【アラビアのロレンス】

実在のイギリス陸軍将校のトマス・エドワード・ロレンスが率いた、オスマン帝国 からのアラブ独立闘争(アラブ反乱)を描いた歴史映画である。(デビッド・リーン監督、ピーター・オトゥール主演、作品賞ほか各種アカデミー賞受賞) 

 

[トマス・エドワード・ロレンス]

イギリスの軍人、考古学者。オスマン帝国(現トルコ共和国)に対するアラブ人の反乱(アラブ反乱)を支援した人物で、映画『アラビアのロレンス』の主人公のモデルとして知られる。

トーマス・エドワード・ロレンス

1914年7月、第一次世界大戦 が勃発し、イギリスも連合国の一員として参戦することになった。

ロレンスは同年10月に召集を受け、イギリス陸軍省作戦部地図課に勤務することになる 。臨時陸軍中尉に任官された後、同年12月にはカイロの陸軍情報部に転属となり、軍用地図の作成に従事する一方で、語学力を活かし連絡係を務めるようになった。

 

1916年10月には、新設された外務省管轄下のアラブ局に転属され、同年3月には大尉に昇進。この間の休暇にアラビア半島へ旅行しているが、 これはオスマン帝国 に対するアラブの反乱の指導者を選定する非公式任務であったと言われる。

 

 

情報将校としての任務を通じて、ロレンスはハーシム家当主フサイン・イブン・アリーの三男ファイサル・イブン・フサインと接触する。 ロレンスはファイサル1世(ファイサル・イブン・フサインとその配下のゲリラ部隊に目をつけ、共闘を申し出た。そして、強大なオスマン帝国軍と正面から戦うのではなく、 各地でゲリラ戦を行いヒジャーズ鉄道を破壊するという戦略を提案した。この提案の背景には、ヒジャーズ鉄道に対する絶えざる攻撃と破壊活動を続ければ、 オスマン帝国軍は鉄道沿線に釘付けにされ、結果としてイギリス軍のスエズ運河防衛やパレスチナ進軍を助けることができるという目論見があった。

 

1917年、ロレンスとアラブ人の部隊は紅海北部の海岸の町アル・ワジュの攻略に成功した。これによりロレンスの思惑通り、 オスマン帝国軍はヒジャーズ(アラビア半島の紅海沿岸の地方の中心であるメッカ(サウジアラビア、イスラム教最大の聖地)への侵攻をあきらめ、メディナ(サウジアラビア、イスラーム教第2の聖地)と鉄道沿線の拠点を死守することを選んだ。続いてロレンスは、戦略的に重要な場所に位置するにもかかわらず防御が十分でなかったアカバ(ヨルダン南部の港湾都市)に奇襲し、陥落させた。この功により、彼は少佐に昇進している。 1918年、ロレンスはダマスカス(シリアの首都)占領に重要な役割を果たしたとして中佐に昇進する。

 

戦争終結後、ロレンスはファイサル1世の調査団の一員としてパリ講和会議(第一次世界大戦における連合国が中央同盟国の講和条件等について討議した会議)に出席する。1921年1月からは、 植民地省中東局・アラブ問題の顧問として同省大臣のウィンストン・チャーチルの下で働いた。

1921年3月21日、カイロ会議(ヨルダン川を境としてパレスティナを二分し,東をトランス・ヨルダン,西をパレスティナとすることを決定した会議)。 1922年8月には「ジョン・ヒューム・ロス」という偽名を用いて空軍に二等兵として入隊するが、すぐに正体が露呈し、1923年1月に除隊させられる。同年2月、今度は「T・E・ショー」の名で陸軍戦車隊に入隊する。しかし、彼はこの隊を好まず、空軍に復帰させてくれるよう何度も申請し、1925年にこれが受理された。その後は1935年の除隊までイギリス領インド帝国やイギリス国内で勤務した。

 

除隊から二ヶ月後の1935年5月13日、ロレンスはブラフ・シューペリア社製のオートバイ[2]を運転中、 自転車に乗っていた二人の少年を避けようとして事故を起こして意識不明の重体になり、6日後の5月19日に死去。 46歳だった。

墓所はドーセット州モートンの教会に現存する。この事故がきっかけとなりオートバイ乗車におけるヘルメットの重要性が認識されるようになった。

 

[アラビアのロレンスの裏話]

その昔アンマン(現ヨルダン・ハシミテ王国の首都)はオスマン・トルコ領であった。しかし、なにせ時代は帝国主義。イギリスはトルコを攻撃して、なんとか自分たちの支配地を拡大しようとしていた。  そこで登場するのが、トーマス・エドワード・ローレンス、いわゆるアラビアのローレンスだ。

アラブ人を支え、対トルコ工作を行い、アラブを独立に導いた英雄である。 (とされているが、アラブ人側からの評価は必ずしも高くはない)。

 

ローレンスはアンマン攻撃に際し、遺跡の破壊を真剣に悩んでいる。 自伝『知恵の七柱』では、“the puzzle of these ruins added to my care”と「puzzle」という単語を使っており、かなり悩んでいた様子がうかがえるのだ。 実はローレンスはもともと考古学者だったので、遺跡の重要性は心の底から認識していた。 アンマン攻略は自伝のなかではおまけ扱いで、大きく取り上げられているのは、ヨルダン南部のアカバ港攻撃(AD1917年)である。 アカバは紅海でトルコ側に残された唯一の港で、スエズ運河にもヒジァーズ鉄道にも近接している要衝であった。 アカバ攻略に対し、フランスのブレモン大佐が共闘を申し出る。

 

以下、自伝よりお互いの本音部分について書かれた部分を引用すると・・・。   《ブレモンは、彼の真意をいわなかった。だが私は知っていた。アカバへ連合軍を上陸させたがっているのは、フランスのアラビア侵入への基礎をきずくと同時に 英仏連合軍を引き入れた大シェリフにたいする疑惑をアラブ人のあいだに生ぜしめ、彼らの結束の永続を妨げるという目的があるからなのだ。 私のほうでも自分の本心を云いはしなかったが、ブレモンのほうで、ちゃんと知っていたはずだ。 私が彼の計画を粉砕して、アラブ軍を(トルコ領の)ダマスクスまで押し進める決心でいることを。 私はふと、子供じみた競争意識がかかる大問題をおたがいにこじらせていることに思いおよんで、心中苦笑を禁じえなかった》(『砂漠の反乱』中公文庫)  

 

さて、イギリスの工作は現在のイラク側でも行われた。その代表が南部の要衝バスラ港の攻略だ。1914年、第一次世界大戦が始まってすぐのことである。 イギリスはあっという間にバスラを手中に収め、ペルシャ湾の出口を押さえることに成功した。 こうしたさまざまな策略の末、イギリスはイラクとヨルダンを委任統治領にすることに成功したのである。  

 

イギリスはハシム家(イスラム教の創始者ムハンマドの直系とされる名家)の太守フセインの次男アブドラにヨルダンを、三男ファイサルにイラクを統治させる。 ファイサルは、ローレンスが「アラブの反乱に栄光をもたらす完全な指導者」と絶賛した人物であった。

 

ローレンスはその後、植民地省のアラブ問題顧問になるが、政府の帝国主義政策に疑問を感じ、辞任する。 本人は、たしかにアラブの真の独立を夢見ていたのかも知れない。しかし、結局のところ、ローレンスは政府に利用され、帝国主義の推進に一役買っただけであった。  


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