【エドム人】

エドムはパレスチナの南南東、死海の南からアカバ湾に至る地域で、一般に「エドムの地」と言われる。

 

エドムの範囲は、北は死海、南は葦の海(紅海)に至る山地で、北はセレデ川の境界にモアブと接していた。 エドム人は後にヘレニズム文化でギリシア語化し、イドマヤ人と呼ばれるようになった。

 

「エドムの地」とは、イサクの子エサウが住んだ地を意味する。「セイルの地」「セイル山」とも呼ばれているが、「セイル」は「毛皮のよう」つまりエサウの身体の状態を表す言葉から来ているという説がある。

 

出エジプトの後に、エドムの西の境界の町としてカデシュをあげている。 ホル山もエドムにある。 ヨシュアの領土分割相続の時にユダ族の南の境界は、ツィンの荒野で、エドムとの国境であった。 エドムの地には、アカバ湾からシリヤ・メソポタミヤに通じる王の道があり、エジプトとアラビアを結び交通の要路があったので、農耕、通商、貿易による巨額の収益があった。

 

しかし、紀元前4世紀までには,ナバテア人がエドム人の領地に住みつき、エドム人を南に追いやった。エドム人は二度と自分の領地に戻ることができなかった。その代わりに,エドム人はユダの南方のネゲブに居住地を見いだした。エドム人は北上してヘブロン(パレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区に位置する都市)にまで移動し,やがてユダの南部地域はイドマヤとして知られるようになった。

 

フラウィウス・ヨセフス(帝政ローマ期の政治家及び著述家)によると,ヨハネ・ヒカルノス1世(ユダヤ人王朝・ハスモン朝の大祭司・王)は,紀元前130年と120年の間のある時期にエドム人を服従させ,強制的にユダヤ教を受け入れさせた。

 

それ以後,エドム人は次第にユダヤ人に同化され,紀元70年にローマがエルサレムを滅ぼしてからは,一つの民として存在することはなくなった。


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