NO.2

[パルミラ/シリア]

 泥沼の内戦がいつ果てるともなく続くシリア共和国。

そこに世界でもっとも夕陽が美しいと言われる中東の遺跡パルミラがある。

シリア砂漠のオアシス都市パルミラは、

地中海とメソポタミアを結ぶ隊商交易の中継地として栄えた国際文化都市であった。

砂漠を行く商人たちはシルクロードに咲くバラ色の街を愛し、一時のやすらぎをこの地に得た。

 

パルミラは、ローマ帝国とサーサーン朝ペルシアの間にあって緩衝地帯となり、

ローマとの良好な関係は、 ローマ様式で建設された豪華なベル神殿や記念門、列柱大通り、

劇場などの遺構からうかがい知ることができる。

 

この豊かな隊商都市は、

3世紀末にシルクロード史上最大の華ゼノビア女王の政治的野心とともに壊滅した。

隊商都市として存続したパルミラもアラビア海航路が開かれて交易路が変わると砂漠に埋もれ、

死の都と化した。

 

今回は栄華の果て、廃墟となってますます輝くシリアの世界遺産「パルミラの遺跡」を紹介するが、

先に述べた戦乱で混乱の最中にあるシリアを取り上げること自体に多少のためらいを感じたが、

逆に今紹介しておかないとかつてのイラクのように国全体が戦争に巻き込まれ、

この貴重な遺跡を2度と目にすることができなくなるかもしれないという危惧もあり、

敢て紹介することにした。

 

戦乱の続報であるが、

シリア政府軍は2016年3月27日、ISが制圧していた古代都市パルミラを奪還した。

しかし、都市の中でも最大規模を誇る最も有名な建造物であり2千年の歴史をもつベル神殿ほか、

バールシャミン神殿およびローマ帝国がペルシャ軍との戦いの勝利を祝して建立した凱旋門がISに

よって破壊されたという。



文明のゆりかごに咲いたバラ “パルミラ”

パルミラは、シルクロードの荒野を渡る商人たちがそのあまりの美しさに「バラの街」とたたえた都市国家。没落から1,700年を経た現在でもその美貌は変わらず、世界でもっとも美しい廃墟のひとつといわれている。

 

世界で最初に生まれた文明は「メソポタミア文明」であるが、メソポタミアとは川のあいだという意味で、 ティグリス、ユーフラテスの二つの川にはさまれた地方をさし、現在の国名でいうとイラクになる。 このイラクから西の地中海に至る一帯、すなわち現在のイラク、シリア・ヨルダン・レバノン・パレスチナ・イスラエル一帯を、 「文明のゆりかご」あるいは「文明の十字路」と称しているのである。

 

現在のシリア・ヨルダン・レバノン・パレスチナを含むイスラエルにまたがる地域は、古くから「シリア」と呼ばれていた。 現在では、シリア共和国と区別するため「大シリア」とも呼ばれているが、 中東におけるシリアが地政学上いかに重要な位置を占めていたかは、 「中東を制するものは、まずシリアを制す」と言う言葉にもよく表されている。

 

古代より各国は競ってこの地を治めようとしたが、紀元前4世紀のセレウコス朝と紀元7世紀の ウマイヤ朝を除いて、 この「大シリア」に統一国家が成立したことはない。

 

シリア・ヨルダン・レバノンという国に分けられたのは20世紀初頭の第一次世界大戦後になってからのことである。 その「大シリア」とメソポタミアとの間、ユーフラテス川の西に拡がるシリア砂漠に「パルミラ」はある

  

砂漠の幻影

パルミラ遺跡の居住地区と神殿地区を分ける十字路に立つテトラピュロン(四面門)

出典:Free Nature Pictures

そもそもパルミラを訪れるきっかけは、夕陽を受けてたたずむ美しい遺跡のこの写真を見て、

パルミラへの思いを募らせたことにあった

ダマスカスを出てパルミラへ向かう車から眺める景色は、ただひたすら荒野。熱砂のシリア砂漠だ。

360度を滑らかな地平線に囲まれて、見えるのは岩と砂。街はもちろん山も川も緑もなく、完璧な地平線がつづく。

道程のちょうど半分ほど来たところにポツンと小さな休憩所があり、朽ちた馬車の荷台に“Bagdad Café 66”という看板が立てられていた。

なんとなく西部劇を思い出させるシーンである。

中は狭い休憩所と小さな売店になっていて、ベドウィンの男がひとり店番をしていた。

ひと休みした後、再び砂漠の中をパルミラ目指して車を走らせる。しかし、予想以上に時間がかかっている。このままでは日没までにパルミラには着きそうもない。残念だが夢にまで見た「夕陽に染まりバラ色に輝くパルミラ」は あきらめざるを得ない。

 

パルミラまであと数キロというところで、とうとう日没を迎えてしまった。 燃えるような太陽が、あたりの砂丘を赤く染めながらまさに沈もうとしていたその時、太陽を背に砂丘の先から忽然とロバに乗った 羊飼いが現れたのだった。

 

そのあとから羊の群れが次々と姿を現し、こちらへ向かってくる。

まるで幻を見ているような光景であった。

 

偶然に訪れた2度とないシャッターチャンスに我を忘れ、夢中でシャッターを押し続けていた。 そしてその瞬間は、「夕日に輝くバラ色のパルミラ」をすっかり忘れていたのであった。夢にまで見て思い焦がれていたはずなに・・・。

シリア砂漠に沈む燃えるような夕日。

夕日の中に忽然と現れた羊飼い。

砂丘の向こうから次々に現れる羊たちの群れ。

草木も生えない岩石と礫だけのこの荒野のいったいどこからきてどこへ向かうのだろう?

幻影を見ている思いがする。

パルミラに到着した時にはすでに日はとっぷりと暮れ、夜空には満天の星が輝いていた。

 

翌日、アラブ城砦からパルミラ遺跡の全景を眺めたが、その壮大さに思わず息をのむ。ちなみにダマスカスからここまで約240km、ここからユーフラテス川まで約180㎞、バグダッドまではそこからさらに約560㎞の道程だ。

アラブ城砦から見たパルミラ全景。遺跡の周囲をナツメヤシの林が取り囲んでいる。

商人たちはこのオアシスを目指して死の砂漠を渡ったのだ。

  

砂漠にたたずむパルミラの遺跡

パルミラとは「ナツメヤシ」を意味し、シリア砂漠の真中に位置する世界でも最大級の隊商都市遺跡だ。

シルクロードの商人たちは砂漠に咲くこの街を「バラの街」とたたえた。 ローマ人たちは砂漠にナツメヤシの茂るオアシスを見てここを「ナツメヤシの都」と称した。 緑の都の繁栄は3世紀に終わったが、砂漠にたたずむパルミラの美は1,700年を経た現在も変わらない。

朽ちてなお美しい、という表現がぴったりのローマ記念門。

優美な造形と繊細な装飾は、間近で見ても離れて見てもため息が出る素晴らしさだ。

パルミラには、旧石器時代にはすでに人類が生活し、メソポタミア文明期にはすでに交通の要所として繁栄していた。 西アジアのこの辺りは岩石や礫からなるシリア砂漠が広がる乾燥地帯だ。

 

商人にとって砂漠を縦断するこの商業ルートは生死を賭けた危険な旅であった。

 

ヤシの林が広がり水が湧き出すパルミラのオアシスは、ヨーロッパとアラブ、ペルシア、インドを結ぶ要衝のひとつとして発展をはじめる。

「なつめやし」の林の先に遺跡がある。

このパルミラが繁栄をはじめるのはヘレニズム文化が花開く古代マケドニアのアレクサンドロス(アレキサンダー)大王のペルシャ征服以降。紀元前1世紀、ローマ帝国が勢力を伸ばしてパルミラを属州とすると、ローマの庇護を受けてシルクロードを中継する都市国家として急速に発達した。

 

砂漠を守る神々を祀った神殿や、豊富な水を使った浴場、円形劇場で上演された演劇は、死の砂漠を行く商人たちに愛されて、特に紀元106年に南部のペトラ(ヨルダンの世界遺産)がローマ帝国に併合された後、それに代わる西アジア交易の中心地として栄華を極めたのであった。

 

  

美女ゼノビアとパルミラの滅亡

紀元260年、パルティアを滅ぼしたササン朝のシャプール1世が エデッサの戦いでローマを破ると、西アジアにおけるローマの支配は混乱。 パルミラはローマの最前線としてササン朝と果敢に戦うが、267年に 首長オダイナトゥスが暗殺されるとその妻ゼノビアが幼い息子ウアヴァラトゥスを立てて指揮を執り、機を見てローマからの独立を図る。

 

ゼノビアはクレオパトラの末裔を宣言し、実際クレオパトラに迫るほど美しかったという。 戦士として、また他国語を操る政治家としても優秀だったゼノビアは、やがて息子に皇帝を意味する「アウグストゥス」を名乗らせると、 自分は皇帝の妃を意味する「アウグスタ」を称し、ローマと明確に対立するようになる。

 

これに対してローマ帝国のアウレリアヌス帝はパルミラ遠征に乗り出し、272年、パルミラはついに陥落。ゼノビアは捕えられ、 金の鎖につながれてローマに連れ去られてしまう。そして パルミラの繁栄は終わったのであった。

 

その後は、6世紀以降にアラブのガッサン朝、ウマイヤ朝、アッパース朝と支配者が代わり、 オスマン帝国時代には急速に都市としての力を喪失し、再び歴史の表舞台にたつことはなかった。

「金の鎖につながれ、ローマに連行される女王ゼノア」

Harriet Hosmer 作 セントルイス アートミュージアム所蔵

  

パルミラの遺跡、その全貌

パルミラの遺跡は大きく3つの地域から成る。

 

その第一は、約2km×1kmで囲まれた都市遺跡で、主に1世紀に造られたローマ式の遺跡群だ。

中心はベル神殿で、そこから1.3kmにわたって列柱つきの大通りが続く。 他にもバール・シャミン神殿、ナボー神殿、ローマの円形劇場やアゴラ(市)などがあり、北部には居住地跡が広がる。

 

第二が都市遺跡の西に位置する墓の谷だ。紀元前3世紀頃からの塔墓や地下墳墓が数十も発見されている。

 

第三がパルミラ全体を見おろすアラブ城砦。もともと15世紀に十字軍に対抗するための砦がここに築かれて、17世紀に城となった比較的新しい遺跡だ。

  

1.都市遺跡

  

【ベル神殿】

「ベル神殿」は遺跡の中では最大のもので、「バビロニア・アッシリア神話」にでてくる「天と地の神」ベルを祀る神殿である。

現在の建物はヘレニズム時代の丘に建てられた神殿が後に建て替えられたもの。

紀元35年頃に着工、約100年かけて完成した。

境内は東西210m、南北205mのほぼ正方形で、壁の高さは11m あり、

紀元1~2世紀頃に建造された本殿(神像安置所)とそれを囲む柱廊、犠牲祭壇、催事場によって構成されている。

この巨大な建物がパルミラの宗教センターであった。

主神ベル(セム語でバール―豊穣の神で最高神を表す)、 太陽神ヤヒボール、月神アグリボール

の3神に捧げるために建造された本殿(神像安置所)である。

本殿の裏手には8本の円柱が並び建物の周囲を巡る柱廊の面影を残している。

ー催事場ー

ベル神を祝う祭りの際神に捧げる動物を連れた信者達の入口が ある。

壁面に空いた無数の穴はオスマントルコ時代に武器の材料とするため、

接続部分のジョイントの鉄を抜いた時に出来たものだという。

本殿の壁や柱、神殿の壁にも多くの穴が開いている。

捧げ物の動物は地下通路に運び込まれ7回ほど神殿内の神像安置所の周りを引き回された。

ー燔祭用の犠牲祭壇ー

祭りの最終日には本殿前の境内中央にある処理台で捌かれた。

処理台から続く側溝は、捧げ物である動物を捌いた際に出る血を流すために設けられた。

捧げ物は羊が多く、料理された肉は信者達で分け合い神は煙のみを食べたという。

本殿の中には、左右にベル神と太陽神マラクベル、月神アグリ ボールの三位神像が祀られる安置所がある。

天井は丸くえぐられており、そこにユピテルを中心に惑星七神の胸像が刻まれ、

その周囲には黄道帯の十二宮図が画かれていた(下の画像)。

本殿内部の壁面レリーフ

本殿脇置かれていた円柱のアーキトレーブ(大梁)の一部。

神殿の列柱や肩に三日月を付けた神アグリボール、果物を供えた祭壇などが彫られている。

ーコリント式円柱ー

特徴であるアーカンサス(葉薊=ギリシャの国花)の葉をモチーフに彫刻した柱頭が円柱を飾る。

また、アーキトレーヴ(大梁)もしっかりと残っている。

アーカンサスの葉をモチーフにした柱頭の彫刻

ードリス式円柱ー

柱頭には装飾はなく、円柱に特徴である線的な構成がはっきり 残る。

円柱の中ほどの突起は、彫像を飾るための台(持ち送り)だ。

  

【ローマ記念門】

3世紀初頭、セプティミウス・セウェルス帝時代に建てられた。

この門には豪華で精緻な装飾が施されており、その造形は朽ちてなお優美だ。

カシの実や葉、ナツメヤシの枝、アカンサス・ ブドウ・テンナンショウの唐草模様などがモチーフに使われている。

  

【列柱道路】

ベル神殿から北西のアラブ城砦まで1キロ余り続く大通りだ。

かつては両脇に各々108本、計216本の柱が並んでいたという。 現在は80本以上の円柱が再現されている。

また、ラクダの足にかかる負担を軽くするため、

このパルミラの列柱道路には他の列柱道路のような石畳の舗装が施されておらず、砂地のままだ。

各円柱には功労者の彫像を乗せるための「持ち送り」をつけ、 その下にパルミラ語とギリシャ語で献辞が刻まれている。

ちなみに、クイーン・ゼノビアの名を刻んだ柱は、「四面門」の近くにある。

  

【浴場跡】

「ゼノビアの浴場」または「ディオクレティアヌスの浴場」として知られる「浴場跡」だ。

4本の美しいエジプト産花崗岩 でできた円柱が並んでいるが、これは横85m、縦51mの建物 の入り口だ。

  

【アゴラ(取引場)】

大衆討議と商取引の場所であり、2世紀頃に造られたもの。

東側にある入口から入ると、イオニア式の4つの柱廊により横84m、 縦71mの四角い庭が囲まれていて、

柱廊沿いには間口を持った店跡がならび、北側の柱廊には貯水槽と演壇も残されている。

  

【円形劇場】

舞台の前には円形のフロアがあり、それを階段状の観客席が囲む。

観客席の段は当時の約1/3で、現在は13段が残っている。

かつては3万5千人を収容できたと言われているが、現在の収容人員は5千人ほど。

  

【四面門】

古代ローマの属州では都市中心部の交差点に設けられた。特にパルミラのものは壮大だ。

ここから東に向かうシルクロードが始る。

ユーフラテス川を渡るとイラクだ。その先にバグダッドがある。

  

【バールシャミン神殿】

バールシャミン(ギリシャ語で「ゼウス」)は、雷雨と豊穣のための神で、当時の最高神として崇められていた。

外観は驚くほど綺麗に保存されている。

これは、5世紀に教会として作りかえられていたからだ。

  

2.墓の谷

  

【砂漠とオアシスと墓の谷】

遺跡の西に拡がる谷に墓が集中している地域があり、

紀元前3世紀頃からのパルミラ人の塔墓群や地下墳墓などが点在している。

  

【エラベール塔墓】

塔墓は最も古い型の墓室である。

初期のものは簡素で納体室が塔の外面に並んでいたが、紀元後1世紀頃から、外観は方錐形で、

内部は数段に分かれ、 石の階段でつながる形になった。

この 墓は、パルミラの貴族であったエラベ ール家の墓で、紀元103年建立の4階建ての引き出し式共同墓で300人が収容できた。

中はコリント式の柱と装飾天井で飾られてる。

ミイラに巻かれていた布は シルクであったことが分っている。

装飾柱で飾られている柱と柱の間の空間に遺体を収めた。

  

3.アラブ城砦

17世紀にオスマン朝の知事ファクル・エド・ディーンによって十字軍の 攻撃に備えるために建てられた。

アラブ城砦

アラブ城砦


「パルミラ」は、世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、1980年にユネスコの世界遺産(文化遺産)へ登録がなされた。

 

(1) 人類の創造的才能を表現する傑作。

(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。

(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。

 

危機遺産:

2013年、シリア騒乱による保全状況の悪化を理由に、他のシリアの世界遺産とともに危機遺産リストに加えられた。