弾くとサウルの心は安まり気分がよくなった。
その頃、サウルとイスラエル人たちはペリシテ人との戦いを繰り返していた。 ペリシテ最強の戦士でガト出身のゴリアト(ゴリアテ)はしばしば単身イスラエル軍の前に現れて挑発を繰り返したが、イスラエル兵はこれを恐れた。
従軍していた兄たちに食料を届けるために戦陣をおとずれたダビデは、ゴリアトの挑発を聞いて奮起し、その挑戦を受けることを決意した。サウルの前にでたダビデはサウルの鎧と武器を与えられて身にまとったが、すぐにこれを脱ぎ、羊飼いの杖と石投げだけを持って出て行った。
ゴリアトはダビデを見ると「さあ来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう」と侮ったが、ダビデは "お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かってくるが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。" と答えた。ダビデが石を投じるとゴリアトの額にめり込み、ゴリアトはうつぶせに倒れた。ダビデは剣を持っていなかったので、ゴリアトの剣を引き抜いてその首を落とした。ペリシテ軍はこれを見て総崩れになり、追撃したイスラエル軍は大いに勝利した。
「ダビデとゴリアテ」
(Osmar Schindler、1888)
その後、ダビデは出陣の度に勝利をおさめ、人々の人気を博した。サウルはこれをねたみ、ダビデを憎むようになった。サウルはペリシテ軍の手によってダビデを亡き者にしようとたびたび戦場に送り込んだが、ダビデはことごとく勝利をおさめ、サウルの娘ミカルをめとった。ここにいたってサウルは家臣たちにダビデ殺害の命令を下したが、サウルの息子ヨナタンはダビデを愛していたので、ダビデにこれを告げ、ダビデは死地を逃れた。その後もサウルは幾度もダビデの命を狙ったが、すべて失敗した。
サウルの手を逃れて各地を転々としたダビデであったが、あるとき、エン・ゲディの洞窟に隠れているときにサウルがそこに入ってきた。ダビデの周囲の者たちはサウルを仕留めるように勧めたが、ダビデはこれをせず、ひそかにサウルの上着の裾を切り取った。ダビデは何も気づかずに洞窟を出たサウルに裾を示し、害意のないことを告げた。また、別の機会にサウルがダビデを討つべく出陣したときに、ダビデがサウルの陣内に侵入するとサウルと従者が眠りこけていた。ダビデの従者は再びサウルを討つことを進めたが、ダビデはこれを拒み、王の槍と水差しをもって陣営を出た。ダビデは再びサウルに害意のないことを告げた。
グイド・レーニ『ゴリアテの首を持つダビデ』
ウフィツィ美術館 1604年頃
その後、神の寵愛を失っていたサウルはペリシテの軍勢の前に敗れ、息子たちとともにギルボア山に追い詰められた。ヨナタンを含む息子たちは戦死し、サウルは自ら剣の上に身を投じて死んだ。サウルの死を聞いたダビデは衣を引き裂いてこれを嘆いた。
ダビデは神の託宣を受けてユダのヘブロン(エルサレムの南、パレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区に位置するユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地の一つ)へ赴きそこで油を注がれてユダの王となった。
ユダの一族を率いたダビデは、サウルの後を継いだサウルの息子イシュ・ボシェト率いるイスラエルの軍勢と戦いを繰り返した。イシュ・ボシェトは昼寝中に家臣に殺害され、その首がダビデの元にもたらされた。ダビデはイシュ・ボシェトを殺害した2人を殺して木につるした。
ここに至ってダビデは全イスラエルの王、指導者になり、エルサレムに進撃してそこを都とした。
ダビデ王の治世とその晩年:
エルサレムを都としたダビデはペリシテ軍を打ち破り、バアレ・ユダ(旧約聖書に記述されているキルヤト・エアリム=古代イスラエルの町)にあった神の箱(『旧約聖書』に記されている、十戒が刻まれた石板を収めた箱のこと)をエルサレムに運び上げた。
ダビデがヘブロンで即位したのは30歳のときであり、7年6ヶ月の間ヘブロンでユダを治め、33年の間エルサレムでイスラエル全土を統治した。ダビデはペリシテ人だけでなく、モアブ人、アラム人、エドム人、アンモン人も打ち破り、これを配下に収めた。
ダビデは晩年、家臣ウリヤ (ヒッタイト)の妻であるバト・シェバが水浴びしているのを見初め、彼女を呼び出し関係を結ぶ。妊娠がばれるとまずいのでウリヤを戦場から連れ戻し、バト・シェバと床に入るように画策する。しかし、これがうまく行かないことを知ると、ウリヤを最前線に追いやり、戦死させた。預言者ナタンはこれを知ってダビデを責めた。ナタンがダビデの犯した罪をたとえ話で語るとダビデは自分のことと思わずに激怒し、「そんなことをした男は死罪だ」といった。ナタンがそれがダビデのことであると明かすと、ダビデは自らの罪を悔いた。神は罰として、バト・シェバから生まれた子供の命を奪った。次にバト・シェバから生まれた子供が次の王になるソロモンである。
また、ダビデの長男でマアカから生まれたアムノンが妹タマルを犯し、それに怒った次男のアブサロムがアムノンを殺し、やがて父ダビデに対し謀反を起こした。ダビデは一時都エルサレムを追われた。ダビデはなんとかアブサロムの反乱を収めたが、アブサロムはダビデの意に反して家臣によって殺害され、ダビデはアブサロムの死を嘆き悲しんだ。
ダビデは、中央集権的君主制を樹立し、傭兵の軍隊を組織した。そして、税を徴収するために人口調査のような改革策をいくつか実施した。これらの改革案が人々に衝撃を与えた。ダビデは、いつの間にか王国をヤーヴェの神のものでなく、自分のものとしていた。
年老いたダビデ王は体が暖まらなかったのでシュネムのアビシャグという美しい娘を傍らに置いて自らの世話をさせた。 そんな折ハギドの子アドニヤがダビデを差し置いて自ら王を名乗るという事件が起こった。ナタンとバト・シェバはこれを聞いてダビデのもとに赴き、息子ソロモンを次の王にするという誓いをたてさせた。祭司ツァドクはソロモンに油を注ぎ、ここにソロモンがイスラエルの3代目の王となった。 ダビデはソロモンに戒めを残して世を去り、ダビデの町に葬られた。
[聖書とダビデ]
詩篇:
古代からの伝承では、150篇ある詩篇のうち多くがダビデの作であるとされ、73の詩篇の表題にダビデの名が現れる。ただし近代聖書学の高等批評的には否定されている。
曾祖母ルツ:
ユダヤ教原理主義者には無視されがちであるが、彼はモアブ人の血を引いている。彼の曾祖母であるルツは、『ルツ記』の記述に従えばモアブ人である。当時のイスラエル人と周辺諸民族は共存、通婚していたことを示している。加えて、彼女がモアブ人としてのアイデンティティと宗教的慣習を放棄し、イスラエル人のナオミが信じていた主なる神を受け入れて回心したことが、イスラエルに受容されたことの大きな理由となっていると考えられる(ルツ記1章16~17節を参照)。
イエス伝承におけるダビデ:
バビロン捕囚以後、救世主(メシア)待望が強まると、イスラエルを救うメシアはダビデの子孫から出ると信じられるようになった。新約聖書では、イエス・キリストはしばしば「ダビデの子」と言及される。
[図像]
聖王ダヴィド(ダビデ)のイコン
(18世紀・ロシア正教会)
ダビデはトランプのスペードのキングのモデルとされ、フランスのカードでは竪琴を持つダビデの姿が描かれている。
彫刻作品:
ミケランジェロ作『ダビデ像』
(フィレツェ、アカデミア美術館所蔵)
ダビデの彫刻作品はいくつも造られているが、なかでもミケランジェロによる作品(ダビデ像)は最高傑作と呼ばれ高い評価を受けている。ところで、このダビデ像の男性器が包茎なのは、ルネサンスにおいてギリシャ芸術の手法を取り入れたからである。実際にはダビデの生きた時代では男子は幼児の時期に割礼(陰茎包皮の切除)を行うのがユダヤ教徒の伝統であったので、結果的にミケランジェロは聖書の記述を曲げてしまったことになる。フィリッポ・ブルネレスキ作のダビデ像などは割礼された性器が表現されている。
「ダビデの星」:
「ダビデの星」
現在のイスラエルの国旗にも取り入れられている六芒星のマークは「ダビデの星」とも呼ばれているが、実際には歴史上実在したダビデ王とは関係がなく、後世に考案されたものである。
参考文献:
・犬養道子『旧約聖書物語』新潮社 ・榎本保郎『旧約聖書 一日一章』主婦の友社・島崎晋『名言でたどる世界の歴史』PHPエディター・グループ
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